魂の眠る地、死者の庭園 ~フリーレンの幻想入り~ 作:龍改二
針葉樹の細い葉先から、凍てついた雪の塊が音もなく零れ落ち、白い粉となって頬を打った。
冷気で感覚の麻痺した指先を動かし、フリーレンはゆっくりと瞼を持ち上げる。
視界に広がっていたのは、見慣れた中央諸国の石造りの街道でも、エンデへと続く荒涼とした北側諸国の高原でもなかった。鬱蒼と生い茂る巨木の幹は異様に太く、空を覆う鈍色の雲からは、春先とは思えない濃密な雪がしんしんと降り注いでいる。
周囲を見渡す。
いつも小言を言いながら身の回りの世話を焼いてくれる少女の姿も、怯えながらも前衛として斧を構える戦士の少年の姿もなかった。
「……フェルン? シュタルク?」
低く呼んでみたが、返るのは湿った雪林が吸い込む沈黙ばかりだった。
トランクすら手元になく、残されたのは着古した白いケープと、使い慣れた赤褐色の杖のみ。フリーレンは杖の冷たい感触を確かめながら、雪を払って身を起こした。
その時、周囲の雪原を微かな震動が揺らした。
低く濁った唸り声が、前後左右の木立の影から立ち上る。ゆらりと姿を現したのは、フリーレンの知識にあるどの魔導書にも記されていない異形の獣たちだった。狼の骨格に黒い靄を纏わせ、額には歪な角が生えている。
だが、その身から放たれる波長は、フリーレンの知る魔物のそれとは決定的に異なっていた。魔力に似て非なる、土着の念や情念が凝固したような、澱んだ気配。
妖獣と呼ばれるその獣たちは、侵入者の華奢な体躯を見下ろすと、雪を蹴立てて一斉に跳躍した。鋭利な爪が、フリーレンの首筋を両側から引き裂かんと迫る。
フリーレンの表情は一片も揺らがない。
翡翠の瞳が外敵を冷徹に捉えた刹那、杖の先端に幾何学模様の魔法陣が浮かび、瞬時に収束した。
放たれたのは、かつて人類を最も多く殺した魔法。
白紫の閃光が、迸った。
轟音すら置き去りにした高密度の純粋な魔力の光芒――『一般攻撃魔法・ゾルトラーク』は、先頭の獣の眉間を正確に穿ち、その肉体を内側から光の粒子へと分解した。貫通した熱線が背後の雪地を両断し、立ち込める水蒸気が森の冷気と衝突して激しい白煙を吹き上げる。
一撃で首魁を消滅させた魔法使いは、杖を下ろすことすらなく、淡々と次弾の照準を後続の獣へと向けた。
千年の研鑽に裏打ちされた無駄のない所作。その圧倒的な魔力の凝縮度と怜悧な凄みに気圧されたのか、残された妖獣たちは喉を鳴らし、後退の兆しを見せる。
「……里の人間でもないし、ただの妖怪でもないわね」
頭上から、酷く乾いた少女の声が落ちてきた。
フリーレンが視線を上げると、雪が降りしきる上空、枯れ木よりも高い位置の空中に、ひとりの娘が佇んでいた。
鮮やかな赤と白の和装に、肩口を露出させた奇妙な巫女服。大きく結ばれた緋色のリボンが、寒風に吹かれて揺れている。
その少女――博麗霊夢は、手に挟んでいた数枚の白い紙片を、気だるげに指先で弾いた。
その動作に、魔力の循環も、術式を組み上げる予兆も存在しなかった。
ただ放たれただけの御札は、空中で紅蓮の光条へと変じ、生き物のような軌道を描いて残党の妖獣たちへと正確に突き刺さった。
激突の瞬間、獣の肉体は爆発四散するでもなく、白い煙の帯となって瞬時に浄化され、雪の上から痕跡ごと掻き消えた。
あまりにもあっけない消滅だった。
残された森には、吹き付ける風の音だけが再び戻っていた。
霊夢は空から、まるで透明な階段を一段ずつ降りるかのように、音もなく雪面へと着地した。
彼女の足元には、踏みしめた雪の窪みすらほとんどできていない。
二人の視線が交錯する。
