魂の眠る地、死者の庭園 ~フリーレンの幻想入り~ 作:龍改二
雲海を突き抜けた先には、息を呑むほどの静寂が横たわっていた。
吹き荒れていた雪はいつしか途絶え、頭上にはどこまでも澄み渡る群青の空が広がっている。しかし、大気の温度は氷点下を遥かに下回り、吐き出す息は白く凍りついて瞬時に霧散した。
眼下に広がる純白の雲海から、天を突くようにして一筋の長大な石段が伸びている。風化し、苔むした無数の石段は、降り積もった薄雪を戴きながら、遥かな高みへと果てしなく連なっていた。その頂き――薄桃色の霞が立ち込める彼方に、現世と冥界を隔てる巨大な境界の揺らぎが、陽炎のように大気を歪めている。
そして、その石段の半ばに、一人の影が佇んでいた。
銀の髪をきっちりと切り揃えた、華奢な少女だった。白いシャツに緑を基調としたベストとスカートを纏う端正な佇まいに、腰には長さの異なる二振りの刀を佩いている。その背後には、淡い燐光を放ちながら、実体を持たない白い塊――半透明の霊体が、主の呼吸に合わせるように緩やかに揺れていた。
三人が石段へ降り立った微かな衣擦れの音を聞き咎め、少女の涼やかな瞳が静かに開かれた。
「ここまで辿り着くとは、見事と言いたいところですが……これ以上の立ち入りは認められません」
少女は静かに告げ、右手を腰の長刀の柄へと添えた。
指先ひとつ動かすたびに、彼女の周囲の空間が張り詰めた氷のように硬質化していく。研ぎ澄まされた刃そのものの気配。その立ち姿には一片の隙もなく、千の鍛錬を重ねた武芸者特有の、静謐な殺気が満ちていた。
「白玉楼の庭師にして西行寺家・剣術指南役、魂魄妖夢。幽々子様の命により、何人たりともこの幽明結界を通すわけにはまいりません。……速やかにお引き取りを」
「引き取れって言われて『はいそうですか』と帰るタマに見えるかしら?」
霊夢がお祓い棒を肩に担ぎ、冷ややかに唇の端を持ち上げた。
その隣で、魔理沙が箒からふわりと降り立ち、八卦炉を弄びながら小声でフリーレンに囁く。
「アイツが魂魄妖夢だ。冥界のお嬢様の忠実な従者でな。腕っ節は確かだぜ。特にあの二振りの刀には気をつけな」
フリーレンは何も答えず、ただ翡翠の瞳を細めて妖夢を観察していた。
背後に浮遊する半霊から漂う、死者の冷気。そして少女自身の肉体が発する、生者の体温。半分が人間で、半分が幽霊。生命の理を二分した奇妙な存在。だがそれ以上にフリーレンの警戒を引き絞ったのは、彼女が腰に差した二振りの得物が放つ、異質な力の波長だった。
「問答無用、というわけですね」
妖夢の足先が、雪に覆われた石段を微かに擦った。
次の瞬間、彼女の姿が視界から完全に消失した。
踏み込みの予備動作すら置き去りにした超高速の初動。石段の雪が遅れて円形に爆ぜ散り、白銀の閃光と化した妖夢が、一直線にフリーレンの間合いへと侵入していた。彼女の右手から抜き放たれた長刀――『楼観剣』の切っ先が、空気を両断する鋭利な音を立ててフリーレンの首筋へと奔る。
(速い――)
常人であれば思考が追いつく前に首を落とされている神速。だが、千年の修羅場を潜り抜けてきたエルフの反応速度は、その斬撃の初動を正確に捉えていた。
フリーレンは赤褐色の杖をほんの僅かに動かし、最小限の魔力操作で術式を励起した。
放たれたのは白紫の魔力光芒――『ゾルトラーク』。
しかし、それは相手を穿ち殺すための収束弾ではない。威力を絞り、切っ先の軌道を逸らすために放たれた、極めて正確な牽制の連弾。
空中で炸裂した三条の閃光が、楼観剣の刀身を直撃し、甲高い金属音を立てて火花を散らした。
斬撃の軌道が僅かに撥ね上げられる。だが、妖夢は怯むことなく空中で身を翻し、力任せに刀を振り下ろした。
「妖怪の鍛えたこの楼観剣に、斬れぬ物など、あんまりない!」
裂ぱくの気合とともに叩きつけられた一撃に対し、フリーレンの周囲に瞬時に六角形の魔力障壁が展開された。
