入口の前には三段の足場がある。のぼる途中、高床の窓を覗けた。
「何も見えない……」
厚紙でもはられているかのように真っ白だ。そういえば物音も全くしていない。
やってないのかな? ……ううん、電気はついてそうだし。
そこが喫茶ルナではない可能性は考えなかった。直感が囁いた以上に、もし違っていたらまた大泣きしてしまうような気がして恐ろしく思ったのだ。
扉の前に立つ。期待と不安を綯い合わせた手は微かに震えて、ぎゅっと握り合わせた。
ゴツゴツしたドアノブを回すと、木が風に耐える音がした。
次の瞬間、視覚と聴覚に刺激が入り込む。
川の流れを想起させるメロウなピアノ。上品で穏やかな話し声の数々。無音だったはずのあんなの世界に、それらは緩やかに混ざり込んだ。
「わぁ……」
しかし、あんなが真に驚いたのは光景のほうだった。
店内は幅より奥行きのほうが長い。左壁には吸い付くように四角いテーブルが三つピタリと並んでいて、反対では座面の高い丸椅子を従えるカウンターがスラリと延びている。間は人一人通るのでやっとだ。
オトナな雰囲気。過った感想を引き止めたのは、先客の姿たちだ。
それは、人ではなく――
「おや」
あんなの声ではない。右手のほうから浮き上がった沈着な響きに視線を移した。
「これはこれは、珍しいお客様ですね」
微笑みを強調するえくぼが印象的な男性だ。丁寧に切りそろえられた短髪、気崩してはいないが堅さのない白シャツと緑のエプロン。背丈はあんなが少し見上げる程度。
爽やかな見た目なのに、声音はとても落ち着いていて、寛容を体に表したように感じられた。
「こ、こんばんはっ」
「こんばんは、いらっしゃいませ」
気の利いた挨拶は浮かぶはずもない。ありきたりな台詞をぎこちなく発したら、男はにこやかに返した。
「お客様は運が良い。今宵は繁盛しておりまして、ちょうど最後の一席でした」
男が流した目線を追うと、カウンターの一番奥に空白が見つかる。促されるまま、ようやくあんなは足を動かした。
腰を下ろすと、床に足が届かない。ふぬぬと伸ばすが、届かない。ちょっとしょげた。
小豆色の帽子を脱いでいる間に、視界の隅を薄い絹が昇る。
ああ、これは湯気だ。
「どうぞ。ごゆっくり」
またしても男は、人当たりのいい笑顔を向けてきた。それだけで、自然と気持ちは和らいだ。
一杯のコーヒー。暗くて、静かで、安らかに空気に触れている。眺めている今にも、純然な闇に意識を吸い込まれそうだった。
手遅れになる前に、再び景色に視線を戻した。
隅っこからでも小さな店内を一望することができる。だから、この状況に新鮮さを覚えずにはいられない。
店内にいる人間は、二人だけ。一人はあんな、もう一人はグラスを磨いている店員の男。
他の客は皆、両手で掬い上げられてしまいそうな大きさで、
まさかここって……妖精の喫茶店!?
