子供はまだ上手い背負い方を知りません。しかし焦れば下敷きになってしまいますから、ゆっくりでよいのです。あれは心地よく生きるのには邪魔なだけですが、よい働きのためになくてはならないものなのです」
あんなには、ある予感があった。
今の自分になら、あのときと同じ奇跡が降りかかるのではないかと。
期待と不安が綯い交ぜになった胸を抑えながら、眠る街を一人駆ける。
深呼吸で天を仰ぐと、曇天の空。浮かぶ月は、雲海の底でぼんやりと輝きを放つ。
唾を飲んだ。そしてあてもなくパーブメントを蹴って――。
どれくらい歩を進めただろう。どれほどの街灯に影を通しただろう。
もう覚えていない。その瞬間、彼女にとって重要なのは、ただ一つの事実だった。
弱々しい息は、古めかしい小屋に当たってぼやける。
川のほとりに、小さな喫茶店が目を開けていた。
*
扉を開けると、木板の苦しそうな声。続いてメロウなピアノ。
ああ、こんな感じだった。一度きりで淡くなっていた記憶が、少しずつ掘り起こされていく。
「いらっしゃいませ――おや」
落ち着きのある柔らかな重低音はマスターの象徴だ。彼は来客の風貌を見て動きを止める。
寝間着姿でも、あんなだと気づいてくれたようだ。
「本日は伽藍堂でございます。どこから月を眺めるか、選り取り見取りですよ」
嬉しそうに、タクミは席を促した。
「変なの。普通お客さんが来たほうが嬉しいのに」
「皆さまに迷い事がないのはよいことです。見るところ、明智様にはその嬉しいことが起きたようですね」
「はなまるびっくり! よくわかりましたね」あんなは奥から二番目のテーブル席に座る。前回がカウンターだったので味変、一番奥だと窓を覗ける角度ではなかったためこのチョイスとなった。
「十人十色の悩みと向き合いますから。ただそれ以上に、明智様の素直さ故です」
「そんなに私ってわかりやすいですか?」
「ええ。空模様さながらに」
不服というわけではないが、合点はいかない。愁眉をつくっていると、真似するようにタクミも困った顔をする。しかし、そのまま微笑んでいるという点で違った。
そんな彼の手元がにわかに光る。次の瞬間、あんなの目の前で変化が起こった。
「わあっ!? りょ、料理?」
「どうやらお疲れのご様子。小腹が空いているかと思いまして」
こじんまりとしたモンブランが置かれている。
ずっしりとしたタルトを土台に、表層は整ったマロンが膨らんだように張っている。
色合いのアクセントに白い雪を被っている。砂糖だろうか。
「は、はなまるおいしそ〜!」
「前と同じ珈琲も合わせましょう。――どうぞ、ごゆっくり」
摩訶不思議な現象は、すでに名探偵プリキュアとして活動する少女にとって然程気に留めることではなかった。
ここで物を食べるのは初めてだ。カウンターに背を向け、どこか緊張した面持ちであんなはスプーンを手に取る。
「い、いただきますっ」
外郭を小突くと殊の外堅め。少し力を入れて切れ目が入ると、そこから滑らかに断面がつくられていく。
一口頬張ると、程よい甘さが広がって。きゅうっとほっぺが幸福で痺れた。
「ん〜〜♪」
タクミの微笑む声がする。あんなの幸せに悶える仕草に感化されていた。
「私この味好きです。甘いのに甘すぎなくて、とっても食べやすい」
「外側のマロンはペーストとピューレを混ぜたもの、中はクレームフェッテ。要は、糖や水分が少なく甘さ控えめということです」
なるほど自分の味覚は間違っていなかった。アホ毛が上機嫌に跳ねる。
「ちょっぴりの甘さがベスト、それがオトナの人生……ってことですね!」
「え。ま、まあ――そうですね。本当の意味で自分を慰められるのは、他人ではありませんから」
ほんの一瞬崩れたマスターの佇まいに気付けなかったのは、スイーツに夢中だったからに他ならない。
二口目も、あんなは同じように声にならない称賛を鳴らした。
興奮がおさまってきたところで、ようやく月を眺める余裕ができた。
首を回すと、半月より少し膨らんでいた。餃子を想起させる見た目。
初見のときは違った。確かあの日は――
「そういえば先日、ニジー様がいらっしゃいましたよ」
「えっ! だ、大丈夫でした?」
驚きは表したものの、心は穏やかだった。呑気というわけでもなく、店の雰囲気に包まれた結果だ。
「文句を言われてしまいました。明智様に余計なことを吹き込むなと」
あ、いつもの笑顔。
幾度も見せる、困ったように笑うその表情が、あんなは好きだった。この人には真心があるのだと信じられる気がして。
怒るでも、悲しむでもなく、様々なことを受け容れたり受け流したりできる余裕を、密かに尊敬していた。
「ニジー、私のこと何か言ってました?」
「彼は常連です。そのような野暮はなさいませんよ」
内心ほっとする。そして疑問に思った。
なんで、ほっとした?
