泥の魔女はリンゴ喰ってめっちゃ眠い   作:とびー君

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魔女協会に行こう

 

黒曜のビルが泥に沈んだ夜から、数日が経っていた。

 

その数日間を一言でまとめるなら、「騒がしい」の一語に尽きる。

 

朝は決まって、アメがキッチンを占領するところから始まった。

 

冷蔵庫の中身を勝手に物色し、食べられそうなものを見つけてはかじり、その齧りあとを、まるで戦利品のようにエダノへ見せつけてくる。エダノが「それは夕食の材料です」と注意すると、アメは何とも形容しがたい顔をして、しばらく固まった。そして、そっと食べかけをエダノの手に返してきた。

 

珍妙な習性。

 

洗濯物は畳まれず、部屋の隅へ適当に投げ捨てられている。エダノはそれを拾い集め、しなしなになりながら畳んだ。

 

一方のモノノは、相変わらずよく眠っていた。ソファで眠り、椅子で眠り、キッチンの床で眠り、トイレのドアの前で眠り、時には玄関先で、靴を履いたまま眠っている。エダノは毎朝のようにその体を抱え上げ、ベッドまで運んだ。運び終えたころには、たいてい二度寝の気配が背後から漂っていて、エダノ自身も、しなしなになっていた。

 

それでも、数日も経てば、人間は慣れる。

 

アメの洗濯物の投げ方には一定の癖があると気づいてからは、畳む前に仕分けるコツができた。

 

モノノが眠る場所の候補も、おおよそ読めるようになった。買い出しにはアメが「アタシも行く」とついてくるようになり、荷物持ちを任せると、意外にも文句を言わずに紙袋を抱えて歩いた。

 

そうした毎日を繰り返すうち、奇妙な同居生活は、少しずつ形を成しはじめていた。

 

 

 

その日の朝のリビングには、アメのお気に入りである、子供向けアニメの主題歌が流れていた。

 

テレビの前で膝を抱えたアメは、画面の中で踊る、丸っこい動物たちを、真剣な顔で見つめている。その様子は、どこにでもいる、ただの少女のものだった。

 

キッチンで洗い物をしていたエダノは、ふと手を止める。

 

流れる水の音のむこうで、主題歌のサビが繰り返されている。

 

この子は、ここへ来る前、どんな朝を過ごしていたんだろう。

 

彼女がどこで育ち、誰と暮らしていたのか。アメ本人の口からは、今まで一度も聞いたことがない。

 

水の冷たさが、指先にしみた。

 

その冷たさに、ふと、あの言葉がよみがえる。

 

『バーバーヤーガはね、人を食べるのよ』

 

アメは淡々と、そう言った。震えのない声だった。

 

『今年のメインディッシュはアタシだから。アタシは死にたくない』

 

あの日から、エダノの頭の片隅には、ずっと小さな棘のように、その言葉が刺さっていた。

 

日常は続く。洗濯物を畳み、モノノを運び、買い出しに行く。だが、その合間の何気ない瞬間、あの声が耳の奥でひっそりと再生されるのだった。

 

「今年」という言葉が、頭をよぎる。今年、というのは、いつのことなのか。それは、どれほど先の話なのか。アメは、それ以上を語らなかった。窓の外の街では、赤い髪の真祖が、ビルの壁のどの画面でも、優しく微笑んでいる。

 

エダノは水を止め、濡れた手をタオルで拭う。

 

考えはじめてしまえば、止まらなかった。そしてこの状況を打破するアイデアも同時に考え付いていた。

 

自分は、補助員という肩書きの、どこまでも無力な人間だ。

 

それでも、と。

 

エダノは、拳を握りしめた。

 

自分にできることは、ひとつしかない。協会の一員として、アメの話を、しかるべき場所に伝えること。組織の中の人間として、正規の手順で、声を上げること。

 

深く息を吸い、エダノは口を開く。

 

「協会に行きます」

 

「協会って、どこよ」

 

アメが眉をひそめる。

 

「どこって……魔女協会ですよ。ご存じないんですか」

 

「何その言い方、ムカつく。相手の無知ぐらい把握しなさいよ」

 

「すごい攻撃的な後ろ向き…」

 

エダノは咳ばらいをひとつして、気を取り直したように続けた。

 

「魔女の登録、管理、事件の裁定、施設の運営。魔女が生み出す全て、そして魔女そのものを管理、保護している協会です」

 

「へえ~」

 

「そして私もそこで働いています」

 

そう、補助員という末端でも、内部の人間であれば、正規の窓口を通して上へ話を届けることができる。

 

