存外、可愛らしい少女の秘密の顔が、こちらを覗いているかもしれませんよ」
月がきれいですね。
確か、昔の文豪が生んだ口説き文句だった。多分、きっと、この時代でも、その事実は変わらない。
今それを発すれば、乙女の純情と思われるだろうか。若気の至りと嘲られるだろうか。
ただ、それでも。眼前で主張してくる美麗な明かりに対して、思わず口にしたくなってしまう。
髪が揺れる。空調に撫でられて、栗毛色は柔らかく踊る。
我に返り、何度目かわからない見渡し。およそ人間とは呼べないミニマムな、けれど生命であることを否定できないカラフルな影が、数多にこの身を取り囲んでいる。
動揺を堪えるようにうつむいた。カップに広がる凪は暗く、どこまでも暗く。心を落ち着かせていく。
しなやかな指が、
器はゆっくりと重力を遡り、口縁からこぼれた水分は唇を通して、舌をしみ込んでいく。心で味わいたくて、自然と瞼が下がった。
開いたころには吟味は終わって、世界が少し穏やかに見えて、心地よい脱力感に包まれる。
はぁ。
一息漏れて。もう一度窓の彼方を見る。
今度はもう、躊躇わなかった。
「月が、きれいですね」
明智あんなは、そう言った。
時は、二時間前にさかのぼる。
時刻は既に八時を回っていて、平生のあんなであれば、風呂を済ませて睡魔が兆しを見せる頃合いだった。
しかし、今日は珍しく、本当に珍しく、その睡魔に抗う気分だった。
身体は疲れている。なにせ、
だというのに、いやに寝付けない。
「ここが、1999年……」
原因は、自分自身で口にした単語がすべてだ。
1999年。それは、あんなが本来生きているはずのない西暦。自分が生を受けるより10年以上も前の時間。
友人どころか知人もない。お金は持っていないし、あったとしても使えたものではなかっただろう。
そして、帰る家もない。
「お母さん……」
迎えてくれる家族も、いない――。
やたら頑丈そうな扉は、思いの外軽々と開いた。
研究室の中は閑散としている。昼間に見たときはこれまでの生涯で見たことのない量のお菓子が足場を埋め尽くしていたが、余すことなく片付けられてしまったようだ。
恐らく、『彼』の手で。
「ジェットさん」
「ん?」
名前に反応して、高いが芯のある男の声。
ジェットの手には「ジュエルキュアウォッチ」が握られていた。あんなと、
察するに、その研究中だったらしい。にわかに罪悪感がわいた。
「なんだ、てっきりもう寝たと思ってたぞ」
「うん、なんだか眠れなくて」
あんなの話しぶりに、ジェットは胡乱な目を向ける。
「お前、一人だとそんな感じなんだな」
「え?」
「ほら、昼はみくると一緒だったろ? そのときはうるさいくらいに元気だったけど」
みくるとは、今朝のある事件で、あんなと共に名探偵プリキュアへと変身した少女だ。
誰かを救えるようになりたいという強い意志と、出会ったばかりのあんなを見過ごさない優しさを持つ彼女に、あんなは「すごい」と伝えたのだ。
そんなみくるも、学校の寮の門限だからと言って事務所を出てしまった。ジェットも研究で部屋にこもりきり。ポチタンという妖精も、安らかに眠っている。
正真正銘、あんなは独りだった。
「タイムスリップ、なんて。したことのない僕に言えたことじゃないが、そりゃ寂しいよな」
「……」
気まずい。
話題にも問題はあったが、そもそも二人はほぼ初対面なのだ。そのせいで差し込まれるぎこちない沈黙を、あんなはもちろん、無愛想なジェットでさえ感じ取っていた。
時を超えた試しはない。しかもジェットは妖精だ。人間とは時間の感じ方も、他者との関わり方も、なにもかもが違う。だから、きっと完全な共感を――今のあんなの救いになるような言葉はかけることはできない。
そのことを、ジェット自身がわかっていた。なぜなら、彼は天才だからだ。
故に天才なりな回答を捻りだす。彼は頭を一掻きした。
「今の僕ができるのは、お前の慰めを用意してやることくらいだ」
サッと、引き出しから現れた一枚の紙をあんなは受け取った。
チラシのようだ。昏めな色合いが特徴的で、少なくとも華やかさを売りにしていないことはすぐに見て取れた。
その中で、最も大きな文字列が目に入る。紛うことなきタイトルだ。
「喫茶、ルナ?」
馴染みのない名詞だが、ルナとは『月』を表す言葉だったはずだ。
所詮中学二年生の感性だが、洒落ているなと思った。
「夜の間にだけ開く、不思議な喫茶店だ。場所も、人も妖精も選ばない。悩みや迷いを抱えている者たちのために、ひっそりと構えている」
チラシの文面を読むと、なるほどジェットの紹介と似たことが書かれている。
加えて、ある一文がさらにあんなの気を惹いた。
『さまようあなたの標となりますように。“月”を添えてお待ちしております』
月、か。窓のない部屋で天を仰ぐ。
そういえば今夜は、月は出ていただろうか。わからない。だって、一度も見上げていなかったから。
「……ありがとう、ジェットさん。私、行ってみる!」
月を見てみよう。そう思った。
それだけの理由で、あんなは決断したのだ。すでに少し前向きになった。
その様子を見て、ジェットはクスリと笑う。
「喫茶ルナの行き方は、そこに書いてある通りだ。今のお前なら、ほっつき歩いてるだけでたどり着けるはずだ」
あんなは頷き、そそくさと玄関へ向かおうとする。
「あんな!」それをジェットが呼び止めた。振り向くや否や、よくわからないアイテムを渡された。
「これは?」
「自動通報装置だ。お前の身に何かあったら、すぐに警察に通報が行って、GPS信号が僕のもとに届く」
ぎりぎり聞いたことのある単語だ。でも、GPSってこの時代からあるのかな?
