泣き虫魔女の夜想曲 作:匿名希望
冷酷な魔女の城の一室に仮設された書斎とも実験室ともつかない空間で、ヴェルナーは床に投げ出された自身の巨大な鎧を見つめたまま、膝を抱えて小さく震えていた。
十歳の少女の身体に宿った情緒は、未だに荒れ狂う嵐のなかにいるようだった。
少しでも気を抜けば、溢れ出る涙が止まらなくなりそうなほどの過敏な感性が彼女を支配している。
「――驚いたねえ」
そこに、乾いた足音が響いた。
先ほど彼女を幼児化させた黒衣の魔女ではなく、部屋の隅で書物を整理していた初老の魔術師――この城の筆頭顧問である老法師が、驚愕と、奇妙な興味が入り混じった眼差しをこちらに向けていた。
老法師の手には、魔力測定用のクリスタルが握られており、それは眩いほどの蒼い光を放って脈打っている。
「どういうことだ、老いぼれ」
ヴェルナーが睨みつけようと顔を上げたが、その声音は鈴を鳴らすように澄んでおり、凄みを効かせようとしても、ただすねた少女が怒っているようにしか聞こえない。
彼女は内心で激しく歯噛みした。
「見た通りさ、団長殿。いや、今は何と呼ぶべきか……まあいい。君の体から検出された魔力の総量、そして魔力回路の質。それは、我らの一流の魔導師すら凌駕するほどの特級の適性だ。
いや、正確には、『長年の酷使によって凝り固まった武人の気と肉体が、魔力回路の巨大な詰まりになっていた』らしいな。
体が幼児化したことで肉体の呪縛が解け、秘められていた素質が全開になったというわけだ」
老法師は感心したように髭を撫でた。
「長年、剣一本で帝国を支えてきた男が、実はこの世のどの魔法使いよりも魔法の才能に満ちていたとは皮肉な話だがね。
……どうだ、ヴェルナー。もう一度、元の体に戻る方法を探すか? それとも、その身に満ちる莫大な魔力を制御する方法を学ぶか?」
元の体に戻る方法は、今のところ魔女の気まぐれ以外にない。
ならば、選択肢は一つしかなかった。
このまま無力な小娘として命を握られているよりは、自らの手で力を得る方が、騎士としてのプライドに――いや、生き残るために必要だった。
「……やり方を変えればいいのだろう。教えろ、その魔法とやらを」
ヴェルナーは震える小さな拳を握りしめ、覚悟を決めたように言った。
その目には、かつての歴戦の団長に宿っていた不屈の闘志が確かに光っていたが、濡れた睫毛のせいで、やはりどう見ても泣き出しそうな少女のそれにしか見えなかった。
こうして、かつて剣の道を極めた男の、まったく異なる理をめぐる過酷な「初学」の日々が幕を開けた。
第一段階:魔力の感知と精神の調律
最初に課されたのは、呪文の詠唱でも魔導書の読解でもなかった。瞑想による「魔力の循環」である。
石造りの冷たい床に胡坐をかかそうとして、ヴェルナーは自分の足があまりにも短く、柔らかいため、かつての姿勢が全く取れないことにまず苛立った。
(くっ……身体の重心が定まらん……!)
「力を抜け、ヴェルナー。筋肉の力みで魔力をねじ伏せようなどとは愚の骨頂だ。魔法とは、世界の理と対話し、それに寄り添う行為だよ。
特に君のように莫大な魔力を秘めた者は、少しでも焦燥や恐怖に心を乱されれば、その魔力が暴発して自ら吹き飛ぶことになる」
老法師の厳格な指導のもと、ヴェルナーは目を閉じ、呼吸を整えた。しかし、これが至難の業だった。
十歳の少女の肉体は、神経が常に剥き出しのように外界の刺激を敏感に拾ってしまう。
窓の外を吹き抜ける風の音、部屋の隅で灯る蝋燭の微かな爆ぜる音、さらには自分自身の心臓が早鐘のように打つ鼓動さえもが、脳にダイレクトに響いて集中をかき乱す。
(落ち着け……私はヴェルナーだ……防衛線を死守した夜の静けさを思い出せ……)
心の中で自分を叱咤するが、未熟な情緒は「暗い部屋で一人ぼっちにされている」という本能的な恐怖をじっとりと滲ませてくる。
心細さに鼻の奥がツンと痛み、思わず瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。それを老法師に見られてはまいあと、ヴェルナーは小さく袖で乱暴に涙を拭った。
「――そうだ。胸の奥に、冷たくも熱い泉があるのを感じろ。それを無理に動かすのではなく、せせらぎの如く全身の血管と神経の隅々まで流し込むのだ」
言われた通りに意識を集中させると、かつて経験したことのない奇妙な感覚がヴェルナーを襲った。
体内の血潮とは違う、もっと微細で、光の粒のようなエネルギーが、自身の細い血管や神経の通る道を縫うように巡っていく。
それは熱を帯びた絹糸のようであり、同時に鋭利な刃物のようでもあった。
