泣き虫魔女の夜想曲 作:匿名希望
「星の魔女ヴェルリア」の名は、大陸の魔導ギルドや王宮の書庫において、畏怖と賞賛の代名詞として深く刻まれていた。
彼女が指先をわずかに一瞥するだけで、数千の兵を呑み込む古代の魔獣が空間の圧力で押し潰され、国家の威信をかけた巨大結界すら彼女の気まぐれな指先の遊戯によって霧散させられた。
難攻不落の迷宮を踏破し、誰も解読できなかった禁忌の魔導書を次々と我が物にするその姿は、まさに恐るべき天才魔女そのものであった。
しかし、その圧倒的な噂の裏側で、彼女の本当の姿を知る者は誰もいなかった。
いや、知るはずもなかった。
なぜなら、最強の魔女ヴェルリアの実態は、自分の体に隠された残酷な真実に気付いて以来、夜な夜な枕に顔を埋めてめそめそと泣き暮らす「大の泣き虫」に成り果てていたからである。
夜の帳が下り、静寂が宿の部屋を包み込む頃、ヴェルリアの「本当の試練」が幕を開ける。
彼女はベッドの端にちょこんと座り、自分の小さな両足をじっと見つめていた。
旅を始めてから数年が経過しているというのに、足のサイズは一ミリたりとも大きくなっていない。
もちろん、背も伸びていなければ、大人の女性としての身体的な成熟の兆候すらなかった。
初めて自分の姿を鏡で見た夜に抱いた絶望は、日を追うごとに現実味を増し、彼女の精神をじわじわと蝕んでいた。
(……なんでだ。なんで私は、いつまでもこの姿のままなんだ……)
ヴェルリアは小さく身を縮こまらせ、膝の間に顔をうずめた。
肉体は永遠に十歳の少女のままで固定され、成長することのない呪われた器。
しかし、脳裏に刻まれた記憶と知性は、かつての歴戦の騎士団長としての幾十年分もの歳月をしっかりと保持している。
見た目はかよわい美少女、中身は老練の元軍人、そして情緒は肉体年齢相応に引き戻された過敏な十歳。
この三つ巴の矛盾が、彼女の精神を絶えず内側から引っ掻き回していた。
「ひぐっ……、また……足の先が冷えてきた……」
外の風が窓を叩く。
ただそれだけの音が、今の彼女には耐え難いほどの恐怖となって襲いかかる。
かつての頑強な肉体であれば、冬の野営であっても気合と体温で平然と乗り越えていたというのに、今のこの華奢で血色の良いだけの小さな体は、ちょっとした気温の変化や暗闇の気配に過敏に反応してしまう。
「こわい……わけがない……私は、星の魔女ヴェルリアだぞ……っ!」
自分に言い聞かせるように呟くが、その声は鈴のように美しく、そしてあまりにもかよわい少女の響きしかなかった。
その事実がさらに彼女のプライドを傷つけ、目頭から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちてシーツを濡らす。
悔しい。
自分の意図とは関係なく、勝手に涙腺が緩み、些細なことで心細くなってしまうこの体質が憎たらしい。
「あのクソ魔女め……!
私をこんな永遠の子供の姿にしやがって……いつか絶対、あの城に戻って、引っぱたいてやるんだから……っ!」
布団をグッと握りしめながら、ヴェルリアは子供のように声を上げて泣きじゃくった。
最強の空間魔術を操り、一言で都市を震え上がらせる天才魔女が、夜な夜なベッドの上で「お母さんに会いたい子供」のような格好で号泣している姿を、世界中の誰が想像できるだろうか。
もしその光景を目撃された日には、魔女としての威厳も名声も、音を立てて崩れ去るに違いなかった。
翌朝。
太陽の光が窓から差し込み、部屋の中に穏やかな温もりを運んでくると、昨夜までの涙の嵐が嘘のように、ヴェルリアはすっきりと目を覚ました。
「……ふあぁ……」
小さくあくびをしながら、彼女はベッドの上で伸びをした。
昨夜あれほど惨めに泣き腫らしたとは思えないほど、今の彼女の顔立ちはすっきりと整い、星屑のドレスを完璧に着こなし、栗色の三つ編みを綺麗に整えた「孤高の天才魔女」そのものに戻っていた。
この情緒の切り替えの早さもまた、十歳の少女の肉体が持つ独特のホルモンバランスの仕業なのだが、本人はそれに気づいておらず、「私の強靭な精神力が夜の闇を打ち払ったのだ」と都合よく解釈している。
