バーバーヤーガの朝は、都心でもっとも高いビルの最上階に届く朝日の色を確かめることから始まる。
フロア全体が彼女の住まいとなっており、床から天井まで伸びた巨大な窓が四方をぐるりと囲んでいるため、寝室から見えるのは壁ではなく、目覚めたばかりの街そのものだった。
地上にはまだ薄い霞が残り、その向こうから高層ビルの輪郭や道路を走る車の光が少しずつ浮かび上がってくる。
窓辺の花瓶には黒い薔薇が数輪、朝露をまとったように濡れて揺れている。
寝台の上で身を起こした彼女は、しばらく眠たげな目で街を見下ろしていたが、一度大きく欠伸をすると素足のまま冷たい床へ降りた。歩いた跡には淡い光がぽつぽつと灯り、すぐに消える。
「おはようございます。お目覚めの頃合いだと思いまして」
扉を叩く音とともに現れたのは、マネージャーのミカミだった。三十を少し過ぎたばかりの、化粧のよく似合う無能力者の女で、両手にはタブレットと湯気の立つ紅茶を抱えている。
この仕事に就いて八年になるが、いまだに主人の寝起きの顔を見るたび背筋が勝手に伸びてしまう自分を、彼女は持て余していた。
「おはよう、ミカミ。今日の予定は?」
「午前は化粧品の新作CMの撮影です。午後は雑誌の取材がひとつと、夕方に祭りの準備の視察が入っています。夜は局の特番の打ち合わせですが、こちらは先方の希望で先に延ばしてもよろしいかと」
「ううん、そのままでいいわ。皆さん、楽しみにしてくれているのでしょう?」
スタジオは湾岸の倉庫街の一角にあった。車が滑り込むと入口に並んでいたスタッフがいっせいに頭を下げ、その列の端では、駆け出しらしい若い照明係が手にしたケーブルを取り落として慌てて拾っている。バーバーヤーガは車を降りるなり、その青年の前でふと足を止めた。
「大丈夫? 指、挟んでない?」
「あっ、はい! いえ、あの、大丈夫です!」
「それなら良かった。今日は、あなたの光で撮ってもらうのを楽しみにしているの」
青年の耳がみるみる赤くなるのを見て周囲のスタッフが小さく笑い、その笑い声に釣られるように、現場の緊張が目に見えて緩んだ。この人の前では失敗しても許されるという奇妙な安心感を、みんなが受け取ったのだ。
控室では、ヘアメイクの女性が鏡越しに彼女の髪を梳きながら、抑えきれない様子で話しかけてくる。
「昨日、娘が真祖様のCMをテレビで観ていて、この人みたいになりたいって。私はもっと勉強しなさいって言ったんですけどね?」
「まあ、光栄だわ。お嬢さんは、いくつ?」
「六つです、六つ。魔女の力は出て居ませんけど、ほんと、可愛い子で―――――」
「へえ、魔法が発現するのが楽しみね」
黒い薔薇の枝を髪へ挿し直してもらうあいだ、バーバーヤーガは鏡のなかの自分と、その背後で頬を染めているメイクの女性を静かな目で見つめていた。
彼女の目に映るのは、この国のあちこちで日々を暮らしている名もない人々の穏やかな暮らしの一片であり、それを守れているという確かな手触りが、何千年生きてもなお、彼女の胸をあたためるのだった。
撮影は滞りなく進んだ。白い背景の前で、彼女が化粧水の瓶を片手に振り向くだけでスタジオじゅうの空気が澄んだように変わり、カメラマンは何度も「素晴らしい」と呟き、監督はモニターの前で息を殺し、遠くで見守っていたクライアントの重役たちは互いの顔を見交わして小さく頷き合う。どのカットも撮り直しは一度で済み、予定の半分ほどの時間でその日の撮影は終わった。
「お疲れさまでした! 真祖様、本当にありがとうございました!」
拍手のなかで一人ひとりに丁寧に礼を返していると、控えていた少年のエキストラが花束を抱えて駆け寄ってくる。摘んできたばかりのような野の花を無造作に束ねた、不格好な花束だった。
「あの、これ、ぼくが、真祖様に」
「あら、素敵。あなたが選んだの?」