ジェットの言葉と、チラシの文面を思い起こす。確かに、人間も妖精も選ばないと言っていた。スルーしてしまっていたが、こういうことだったとは。
「こんなにたくさん妖精を見るのは初めて?」
「ひゃぁっ!」
ぴとっと右肩に感触が伝わり、無意識に身体が跳ねた。
どうやら隣のお客さんのようだ。
「ふふ、可愛いお子ちゃま。緊張しなくていいんだから。ここはね、世界で一番気楽な場所なの」
「気楽な場所……?」
「ここでは誰もがありのままでいられる。内に秘めた弱さも悪さも、隠さなくていい」
そう言ってから紅妖精は角砂糖を溶かす。あんなに用意されたものより一回り小さい妖精用だ。なかなか手慣れている。
「冷めちゃうわよ?」
指摘されて思い出した。自分にもはじめの一杯が置かれていたんだった。
「うぅ、でも私、コーヒー飲めるかな……」
「心配いらないわ。あたしが保証してあげる」
彼女は身の丈に合ったカップを手に取り、こちらに見せつけるように掲げた。同じようにおやり、と促されているのだろう。
逡巡の末、あんなは妖精の動きに合わせて、そっとカップを口元へ運ぶ。少し熱くて悶えたが、神経が通るように身体へしみ込んでいく。
一口終えて、ほぅと息が漏れる。にわかに上気して白んでいた。
「おいしい……」
「言ったでしょう。タクミの淹れるものにハズレはないの」
自分のことのように胸を張る妖精は、大人びた口調に反して愛らしい。
「たくみ?」
「ふふん。こんな男前な名前、人間にしか付けられないわ。そして、ここにいる人間といえば……」
十分すぎるヒントだ。導き出された答えのほうを見る。向こうはちょうど他の
「モテる男は身体が一つじゃ足りないわね。安心なさいな、ここは時も待ってくれる特別な場所。焦る必要なんてない」
何やら気になる発言だったが、その意図を尋ねるより先にそっぽを向かれてしまった。浮いていた初見への気遣いは果たしたつもりのようだ。
「あ、あの!」
「んー?」
慌てる必要もないのに焦って声をかけると、瞳だけがこちらを向いた。
「ありがとう、ございます」
「――ふふん。可愛いお子ちゃまを甘やかすのが趣味なだけよ」
そうして、また一人になった。しかし、痛烈な寂しさや悲しさがあるわけではない。
むしろ、この孤独は温かく、慰めにさえなってくれているような感覚がした。
忘れないうちに、優しい妖精から教えてもらった丁寧な所作で珈琲を啜る。熱さがマイルドになって、より味わいやすくなっていた。
なるほどわかってきた。これは、ちょっと癖になりそう。
「――♪」
人知れず上機嫌に笑う。控えめに足をパタパタさせてしまった。
それから、しばらく同じことを繰り返した。なんだか、たったそれだけのことでも、心が軽くなっていく気がした。
いつまでも、こうしていられそう。
「――お気に召したようでなによりです」
「いぃっ!?」
唐突に正面から声が掛かった。新鮮な嗜みに夢中になりすぎてしまっていたようだ。
子供っぽいところを見られたことを悟り、ほんのり顔が赤くなる。誤魔化して、取り繕って、なんてことのないように返事をした。
「はい! ほどよく甘くて、でも甘すぎなくて。安心する味」
「なにぶん人間にお出しするのは久しぶりでしたので。――私、当店の店長を務めております。月村タクミと申します」
「明智あんなです。えっと……め、名探偵やってます?」
ジェットからは認めないと言われてしまったが、みくるの夢を叶えてあげたい思いは変わらない。だから、迷いながらも言い切った。
タクミは感嘆を顔に湛えた。
「見たところ相当お若いようですが、探偵ですか! 探偵というと、あれですね。不倫だの浮気だの調べたり、猫だの妖精だのを探すあの探偵ですか」
「ふり……違います違いますっ」
素っ頓狂な勘違いだ。いや、まあ探偵がそういうのを生業にすることが多いのは朧気ながら理解しているけれども、子供がそんなことをするとでも思っているのだろうか。
「盗まれたものを取り返したんです。怪盗団ファントム、っていう人から」
「ああ、あのロマン主義でアスパラガスカラーがチャーミングなナルシストですね」
「バカにしちゃってますよねそれ!?」
思わず突っ込んでしまったが、本題にすべきはそこでないことに気付く。
「というか知ってるんですか! ニジーのこと」
「もちろんです。彼は常連ですから」
開いた口が塞がらない。飛び跳ねたアホ毛が鎮まらない。周りの客に配慮しつつも、声量を抑えるのに苦労した。
「なにか知っていることがあったら教えてください!」
「それはできかねます。お客様が私を信頼して明かすプライバシーですから」
「むぅ……」
頬を膨らませるあんなに、タクミは眉をハの字にして微笑む。あやされているようで微妙に不服だ。
「当店に来られるのがどういう方か、ご存じですか?」
「確か、悩みや迷いがある人たちって、」
そこまで答えて、あることに気付いた。
