泣き虫魔女の夜想曲 作:匿名希望
黒衣の魔女の城に幽閉されてから、どれだけの月日が流れたか、ヴェルナーが十歳の少女の肉体に閉じ込められてから、その時の流れの感覚は曖昧になっていた。
かつて「鉄壁の獅子」と称されたヴェルナー・フォン・ラントフリートは、もはやその名前すら過去の遺物として彼女自身の内側から薄れつつあった。
鏡に映るのは、星屑を散ばらせた深い夜の色のドレスを纏い、艶やかな栗色の長髪を美しく三つ編みに結った、息を呑むほどに端正な少女の姿だ。
その瞳は、冷徹な理知と、底知れぬ魔力を宿した深い紫紺の輝きを放っていた。
「――見事なものだね、ヴェルナー」
城の最奥、広大な儀式の間。
筆頭顧問の老法師は、感嘆と、そしてどこか恐れを含んだ眼差しで目の前の少女を見上げていた。
もはや彼は、かつての部下や客人に対するような態度をとらない。
そこにあるのは、圧倒的な格上の存在に対する畏敬の念だった。
ヴェルナーの周囲には、何十もの複雑怪奇な魔方陣が複雑な幾何学模様を描いて浮遊している。
呪文の詠唱すらない。
彼女がわずかに指先を動かすだけで、空間の密度が変わり、周囲の重力が自由自在に操られ、さらには分子結合そのものが彼女の意志のままに組み替えられていく。
「……私の魔力制御は、これで完璧か?」
ヴェルナーが問いかける。
その声は、かつての野太い号令の面影は微塵もなく、鈴を転がすように美しく、しかし底冷えするような威厳を帯びていた。
「ああ。君の持つ魔力の総量は、もはやこの国のいかなる大魔導師をも凌駕している。
空間魔術、精神干渉、そして物理概念の書き換え……どれをとっても、君はすでに『天才魔女』の名に恥じない領域に達した」
老法師は小さくため息をつき、一通の黒い封蝋が押された書状を差し出した。
「そして、主からの言伝だ。『お前にもはや教えるべきことは何もない。今日をもって、この城を去るがいい』とね」
魔女からの「卒業」を告げられた瞬間、ヴェルナーの胸を去来したのは、奇妙なまでの焦燥感と、そして言いようのない気恥ずかしさだった。
(私は……自由になる。あの魔女の支配から逃れ、元の体に戻る方法を、自分の力で探すことができる……)
頭ではそう理解し、かつての騎士団長としての誇りが歓喜の声を上げるはずだった。
しかし、今の彼女の肉体と情緒は、その決定をまったく異なる受け止め方をした。
「……っ……」
ふと、自分の小さな両手を見つめ、ヴェルナーはわずかに身を震わせた。
一人でこの城を出て、広大な外の世界に放り出される――その想像をしただけで、十歳の少女の未熟な感性は、耐え難いほどの孤独と不安の波濤に呑み込まれた。
かつての彼女であれば、未知の領域への進出など武者震いの対象でしかなかったというのに。
(怖い……? 私が、たった一人で外の世界に出るのが怖いというのか……?)
風が城の窓を叩く音が、やけに大きく耳に響く。
暗闇に対する本能的な恐怖、自分の足場がなくなるような不安定感。
魔女としての強大な力を手に入れたというのに、心の内側では、かよわい少女が毛布にくるまりたがるような衝動がうず巻いている。
「ふん……何を臆病風に吹かれている。私はヴェルナーだぞ。帝国を救った……」
そう自分に言い聞かせようとしたが、その声があまりにも美しく、か弱い少女の響きであることに気づいて、彼女は自分で自分の頬を両手で覆った。
熱い。恥ずかしさと、どうしようもない情緒の揺らぎで、顔が真っ赤に染まっている。
かつての冷徹な老騎士の人格と、十歳の少女の過敏な感情がせめぎ合うこの頭脳は、いつまで経っても慣れることがなかった。
数刻後、ヴェルナーは城の重厚な大扉の前に立っていた。
背中には、かつて自分が脱ぎ捨てた巨大な鉄の鎧が、まるで記念碑のようにぽつんと残されていた。
もはやあんな重苦しい鉄の塊を纏う必要などない。
彼女の身にあるのは、自ら紡ぎ出した最強の魔力と、星屑のドレスだけだった。
「……行くか」
彼女は小さく息を吸い込み、ヒラリと漆黒のマントを翻した。
城の門を跨いだ瞬間、外の世界の膨大な情報が一気に脳髄へと流れ込んできた。
森のざわめき、遠くを飛ぶ鳥の羽音、冷たい夜風の匂い。すべてが生々しく、鋭敏すぎる感覚が彼女の心を揺さぶる。
思わず足がすくみそうになり、瞳の端に涙がにじんだ。
しかし、ヴェルナーはその小さな拳を強く握りしめ、震える唇をぐっと噛み締めて前を向いた。
(見ていろ、魔女め……。
この圧倒的な力と、この……忌々しくも繊細な少女の身をもって、私の求めるすべてを掴み取ってみせる!)
夜の闇に溶け込むように、少女の姿は一筋の光の軌跡を残して消えていった。
最強の魔導の才能と、少女の繊細な心をその身に宿した「天才魔女」の、あまりにも波乱に満ちた独り立ちの旅が、いま、静かに幕を開けたのだった。