「はい。学校の帰り道に、いっぱい咲いてて」
彼女はしゃがみ込んで少年と目線を合わせ、花束を両手で大切そうに受け取った。茎からはまだ土の匂いがした。
「ありがとう。とてもいい香りね。この花が咲くところを、あなたはこれからも見られるわ」
少年は意味がよく分からないまま、それでも嬉しそうに笑った。
午後の取材は、湾を見下ろすホテルのラウンジで行われた。相手は魔女向けの雑誌の若い記者で、名刺を差し出す指先が可哀想なほど震えている。三笠が横から「お飲み物は」と声をかけても耳に入らず、ICレコーダーのボタンを二度も押し間違えて、ようやく録音が始まったころには額にうっすら汗が浮いていた。
「あの、本日は、その、お時間をいただきありがとうございます。わたし、子どものころから真祖様のお姿を見て育って、この仕事に就こうと決めたのも、真祖様がいらしたからで」
「まあ。それなら、私のほうこそ嬉しいわ。緊張しなくていいのよ、お茶が冷めてしまうもの」
そう言って自分のカップを記者のほうへ寄せてやると、記者はぎこちなく笑って、ようやく最初の質問を絞り出した。
「ヴァルプルギスの夜まで、あとひと月を切りました。真祖様にとって、この時期はどのような心持ちなのでしょうか」
「そうねえ。毎年のことだけれど、やっぱり楽しみで、少しそわそわするわ。それと……緊迫感? この日のために、みんなが一年かけて準備をしてくれるのだもの、やっぱり慣れたりはしないみたいで」
ころころと笑う声に、記者の肩から力が抜けていく。彼女はレコーダーの赤いランプをちらりと見て、それから窓の外の湾に目をやった。
「私はね、この国の人たちが、毎日を当たり前に過ごしてくれることが何より嬉しいの。みんながみんな、明日の天気の心配だけをして眠れるでしょう? そういう夜がひとつでも多く続くように、私にできることをするだけ。誰にも褒められなくたって構わないのよ」
記者は目を潤ませて何度も頷き、メモを取る手を止めて、思わずといった様子で身を乗り出した。
「真祖様は、本当に、この国を愛していらっしゃるんですね」
「ええ、もちろん」
即答だった。その一言に嘘は一片もなく、だからこそ、隣で聞いていたミカミは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。この人は誰よりもこの国を愛している。それを八年間ずっと傍で見てきたのだから、疑う理由などあるはずがなかった。
取材を終えて外へ出ると、湾岸の遊歩道では祭りの準備がすでに始まっていた。街灯の一本一本には黒い薔薇を模した飾りが結びつけられ、通りの向こうでは作業着姿の男たちが梯子に登り、金色の文字で「祝・第七百八十三回ヴァルプルギスの夜」と記された横断幕を張り渡している。
「少しだけ、歩いてもいいかしら」
「お時間は大丈夫ですが……人が集まってしまうかもしれません」
「いいのよ。祭りの前の街を、ちゃんと見ておきたいの」
遊歩道は湾に沿ってゆるやかな弧を描き、潮の匂いを含んだ風が、街灯に結ばれた黒薔薇の飾りをかさかさと鳴らしながら通り過ぎていく。
彼女は靴の踵を石畳に軽く響かせて、急ぐでもなく立ち止まるでもなく、ただ景色を確かめるような歩調で進んだ。右手の海には白い連絡船が波間に長い尾を引き、その向こうの埠頭では、大きなクレーンが祭りの資材らしい木箱をひとつずつ吊り上げている。
街路樹の若葉のあいだからは斑の光が落ち、その下を自転車を押した学生たちが笑いながら追い越していく。
歩道の先では屋台の準備をしていた若い夫婦がこちらに気づき、慌てて深々と頭を下げている。奥の鉄板では、祭りの名物になるらしい黒い飴の菓子が、甘い匂いを立てて焼かれていた。
「ひとつ、いただけるかしら」
「よ、喜んで! いえ、あの、お代は」
「だめよ、ちゃんと払わせてちょうだい。頑張って作ったものには、ちゃんと対価を払うの。それが礼儀でしょう?」
