泣き虫魔女の夜想曲 作:匿名希望
鋼鉄の間に響いたのは、乾いた呪文の詠唱と、ガラスが割れるような鋭い破裂音だった。
「――愚かな。己の分際もわきまえぬか、団長殿」
黒衣の魔女が、冷淡な嘲笑を浮かべて杖を振るう。
漆黒の煙が渦を巻いてヴェルナー・フォン・ラントフリートを包み込んだ。
歴戦の騎士団長である彼は、無数の死線を潜り抜けた老練の猛者だ。
魔術の気配を察知した瞬間にはすでに剣の柄に手をかけていたが、奔流のような呪詛の光は防壁を容易く穿ち、彼の全身を直接貫いた。
全身を焼かれるような熱のあと、激しい浮遊感と縮小の感覚が訪れた。
(……何だ、これは……?)
ヴェルナーは姿勢を立て直そうと地面に足を踏ん張ったが、世界が妙に高い。
いや、自分が低くなっているのだ。
足元を覆っていた重厚な鉄のグリーブが、ガラガラと空洞の音を立てて床に崩れ落ちた。分厚い鋼鉄の足甲の中は、すっかり空っぽになっていた。
彼の肉体は、一瞬にして音もなく縮小していた。
まず変化したのは骨格と筋肉だった。
長年の鍛錬によって鋼のように引き締まり、無数の古傷が刻まれた筋骨隆々の巨体が、まるで雪解けのように急速に小さくなっていく。
硬質な骨がしなやかに形を変え、分厚い胸板や太い腕は細く華奢な少女のそれへと変貌した。
地面に突っ伏した彼の背中から、漆黒の魔力に満ちた二本の大きな、しかし悪戯っぽい三つ編みの髪が床を這うように伸びていく。
栗色の髪は絹糸のように柔らかく、かつての無骨な短髪の面影すらない。
衣服の変化はさらに劇的だった。
身体が縮んだことで、かつて「鉄壁の獅子」と称された彼を包んでいた重装甲はすべて巨大な殻と化し、その場に崩れ落ちた。
身にまとっていた軍服や革のベルトも瞬く間に余り、だらしなく床に堆積する。
残されたのは、魔女の呪詛が紡ぎ出した新たな衣服――深い夜の闇を思わせる漆黒のドレスと、足元を飾る小さな黒い革靴だけだった。
ドレスの裾には星屑のような銀の刺繍が施され、無骨な軍人の衣装とは対極にある、繊細でどこか不気味な気品を漂わせていた。
しかし、最も恐ろしい変化は、肉体や外見ではなく、その内部――精神と感情の領域で起きていた。
(……私は、ヴェルナー・フォン・ラントフリート。帝国の防衛線を……守らねばならぬ……)
思考の端で、歴戦の騎士団長としての意志が必死に叫んでいた。
しかし、その声は急速に薄れていく。
脳の構造が、ホルモンのバランスが、神経の伝達物質が、すべて「十歳の少女」のそれに強制的に書き換えられていくのだ。
「ひっ……!?」
ふと、自分の喉から漏れた声の高さに、ヴェルナー――いや、彼女は我が耳を疑った。
それは低く野太い、戦場の号令ではない。
鈴を転がすような、あまりにもかよわく、透き通った少女の声だった。
直後、内側から押し寄せるように、未知の感情の濁流が彼女の脳髄を直撃した。
これまで何十年もの間、鋼鉄の意志と冷徹な理性で押し隠し、麻痺させてきた「恐怖」や「孤独」という感情が、未熟な肉体の感受性と結びつき、一気にダムを決壊させたようにあふれ出したのだ。
足元に転がる巨大な鉄の塊――さっきまで自分が身につけていた鎧の残骸を見ただけで、胸の奥が締め付けられるような激しい動悸が走った。
(怖い……あんな重いものが落ちてきたら、潰されてしまう……!)
かつては数トンの瓦礫の下からすら生還した男が、いまや自分の脱ぎ捨てた装甲の山を見るだけで、恐怖で全身を震わせている。
「お、おのれ……魔女……!」
立ち上がろうと小さな両手を床についたが、その手のあまりの小ささ、柔らかさに愕然とする。
タコができ、剣の柄で硬くなっていたはずの掌は、まるでマシュマロのように滑らかで、白い。
さらに、視覚、聴覚、嗅覚といった五感が、かつてとは比較にならないほど鋭敏に拡張されていた。
部屋の隅を這う蜘蛛の足音までが耳障りなほど大きく聞こえ、魔女のまとう毒のような香水の匂いが鼻腔を激しく刺激して頭痛を誘発する。
過敏になった感覚神経が世界をあまりにも鮮明に捉えすぎて、脳が処理しきれない。
「ふふ、よく似合っているわよ、団長殿。その小さな体には、さぞや世界が広く、そして恐ろしく感じられることでしょうね」
魔女が冷酷な笑みを浮かべ、小さな靴に怯える少女を見下ろした。
ヴェルナーは歯をくいしばろうとしたが、幼い顎と歯並びではそれすらも様にならない。
目頭が熱くなり、意図しないところで、ぽろりと大粒の涙が頬を伝い落ちた。
悔しさではない。
恐怖でもない。
ただ、肉体年齢相応に改変された情緒が、あまりの環境の変化と圧倒的な無力感に耐えかねて、自然と涙を流させているのだ。
(私が……こんな、子どもに……?)
冷徹無比だったはずの騎士団長の胸のなかで、幼い少女の心細さが激しく波打ち、彼女は小さく肩を震わせながら、崩れ落ちた自身の鎧のなかにうずくまるしかなかった。