泣き虫魔女の夜想曲 作:匿名希望
黒衣の魔女の城を旅立ってからの日々は、ヴェルナー・フォン・ラントフリートにとって、かつての軍人としての人生とは全く異なる、狂おしくも鮮烈な世界の連続であった。
広大な大陸を股にかける旅は、十歳の少女の肉体を持つ彼女にとって、物理的な試練というよりも、過敏すぎる五感と情緒の波濤との絶え間ない闘いだった。
馬車の車輪がきしむ音、宿場の雑踏が発する喧騒、夜の森に響く獣の遠吠え。
すべてが神経を直接逆なでるように響き、かつての老騎士の強靭な意志と、少女の脆く繊細な感受性とが、常に脳内で激しくせめぎ合っていた。
ある夜、深い森林地帯で野営を余儀なくされた時のことだ。
焚き火の微かな爆ぜる音を聞きながら、ヴェルナーは木の根元に膝を抱えて小さく丸まっていた。
夜風が冷たく吹き抜けるたび、肌を刺すような寒さと、誰もいない闇に包まれているという本能的な恐怖が胸の奥を締め付ける。
(……馬鹿な。私はかつて、泥沼の戦場で数日間の野営など平然とこなしてきた男だというのに……)
震える両腕で自分の肩を抱きしめながら、彼女は歯噛みした。
しかし、どれほど心の中で歴戦の団長としての記憶を呼び起こそうとも、今の肉体と神経は「暗闇に怯える孤独な少女」のそれとして正直に反応してしまう。
鼻の奥がツンと痛み、大粒の涙がポロポロと頬を伝い落ちた。
「……っく、だめだ……また、すぐに涙が出る……」
悔しさに唇を噛み締めながら袖で乱暴に涙を拭う姿は、どう見ても強大な魔導の才を持つ天才魔女のそれではなく、ただ夜を恐れる幼子のようだった。
しかし、その内側で渦巻く魔力は、彼女の情緒の揺らぎに呼応するかのように、青白い星屑のような光を纏って不気味に、そして美しく明滅していた。
ヴェルナーの旅の主な目的は、自らをこの姿に変えた呪いの解析と、元の肉体へ戻る、あるいはその変異を完全に制御・克服するための「古層魔術」の探求にあった。
彼女は各地の魔導都市や忘れ去られた古代遺跡に足を踏み入れ、誰も解読できぬまま眠っていた禁忌の魔導書を次々と紐解いていった。
ある古の地下図書館でのこと。
ヴェルナーは、天井まで届く無数の古い巻物に囲まれ、重厚な机の前にちょこんと座っていた。
足が床に届かないため、椅子の上で器用に足を組んでいる。
その姿は学者というよりも、書斎に迷い込んだ貴族の令嬢のようだったが、彼女が放つ魔導の気配は周囲の空気を凍らせるほどに鋭敏だった。
「――なるほど。この術式は、肉体の物質構造を呪詛によって一時的に固定し、精神の波長を強制的に書き換えるものか」
彼女の小さな指先が、何百年も前の古文書の黄ばんだページをなぞる。
かつては分厚い手袋をして剣の柄を握っていたその手は、今や絹のように滑らかで、インクの染み一つない透き通るような白さだった。
しかし、その眼光はかつての軍略家そのものであり、複雑怪奇な多重呪文の構造を一目見ただけで完全に脳内へ焼き付け、その矛盾点や脆弱性を的確に見抜いていく。
「単純な解除呪文では元に戻らん。
呪詛の基盤となっているのは、私の肉体が持っていた『長年の疲労と老化の蓄積』そのものだ。
つまり、あの魔女は私の肉体を若返らせたのではなく、『不純なものをすべて削ぎ落とし、純粋な魔導の器に強制適合させた』ということか……!」
真実に行き着いた瞬間、ヴェルナーは思わず息を呑んだ。
もし仮に今の姿が、自身の肉体が本来秘めていた「純度」の具現化なのだとしたら、元の不格好で老いぼれた肉体に戻ることの意義は一体何なのだろうか。
そんな冷徹な哲学的一考が頭をよぎったが、すぐに十歳の少女としてのプライドと怒りがそれをかき消した。
「ふざけるな……。男のプライドを踏みにじり、こんなかよわい小娘の姿のまま生きるなど、私の尊厳が許さん……!」
怒りに任せて彼女が小さく手を振るうと、机の上の燭台が音もなく微粒子へと分解され、空間の彼方に消え去った。
その圧倒的な魔力の行使に、図書館の隅に隠れて様子を窺っていた魔導士の群れが、恐怖で息を絶句し、音を立てずに逃げ去っていくのを感じた。
冒険の果てにあるもの
魔女としての名声は、彼女の意図とは裏腹に、瞬く間に大陸全土へと広がってい動いていった。
「星屑のドレスを纏い、神出鬼没に古代遺跡を荒らす謎の天才少女魔女」
「一撃で都市を覆う結界を粉砕する、容姿端麗にして冷酷非道の魔道士」
人々は彼女を畏れ、敬い、そして遠ざけた。
ある日、依頼を受けて討伐に向かった凶悪な魔獣の巣窟にて。
ヴェルナーは、巨大な牙を持つ魔獣の群れを前にして、静かに宙に浮いていた。
漆黒のマントが夜風に翻り、彼女の涼しげな紫紺の瞳が冷たく獲物を見据える。
「……私の邪魔をするな」
詠唱すらない。
彼女が指先を軽く一瞥した瞬間、重力の法則がその空間一帯で完全にねじ曲げられた。
魔獣たちは自らの体重の数千倍の重力に押しつぶされ、一鳴きすらあげることもなく、地面へとぺしゃんこに平滑化されていく。
戦闘は一瞬で終わった。
周囲に静寂が戻ると、ヴェルナーはふっと小さく息を吐き出し、地面に降り立った。
戦闘の緊張が解けた途端、急に周囲の森の暗さと、しじまの深さが彼女の神経を刺激し始めた。
(……はぁ、やっぱり……夜の森は、不気味で嫌だ……)
先ほどまでの圧倒的な破壊の神のごとき威厳はどこへやら、ヴェルナーは小さく肩を震わせ、早足で自らの野営地へと急いだ。
強い力を行使すればするほど、その反動として心細さが倍増するというこの奇妙な体質は、いくら年月を経ても改善されそうにない。
しかし、彼女はその矛盾を抱えながらも、決して歩みを止めようとはしなかった。
強大な魔導の理を極め、いつの日かあの傲慢な魔女の鼻をあかし、完全な勝利を掴み取るその日まで――。
天才魔女ヴェルナーの、誇りと恥じらいに満ちた孤独な旅は、今日も星々の下で続いていく。