「アメさん、貴女が毎年何十人も食べられていると話してくれたのは、とても大きな情報です。把握していて、止めていないはずもない。私は、知らないだけだと思うんです。事実を正式に伝えて、証人として貴女が出ていけば、協会は動きます」

 

「……ふぅん」

 

アメは温度のない相槌を返しただけだった。その視線が、部屋の隅のソファへ流れる。

 

そこには、この会話の間じゅうずっと、毛布にくるまった塊が転がっていた。

 

エダノも、そちらへ視線を向ける。

 

「それに、モノノさん。貴女の証言もあれば、協会も無視はできないはずです」

 

毛布の塊は、動かなかった。

 

「モノノさん。貴女は生き残った。その時、何があったのか、聞かせてもらえませんか。いつもはぐらかされてきましたが、今回ばかりは」

 

しばらくの沈黙のあと、毛布の端がもぞりと動き、眠気を煮詰めたような声が返ってきた。

 

「うーん……後で良いかなぁ?」

 

顔も出さない。冗談めかした軽い口調だった。いつものことだ。

 

 

無理やり話させるわけにもいかないと、エダノはそれ以上問い詰めることを控える。。

 

「聞いてたよ~~。協会ね、いいんじゃない? 行ってらっしゃい」

 

「貴女も行くんですよ」

 

「え~~……」

 

毛布の端がもぞりと動き、片目だけが覗いた。細めた瞳に、エダノを値踏みするような色が浮かぶ。

 

「行っても、たぶん無駄だよ?」

 

「やってみなければ分かりません」

 

「……そっか」

 

モノノは少しだけ黙り、それから、ふっと笑った。

 

「うん、そうだよね。君は行ってみないと納得しない人だ。いいよ、付き合ってあげる」

 

 

*

 

協会の本部は、都心から電車で四十分ほど離れた、丘陵地の中腹にあった。

 

坂道を登りきると、目の前に、巨大な建造物が現れた。

 

それを「建物」と呼んでよいのか、エダノにはいつも迷いがある。

 

赤煉瓦の尖塔、白い大理石の回廊、蔦に覆われた石橋、そして苔むした古い城壁。時代も様式もばらばらの建築物が、まるで誰かの落書きのように継ぎ接ぎになって連なっていた。

 

しかもそれらは、ゆっくりと動いている。塔が二本、互いの位置を入れ替えようと肩を寄せ合い、回廊が自分の尻尾を追う犬のようにぐるりと輪を描き、屋根の瓦が風もないのに波打って、ときおりぱらぱらと鳥の群れに変わって飛び立っていく。

 

「…………」

 

アメは言葉もなく口を開けていた。先ほどまで「胡散臭い」と吐き捨てていた少女が、いまは足を止めて、首が痛くなるほど真上を見上げている。

 

「協会はね、魔女たちの『魔法』を許してくれる場所なんだよ」

 

眠そうな声で、モノノが解説を添える。

 

「建物を勝手に増築していいっていう決まりがあってね。だから、いろんな魔女が、好きな魔法で、好きなように足していくんだ。おかげでこの通り…二千年分の落書き帳になった」

 

「勝手に増築って、危なくないの」

 

「危ないよ。弾けたり、消えたり、食べたりする」

 

「はじっ……? 消え…? え?」

 

「大丈夫ですよ。アメさんならどうとでもなります」

 

アメの「こいつマジか」と言わんばかりの凝視を無視してエダノは二人を促し正門をくぐる。

 

門くぐる瞬間、身体をふわりと撫でる風があり、胸の登録証がちりりと熱を帯びた。補助員の証だ。それが、ここの通行証を兼ねている。

 

門の向こうは、玄関ホールだった。

 

天井が、なかった。

 

見上げると、そこには満天の星空が広がっていて、その星々のあいだを、箒に乗った魔女たちがすいすいと横切っていく。

 

ホールの床は水のように透き通り、足元では、銀色の魚がゆったりと泳いでいた。魚の腹には小さな提灯がぶら下がり、それが淡く点滅しながら、来訪者の足取りにあわせて道案内をしてくれる。

 

壁一面に、黒い薔薇の蔓が這っていた。ところどころに、金色の飾り文字が浮かび上がる。

 

「祝・第七百八十三回ヴァルプルギスの夜まであと―――――三十日」

 

蔓の間には、色とりどりの提灯や、紙で作られた黒猫が吊り下げられ、誰かが通るたびに、みゃあ、と本物のような声で鳴いた。

 

壁際のテーブルには、湯気の立つ大鍋がずらりと並び、ひとつひとつ違う色のお茶やスープが、ひとりでに注がれては魔女たちの手元へ運ばれていく。

 

