魂の眠る地、死者の庭園 ~フリーレンの幻想入り~ 作:龍改二
雪を蹴立てて迫る数十体の人形たちは、小柄な身体からは想像もつかない速度で空を舞い、白銀の庭を包囲していた。小さな銃口が火花を散らし、切っ先を研ぎ澄ました針が鋭利な軌跡を描いて風を切り裂く。
「まったく、歓迎にしては手荒すぎるぜ!」
魔理沙は苦笑混じりに叫びながら、腰に下げた八角形の魔導具に指を添えた。
瞬間、その魔導具から熱を帯びた魔力が爆発的に励起される。放たれた数条の輝く光弾が空間を薙ぎ払い、肉薄していた先頭の三体を派手に吹き飛ばした。粉砕された木の枝と雪煙が舞い散る。いつも通りの手慣れた応戦だった。
先鋒を失っても後続の人形たちは動揺ひとつ見せず、散開して多方面の死角から一斉に急降下を仕掛けてくる。
その狂いのない連携の只中で、フリーレンはただ静かに杖を掲げていた。
翡翠の瞳が、人形そのものではなく、虚空に張り巡らされた操作糸の力場を凝視する。
張り詰めた細い魔力の糸。それは壁越しに館内の術者の指先から伸びて、人形の関節や内部機構へと緻密に編み込まれていた。
(構造は極めて論理的だ。それなら――)
フリーレンの杖の先端に、淡い光が灯った。
彼女が放ったのは破壊の魔法ではない。相手の術式に干渉し、その結び目を正確に解くための、極めて繊細な魔力の波形だった。
微かな波紋が大気を通り抜けた刹那、人形たちを操っていた無数の糸が、まるで水に溶けるように一斉に霧散した。
動力と支えを同時に失った数十体の人形たちは、直前までの凄まじい躍動が嘘であったかのように硬直し、雪の上へと次々に転がり落ちた。乾いた陶磁器の触れ合う音だけが、静寂の戻った前庭に響く。
「……うわ、一瞬で止めやがった」
魔理沙が目を丸くし、雪の中に埋もれた小さな蓬莱人形をひとつ拾い上げた。壊れてはいない。ただ完全に糸を切られ、深い眠りについたように動かないだけだった。
フリーレンは杖を下ろし、ふと魔理沙の手元へと視線を落とした。
「魔理沙、それなに?」
「ん? これか?」
魔理沙は得意げに笑い、八角形の器具――木製の枠に精緻な金属の盤が嵌め込まれた奇妙な道具を掲げて見せた。
「いいだろ? 八卦炉っていうんだ。私の宝物さ。香霖堂の奴に仕立ててもらった特注品でな」
フリーレンは歩み寄り、顔を近づけてその構造を観察した。表面に刻まれた刻印と、内部に仕込まれた魔導炉の脈動を読み解く。
「込めた魔力に指向性を持たせて放射する仕組みか。魔力の圧縮率が極端に高いね。暴発の危険も大きいし、扱いがかなり難しいよ」
「へへ、誰でも簡単に使いこなせるもんじゃねえさ。でも、私にはコレがない生活は考えられないけどな。私の魔法のすべてが詰まってる」
短命な人間が、自身の限界を拡張するために創り上げた結晶。その無骨で過剰なまでの火力機構に、フリーレンはかつて旅の途中で出会った数多の職人や魔法使いたちの面影を重ねていた。
その時、軋むような音を立てて洋館の重厚な扉が開かれた。
「魔理沙……。また派手にやってくれたわね、この泥棒魔女」
現れたのは、金髪に赤いカチューシャを差し、深い青のドレスを纏った少女だった。その冷ややかな青い瞳が、雪原に散らばる愛用の人形たちを、そして魔理沙の隣に佇む見慣れないエルフを順に射抜く。
「よおアリス。今日は返しに来たんだって。それにほら、いつもより穏便に通ってきたぜ」
魔理沙は悪びれもせず、手元の人形を放り投げた。
アリス・マーガトロイドは飛来した人形を片手で見事に受け止め、その関節を検分した。損傷はほとんどない。それどころか、仕込まれていた術式の基部すら無傷のままだった。
アリスの眉が、わずかに跳ね上がる。
「……私の魔力の糸を解除したわね。力任せに引き千切ったんじゃない。術式の結節点を見極めて、完全に解いているわ。あなた、何者?」
アリスの視線がフリーレンを捉えた。
表面上の魔力量は慎ましく抑え込まれている。しかし、自らが編み上げた極致の技術を瞬時に無効化したその手腕は、到底若年の一朝一夕で身につくものではなかった。自分と同じ、あるいは自分を遥かに凌駕する途方もない時間を積み重ねてきた者だけが醸し出す、深淵の静けさ。
「私はフリーレン。魔法使いだよ」
淡々とした名乗りに、アリスはしばし沈黙し、やがて小さく息を吐いて扉を広く開けた。