束の間の空白だ。口直しの珈琲を啜るうちに、些細なことは飲み干されていく。
いつの間にか、ピアノの歌は聞こえなくなっていた。無音の店内を、カトラリーの揺れる囁きだけが木霊する。
「……また、来ちゃいました」
確信があった。きっとマスターもそろそろだと思っていると。
凪いだ空気に誘われて、あんなは本題を切り出した。
「ええ。準備だけはしておりましたよ。お客様のご来店は苦悩の証明ではありますが、その出会い自体はとても貴重で、喜ばしいことです」
この前とは違い位置は離れている。しかし他に客はおらず、声量を気にする必要はなかった。
「今日、初めてちゃんと依頼を受けたんです」
「それはおめでたい。差し支えなければ、どういった方からかお聞きしても?」
「ジュンジュン・コマッツ先生です」
「ほう! あのジュンジュンコマッツですか」
「知ってるんですか!」
思わず振り向いた。
まだ売れっ子作家には程遠い卵なはずなのに? 疑問と喫驚を表情に湛えていると、結論はすぐに出た。
「……もちろんです。彼の論文は大変興味深く、」
「漫画家です」
「……そうでした。コマッツジュンジュンの作品は、」
「ジュンジュン・コマッツです」
「……ジュンジュンコ・マッツさんの、」
「ジュンジュン・コマッツです」
なんで変に区切ったんだろう。
ともかく、タクミは嘘を吐いたようだ。あってはならないことだ。万死に値する。
ジト目を向けるあんなに、店主は冷や汗を拭いた。
「……申し訳ありません。流行りに疎くてはマスターは務まらないと思い、少々見栄を」
「タクミさん、案外子供っぽいところもあるんですね」
彼は微妙な顔のまま、しぃと指を立てた。それでも様になっているのだからさすがだ。
あんなはつまみのように、モンブランを一口ぱくついた。
「お恥ずかしいところを。明智様は嘘がお嫌いなように見えます」
「それはそうですけど。今のは冗談の類じゃ?」
すぐにバレたし、後腐れもないし、何でもかんでも一言目から尽く本当でなければならないとまでは思っていない。でなければ、正直友達などつくれたものではないだろう。
「それに、新しい一面を知れた気がして、嬉しかったです。って、もしかしてこれも計算の内だったり?」
「………………いやはや、明智様の直感は侮れませんね」
「めちゃくちゃ間がありましたね」
見込み違いだったかもしれない。
いや、それすらも彼の想定内? だめだわからない。どこまでも掴めない不思議な店長だ。
「それで、漫画家の依頼人と何かあったのですか?」
「あ……えっと、詳しいことは多分言えないんですけど」
中学生なりに言っていいことを選び取る。特にプリキュアのことは、この憩いの場であっても打ち明けてはならないと心に決めていた。
「なるほど、小松崎様は、明智様の時代では大層ご活躍されているのですね」
「はい! でも……それが今私が悩んでいる理由で」
コツンと、口元を離れたカップが鳴った。
「前にジェット先輩が言っていたんです。未来は絶えず変わるもので、私が頑張らないと未来が悪いものになっちゃうかもしれないって」
相槌はこない。しかしあんなにはわかっている。それはタクミがいつよりも真剣に話を受け止めようとしているときだと。
「あのとき、私はジュンジュンコマッツの未来を守れたんだってはっきり実感しました。だから……だから怖くなっちゃったんです。私の些細な行動一つで、誰かの未来が大きく変わってしまうんだって」