「え、ニジーもなにか、悩み事があるってことですか?」
「……♪」
彼は人差し指を口に当てて片目を瞑った。はなまる似合っている。
まだ会話してあまり経っていないが、この男が客から人気な理由がわかる気がする。こう、紳士的なのに茶目っ気もあるところが。
「すべてに博愛で受容的な方などこの世にいません。誰かを愛することがあれば、他者に嫉妬することもある。自分を愛することがあれば、欠落に怯懦することもある。しかし、その弱さやあくどさを自分にしか見せないのも、それはそれで生きづらいものなのです」
「うーん……ごめんなさい。私には難しいです」
「謝ることはありません。その素直さは美徳です。――こう考えてみてはどうでしょう。好きな人に自分を知ってもらいたいとき、果たして良いところだけで愛してもらいたいと思うでしょうか?」
これまた簡単ではないが、最初の形而上的な発言よりかはマシだ。恋愛に触れたことはないが、あんななりに考える。
「……その人が私の悪いところを知って嫌いになっちゃうなら、隠そうとするかもしれません」
「それもまた、思いやりの形です。大変すばらしい心構えでいらっしゃいますね」
一々肯定してくる。表情や話し方は大事なもので、適当な相槌ではなく心からそう思っているのだと感じられた。
「ただ、それを一人で抱え続けるなら、息苦しく感じることは避けられないのではないでしょうか。弱さを見られたくないとは思いつつも、大切に想うその人にこそ、悪いところまで全部ひっくるめて見てほしい。人間も妖精も、そんな矛盾を抱えた生き物なのです」
「た、確かに……!」
もっともらしいことを言われて、段々と彼の言う通りな気がしてきた。言いくるめられただけなような気もするけど。
そのとき、ついにあんなの中で電流が走った。
「あ、ピンときた! ここは、それができる場所ってことですね」
「さすが、名探偵ですね」
タクミは本当に嬉しそうに目を細めた。その仕草にあんなまで幸せな気分になる。
「かつては、まだ人間と妖精が複雑でない時代でした。お互いの矛盾を赦し、肩を組んで笑い合えたのです」
「でも、もう人間は来なくなっちゃったんですよね?」
タクミは『コーヒーを人間に出すのは久しぶりだ』と言っていた。みんなコーヒー以外を頼んでいたということではないだろう。
「そう、変わったのは人間のほう。妖精と比べて、人間は進歩や発展に影響を受けやすい生き物でした。料理をつくり、住処をつくり、機械をつくり、その中で価値観が大きく変わりました。いつの間にか、妖精と同じ視点で物事を見るのが難しくなったのです」
あんなにも心当たりがあった。あんなの時代ではスマホが必須に近く、彼女自身も誕生日プレゼントに買ってもらう予定だったのだ。
この街にはそれがない。画面に俯いて歩く通行人の姿など、ほとんど見なかった。タクミが言いたいのは、そういう変化のことなのだろう。
「勘違いなさらないでほしいのが、私は別段それを悪いこととは思っていません。この店から人の足が減るのは悲しいことですが……みなさんが過ごしやすくなった側面も、きっとありますから」
「私はここが好きですよ! 雰囲気も良くて、ちょっぴりオトナになれた気がして。何度も通いたいくらい」
そう言ってまた一口啜る。あ、少しぬるくなってきた。
あんなの言葉に、タクミは救われたような顔をした。しかし、その口から出てきたのは、喜びではなかった。
「もったいないお言葉ですが、客足乏しくなるのも、それはそれでよいことなのですよ」
「え? あ……」
大事なことに気付いて、不意に言葉を失った。
そうだった。ここは、「悩みや迷いがある者」のための喫茶店。
つまり、今これだけの妖精が、弱さを抱えてやって来ている。
そして、それは人間も例外ではない。
「……私の悩みを、聞いてくれるんですか?」
「明智様がお望みとあらば。ですが、『今』ではないかと存じます」
ドキッとした。急に「明智様」なんて大層な呼び方をされたからか、図星を突かれたからかは自分でもわからなかった。
「ここはお悩み相談所ではないのです。弱さも悪さを隠さず、ありのままの時間を手にするための場所。その方法を、無理に縛る必要はありません」
さっきの紅い妖精も、同じようなことを言っていた。でも、ありのままなんてわからない。
ううん、それもここで知ることができるのかな。
二杯目が置かれた。今回は湯気が控えめ。さすがの手腕だ。あんなが舌をひりつかせていたことはお見通しだったらしい。
「どうぞ、ごゆっくり」
最初と同じセリフ。しかし、今度はその響きが、確かな意味を帯びて聞こえた。
タクミが場を離れる。他の客の元へ向かったようだ。
残されたあんなは、再び寂寥感に駆られる。先程の心地よさと打って変わって、心にじわじわと穴が空いていくような苦しさだ。
俯いて、暗い水面を見つめる。そこに、
――そんなに急ぐと崩れるって、あんな!