「これ全部魔女なの?」

 

アメの、独り言のような声がこぼれた。

 

「ええ、基本は魔女ですね。私のような無能力者もいますが、そういうのは基本裏方となりますので」

 

ホールの奥にある受付カウンターでは、頭に本を載せ曲芸じみたことをしている小柄な魔女が、書類の束を宙にばら撒きながら来客をさばいていた。

 

エダノが名乗ると、彼の胸の登録証と、後ろの二人を順に見やる。

 

「ご用件は? 要件は? 件名は?」

 

「直接のご陳情です。緊急の案件で、上の方へお取り次ぎ願えますか」

 

「緊急。救急。窮々」

 

眼球がぐるりと回り、隣にいたモノノの顔をまじまじと覗き込む。

 

「はてさて、これまで、ここにあって、あったあった」

 

受付の魔女が、机の下から古びたベルを取り出し、ちりんと鳴らす。すると、ホールの奥の暗がりから、白い犬が静かに歩み出てきた。しなやかな毛並みで、瞳は月のように淡い金色をしている。

 

「ご案内します」

 

犬が、人の言葉を喋った。

 

エダノは、慣れているので頷いた。アメは、慣れていないので、半歩下がった。モノノはその体にのしりと乗ってそのまま寝始める

 

「なんだコイツ。無礼だな」

 

文句を言いながらも、犬は背中の荷物を振り落とすでもなく先に立って歩き出し、三人はその後ろについて廊下へ入っていく。廊下は、歩くたびに形を変えた。

 

左に曲がったはずが、いつのまにか階段を上っていたり、窓の外に見えていた庭が、次の角を曲がると海に変わっていたりする。ある角では、壁の絵画から一匹の狐が飛び出してきて、アメの足元をくるりと一周し、また額縁へ戻っていった。

 

「すごい……」

 

今度は、強がる余裕もなく声が漏れる。エダノは、その横顔を見て、少しだけ安心した。

 

廊下の突き当たり、何の装飾もない、灰色の扉の前で犬が止まった。それまでの騒がしさが、嘘のように途切れている。星空も、魚も、鳴き声も、この扉の向こうには届いていないようだった。

 

「こちらで、お待ちです」

 

犬の金色の瞳が、扉を見上げる。

 

「ですが、お通しできるのは、ご陳情の当事者おひとりと、その付き添いの方だけと伺っております」

 

「え?」

 

エダノは思わず聞き返した。

 

「モノノさんは、私との契約魔女です。同席は必須のはずでは」

 

「どのようなご事情かは、存じ上げません」

 

犬は淡々と告げる。

 

「アメ様とエダノ様。お二人のみ、と」

 

エダノはモノノを見た。犬の背にて気持ちよさそうに眠っている。

 

「モノノさん」

 

「んー……行ってらっしゃい。私は、ここで待ってる」

 

薄く目を開けたモノノが、ふわりと手を振った。

 

「ここは気持ちがい~いから、待たされても大丈夫だよ」

 

「ワタシは大丈夫ではない。後で飼い主に訴えてやる」

 

「可愛いな~もう」

 

モノノはわしゃわしゃと撫でる。犬は犬歯を剝きだした。

 

灰色の扉が、音もなく開いていく。

 

*

 

窓のない円形の広間で、壁は白く、床は磨かれた黒い石でできている。家具は少なく、中央に丸いテーブルと三脚の椅子があるだけだった。

 

天井から吊られた一本の燭台が、ゆらゆらと温かな光を落としている。

 

「ようこそ、いらっしゃいました」

 

奥の椅子に、一人の女性が座っていた。

 

年の頃は四十前後に見える。銀の混じった黒髪を後ろで丁寧にまとめ、深い紺色の長衣には、星座のような刺繍が細かく施されている。手元には湯気を立てるティーカップがあり、その隣に小さな砂時計が置かれていた。落ちていく砂は、青く光っている。

 

「協会の理事を務めております、ヴェルナと申します。どうぞ、お掛けください」

 

声は穏やかで、深く、よく響いた。エダノは無意識に背筋を伸ばす。理事といえば、末端の補助員にとっては雲の上の人だ。本来なら、こうして直接顔を合わせること自体が異例だった。

 

「お茶はいかがですか。今年の新茶です。ヴァルプルギスの夜に間に合うよう、特別に仕上げさせました」

 

「……いえ、結構です」

 

アメが、短く断る。椅子には座ったが、背もたれには一度も身体を預けなかった。エダノも彼女に倣って、浅く腰を下ろす。

 

「では、ご陳情を伺いましょう。エダノ君、でしたね。貴方から」

 