来栖エリザにも上手くいった。自分の経験に基づいて、どうすればいいかを考えて、言葉だけではない救い方を取ることかできた。
だが、全てが同じようにいくとは限らない。
「はじめは実感がわかなくって……。でも、名探偵として戦っていくって、そういうことですよね? 事件を解決できなかったら、傷つく人がいる。失われるものがある。もし、もしこの時代が嘘で覆われたら……」
お母さんとも、会えなくなる……。
ほのかに身震いした。恐怖が伝って、珈琲の水面はさざ波を生み、映るあんなの姿をかき消した。
誕生日パーティーはまだ始まっていない。スマホを買ってもらっていない。
ありがとうって、まだ伝えきれていないのに――
「明智様」
柔らかな声が聞こえた。振り向く余裕はなくて、彼の表情は見えないまま。
「明智様は、お優しいのですね」
「え?」
「私が明智様の立場でしたら、とてもそのようなことを気にする余裕はございません。今日はどう生きよう。何を食べて、何を着て、夜はちゃんとよく眠れるだろうか。それだけで精一杯になってしまうでしょう」
ですが、とタクミは続けた。
「今になって思うのです。それも良かったのではないかと」
「でも……」
「今日という日は、未来のためにあるのではありません。ちょっとしたことを喜び、悲しみ、そうして、誰かと出会うためにあるのです」
カウンターの向こうで、珈琲を準備する音が聞こえる。
「よかれと思ったことが凶兆になるかもしれない。救った誰かが、別の誰かを不幸にするかもしれない。そんな『もしも』に囚われて、明日のために犠牲にする今日の積み重ねは、とても寂しいものですよ」
「じゃあ、未来のことは考えるなってことですか? でも私は……私が生きているのは未来なんですっ。私の居場所はここじゃない」
柄にもないことを言った。あたかもこの時代に生きる人を突き放すように、この時代でできた人の繋がりを蔑ろにするように。
しかしそれは、あんなの確かな弱さであり本心であり、キュアット探偵事務所の仲間にはおくびにも見せることのできないマコトだった。
「未来は創るものですよ、明智様。夢見る少女に手を差し伸べたのは、未来の顔色を窺ったからですか? しがない漫画家の原稿を追いかけたのは、未来が約束されていたからですか?」
「それは……」不安だけど、俯いた先にあったスイーツの甘さが目についた。「違います。私は、そんなもののために名探偵になったんじゃない」
「そうでしょうとも。明智様は自分を知っています。あなたは間違いなく、彼らの“今”を見て選択したはずです。目の前で苦しむ人を思いやれる優しさと強さが、あなたにはあります。だから、大丈夫です」
ふと、その言葉尻が違う方へ発された気がした。
心当たりがあったあんなは、タクミに釣られてもう一度月を見た。
光は、柔らかい。
「明智様の居場所はこの時代ではないかもしれません。しかしそれは、あなたに責任が生まれる理由にはならない。あなたは確かにここにいます。この時代を楽しんでよいのです。友達と遊んでいてもよいのです」
タクミは、きっと微笑んだ。
そう、きっと、いつもの笑顔だった。
「たとえタイムスリップをしたとしても、明智様は変わりません。笑顔が素敵な、普通の女の子ですよ」
背中を撫でる言葉たちは、ただただ優しくて、自然で、温かくて。じんと目頭が熱くなる。
なんてことないように、はっきりと言うものだから、本心なのだとすぐにわかる。
きゅっと口を結んで、鼻がつんとするのを誤魔化したくて、モンブランを雑に頬張った。
……あぁ、美味しいな。
「なんですか、ソレ」