霊夢の瞳には、見知らぬ異邦人の放った破壊的な光に対する鋭い警戒が宿っており、対するフリーレンの瞳には、かつて見た神話の遺物を見るかのような、静謐な観察の色が灯っていた。
「……」
フリーレンは赤褐色の杖を握り直しながら、霊夢の足元と、先ほどまで彼女が立っていた空間を交互に見つめた。
「飛んでいる。でも術式の展開が見当たらない。君は重力そのものを無視しているの?」
「は? 飛ぶ理屈って言われてもね」
霊夢はお祓い棒を肩に担ぎ、怪訝そうに眉を寄せた。
「私は『空を飛ぶ程度の能力』だし。何というか、ただ、浮いてるだけよ」
「……浮いてるだけ」
フリーレンは小さく呟き、内省するように思考を沈めた。
人類が魔族の魔法を模倣し、半世紀以上の歳月をかけて体系化した『飛行魔法』には、膨大な魔力の消費と、絶え間ない重力反発の術式維持が不可欠だ。だが、この少女の周囲には僅かな魔力の乱れすら存在しない。
(魔法の高み、あるいは魔法ですらないのかもしれない。理屈が通らない、女神様の奇跡に近い何か……か)
理解の範疇を軽々と飛び越えた現象を前に、フリーレンは内心で呆れと、底知れない違和感を噛み締めていた。
「ま、いいわ。見ての通りここは今、季節外れの雪で手が離せないのよ。怪しい奴は片っ端から締め上げるのが私の仕事なんだけど……一応、助けてあげた形になったことだし、神社まで来なさい」
霊夢は背を向け、雪を蹴って歩き出した。
フリーレンはその背を、静かに追った。
* * *
案内された先は、長い石段の頂に鎮座する、古びた木造の神社だった。
屋根には分厚い雪が積もり、朱色の鳥居は白銀の風景の中でひっそりと佇んでいる。
「はい、お茶とお煎餅。湿気てるけど我慢しなさいよね」
神社の縁側で、霊夢が無造作に湯呑みと皿を差し出してきた。
冷え切った両手で湯呑みを包み込むと、ぬるい茶の温もりがじんわりと掌に染み渡る。
「……ありがとう」
「で、助けてやったんだからお賽銭。最低でもお札一枚……って言いたいところだけど、この辺じゃ見ない顔ね。特別に小銭でもいいわよ」
当然の権利を主張するように賽銭箱を指し示す巫女に対し、フリーレンは白いケープの懐やポケットを順に探った。
指先に触れるのは、乾燥した野草の屑と、以前フェルンに怒られながら買い求めた小さな置物、そしていつの間にか紛れ込んだ、萎れた花びら一枚だけだった。
「……ない」
「は?」
「お金、持ってない。旅の路銀は全部フェルンが厳重に管理してたから……銅貨一枚すら、私には持たせてくれなかったんだ」
フリーレンが心底困ったように翡翠の瞳を瞬かせると、霊夢は天を仰ぎ、深いため息を吐き出した。
「……タダ働きか。まったく、どいつもこいつも」
悪態をつきながらも追い出す風情のない霊夢の横顔を見つめながら、フリーレンは茶を一口すすった。渋みと僅かな甘みが喉を通る。
(フェルンがいないと、私は本当に何もできないな)
朝起こしてもらい、身支度を整えてもらい、お金の管理すら任せきり。
百年やそこらの時間はあっという間に過ぎ去るはずなのに、あの口うるさい弟子と離れてまだ数刻も経っていないという事実が、フリーレンの胸の奥に淡い焦燥と、名状しがたい郷愁を落としていた。
「あんた、さては外の世界から来たわね? 名前は?」
霊夢が煎餅をかじりながら、改めて値踏みするように訊ねてきた。
「私は博麗霊夢。ここ幻想郷の素敵な巫女よ」
「私はフリーレン。エルフの魔法使いだ」
「えるふ? 聞かない種族の妖怪ね」
「……妖怪じゃないよ。エルフだ」