名前を知られていたことに、エダノは驚いた。それが顔に出たのか、ヴェルナはやわらかく微笑む。

 

「補助員の皆さんのお名前は、全員、覚えています。貴方たちは、協会の礎ですから」

 

その言葉に、胸の奥がわずかに熱くなった。やはり、この人たちは信じてよいのだ。エダノは膝の上で拳を握り、頭の中で何度も練習してきた言葉を口にした。

 

「本日は、ヴァルプルギスの夜について、重大な事実をお伝えしに参りました」

 

一度、息を吸う。

 

「毎年、この催しの際に、真祖バーバーヤーガによって、多数の人間と魔女が命を落としている。ここにいるアメさんが、その証言者です。さらに今年は、彼女自身がメインディッシュとして選ばれているとのことです」

 

言い切った。

 

砂時計の砂が、さらさらと落ちていく。ヴェルナは、ティーカップを口元へ運んだまま、何も言わなかった。

 

「協会は、この事実をご存じなかったのだと思います。ですので、どうか、しかるべき調査と、アメさんの保護を」

 

「エダノ君」

 

穏やかな声が、言葉を遮った。

 

「貴方は、優しい方ですね」

 

「え?」

 

ヴェルナはカップを置く。かちゃりと、小さな音が響いた。

 

「ご期待に添えず、心苦しいのですが」

 

彼女の唇に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。それは、慈しみに満ちた、母親のような笑みだった。

 

「知っていますよ。すべて。何百年も前から」

 

エダノは、言葉の意味が理解できなかった。

 

「……何を」

 

「ヴァルプルギスの夜とは、真祖への供物の儀式です。毎年、真祖は魔女と人を召し上がる。その代わりに、真祖は魔女という種を、この世界の脅威から守ってくださる。それが、我々と真祖との、古い契約なのです」

 

「契約……?」

 

「ええ。この国が、地震の多い島々の上にあることは、ご存じでしょう」

 

ヴェルナは湯気の消えたカップの縁を指でなぞりながら、まるで昔語りでもするように穏やかに続けた。

 

「本来なら、この国は百年に一度は都を失うほどの大地震に見舞われ、そのたびに津波が海岸の町を呑み込み、火山が空を灰で覆っていたはずなのです。ところが、貴方の生まれてこのかた、いえ、貴方の祖父母の生まれるよりずっと前から、この国では、国じゅうを揺るがすような災厄が一度も起きていない。おかしいと思ったことはありませんか」

 

エダノは答えられなかった。学校の歴史の授業では、この国は昔から「恵まれた土地」だと習った。地震が少なく、海が穏やかで、山が眠っている国。それを、単なる幸運だと受け取って疑いもしなかった。

 

「幸運などではありません。真祖が、そうなさっているのです。大地の底で溜まっていく歪みを、あの方が毎年、少しずつ手のひらで撫でてならしてくださる。津波になるはずだった海の力も、火を噴くはずだった山の熱も」

 

砂時計の青い砂が、さらさらと落ちていく。その音が、やけに大きく聞こえた。

 

彼女は微笑みを崩さないまま、ゆるやかに首を傾げた。

 

「数十人の命と、この国の一億を超える人々の命。エダノ君ほど聡明な方なら、どちらが重いか、お分かりになるでしょう」

 

「我々は真祖が生み出してくださった平和に報いるために供物を選び、整え、お届けする。これこそ協会の最も重要な務めなのです」

 

「選び……整え……」

 

「はい。コース、と申しましょうか。真祖は、順序を大切になさる方ですから。前菜から始まり、最後にメインディッシュ。その順番と配膳の手配は、全て協会が担っております」

 

エダノは立ち上がっていた。椅子が後ろへ倒れ、乾いた音を立てる。

 

「食べられる側の意志は、どうなるんですか! 彼女は、まだ子どもなんですよ!」

 

「ええ、存じております」

 

ヴェルナは動じない。むしろ、その反応を予期していたかのように、静かに手を組んだ。

 

「だからこそ、選ばれたのです。真祖は、若く、才ある魔女を好まれる。この子は、実に素晴らしい。私も直接拝見して感動いたしました」

 

そこで初めて、ヴェルナの視線が、アメへ向けられた。

 

「アメさん。貴女は選ばれたのです。光栄なことですよ」

 

アメは、何も言わなかった。

 

ただ、その小さな手が、膝の上で、白くなるほど強く握られていた。爪が皮膚に食い込み、細い血の筋が、指の隙間から伝い落ちていく。それでも、彼女の顔には、何の表情も浮かんでいない。

 

「……そう」

 