部屋を出て、街の酒場兼ギルドの窓口へと向かう。
「お、おはようございます、ヴェルリア様!」
受付の職員が、彼女の姿を見るなり慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
周囲にいた冒険者たちも、その美しくも冷徹な少女の姿を一目見ると、気まずそうに視線をそらし、息をひそめる。
ヴェルリアはふんっと小さく鼻を鳴らし、子供っぽく見えないようにわざと背筋をピンと張って歩いた。
(ふふん、いいぞ。誰も私の昨夜の涙など知るまい。私こそが、この大陸を統べる孤高の魔女なのだからな)
「……で、今日の依頼は何だ」
できるだけ低く、冷たい声音を作って尋ねる。
「は、はい! 東の『嘆きの森』に出現した古代の魔導ゴーレムの排除と、その核の回収をお願いしたいのですが……報酬は金貨百枚です」
「……ほう。ゴーレムか」
ヴェルリアは内心でガッツポーズをした。
古代の魔導仕掛けの遺物など、彼女の空間魔術と分解魔法の格好の実験台である。
しかも金貨百枚あれば、当分は好物の高級なお菓子や、新しい魔導書の買い付けに困らない。
「いいだろう。受けてやる。せいぜい私を退屈させないことだな」
気高く、尊大な笑みを浮かべながらギルドを後にするヴェルリア。
その背中は、確かに大陸最強の魔女のそれだった。
夕方、嘆きの森での任務は秒速で完了していた。
姿を現した巨大な魔導ゴーレムは、ヴェルリアが指先を軽く一瞥して空間の密度を捻じ曲げた瞬間、音もなく粉々に圧縮され、一瞬でただの砂の山へと変貌を遂げていた。
核の回収も終わり、報酬を受け取った彼女は、夕日に照らされた森の小道を優雅に歩いていた。
「まったく、最近のゴーレムは手ごたえというものがない。私の敵ではないな」
一人ごちながら宿への帰路を急ぐヴェルリアだったが、太陽が沈み、周囲の森が急速に深い影に飲み込まれていくにつれて、彼女の足取りが徐々に怪しくなっていった。
(……あれ? さっきから、なんか変な音が聞こえるぞ……?)
風が木々の葉を揺らす音が、やけにざわついた怪物の足音のように聞こえる。
頭上を飛んでいった不気味な夜行性の鳥の鳴き声に、ヴェルリアの心臓がビクッと跳ね上がった。
「っ……!」
彼女は思わずその場に立ち止まり、周囲を見回した。
昼間の威厳はどこへやら、森の暗さと静けさが、急激に彼女の神経を逆なでしていく。
(やばい、日が暮れると、途端にこの森は不気味すぎる……!
誰かいるのか!? いや、誰もいないから怖いんだ……!)
かつて百戦錬磨の戦場を駆け抜け、死体の山の上で平然と眠って見せた男の記憶は、今の十歳の過敏な脳の前では全く役に立たなかった。
「ひっ……!」
小さな枝が折れた音にすらびくりと肩を震わせ、ヴェルリアは漆黒のマントをギュッと体に巻き付けた。
もう歩けない。これ以上暗い森を進むのは精神的耐性の限界を超えている。
彼女は近くの大きな木の根元にしゃがみ込み、両膝を抱えて小さく丸まった。
「なんで……なんで私は、こんな暗い森の中で一人で震えているんだ……」
ポロポロと、またもや大粒の涙が頬を伝い落ちる。
最強の魔女。
星の魔女ヴェルリア。
空間の理を捻じ曲げ、世界をその掌で揺るがす天才少女。
しかし、その実態は、夜の暗さと孤独に耐えかねて、木の根元でめそめそと泣きじゃくる、ちょっと強力すぎる魔力を持ったただの十歳の女の子だった。
誰もいない深い森のなかで、少女のすすり泣きが小さく響く。
それでも、その涙の隙間から、彼女はいつものように強がりな言葉を漏らした。
「……泣いてなんかない! これは、その、目が乾燥しているだけだ……!
ぐすっ……明日になったら、もっとすごい魔法を覚えて、絶対にこの体を変えてやるんだから……!」
星屑のドレスを纏った小さな魔女は、涙で濡れた顔を袖で乱暴に拭いながら、それでもしっかりと前を――明日へと続く道を睨み据えた。
泣き虫で、気高くて、どうしようもなくワガママな彼女の旅は、今日も星々の下で、賑やかに続いていく。