「バーバーヤーガが、生きて貴女を逃した――その絡繰りを、今ここで教えなさい」
頬から滲んだ血が顎まで伝い、ぽたりと足元に落ちる。その赤い染みを一瞥しただけで、モノノはつまらなそうに視線を逸らした。
「私以下の貴女が、どうやって真祖から逃げ出した。どうやって見逃された。どうやって【寵愛】を得た。……答えなさい」
「それが本当なら、聞き出せばいいじゃないか。強いんだろう? 私より」
挑発するように返した言葉に応えるかのごとく、アメの片手がふわりと持ち上がる。目には見えない力の気配が、周囲の空気の密度をわずかに変えた。それだけで、エダノの肌は粟立つ。
「――第二頸椎と第三頸椎のあいだ。あんたの脊髄を折る。一生寝たきり……まあ、今と変わらないかしら?」
「全然違うと思うよ」
「そう? じゃあ貴女にとってマシな方を選びなさい」
軽口とも取れるやり取りの合間にも、アメの視線はモノノの首筋の一点に据えられたまま動かない。この状況で軽口を叩けるモノノの神経のほうにこそ、エダノは寒気を覚えていた。
「選ばせてくれるんだ?」
面白がるように言いながら、モノノは自分の首筋を指先で軽く叩いてみせる。
「――じゃあ、こっちで」
「後悔しないことね」
低く言い切るのと同時に、アメの視線が動いた。それ以上の動作は何もない。ただ、見ただけだった。だが、その一瞥だけで空気が張り詰め、エダノは息をするのも忘れて立ち尽くす。
モノノの体が、糸が切れたようにその場へ頽れた。
だが、崩れ落ちたその体は、地面に触れるより先に、輪郭を失いはじめていた。肌の色が、髪の色が、着ていたはずの服の色までもが、瞬く間に黒く染まっていく。どろりと溶けて、地面へ広がる染みへと変わっていくその様子を、アメは眉ひとつ動かさずに見下ろしていた。
「――泥人形」
呟いた声に、驚きが滲む。この短い問答のあいだに、いったいどこで本体とすり替わったのか。脊髄の位置まで正確に読み取っていたはずなのに、その「体」そのものが最初から偽物だったというのなら、これまで積み重ねてきた観察の何もかもが、根底から覆されたことになる。
一体いつから――
言葉を継ごうとしたアメの足元で、何かが動いた。
背後に留まっていたはずの泥が、意志を持つように波打ち、足首へと絡みつく。振り払おうとした瞬間には、もう遅かった。脛から膝へ、膝から腰へ這い上がるその速さは、これまでモノノが見せてきたどの動きよりも荒々しく、容赦がない。まるで最初からこの瞬間のためだけに、静かに機を窺っていたかのようだった。
「――っ、こんな……」
反射的に念動力を放ち、絡みついた泥ごと吹き飛ばそうとする。だが、力を込めた瞬間、アメは違和感に気づいた。これまで相手にしてきた泥とは、明らかに性質が違う。触れた場所から、意識そのものがじわりと重くなっていく感覚――これは、粘度でも質量でもない。眠気だ。
「これ――」
言い終えるより先に、声を上げかけたアメの視界が、黒く塗り潰されていく。信じられない、という驚愕がその顔に浮かんだのは、ほんの一瞬だった。膝からくずおれるようにして、少女の体は力を失い、その場に崩れ落ちる。
辺りに、静寂が戻った。
「エダノ」
背後から、聞き慣れた声がする。トランクがパカリと開き、そこからモノノが欠伸交じりに出てくるところだった。
「車に乗せてから今まで、ずっとトランクに?」
「うん。まあ、途中で気づいてたでしょ、君」
その言葉に、エダノは一瞬詰まってから、小さく息を吐く。
「……廃校から戻ってきた時点で、変だとは思ってましたよ。護衛対象から目を離すのは、たとえトイレだとしてもおかしい。モノノさんはそんな適当な人じゃないですから」
モノノは頬を掻きながら、にへらと笑い、それからすぐに普段の眠たげな表情へと戻った。
そして呟く。
「真正面から戦ってたら、万が一にも勝てなかった。魔女の体内に直接作用できる魔法なんて、反則もいいところだ。目で見て、狙って、それで終わり。防ぎようがない」
その口ぶりには、いつもの飄々とした軽さの下に、わずかな本音が滲んでいた。
「連れて帰るよ」
モノノがそう言って、泥をそっと解いていく。露わになったアメの体を、慣れた手つきで担ぎ上げながら、モノノは独り言のように呟いた。
「これで、少しは信じてくれるといいけどね。――自分の目で見たこと、私たちの実力を」
夜明け前の空が、東の端からわずかに白みはじめていた。
*
目を覚ましたアメが最初にしたのは、部屋中を引っ掻き回すことだった。
見知らぬ天井に飛び起きるなり、彼女は転がるようにして廊下へ飛び出した。そして駄々をこねた。圧巻の光景だった。