衝撃に同調して威力を分散させる術式が幾重にも組み合わさった、現代魔法の粋を集めた絶対防御。
硬質な激突音が響き渡り、衝撃波が石段の雪を四方へと吹き飛ばした。
楼観剣の切っ先は、障壁の表面に触れた位置でぴたりと静止していた。どれほど刃に超人的な膂力と気合が込められていようと、攻撃を防ぐ概念として強固に構築された障壁には傷一つつかない。
フリーレンは障壁の向こう側で、冷静にその切っ先を見定めていた。
「……だいたい何でも切る魔法、レイルザイデンと同じような術式か。切れるというイメージで斬る剣だね」
物理的な硬度や質量を無視し、あらゆる物質を切断するイメージの具現化。ユーベルという魔法使いが使っていた術式に酷似している。だが、所詮は「切れる」というイメージの産物である以上、切断イメージの湧きづらい防御魔法の障壁を斬ることはできない。
フリーレンが杖を構え直し、反撃の術式を編み上げようとした、その刹那だった。
「楼観剣で斬れない……結界術か。ならば!」
妖夢の左手が、腰のもう一振りの柄――短刀へと伸びた。
抜き放たれた小太刀、『白楼剣』。その刀身は雪景色の中でもなお青白く透き通り、物質としての実体すら希薄な、魂の燐光を帯びていた。
「この白楼剣は、人の迷いを断ち切る剣! 斬れない術など、あんまりない!」
逆手に構えられた白楼剣が、六角形の防御障壁に向かって薙ぎ払われた。
フリーレンは瞬時に魔力を注ぎ込み、魔力障壁をより強固に構えた。物理を断つ剣が通じない以上、短刀の一撃など恐るるに足りないはずだった。
――だが。
白楼剣の青白い刃が、六角形の障壁の表面に触れた瞬間。
パキン、と。
フリーレンの頭蓋の奥で、何かが唐突に断絶した。
(――え?)
思考の一角が、綺麗に削ぎ落とされていた。
恐怖でも、焦燥でもない。ただ、「障壁を維持する」という意識の輪郭そのものが、刃の通過とともに強制的に空白へと変えられていた。イメージが結べない。支えを失った魔力は形を保てなくなり、展開されていた六角形の障壁は、光の塵となって音もなく霧散した。
「思考が、切られた……? イメージそのものを斬る術式か。……レイルザイデンとも全然違う」
フリーレンの瞳に、初めて明確な驚愕が走った。
術式を物理的に破壊したのではない。魔力の供給路を断ったのでもない。術者の精神、術を成立させている「概念の起点」そのものを斬り落とす刃。
理屈を積み上げ、強固なイメージによって現実を改変するフリーレンの魔法体系にとって、イメージそのものを刈り取るその短刀は、まさに天敵と呼ぶべき異形の技だった。
障壁を失った無防備なフリーレンの眼前、妖夢の身体が反転し、楼観剣が追撃の弧を描く。
『イメージを断つ白楼剣』で術式を解体し、『イメージで断つ楼観剣』で肉体を断ち切る。魔法使いを追い詰める完璧な二刀の連携。
「ッ――!」
フリーレンは咄嗟に杖の先端から無詠唱の魔力放射を放ち、自らの身体を後方へと弾き飛ばした。
空を切った長刀の切っ先が、フリーレンのケープの裾をわずかに掠め、頑丈な石段の一部を豆腐のように両断して崩落させた。
間一髪で間合いを外したものの、着地したフリーレンの足取りには僅かな乱れがあった。杖を構え直すが、白楼剣の切っ先が向けられている限り、安易に魔法を展開することはできない。
「なんだよフリーレン、随分と苦戦してるじゃんか」
石段の下から、八卦炉を構えた魔理沙が軽口を叩きながら上がってきた。
フリーレンは息を乱すことなく、額の汗を拭いながら平然と答える。
「戦士の相手はシュタルク……仲間の戦士に任せていたからね。相性が悪いんだよ」
魔法使いの間合いを殺して肉薄し、しかも思考そのものを断ち切ってくる剣士など、彼女の長い歴史の中でも前例がない。前衛を欠いた後衛の脆さを、フリーレンは改めて痛感していた。
「だったら私に任せときな!」
魔理沙が前に躍り出た。その手にある八卦炉から浮かび上がった魔法陣が、眩い閃光を放ちながら回転を始める。圧縮された魔力が周囲の大気を震わせ、轟々とした唸り声を上げて空間を焦がした。