「……立ち話も何ね。中に入りなさい。お茶くらいは淹れてあげるわ」
* * *
館の中は、外の刺すような寒気が嘘のように暖炉の火の暖かみで満たされていた。
壁一面を埋め尽くす膨大な魔導書、フラスコや乾燥ハーブの並ぶ作業台、そして室内を忙しなく行き交い、湯気の立つポットから紅茶を注ぎ分ける人形たち。
フリーレンは手渡された磁器のカップを受け取りながら、周囲の人形たちの挙動をじっと観察していた。
迎撃戦の騒乱など無かったかのように、数十体の人形が静かに茶を注ぎ、砂糖を運び、本を棚に戻すという異なる作業を、寸分の狂いもなく同時にこなしている。
「やっぱり、見事な技術だね。自律思考するゴーレムの核に頼らず、これだけの数を同時に、かつ別々の用途で精密に操るなんて。並大抵の集中力じゃ維持できない」
技術者としての惜しみない称賛に、アリスは誇らしげに、しかしどこか静かに微笑んだ。
「完全な自律人形も研究はしたわ。でも人形に行動を委ねれば、そこには無駄な迷いや予想外の動きが生まれる。完全な美しさを求めるなら、すべてを私の意志で統べるべきなのよ。……もっとも、その境地を諦めたわけじゃないけれど」
フリーレンは湯呑みのように両手で包み込んだティーカップの縁を見つめ、それからアリスの顔、そして彼女が身に纏う魔力の質を静かに見定めた。
魔力の循環、魂の座、そして大気との馴染み方。それは先ほど森で出会った妖獣とも、霊夢の無垢な異能とも違う。人間として生まれ落ちた器を、後天的に作り替えた痕跡。
「……人間の寿命、百年の研鑽で身に付くような魔法じゃない。アリス、君は……魔法のために人間をやめたんだね」
フリーレンの静かな指摘に、アリスの指先がわずかに止まった。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、部屋の静寂を揺らす。アリスは目を伏せ、冷めかけた紅茶を静かに口へと運んだ。
「……別に、後悔はしてないわ。魔法を追い求める者として当然の選択よ。人間には、時間が足りなさすぎるもの」
アリスは伏せていた視線を上げ、フリーレンの翡翠の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「あなたには分からないでしょうね。あの大図書館の主と同じ、初めから長命の魔法使いとして生まれたあなたには。果てのない深淵を前にして、肉体の衰えに怯え、志半ばで潰える人間の焦燥なんて」
その言葉には、選別を経て妖へと身を変じた者特有の、誇りと諦念が滲んでいた。
だが、その重い空気を切り裂いたのは、からからとした快活な笑い声だった。
「私は人間をやめる気はないぜ」
魔理沙がスコーンを頬張りながら、八卦炉をテーブルの上にトンと置いた。
「いつか死ぬからこそ、今使えるだけの魔力を全部ぶっ放すのが楽しいんじゃないか。百年先だの千年先だのの魔法なんて知ったこっちゃないぜ。私が生きてるこの一瞬で、最強になれればそれでいいんだ」
魔理沙の黄金の瞳には、一切の翳りがなかった。
短命である己の宿命を呪うこともなく、ただ全力で駆け抜けることへの誇り。
生まれながらに悠久の時を生きるエルフ、フリーレン。
魔法の深淵に手を伸ばすため、人間を捨てて長命を選び取った元人間、アリス。
そして、有限の生を燃え盛る業火のように疾走する人間、魔理沙。
三つの異なる命の在り方と魔法観が、静まり返った書斎の中で重厚に交錯し、静かに響き合っていた。フリーレンは胸の奥で、かつて「人間を知りたい」と願った自らの旅路と、有限の時間を必死に生きるフェルンたちの姿を思い起こしていた。
「……まあ、生き方の話はここまでね」
アリスが溜息をつき、空になったカップを人形に預けた。
「本題に入りましょうか。魔理沙が持っていった春の欠片のことを訊きに来たんでしょう? ……あれは、冥界の方面で見つけたものよ」
「冥界かよ」
魔理沙はあからさまに面倒そうな声を上げ、頭の後ろで両手を組んだ。
「あー、やっぱり冥界か。白玉楼のあたりが怪しいとは思ってたのよね」
三人の魔法談義に黙りこくっていた霊夢も、退屈そうに茶菓子の屑を払いながら呟いた。
「冥界って……もしかしてあの世のこと?」
二人のあまりにも平然とした調子に、フリーレンは思わず身を乗り出し、翡翠の瞳を瞬かせた。
