泣き虫魔女の夜想曲 作:匿名希望
群青の夜空を背にし、黒衣の魔女の城を後にしたヴェルナーは、風に身を任せるように大陸を東へ、まだ見ぬ未知の土地へと歩みを進めていた。
かつての名を捨てることには、不思議と迷いがなかった。
「ヴェルナー・フォン・ラントフリート」という名は、あの古い鎧とともに城の床に置き去ってきたのだ。
あの無骨で、土臭く、血と泥にまみれた男の人生は、あの日の呪詛によって完全に完結した。
今、星屑のドレスを纏い、夜の理をその掌で編む彼女にふさわしい、新しい名前が必要だった。
「――『ヴェルリア』……いや」
唇の端で新しい響きを転がしながら、彼女は夜の林道を歩く。
かつての硬質な声音ではなく、鈴を転がすような、どこか神秘的な響きを持つその名を自分に与える。
月光が栗色の美しい三つ編みと漆黒のマントを照らし出し、孤高の天才魔女の新しいアイデンティティが静かに確立されていく瞬間だった。
名を変え、過去を断ち切り、彼女は新たな都市の門をくぐり、自由気ままな魔導の研究と冒険の日々を送り始めた。
依頼があれば気まぐれに国家規模の結界を修復し、好奇心をそそる古代遺跡があれば、その深部へと単身で踏み込み、圧倒的な空間魔術で障害を木端微塵に粉砕する。
世間は彼女を「星の魔女ヴェルリア」と呼び、畏れと賞賛の入り混じった眼差しを向けた。
本人は周囲の喧騒などどこ吹く風とばかりに、自らの探求欲を満たす優雅な日々を満喫している……はずだった。
ある夜、ヴェルリアは立ち寄った静寂な湖畔の宿で、備え付けられた姿見の前に立っていた。
ふと、数年前から今日に至るまでの自身の姿を鏡に映し、奇妙な違和感を覚えた。
「……待て」
彼女は小さく呟き、鏡に近づいた。
旅を始めた頃から愛用している星屑のドレスの丈を確かめる。
驚いたことに、裾の位置も、袖の長さも、そして自身の身体を包む布地のフィット感も、あの城で初めて呪いを受けたその日の夜から、ミリ単位ですら変わっていなかった。
自分の髪に触れる。
栗色の三つ編みの長さも、質感も、あの時から一切変化していない。
手のひらを広げてみる。
マロニエの実のように滑らかで、柔らかい、十歳の少女のそのままの掌がある。
(どういうことだ……?)
ヴェルリアの脳裏に、冷徹な分析と、同時に言い知れぬ寒気が走った。
あの魔女の呪いは、単に肉体を一時的に幼児化させ、魔導の器へと強制適合させただけではなかった。
彼女の肉体は、「十歳の少女」という不変の状態で完全に固定――あるいは、成長の概念そのものから切り離されていたのだ。
「私は……これから先も、ずっとこのままなのか……?」
かつての男としての人生経験や、何十年もの歳月を生きてきたという知性は、確かに彼女の内側に蓄積されている。
しかし、肉体は永遠に十歳のまま、一ミリたりとも背が伸びず、大人の女性としての成熟を迎えることもなく、ただこの壊れやすいほどの華奢な器のまま、悠久の時間を生き続けることになるというのか。
その事実を完全に理解した瞬間、ヴェルリアの心臓が激しく早鐘を打ち始めた。
魔女としての冷徹な理知が音を立てて崩れ去り、代わりに、これまで心の奥底に封じ込めていた「十歳の少女の情緒」が、堰を切ったように牙を剥いて暴れ出したのだ。
「嘘だ……嘘だ、こんなの……っ!」
ヴェルリアは鏡に両手を突っ張り、信じられないものを見るように自らの姿を凝視した。
外の世界に飛び出し、自分の足で立ち、最強の魔女として生きていけると驕っていた。
しかし、自分の肉体そのものが「時の流れ」から取り残された呪われた人形であると気づいたとき、胸の奥から湧き上がってきたのは、あまりにも強烈な孤独感と、どうしようもない絶望だった。
(私だけが、いつまでもこの姿のまま、取り残されていくというのか……?
誰も私を本当の意味で大人として見てくれない……こんな、こんなかよわい体で、これから果てしない時間を一人で……!)
かつての歴戦の団長であれば、いかなる過酷な運命も歯をくいしばって受け入れただろう。
しかし、今の彼女の中枢を支配しているのは、未知の恐怖と途方もない孤独に耐えかねた、十歳の少女の剥き出しの感性だった。
「ひっ……く……っ!」
喉の奥から、みっともない嗚咽が漏れた。
目頭から大粒の涙がとめどなく溢れ出し、滑らかな頬を伝ってポタポタと床に落ちていく。
誇り高き天才魔女の仮面は完全に剥ぎ取られ、そこにあったのは、ただ夜の暗さと自分の運命に怯え、小さく丸まって震える一人の幼子だった。
誰もいない静かな部屋の中で、ヴェルリアは両手で顔を覆い、しゃくりあげながら声を上げて泣いた。
強大な魔力を持ち、世界の理を自在に操る者であっても、この「変わらない肉体」と「少女の情緒」という残酷な矛盾の前にはあまりにも無力だった。
涙が枯れるまで泣き続けた末、彼女は荒い息を整えながら、赤く腫れた瞳で再び冷たい鏡を睨みつけた。
悔しさで全身が震え、胸が締め付けられるように痛む。
しかし、その涙のなかで、彼女の瞳の奥には再び不敵で、どこか狂気を帯びた強い光が宿り始めていた。
「……ふざけるな……。
私をこんな、永遠の子供の姿に縛り付けたまま、この私がただ絶望して終わると思うなよ、魔女……!」
震える指先を強く握りしめ、ヴェルリアは涙を乱暴に拭い去った。
永遠の少女の肉体だろうと、過敏すぎる情緒の波濤だろうと、すべてを飲み込んで自分の力に変えてみせる。
泣き濡れた顔のまま、彼女は歪んだ笑みを浮かべた。
孤高にして最強の、そして誰よりもワガママで気高き魔女の本当の戦いは、この絶望の夜から、改めて始まったのだった。