差し出された紙袋を受け取り、その温かさを確かめるように両手で包み込むと、彼女は幸せそうに目を細めた。
黒い飴を一粒つまんで口へ運び、「おいしい」と呟く。
その一言に若い夫婦は涙ぐむほど喜んで、また頭を下げた。
代金を渡して歩き出そうとしたところで、背後から呼び止められた。
「真祖様」
振り返ると、妻のほうが、飴をぎっしり詰めた袋を両手で抱えて駆けてくるところだった。どう見ても、いま彼女が払った代金に見合う量ではない。
「ごめんなさいね」
眉を下げて笑う彼女に、妻は袋を差し出したまま、ぶんぶんと首を振る。
「いえ」
それだけ言うのがやっとという様子の妻の手から、彼女は温かな袋を受け取った。夫婦の姿が人波の向こうに紛れるまで手を振ってから、袋の口をそっと開け、黒い飴をもう一粒、口へ含む。
舌の上で、飴は静かに溶けていった。甘くも苦くも香ばしくもなく、温度のない何かがただ喉の奥へ落ちていくだけで、それは水を飲むのとほとんど変わらなかった。
味がしない。
驚きはなかった。何千年ものあいだ、この世のどんな料理も、どんな果実も、どんな酒も、彼女の舌には同じ無味でしかない。たった一つを除いて。
しかしそれでも彼女は、その飴を最後の一滴まで、ゆっくりと溶かしていった。味は分からなくても、手のなかの袋の温かさと、それを焼いた誰かの朝が確かにそこにあることは、分かったからだ。
「真祖様、そろそろお車のほうへ」
追いついてきたミカミには、袋を抱えたまま海を眺める横顔が、いつもの満ち足りた微笑みにしか見えなかった。
夕刻、都心の空が茜から藍へと移ろいはじめるころ、彼女はその前をゆるりと通り過ぎて窓辺の長椅子へ身を沈める。
「お食事は、いかがなさいますか」
「あとでいただくわ。今は、少しだけ静かにしていたいの」
三笠が一礼して下がり、扉が閉まると、広い部屋にはバーバーヤーガ一人だけが残った。髪から黒薔薇の枝を抜き取って指先でくるりと回すと、人前では決して見せない、ほんの少し肩の力の抜けた息が漏れる。窓の外では地上の光の粒がゆっくりと瞬いていて、その一粒ずつが誰かの夕餉の灯りであり、誰かの帰り道であることを、彼女は知っている。
ふと視線を落とすと、部屋の隅の花瓶に、昼間の少年がくれた野の花が活けられていた。
ミカミが気を利かせたのだろう。不格好に束ねられたままの花は、この部屋の高価な調度のどれとも馴染まないのに、そこだけが小さな灯りをともしたようで、彼女は立ち上がって花瓶の傍へ歩み寄り、しゃがみ込んで花弁にそっと指を触れた。
「あなたたち、こんな遠くまで連れてこられて、驚いたでしょう」
指先から淡い光がこぼれ、萎れかけていた一輪の花弁が、ゆっくりと色を取り戻していく。その光景を眺める横顔は、テレビの向こうの誰にも見せたことのない、静かな安らぎに満ちていた。
「――失礼いたします。お時間をいただけますか」
背後から静かな声がした。振り返るまでもなく誰がいるのかは分かっていて、部屋の隅の暗がりから、深い紺色の長衣を纏った女性が音もなく歩み出てくる。銀の混じった黒髪をきちんとまとめ、名簿と青く光る砂を湛えた砂時計を携えていた。
「あら、ヴェルナ。こんな時間にどうしたの」
「ご報告に上がりました。今年の食卓について」
ヴェルナは深く頭を垂れると、砂時計を傍らの小卓に立て、青い砂が細い糸になって落ちはじめるのを確かめてから、金の縁取りのある薄い名簿を手にして静かに顔を上げた。
「『アミューズ』、『オードブル』、『スープ』、『ポワソン』、『ソルベ』。前菜のお席は、すでに大半が整っております。ただ、数名、こちらの手をすり抜けそうな者がおりまして」
「まあ」
バーバーヤーガはくすりと笑って名簿を受け取り、ぱらぱらとめくった。細い指が止まるたびに、ページの上の名前が微かに震えるように光る。