やがて、乾いた声が、ぽつりとこぼれる。

 

「知ってた。大人が助けてくれるなんて、そんな都合のいいことなんてありえないって」

 

「賢い子ですね」

 

ヴェルナは満足げに頷く。

 

「ヴァルプルギスの夜まで、あと三十日。その夜、貴女は真祖の食卓に上がり、メインディッシュとして召し上がられることになります」

 

やわらかな声には祝福の響きがあった。

 

三十日。

 

玄関ホールの壁に浮かんでいた金色の飾り文字が、脳裏にありありとよみがえる。

 

「祝・第七百八十三回ヴァルプルギスの夜まであと―――――三十日」

 

あれは、祭りまでの日数であると同時に、この少女に残された時間でもあった。

 

「お話は以上です。アメさん、祭りまで楽しく生きてみてください。案外、人生の上限を決められた方が有意義に過ごせるでしょう。そして…エダノ君、貴方は賢明な補助員です。これからも、協会のために励んでくださいね」

 

砂時計の最後の一粒が、落ちた。

 

*

 

灰色の扉が閉まる音が、背後で重く響いた。

 

廊下に戻ると、あれほど賑やかだった協会の景色が、まるで別の世界のもののように見える。銀色の魚が泳ぎ、黒猫の飾りが鳴き、星空を魔女たちが横切っていく。

 

すべてが、祝祭のための飾りだった。この建物のどこかで、食卓の準備が進められている。そう思うと、蔦の一本、提灯の一つまでが、恐ろしくなった。

 

エダノは、壁に手をついたまま、動けなかった。

 

「……エダノ」

 

呼ばれて、顔を上げる。モノノが、あくびをしながら、こちらを見ていた。その目に、驚きは一つもない。

 

「やっぱり、無理だったね」

 

「……ええ」

 

絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 

「モノノさんは、こうなると、知っていたんですか。だから、行っても無駄だと」

 

「君は、行かなきゃ納得しなかったでしょ? 心の底から納得するには事実を目の当たりにするのが一番なのさ」

 

「……ひどい人ですね、貴女は」

 

「魔女だからね」

 

そう言って、モノノは、ぽんと彼の肩を叩いた。

 

「行こうか。ここは、長居していい場所じゃない」

 

三人は、来た道を、黙って戻った。案内の犬は、もう現れなかった。廊下は、行きよりも短く感じられた。まるで、早く出て行けと言われているように。

 

正門の輪をくぐって外に出ると、丘の上に、夕暮れの風が吹いていた。

 

振り返れば、協会の建物は、変わらずに動き続けている。塔が寄り添い、回廊が輪を描き、瓦が鳥になって飛び立つ。

 

車のところまで来て、アメが、ぽつりと言った。

 

「アンタも同じ事をしたの?」

 

モノノに向けられた言葉だった。

 

「まあね」

 

エダノは、息を呑んだ。

 

「じゃあ、どうやって!」

 

問いかけに、モノノは、車のボンネットに寄りかかり、夕焼けの空を見上げた。眠たげな瞳に、燃えるような赤が映り込む。

 

「協会には頼れないって知った私は、悩んだ。そして次善の策を思いついた。今回もこの方法を取ろうと思う」

 

「次善の策?」

 

「フルコースに選ばれた魔女を、一人ずつ訪ねて、協力してもらうんだ」

 

エダノとアメが、同時にモノノを見る。

 

「コースの料理は、メインディッシュだけじゃない。前菜も、スープも、魚も、みんな、食卓に並べられる魔女なんだよ。彼女たちも、食べられたくはない。なら、手を組める」

 

「でも、彼女たちが誰なのか、私たちは知りません」

 

「そこはほら『先生』に聞いてみようよ。情報収集なら彼女が一番だ」

 

モノノは、眠たげに笑った。

 

「それに、私もね。他の贄の子について少しは、心当たりがあるんだ」

 

その笑みに、ほんの一瞬だけ、苦い影がよぎった。エダノはそれを見逃さなかったが、問い詰める言葉を持たなかった。

 

モノノは、空を見上げたまま、付け加える。

 

「食べられるのはヴァルプルギスの夜当日。でもね、下準備だったりのためにあらかじめ捕まる子もいるんだ」

 

だから、

 

「急がないとね」

 

エダノは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出してから、運転席のドアに手をかける。

 

信じていたものは、もうない。それでも、進む道はある。エンジンをかけると、ヘッドライトが丘の道を白く切り拓いた。バックミラーの向こうで、協会の塔が夕闇に溶けていく。

 

食卓の準備は、すでに始まっている。

 

 

 

 

 

 

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