「近寄らせなきゃいいんだろ? ……弾幕はパワーだぜ!!」
引き金を引くような咆哮とともに、八卦炉の砲口から極太の光熱の奔流が解き放たれた。
純粋な破壊の光芒――『マスタースパーク』。
白銀の空を七色の極彩に染め上げ、石段の全幅を埋め尽くすほどの光の巨砲が、津波となって妖夢を呑み込まんと押し寄せる。
だが、妖夢の瞳は微塵も揺らがなかった。
半歩引き、腰を落とし、長刀を正眼に構えた刹那、彼女の身体から生気が消え去り、極限の集中が結界の冷気と同期した。
「『現世斬』!!」
一閃。
放たれた刃筋は、光の奔流よりも速かった。
大気を焼き尽くしながら迫る熱線の巨塊が、妖夢の振るった楼観剣の切っ先によって、まるで割られた丸太のように真っ二つに両断された。左右に裂けた光条が石段の外側の雲海へと吹き飛び、遥か彼方で激しい水蒸気の爆煙を立ち昇らせる。
「なっ……!?」
魔理沙の顔から余裕が消え去り、冷や汗が頬を伝った。
光を裂いた妖夢の身体は、爆風の余波を浴びながらも減速することなく、地表を滑るようにして魔理沙の懐へと肉薄していた。白楼剣の切っ先が、魔理沙の喉元へと突き出される。
「しまっ――」
その刃が届く直前、紅い影が魔理沙の前に割り込んだ。
霊夢だった。
彼女は何の詠唱もせず、構えすら取らず、ただ左手を前方へと突き出していた。
キィン、と。
澄み渡る鉄琴の音のような共鳴が響き渡った。
妖夢の白楼剣が、霊夢の掌の数寸前で完全に静止していた。
そこには目に見える障壁も、光の幾何学模様も存在しない。ただ、空間そのものが最初から「そこには刃を受け入れない」と拒絶しているかのような、絶対的な隔絶。
「……っ!? 白楼剣で、斬れない結界があるとは……!」
妖夢の表情が、驚愕に歪んだ。人の迷いを断ち、術式のイメージを刈り取るはずの白楼剣が、弾かれている。
霊夢は冷ややかな瞳で妖夢を見下ろし、右手のお祓い棒を軽く振った。
「博麗の巫女を舐めないでくれる?」
瞬間、結界から放たれた無色透明の反発力が妖夢の全身を捉え、彼女の身体を十数メートル後方へと激しく吹き飛ばした。石段を滑りながら着地した妖夢は、息を荒げ、二振りの刀を構え直しながら警戒を強める。
その背後で、魔理沙がへたり込みそうになりながら胸を撫で下ろした。
「お、おお。やっぱり相性って大事かもしれないな……死ぬかと思ったぜ」
だが、霊夢の背中を見つめていたフリーレンは、先ほど以上の衝撃に打たれていた。
翡翠の瞳を極限まで凝らし、霊夢の周囲の大気を、魔力の流れを凝視する。
しかし、見えない。何も見えないのだ。
「魔法はイメージの世界だ、霊夢」
フリーレンは思わず、抑揚のない声を漏らしていた。
「君の結界には、そのイメージがない。術式を組み上げた痕跡も、魔力を編んだ形跡すら見当たらない。……どうやって術式を発動しているの?」
白楼剣が斬れなかった理由を、フリーレンは瞬時に看破していた。斬れなかったのではない。斬るべき「イメージ」が最初から存在しないから、白楼剣の刃が空振りを起こしたのだ。思考の支えなしに成立する防御など、フリーレンの知る魔法の理において存在してはならないものだった。
霊夢は怪訝そうに振り返り、心底どうでもよさそうに息を吐いた。
「浮くのと同じよ。技を出すのにイチイチそんなに難しいことを考えてるわけ? 魔法使いってのは大変ねえ」
「……」
フリーレンは言葉を失った。
理屈がない。イメージがない。ただ当たり前の現象として奇跡を現出させている。
幻想郷。この世界は、彼女が千年の時をかけて学び続けてきた「理」そのものを軽々と踏み越えてくる。
「感傷に浸るのは後! 来るわよ!」
霊夢の鋭い叱責が飛ぶ。
体勢を立て直した妖夢が、再び雪を蹴って突進してきていた。その動きには焦りの色が混じり、先ほどまでの武人の静謐さが崩れ始めている。
「魔理沙、援護しなさい! フリーレン、あんたは牽制で退路を塞いで!」