「女の子が夜道を一人は危険だからな。それくらいは持っておけ」
「こんな短い時間で作ったの? すごっ」
「天才だからな! これくらい朝飯前だ」
再びお礼を言って、今度こそあんなは外に出た。
春先特有の薄ら寒さが肌をつつく。元の時代でも滅多に経験したことのない眠る街並みは、新学期のような華やかさがまるでなく、いわば裏世界へ足を踏み入れた感覚がした。
――ちょっとだけ、悪いことしてる気分。
高揚のままにあんなは先刻のチラシ――畳んでポケットに入れていた――を開いた。
ジェットはここに喫茶ルナへの行き方が書いてあると言っていた。しかし見たところ、所在地の類は記されていない。
日中は名探偵だったからだろうか。夜なのに眠れなかったからだろうか。今のあんなは冴えていた。
「紹介文の中に手掛かりがあるはず……!」
『場所を選ばない』とはどういうことだろう。呼べば来てくれる、とか? でも呼び方がわからない。毎日違うところで開いてるの? それじゃ見つけようがない。
ジェットは何の迷いもなくこのチラシをあんなに渡した。つまり、ジェットにはあんなが喫茶ルナにたどり着く確信があったはず。だから、今日が定休日ということも、全く別の都市で開いていることもないだろう。
しかし、考えども考えども、天才ではない素人中学生一人では答えが出なかった。
果たして、彼女は立ち止まる。
「こんなとき、みくるがいれば……」
口にしてから、何を言っているんだろうと思った。叶いもしないことに期待をかけた自分がばかばかしい。
しかし、一度愚行を犯せば、さらに重なるもの。毒を食らわば皿まで食らってしまうのが子供の常だ。
「お母さんが、いれば……」
もっと叶う見込みのないことを口走った。
難しい問題に悩んでいるときに、助言をくれることもあった。行動に迷っているときに、支えてくれることもあった。そんな母の肖像に、あんなは想い馳せてしまった。
つい今朝も、誕生日パーティに胸を躍らせて歩いていた。あのときは自分の心のように空が明るくて、草原に雪の混ざるコントラストが美しくて。
隣には、大好きなお母さんがいた。
「会いたい、よ。お母さん……」
つう、と。涙が頬を伝う。あとは洪水のようにとめどなく、両目から顎先で交わって、アスファルトにシミをつけていく。
涙の数に比例して、悲しみの重さも増えていく。そうして、俯き、小さな手で顔を覆った。
嗚咽すらも発さない。それさえ越えてしまったら、もう本当にダメな気がした。未熟な少女にできる、せめてもの忍耐だった。
「……ッ」
きゅっと唇を結んだ。自分の心を守るように、
その時だった。
「え……?」
暗闇に吞まれそうだった視界の隅で、淡く光り始める何かがあった。泣きはらした顔で、どうにかあんなはその正体を目にする。
「ウソ……あれって」
それは、不思議な小屋だった。
ぼうっと光って、幽霊というよりはランタンのような、激しくはない安心できる明かり。こじんまりとした木造なのに、存在感があるのはそのせいだ。
そのさまにあんなは呆然と見惚れていた。泣くことも忘れてしまった。
当然だろう。目の前に、探していたものが“突然”現れたのだから。
絶対に。絶対にこんなところにこんな建物はさっきまでなかった。明らかに不自然な立地が物語っている。
気の利いた装飾もなければ、看板すらもたっていない。店とさえわからないかもしれない月の下。なのにあんなは、こここそが目的地だと直感する。
夢かと思った。しかしそうではないことを、自分の両頬をつねって確かめた。
驚くほどすんなりとこの怪現象を受け容れて、もう一度チラシを見つめる。
「場所を選ばないって、こういうことだったんだ」
ジェットの言葉を思い出す。
――悩みや迷いを抱えている者たちのために、ひっそりと構えている。
――今のお前なら、ほっつき歩いてるだけでたどり着けるはずだ。
その通りだった。さまよう者たちに対して、いつでもその門戸は開かれている。
一歩、踏み出す直前。最後にもう一度、タイトルの店名に目を通した。
幻想的なフォントに淡いシャドウが施された黄金色の文字。それは、まるで――そう、月に浮かんでいるようだった。
本当はもうちょっと一話にまとめる予定だったのですが、長くなりすぎそうなのでまずはイントロだけ。
連載と設定こそしていますが、長期連載できる自信と体力がないので、みなさんの反応によっては短編に収まるかもしれません。
つまりはっきり言って、感想もらえたらめちゃくちゃ嬉しいです。
詳しい方針は次回のあとがきにでも。