「死者の魂が集まる場所……? そんなところに、簡単に行けるの?」
死者の魂が集う場所。フリーレンの世界において、それは大陸の最北端、人類の立ち入りを拒む魔王城の跡地――エンデにのみ語り継がれる、神話に近い領域だった。
それを、午後の散歩の行き先でも告げるかのように口にするこの幻想郷の理に、フリーレンは深い驚愕を隠せなかった。
「そうよ。空を真っ直ぐ上へ飛んで雲を抜ければ、現世と冥界を分ける幽明結界があるわ。そこを越えればもう冥界。簡単でしょう?」
アリスは事も無げに言って、窓の外、雪に閉ざされた鉛色の空を指差した。
「ただ、道中には気をつけなさいな。あの結界の少し手前で、騒がしい幽霊たちが演奏会をやっていたわ。まともに付き合うと耳がおかしくなるから、迂回したほうが賢明よ」
「死んだ人の魂が、音楽を……?」
フリーレンは手元の冷めかけたカップを見つめたまま、首を傾げる。その声音には純粋な当惑が滲んでいた。
「騒霊と言って、純粋な死者の魂とは少し違うらしいけれどね」
アリスは冷めた紅茶の入ったポットを人形に片付けさせながら、肩をすくめた。
「まあ、似たようなものよ。記憶の残滓や感情の波が形を取って、楽器をかき鳴らしているだけ。まともに関わってもいいことは特にないわ。あの子たちの騒音に巻き込まれると、余計な体力を使うだけよ」
「……不思議な世界だね」
魂だけの存在が、ただ陽気に音を奏でて漂っている。そんな在り様すら日常の風景として受け流すこの土地の理は、フリーレンにとって未知の魔導書を開いたとき以上の奇妙な感慨をもたらしていた。
「情報ありがとう。助かったよ、アリス」
フリーレンが小さく頭を下げると、アリスはわずかに目を細め、静かに息を吐いた。
「どういたしまして。……人間と旅をするのなら、彼女たちの時間を大切にしてあげてね。私たちにはほんの一瞬でも、あの子たちには二度と戻らない限られたものなんだから」
「……うん。分かっているよ」
フェルンやシュタルク、そしてヒンメルたちを思い出しながら頷くフリーレンを、アリスはどこか遠いものを見るような眼差しで見送った。
* * *
洋館の重厚な扉を抜けると、魔法の森の刺すような冷気が再び肌を打った。
木々の梢を揺らす風は弱まり、白銀の粉雪が音もなく視界を白く染め上げている。
「さて、と。善は急げだぜ」
魔理沙が愛用の箒に跨がり、器用にバランスを取りながら雪面からふわりと浮き上がった。その動きには道具と魔力の明確な連動があり、フリーレンにとっても理解できる範疇の技術だった。
対して、霊夢はただ息を吐くように、何の予兆もなく垂直に大気へと身を預けていた。
雪を踏みしめていた靴の底が、何の反動も光の励起もなく地表を離れる。鳥が羽ばたくわけでも、魔力を噴出させて推進力を得るわけでもない。ただ「そこに浮くもの」として世界に認識されているかのような、自然法則そのものを滑り落ちる異質な挙動。
(……やっぱり、術式の痕跡すらない。重力に逆らうという思考の負荷すら見当たらないな)
フリーレンは内心で溜息を飲み込みながら、自らの杖を水平に構えた。
全身に緻密な魔力を纏い、大気を押し返す術式が組み上がる。魔族の模倣から始まった、人類の『飛行魔法』。研鑽の結晶であるその力によって、フリーレンの身体もまた、ふわりと雪の森から空へと浮かび上がった。
三人は鬱蒼とした樹冠を抜け、厚い雪雲が立ち込める鉛色の上空へと高度を上げていく。
地上の森は瞬く間に小さくなり、刺すような風が頬を叩く。雲間に差し掛かるにつれ、大気の温度はさらに下がり、張り詰めた静寂が耳を圧した。
「この雲を突き抜けた上が幽明結界よ」
先頭を行く霊夢が、冷気の渦巻く雲海を見据えながらお祓い棒を握り直す。
「冥界の連中が何を企んでるのか知らないけれど、この寒さの元凶がそこにいるのは間違いないわ。……フリーレン、結界の向こうは生者の世界じゃない。変なものに当てられないよう、気をつけなさいよ」
「ま、幽明結界を越えられたらの話だけどな」
魔理沙が箒に跨ったまま黄金の瞳を煌めかせ、軽く笑った。
雲の切れ間、遥か高空から漂い来るのは、凍てつく冷気と、かすかに混じる異様な桜の匂い。
そして――雲の裂け目の先に鎮座する巨大な結界と、その手前から放たれる研ぎ澄まされた剣の気配が風に乗って揺らめいていた。