訂正を口にしながらも、フリーレンはそれ以上深く追及しなかった。
目の前の巫女の口調や態度には、魔族のような欺瞞や底知れぬ捕食者の悪意は感じられない。理不尽で乱暴だが、言葉の裏に確かな感情が通っている。この世界では、人ならざる長命の者を大雑把にそう総称しているのだろう。
「ふーん。まあ何でもいいけどさ、外の世界に帰りたいんでしょ? こっちの境界をいじくってあんたを元の場所に送り返せる奴なんて、幻想郷には一人しかいないわよ」
「……誰?」
「八雲紫。境界を操るスキマ妖怪よ」
霊夢はお祓い棒で、雲に閉ざされた遥かな山並みの向こうを指し示した。
「だけど生憎ね。見ての通り、幻想郷全土がこの季節外れの大寒波に見舞われてるのよ。春が来るはずの時期なのに、誰かがどこかで春を根こそぎ盗み集めてるせいで、いつまで経っても雪がやまない。その紫の奴も、この異変の元凶を突き止めるためにあちこち飛び回ってて、今は連絡がつかないのよ」
「春を、盗む……」
フリーレンは空を見上げた。
降り積もる雪の向こう、遠く東の空の遥か上空に、微かな、しかし異様なほど研ぎ澄まされた冷気の奔流が感じ取れた。それは自然の気候変動ではなく、明確な誰かの「作為」によって引き起こされている歪みだった。
「紫を探すにしても、まずこの異変を解決してあいつを引きずり出すしかないわ。……あんた、さっきの魔法を見る限り、腕っ節だけは立ちそうじゃない」
霊夢が立ち上がり、縁側から雪の庭へと足を踏み出した。
「どうするの、エルフの魔法使いさん。ここで震えて待ってる? それとも、帰るために一肌脱ぐ気はある?」
木枯らしが神社の粗末な引き戸を微かに揺らし、縁側の軒先から冷たい雪煙を巻き上げた。
湯呑みから立ち上る湯気を眺めながら、フリーレンは小さく息を吐いた。
(フェルン、怒ってるだろうな……。シュタルクもオロオロしてるかもしれない)
自分が突然姿を消してしまった野営地の光景が、まぶたの裏にありありと浮かぶ。火の始末はどうしただろうか。朝起こしに来たフェルンが空になった毛布を見つめ、静かに眉をひそめて不機嫌そうに頬を膨らませる姿。それを見て、どう宥めればいいのか分からずに両手を泳がせるシュタルクの困惑した顔。
二人の顔が浮かぶたびに、胸の奥がきゅっと窄まるような、痛みに似た微かな重みを感じる。
二人が無事であるうちに、一刻も早く戻らなければならない。百年や千年を一人で歩んできた身にとって、数日や数ヶ月の遅延など瞬きほどの時間に過ぎないはずだった。だが、人間の寿命は短い。彼らと過ごす一日一日は、取り返しのつかない速度で零れ落ちていく。
そのためには、この得体の知れない土地の理を解き明かし、空間を歪めている元凶へと辿り着く必要があった。
「分かった。私もその異変の調査を手伝うよ」
「話が早くて助かるわ」
霊夢が満足げに頷き、縁側の柱に立てかけたお祓い棒を手に取った、その時だった。
雪を切り裂く乾いた風切り音とともに、頭上から派手な影が境内の雪原へと滑り込んできた。使い古された一本の箒に跨がり、黒いとんがり帽子を押さえながら見事に着地を決めたのは、くせっけのある金髪を揺らした一人の少女だった。
「よう霊夢、寒い中ご苦労なこったな! ……ん? そっちの見慣れない客は誰だ?」
少女は黒い服の上に白いエプロンを纏い、腰のあたりに八角形の奇妙な器具をぶら下げていた。人懐っこく、しかし挑戦的な光を帯びた瞳がフリーレンを捉える。
「私は霧雨魔理沙。見ての通り、普通の『人間の魔法使い』だぜ」
自らをそう称して悪戯っぽく笑う魔理沙の言葉に、フリーレンの翡翠の瞳が僅かに丸くなった。