――あのリボンが風に飛ばされたって、よくわかったね!
――大好きよ、あんな。
視界がぼやけていく。記憶が次々に褪せていくように。かき消えて、湯気とともに霞んでいく。
傷心に身を任せて、あんなは髪をほどいた。栗毛色の団子はさらさらと崩れて広がっていき、繊細なブランケットのように華奢な背中を庇った。
徐にカップを手に取る。大事に、零さないように、多めに呷った。まるで、今しがた空いた穴を埋めようとする儚さで。
ああ、ちょっとだけ、苦いかも。
なのに苦痛ではないのはなぜだろう。自分が存外得意だったのだろうか。それとも、やはりタクミの技巧によるものだろうか。
段々と、この店に溶け込んできた実感がわく。肩の力が抜けて、それでいて驚くほど意識は研ぎ澄まされて。青い炎のゆらぎのように、静かだけどはっきりしている。
ふと気になって、マスターの様子を覗う。すると、既に半分ほど空席が生まれたことに気付く。
そういえば今は何時だろう。意図的なのか、この店に時計はない。時間も忘れて、物思いにふけっていた。
外の暗さを確かめたくて、何の気なしに傍らの窓を覗いた。
「――」
息を呑んだ。言葉は出なかった。
もちろん顔なんてない。それでも、少女にはあの光が微笑んでいるように見えた。
優しく照らして温めてくれる。そう期待してしまえるほどに、美しく煌めいていた。
その芸術に見惚れて、あんなは絶句の海を浮かぶ。
泳がずに流されて、真っ暗な空へ墜ちていって。
やっと零れ出た言葉があった。
「月が、きれいですね」
「ええ、本当に」
二度の衝撃があんなを襲った。自らの発言に一度、それを聞かれてしまったことに二度。
正面にタクミが戻っていた。あんなの失言を気にも留めていない様子だった。
「ここは現実とは切り離されています。向こうでは確か、今宵の月は見えません」
「……そうなんですね」
「偽物ということではありませんよ。本当なら見えないはずの月も、見ることができる。ここは、そんな特別な場所。ご存じですか? 明智様。月は、『狂気』と『母性』の象徴と言われているんですよ」
あんなは黙して聞いていた。目は合わないままタクミは語る。
「夜は人を感傷的にさせます。本当の姿を浮かび上がらせる。そうしてうまれる不安に、月は安心を与えてくれるのです。包むような光はスポットライトであり、夜をさまよう者たちの拠り所。喫茶ルナは、その道標なのです」
今回は、あんなも深く頷けた。ここに来てから寂しさを掘り起こされ、でも厭な気分にはなっていない。
そして、「母性」という言葉は、彼女の琴線に触れた。
「……独りで眠るのが、怖かったんです」
背後を振り返ると、また客が減っていた。閉店間際に似た余韻が、場を漂っている。
「そしたら、ここを紹介されて。月を見てみようって、思って。いつの間にか、ここに来ていました」
ぽろぽろと紡がれる言葉の意味を確かめる。
そっか、私……誰かに知ってほしいんだ。
今のあんなには、みくるに対してすらできない告白。それを、彼女は月に託して垂れ流していた。
「夢を追いかけている女の子に出会ったんです。憧れに真っすぐで、それなのに自分に自信がなくて、立ち止まりそうになって。……力になりたいなって思ったんです。だから、私も名探偵になったんだ」
それは紛れもない本心であり、あんなの中で輝く善性だった。時を超える前にも、泣いている小さな女の子を当然のように助けた。
「でも、きっとそれだけじゃなかった。私、……私も、不安、だった。気が付いたら全く知らない場所にいて、知り合いは一人もいなくて、何がなんだかわからなくてっ。泣い、ちゃったら、ダメになると、思ったからっ……寂しくない、フリをしたっ」
