泣き虫魔女の夜想曲 作:匿名希望
大陸を巡る長き旅の果て、ヴェルナー・フォン・ラントフリートは、かつて自分が生を享け、そしてすべてを剥ぎ取られた因縁の地――黒衣の魔女が君臨する城の麓へと戻っていた。
空には群青色の闇が広がり、満天の星々が冷たく鋭い光を放っている。
城の尖塔を見上げるヴェルナーの姿は、数年前と何一つ変わっていなかった。
星屑の刺繍が施された漆黒のドレスを纏い、艶やかな栗色の三つ編みを垂らした、美しくもどこか儚げな十歳の少女。
しかし、その内面に宿る魔力の密度は、もはや当時とは比較にならないほどの深淵に達していた。
彼女は城へ直行するのではなく、その麓にある静寂に包まれた湖畔の岩場に腰を下ろしていた。
水面に映る月明かりを眺めながら、彼女はこれまでの数年間を静かに回想していた。
(……私は、何を求めていたのだろうか)
かつての彼女――歴戦の騎士団長ヴェルナーであれば、その問いに対する答えは一つしかなかった。
国家への忠義、武人の誇り、そして失った肉体と強靭な膂力の奪還。
それ以外の選択肢など存在しないと信じて疑わなかった。
かつての分厚い鋼鉄の鎧、無骨な大剣、男としての威厳と社会的地位。
それこそが自分のアイデンティティであり、守るべきすべてだったはずなのだ。
しかし、この十歳の少女の肉体で過ごした日々と、魔導の極意に触れた研鑽の旅は、彼女の脳髄と魂の前提を根底から揺さぶり続けていた。
常に剥き出しの神経で世界を捉え、風の音や闇の深さに怯え、ふとした拍子に涙をこぼしてしまうこの過敏な情緒。
一方で、かつての肉体では決して届かなかった、空間の理を捻じ曲げ、分子そのものを操る圧倒的なまでの全能感。
剣を振るうことでは決して得られなかった「世界の真理に触れる歓喜」が、確かにこの小さな手の中にあった。
「……愚かなことだ」
ヴェルナーは小さく呟いた。
その声は鈴のように美しく、夜の静寂に溶けていく。
彼女は自分の両手を目の前に掲げ、月光にかざした。
タコも傷跡もない、マロニエの実のように滑らかで白い指先。
かつての男のゴツゴツとした手からすれば、あまりにも頼りなく、かよわい手だ。
しかし、その小さな掌のなかに集中させたわずか一点の魔力で、彼女は一瞬にして山をも穿つほどの空間崩壊を引き起こすことができる。
肉体的な「強靭さ」は失われた。
だが、魂と精神の次元において、彼女はかつての老騎士をはるかに超越した存在へと進化していた。
(もし……仮に今、あの魔女が目の前に現れ、『元の、あの老いぼれた男の肉体に戻してやろう』と言ったとしたら――私は、どうする?)
脳裏にその仮定を思い浮かべた瞬間、ヴェルナーの心に奇妙なほどの冷徹な静寂が訪れた。
かつての、泥臭く、常に古傷の痛みに耐え、筋肉の衰えに怯えながら重い鉄の鎧を引きずっていた日々。
あの退屈で無骨な人生へ戻りたいか?
答えは、驚くほど明確だった。
「……ふざけるな。あんな重苦しいガラクタの山に、もう戻るものか」
ヴェルナーはふっと冷ややかな笑みを浮かべ、夜空を仰いだ。
かつてのプライドや男としての尊厳は、確かに彼女の歴史の一部だった。
だが、今の彼女にとって、それは過去の遺物にすぎない。
理の深淵を覗き込み、星々の軌跡すら我が意のままにするこの天才魔女の人生こそが、いまや彼女のすべてであった。
未熟な情緒に戸惑い、夜の闇や孤独に震えることは、これからも何度もあるだろう。
ふとした拍子に悔し涙を流す自分を、不甲斐なく思う日も続くに違いない。
それでも――。
「この感性も、この魔力も、このかよわい容姿さえも……すべて含めて、これが今の私だ」
ヴェルナーはスッと立ち上がり、漆黒のマントを夜風に翻した。
その瞳には、もはや迷いは一切なかった。
失うことへの恐れでも、元に戻るための執着でもない。
これから自らの手で切り拓く、果てしない魔導の未来を見据える強靭な意志が、そこには宿っていた。
彼女はもう、誰かに戻してもらう必要などなかった。
歴戦の騎士は死んだ。
ここにいるのは、世界をその掌で揺るがす、孤高にして最強の魔女――ヴェルナーである。
「さて……」
彼女は夜の闇の向こう、黒衣の魔女が待つ城の方角へと言葉を紡いだ。
「私をこんな姿に変えたことへの礼と、これからの挨拶をしてやるとしようか」
星屑のドレスを纏った小さな少女は、音もなく地面を蹴ると、夜空を駆ける一筋の流星のように、圧倒的な魔力の軌跡を残して闇の中へと消えていった。