「大丈夫よ、ヴェルナ。私は急がないわ。逃げようとする子がいるなら、逃げさせなさい。追いかけっこは嫌いじゃないの」
「恐れ入ります」
「けれど、そうね。あまり荒っぽくはしないであげてちょうだい。怖がらせすぎると、味が変わってしまうから」
冗談めかした口調の奥に、ごくわずかな、しかし確かな温度があった。ヴェルナは黙って頭を下げる。この主人に仕えて長いが、この柔らかな声で告げられる命令ほど、逆らえないものはなかった。
「それから、もうひとつ」
ヴェルナが一拍置いて、言葉を選ぶように続ける。
「本日、協会に陳情がございました。補助員の若者と、今年のメインディッシュに選ばれた少女が、直接。それと、その契約魔女が同行しておりました」
名簿の一頁の上で、指先がぴたりと止まった。
「契約魔女……」
「はい。かの、泥の魔女です」
その名を聞いた瞬間、バーバーヤーガの目がほんのわずかに見開かれた。朝から一度も見せなかった表情だった。カメラの前でも、記者の前でも、少年の花束の前でも保たれていた完璧な微笑みがふっとほどけ、その下に、ひどく素朴な、少女のような驚きが覗く。
「モノノが、来たの?」
「はい。話はしませんでしたが」
「そう……そう」
彼女はゆっくりと長椅子の背に体を預け、天井の照明を見上げた。
「あの年を思い出すわね」
髪から抜いた黒薔薇の枝を指先でそっと撫でる。花弁が一枚、はらりと絨毯の上へ落ちた。
バーバーヤーガは名簿を閉じて傍らに置き、窓の外の夜景へゆっくりと視線を戻した。
「ねえ、ヴェルナ。あの子は、また来るかしら」
「……おそらくは。フルコースの魔女たちを訪ね歩き、協力を取りつけようとするでしょう。手を打つ必要がございます」
「そうね、二回目の抵抗となるのかしらね」
穏やかな声で、彼女は告げた。
「前菜の子たちは、順番に、丁寧に迎えてあげて。怖がらせないように、手荒なことはしないで。でもね、抵抗するなら、多少は力の行使も許可するわ」
「かしこまりました」
深く頭を下げ、砂時計を盆に載せて、ヴェルナは静かに部屋を辞した。扉の閉まる音は絨毯に吸い込まれて、ほとんど聞こえなかった。
一人きりになった部屋で、バーバーヤーガは花瓶の傍らに置いた黒薔薇をもう一度手に取る。窓の外の夜景を眺めながら、彼女はぽつりと呟いた。
「ねえ、モノノ。今度は、ちゃんと私のところまで来てくれる?」
答える者は誰もいない。ただ、遠い街の一角で、赤い広告のスクリーンが彼女と同じ顔で静かに微笑んでいた。
しばらくすると、ミカミが控えめにノックをして、夜食を運んできた。バーバーヤーガは大理石のテーブルにつき、皿を前にしていつものように両手を合わせる。
「いただきます」
その声は少女のように無邪気で、どの食卓でも聞こえるものと、何ひとつ変わらなかった。
「今日は何かしら?」
「今日は無能力者の、若い方でございます。昨夜、協会から届いたばかりの」
ミカミが銀の蓋の縁に指をかけ、静かに持ち上げる。
立ちのぼった湯気の向こうには、丁寧に焼き上げられ、薄く切り分けられた肉が、琥珀色のソースを纏って美しく並べられていた。
それが何であるかを口にする者は、この部屋には誰もいない。彼女はナイフとフォークを取り上げ、ひと切れを行儀よく切り分けると、ソースをそっと絡めて口へ運んだ。
ゆっくりと噛みしめた瞬間、その瞼がとろりと落ちた。
昼間の飴が溶けていったときには何ひとつ訪れなかったものが、舌の上に、喉の奥に、身体じゅうの隅々へ、熱い波のように広がっていく。甘さも、塩気も、脂のまろやかさも、何もかもが鮮やかで、彼女は思わず、ほう、と長い吐息を漏らした。
「おいしい」
昼間、黒い飴を口にしたときと少しも違わない声だった。ただひとつだけ違っていたのは、今度のそれが、心の底からの言葉だということだった。