声が震えて、掠れて、頬を滴が伝う。拭うこともせず、あたかも自分自身に語り掛けるように、とても整った表情で。
タクミはそれを、ただ静かに聞いていた。
「私は名探偵で、みんなを助ける強い子だって。これくらい平気なんだって。思い、たかったんですっ……、でも、ダメだな、私……全然、強くなんてなれないや」
あんなは泣きながら笑った。口の端は全く歪んではいなかった。寧ろ自然で、自分でも不思議なくらい穏やかだった。
少女の独白は、いつしか無音になった店内を溶けていく。消えてなくなることはなく、ノイズになることもなく、無碍な世界の一部となった。
そして、
そんな世界の守り人は、彼。
「明智様――窓の外を、ご覧ください」
あんなは呆然と、素直に従った。
さっきあんなを魅了した、あの輝きが。
「人は、変化に流される生き物です。別れを惜しみ、喪失を嫌い、自分自身に悪意を抱くこともあります。ただ、それでも、忘れないでほしいのです」
タクミの言葉は、確かな重さと、温かさで満ちていた。
「月は、いつでもそこにあります」
「ぁ……」
「たとえ雲に隠れていても、乾いた朝に沈んでいても、きっとそこにあるのです」
そうか。と、あんなは目を見開いた。
時を超えても、繋がりを失っても、変わらないものがある。
自分の強さも弱さもはじめからちゃんとあって、それで今のあんながある。この時代にも夢見る少女はいて、一人の親友になることができる。
そして、どれだけ街並みや雰囲気が変わっても。未来と同じあの月が、いつでもあんなを見守ってくれているのだ。
目まぐるしく状況が変化して、泣く理由ばかりを考えていた。でも、今までと同じように笑える理由が、決して消えたわけではない。
その安穏に、あんなは気付くことができた。
「明智様の気持ちがわかるなどとは、口が裂けても言えません。ですが――いえ、だからこそ、私はここで月とともにお待ちしています。あなたが、自分を見つめる
「わかる」とは言わなかったタクミの優しさを嚙み締める。温かな沈黙の最中、あんなは胸に手を当てた。
やっとわかった。どうしてこの寂しさが嫌にならなかったのか。心が澄み渡っていったのか。
私、向き合えたんだ。弱い自分に。
ここが、この人が、そうさせてくれたんだ。
「……実は私、2027年から来たんです」
「え?」
突然の告白に、今度はタクミが目を見開く番だった。どう噛み砕くべきか困ったのか、固まったまま表情は驚愕を湛えていた。
こんな顔もするんだ、この人。
「だから私、本当に独りぼっちなんです。これからも、寂しさで泣いて眠れない夜があるかもしれない」
でも、と、今のあんなはそう続けられた。
「この時代を、この場所を好きになれそうです。だって、こんなにも綺麗な月と、素敵な喫茶店があるから!」
やっとあんなは目を拭った。そして、涙のない笑顔を浮かべた。
まだ動揺が残っているように見えたタクミも、それで元の落ち着いた微笑みを取り戻した。
「店主冥利に尽きるお言葉です。明智様のお話、私は信じていますよ」
「えへへ、本当ですか?」
「ええ。こんなにも華のある方がいるのであれば、きっと未来は明るいと期待できますから」
そのとき、ゴーンゴーンと鈍い音が鳴り響いた。古い大時計から聞こえるような重い音。
部屋に時計はないはずなのに、本当に不思議な喫茶店だ。
周囲を見渡すと、もう客はあんな一人だけだった。文字通り二人だけの世界に浸っていたらしい。
「長居し過ぎちゃいました、また来ますね!」
「明智様、お忘れなく。当店はさまよう方のための場所です」
「ああそうだった!」
二人は笑い合った。すでにしんみりとした空気はない。落ち着いていて、活力もある。そんな雰囲気を纏っている。