「ぐっ……!」
あまりの感覚の鮮明さに、ヴェルナーは思わず小さく呻き声を漏らし、両手で床を引っ掴んだ。
あまりに多すぎる魔力が、まだ未発達な彼女の神経回路を焼き焦がしていくような錯覚を覚える。
かつての頑健な肉体であれば、多少の魔力の偏りなど筋肉の密度と気合でねじ伏せることができた。
しかし、この華奢な器においてそれは不可能だった。
力でねじ伏せるのではなく、包み込むように、宥めるようにコントロールしなければ、自分の魔力に我が身が押し潰されてしまう。
「そうだ、その調子だ。恐怖を受け入れろ。恐怖を抱えたまま、それでもなお理を保つことこそが、魔法使いにとっての『強さ』なのだからな」
第二段階:初歩の形代と属性の模索
数日間の基礎訓練を経て、ヴェルナーは小さな木製の球体を目の前に置かれていた。
いよいよ実際の術式行使、いわゆる「魔法の形代作り」の段階である。
「剣を振るうように魔力を一点に集中させ、形にしろ。
君が得意とするのは、やはりその圧倒的な魔力を質量に変えて放つ『重力・物理干渉系』か、あるいは鉄血の意志が形作る『炎・雷系』だろうね」
ヴェルナーは小さく息を吸い込み、目の前の木球に神経を集中させた。
頭の中では、剣閃を走らせる要領で魔力を右手の掌へと収束させていく。だが、かつての感覚のままで魔力を込めようとすると、量が多すぎるのか、コントロールがわずかに揺らいだ。
「っ……!」
バチバチ、と青白い火花が彼女の白い指先から散った。
魔法の制御に失敗したショックと、指先がピリッと痺れた痛みに、ヴェルナーの脳裏反射は瞬時に反応した。
(痛っ……!? い、痛い……っ!)
大人であれば「かすり傷だ」と無視できる程度の刺激なのだが、情緒が肉体年齢相応に引き戻されている彼女にとって、それは予想外の衝撃だった。
目に涙をいっぱいに溜め、唇をギュッと噛み締めて耐えようとするが、こらえきれずに「ひっ……ぐすっ……」と、かよわい嗚咽が喉から漏れてしまった。
老法師が呆れたような、しかしどこか面白がるような目を向ける。
「おや、歴戦の団長殿ともあろう者が、指先の静電気ごときで泣きそうな顔をするとはね」
「うるさい……! 黙れ、老いぼれ……!」
怒鳴ったつもりの声は、やはり鈴を転がすような美しい抗議の響きにしか聞こえず、かえって可愛らしさを際立たせてしまっている。
ヴェルナーは自分の声の情けなさに顔を真っ赤に染め、恥ずかしさと悔しさでさらに涙をこぼした。
(くそっ……なんだこの体は! 感情が勝手に表に出てきやがる……!)
しかし、この「怒り」と「悔しさ」という強烈な感情の揺らぎが、逆に彼女の体内の魔力を劇的に活性化させた。
ヴェルナーの中で、かつての戦場で培った「絶対に負けないという執念」と、今現在の「この情けない状態から何としても這い上がってやるという執念」が混ざり合う。
「……見せてやる」
彼女は再び木球に手をかざし、先ほどよりも緻密に、そして優しく魔力を流し込んだ。
今度は力任せではない。
荒ぶる奔流を、まるで手綱を引くように、少女のしなやかな指先で丁寧にコントロールしていく。
次の瞬間、ヴェルナーの掌から放たれた高密度の魔力が、木球を包み込んだ。
爆音も、派手な炎も上がらなかった。
ただ、音もなく、木球の周囲の重力が何百倍にも跳ね上がり、コンマ数秒の間に木球は粉々に圧縮され、さらには摩擦熱によって一瞬で黒煙すら残さずに消し飛んだ。
静まり返った実験室に、微かなオゾン臭だけが漂う。
ヴェルナーは荒い息を吐きながら、自分の小さな両手をじっと見つめた。
それは確かに魔法だった。
剣を振るうのとは違う、より深淵で、より絶対的な理の行使。自身の内なる魔力が、世界そのものを書き換えたのだ。
「……ふむ」
老法師がゆっくりと拍手をした。
「見事だね。初歩の形代作りで、対象を完璧に空間圧縮・消滅させるとは。流石は元・団長殿といったところか。理の飲み込みが異常に早い」
ヴェルナーは額に滲んだ汗を手の甲で拭い、まだ微かに震える足をしっかりと床につけて立ち上がった。
かつての巨体と鋼の鎧はもうない。
今の彼女にあるのは、夜会ドレスを纏った頼りなくも美しい十歳の少女の肉体と、そして――誰よりも強大な、底知れぬ魔導の才能だった。
「……まだ基礎の基礎だろう」
ヴェルナーは潤んだ瞳をキッと鋭く細め、声音を精一杯低く作って言い放った。
「私をこんな姿にしたあの魔女にこの力を叩き込み、元に戻るための次の術式を教えろ、老いぼれ」
その姿は、圧倒的な強者としての気概と、守ってやりたくなるような少女の危うさが奇妙に同居しており、老法師は苦笑しながら深く頷くのだった。