もう一口、また一口、さらに一口――
おいしい、おいしい、おいしいよぉ……。
「普通なわけ、ないじゃないですかっ。タイムスリップだし、名探偵だし。こんな奇跡、意味があるに……決まってるじゃ、ないですか」
なのに、この人は、意味を求めなくていいと言ってくれた。
私のこと、普通だって言ってくれた。
たったそれだけのことなのに、肩の荷がふっと下りた気がして。胸の奥がぽっと温かくなって。
――嬉しかった。
「…………いですか」
この時代を背負わなくていいのなら。何でもない時間を過ごしてもいいのなら。
一歩、踏み出してみよう。
「また、
短い沈黙が包んだ。
おそるおそる振り返る。
マスターは目を瞬かせ、やがて決意したような表情で静かに応えた。
「
その一言で、やっと心が軽くなった。
すると、カウンターの向こうにも湯気が昇り始めた。
「当然、誰かとのんびり珈琲を味わっていてもよいのですから」
「わあ……! 一緒に飲んでくれるんですか!」
やっぱりあんなは、一人より誰かといるほうが好きだった。
みくると名探偵をするのが好き、ジェットも巻き込んでご飯を食べるのが好き。これまで以上に、純粋にそれを楽しめる気がした。
そして、彼と時間を分かち合うことも。
「あ、モンブランさっき食べ終わっちゃいました……」
「おかわりをご用意しますよ。当店では正真正銘ノンカロリーですので、遠慮なさらず」
「おお〜〜、やったー! じゃあじゃあ、それも一緒に食べましょうよ!」
「え……み、魅力的な提案ですが、もう一品となると、その、予算が……」
「なら半分こしましょう! お母さんとしたときも、はなまるおいしかったので!」
「……明智様には敵いませんね。他のお客様もおりませんし、いくらでもお付き合いいたしますよ」
今夜は閑古鳥が鳴いていてよかった。タクミの返しを聞いてそう思う。
あんなは席を移動する。前と同じ席――うん、ここがいい。店内も月も、マスターも、よく見える。
客と店主に過ぎない関係。それでもほんの少し、ほんの少しだけ、心の距離は動いた気がした。
緩やかに延びる薄白い帯は、今は二つ並んで延びている。
今週はリアルが追い詰められた結果日曜日になりました。今後もそうなります。
なんとか週一で投稿していかないと、途切れたら戻せないような気がして…エクレール編まではある程度流れは決まっているのでそこまでは頑張りたい。
ところでみなさん、あんなちゃんにはお姉ちゃん適性もあると思いませんか?
本編でもときたま垣間見えるんですが、年下に対してあんなちゃんはわりとかっこいい表情をするので、外では「お姉ちゃんに任せて!」って感じで色々助けてくれそう。
でも家とかリラックスしてるときはふにゃふにゃしてて、めちゃくちゃ愛でてくれそう。愛でてください。
あー、あんなちゃんの弟・妹になった人は超お姉ちゃんっ子になるんだろうなあ! お姉ちゃんに憧れて真っ直ぐに育っていっぱい偉い偉いよしよしされるんだろうなあ羨ましい!
あとあれです。一緒に寝るときおなかポンポンしてほしいとかは望みたいけど我慢するから一緒にいただきますしたい。お互いの苦手なもの交換し合ってお母さんにたしなめられて笑い合うんだ。そして最後にはしーって小声で言われてこっちの苦手なやつだけ持ってって「これは交換じゃなくて、私が勝手に食べちゃっただけだから!」って言ってくれるんだ!
そうだ、一緒にもちもちあけちごっこしようよあんなお姉ち
※拙作であんなちゃんの弟・妹の登場は予定していません