「それと、夜更かしのご心配は要りません。あの扉を開けば、
「ええ!? すごい、はなまるびっくり!」
このあとの体験に期待を膨らませながら、帽子を胸に抱える。
憩いの時間はこれで終わり。最初で最後となるのか、将又常連になるのかは、明日になってからでないとわからない。
しかし、どちらにしても、満足した客はこう言うのだ。
「ごちそうさまでした、タクミさん!」
「またのご来店に備えています、明智様」
*
音を立てないように扉を開けると、暗がりで安らかな寝息を立てるあんなの姿があった。
上手くいったことを悟ったジェットは、そっと扉を閉め、自身の根城に帰る。
取り出したのは自前の携帯電話だ。ある番号にかけた。
コール音は二回。挨拶もせず、相手の名前を呼んだ。
「タクミ、ありがとな」
「構わんさ、これが俺の役目だからな」
先ほどまで客だった少女が聞けば耳を疑うことになるであろう、落ち着きを超えて気怠げな低い声が返ってきた。
「あの子、相当抱え込んでるみたいだったぞ。大人としてもっとちゃんと面倒みてやったらどうだ?」
「……わかってるよ。でもまだ、僕はあんなたちがプリキュアだって信じたわけじゃない。この目で見るまでは」
「ぷり……なんだって? あんた、結局何も教えてくんなかったな。とんでもないこと聞かされて面食らったんだぞこっちは」
「社秘義務だ」
「14歳の女の子に会社もクソもないだろ……」
とんでもないこととは、恐らくタイムスリップのことだろう。そこまであんなは話したようだ。他に具体的なことはどうせ教えてくれない。向こうにだってあるのだから、社秘義務が。
それでも、この男ならあんなの荒唐無稽な話を信じてくれる。ジェットにはその
「
「ったく、ニヤついちゃってまあ。とにかく、俺が珈琲出せるのは夜だけだ。それ以外は任せるぞ、ジェッちゃん」
「ジェッちゃん言うな! 200以上年上なんだぞ」
ジェットが初めて喫茶ルナを訪れたのは、タクミがまだ10歳のとき。アイデアが浮かばず、発明に行き詰っていた最中、月に招かれた。
それ以来、こうして連絡を取り合う仲になっている。とはいえ、そう頻繁に会っているわけではない。精々、ちょっとした友人程度だ。
だから、程ほどに気心知れていて、軽口を交わすことも少なくない。
「ああそうだよ。年の功を重ねた天才を信頼して言ってるんだ」
「……ハァ、あのころは可愛げのある小童だったのにな」
「バカ言っちゃあいけない。今もギャップ萌えで受けてるさ」
あどけない笑みが脳裏をよぎると同時、プツリと通話が切れた。
そのまましばらく、椅子の上をゆらゆらと揺れる。
「大人として」、か。
責任も義理もない。だが、自分が二人の少女とどう関わればよいか、ジェットはすでに思案を始めていた。
引き出しから一本、キャンディーを掴む。
今回のフレーバーは、当然決まっていた。
「苦いな。やっぱり」
八重歯は、力任せに玉を砕いた。
一万字以内に収まった、勝ち! そういえばプロローグの投稿日が中秋の名月だったことにあとから気づきました。こんな内容描いてるくせに。
前書きの通り、拙作は本編の各話の間や後の時系列を軸に話が広がります。本日のゲストは主人公。他のキャラも客になることがちらほらあるかなしゃどう。
ゆくゆくは本編のほうにも微かに変化が生まれてくる、かも?
実質一話目だったので調子に乗り過ぎましたが、次話からはもっとさっぱりした文章にしていきたいと思います。
ちなみに作者はあんなちゃんの笑顔と曇り顔に脳を焼かれた人間です。きっと随所で隙あらばあんなちゃんの活躍とか挟み込んだりすると思います。