「やだやだやだやだやだやだ!!!! 認めない~~~~!!!!!!」
「く……クソガキ……」
リビングのソファをひっくり返し、喚くアメの前で、エダノは呆然と立ち尽くすしかない。
「絶対アタシが強い! 強いったら強い!!! あれはズル~~~~~!!!」
お守り、という言葉の意味が、今になってようやく身に染みてくる。
「モノノは!? 何処! 再戦を申し込むわ!」
「モノノさんは今お休みに――」
言い終わる前に、アメはもうキッチンの戸棚を開け放ち、物置の奥にまで手を突っ込んでいた。
「あ、箪笥をひっくり返さないで、あっあっ、物置から中身を掻きださないで、あ、それは絶対に触らないで、あっあっあ~~~~~」
今エダノやアメがいるのは、モノノの住居にして、セーフスペースにあたる場所だった。外見こそただの一軒家だが、内部にはありとあらゆる防衛装置が取り揃えてある。
もっとも、内側で暴れる相手には、それも最上位の強さを持つ魔女相手には何の役にも立たないらしく、家具という家具がすでに引っくり返され、押し入れの襖は外れ、床には投げ出された衣類や小物が散乱していた。
十数分に及ぶ追いかけっこの末、リビングも、キッチンも、物置も、一階の部屋という部屋をひとしきり暴かれてしまうと、アメはようやく肩で息をしながら階段の下に立つ。
「一階はあらかた、探した。となると……二階ねっ」
そう言って階段に足をかけようとしたアメの前に、エダノがすっと回り込み、立ち塞がった。
「何よ」
「アメさん。お行儀よく、お行儀よく……! お願いします」
「お行儀が何よ、犬に食わせなさい」
「今、ここを昇っても、断言します。貴女は負けます」
「負けない」
「負けます」
「……!」
アメは不満そうに眉を寄せたまま、エダノの横を抜けようとする。それを見越していたのか、エダノも一歩だけ横へ動いて道を塞いだ。
「あれはズルだった!」
「ええ、そうでしょうね」
即座に肯定され、アメが拍子抜けしたように瞬く。その隙に、エダノは言葉を継いだ。
「ですが、相手がズルをしてくるなら、こちらも勝てる方法を考えるべきです。真正面から突っ込んで、また同じように眠らされて終わりでは、何度やっても同じですよ」
「…………なら、今度は眠らなければいいだけじゃない」
「どうやって?」
「……」
「まずはそこから考えてみるべきです」
にらみ合いが続く。が、やがてくるりとアメは踵を返した。一応はエダノの言葉にも理があると思ったのだろうか?
無言のまま背を向けるアメに、エダノはさらに声をかけた。
「それともう一つ」
「まだあるの!?」
「朝ごはんが出来ていますよ」
香ばしい匂いが、アメの鼻孔をくすぐる。しばらく無言で匂いの出所を睨んでいたアメだったが、やがて聞こえよがしの舌打ちを一つ残すと、諦めたようにキッチンへ向かって歩き出した。
*
「美味しかったわ、68点」
「釈然としない点数、どうもありがとうございます」
「次は七十点を目指しなさい」
「ずいぶん上からですね……」
そんなやり取りをしているうちに、食後の空気はすっかり落ち着いていた。さっきまで家中をひっくり返し、二階へ向かおうとしていた少女と同一人物とは思えないほど、今のアメは大人しく椅子へ腰掛けている。エダノにしてみれば、それだけでも十分な進歩だった。
そのアメが、ふとスプーンを置いた。
「ねえ」
「何です?」
呼びかける声が、それまでより少し低い。
「バーバーヤーガはね、人を食べるのよ」
唐突な言葉だった。
エダノは持っていたカップを置き、少女の顔を見る。アメはそれ以上こちらの反応を気にすることもなく、テーブルへ肘をつきながら淡々と話を続けた。
「毎年、最低でも一人は絶対。でも、たいていは何十人って食べる。それもコース料理みたいに」
「ただの無能力者も魔女も織り交ぜて、食べる。そして最後にメインディッシュ、これはたいてい魔女。それも選ばれた中で一番優秀な魔女が食べられる」
そこまで話して、アメはカップへ手を伸ばした。飲むわけでもなく、ただその縁を指先でなぞりながら、少しだけ目を伏せる。
「でもある年、メインディッシュの一人が生きたままバーバーヤーガの食卓から出てきた」
顔を上げたアメの視線が、エダノを射抜く。
「それが、寵愛の魔女」
その名前を聞いた瞬間、エダノの表情が固まった。
「つまりアメさんは……」
「今年のメインディッシュはアタシだから」
言い切った声に、震えはない。
「アタシは死にたくない。だから、どうしても聞き出してやる」