「了解だぜ!」
「……分かった」
三人の動きが、一瞬の間に噛み合った。
フリーレンが杖を掲げ、石段の左右から挟み撃つように数十発のゾルトラークを半円軌道でばら撒いた。無数の光弾の雨が妖夢の逃げ道を正確に潰していく。妖夢は楼観剣でそれを弾きながら前進せざるを得ず、その速度は目に見えて削がれた。
そこへ魔理沙が箒を走らせ、八卦炉から中規模の星型の光弾を波状攻撃として浴びせかける。白楼剣の横薙ぎで幾つかの星弾が粉と消えるが、物量押しの熱と爆風が妖夢の体勢を崩す。
そして、その乱れを逃さず、霊夢が真正面から間合いを詰めた。
「はぁッ!」
霊夢の動きは、魔法使いのそれとは根本から異なっていた。
左手で放った数枚の御札が妖夢の視界を塞ぐと同時に、身を沈めて懐へと滑り込む。お祓い棒の硬い木柄が、妖夢の楼観剣の鍔元を打ち据えて軌道を逸らした。返す足先が鋭い前蹴りとなって妖夢の鳩尾へと突き刺さり、怯んだところへ霊夢の掌底が叩き込まれる。
およそ巫女とは思えない、流れるような近接格闘術。
「うぐっ……!」
妖夢はたまらず後方へと跳躍し、石段を転がるようにして距離を取った。息は激しく乱れ、構える二振りの刀が微かに震えている。
その圧倒的な体術のキレを目の当たりにして、フリーレンは呆気に取られたように目を丸くしていた。
「驚いたよ。霊夢、君は武道僧……モンクだったんだね」
「僧兵のこと? それって褒めてる? 貶してる?」
霊夢はお祓い棒を払い、肩を回しながら不服そうに唇を尖らせた。
フリーレンは魔理沙の隣へと歩み寄り、小声で問いかける。
「魔理沙は霊夢と付き合いが長いんでしょ。霊夢はずっとこうなの?」
「ああ、殴ったり蹴ったり……」
魔理沙が苦笑いを浮かべながら応じるが、フリーレンは静かに首を横に振った。
「そうじゃないよ、結界のことだ。イメージを無視した直感だけで発動している」
「そうだなあ……」
魔理沙は八卦炉の熱を冷ましながら、前方の霊夢の背中を、どこか羨望の混じった瞳で見つめた。
「私にもサッパリだぜ。あいつのあれは、修行して身につくもんじゃない。生まれつき世界から浮いてるんだよ。私ら魔法使いとは、何かが根本から違うんだ」
有限の命の中で泥臭く理屈を積み上げる魔理沙と、千年の研鑽で真理を解き明かしてきたフリーレン。その二人の魔法使いが、理屈そのものを置き去りにして立つ一人の巫女の後ろ姿を見つめている。その奇妙な構図の向こうで、追い詰められた妖夢が石段の最上段へと退いていた。
妖夢の背後には、天を覆うほどの巨大な半透明の壁――『幽明結界』が立ちはだかっている。
「わ……私を倒しても、無駄ですよ」
妖夢は肩で息をしながら、二振りの刀を納刀することなく、痛む身体を支えるようにして叫んだ。
「冥界は死者たちの世界です。幽明結界は現世と来世を分かつ絶対の境。生きているあなた達が、その結界を通れる道理はありません!」
「へえ、道理ね」
霊夢が冷ややかに言い放ち、石段の脇に落ちていた手頃な小石を拾い上げた。
それを無造作に結界へと放り投げる。
小石は何の抵抗もなく、ゆらめく境界の膜をすり抜け、向こう側の空間へとカランと音を立てて転がり落ちた。
「物なら通るみたいね」
フリーレンは歩み寄り、赤褐色の杖をそっと結界へと差し伸べた。杖の先端は素通りする。しかし、自らの白い手を伸ばした瞬間――目に見えない強固な弾性が働き、指先ひとつ先へと進むことができなくなった。
フリーレンは目を細め、境界面に触れている魔力の反発を指先で探った。
「たしかに、とんでもなく強固な結界だ。命あるものに限定することで拒絶力を強化している」
(黄金郷のマハトを閉じ込めた対魔族専用の大結界と同じ仕組みか。……この結界を作ったやつは、相当な使い手だ)
神話時代の遺物にも匹敵する、概念選別型の結界。生きている肉体と魂を持つ者がここを突破するには、結界そのものを完全に解呪するか、自らの命を絶って死者になる他ない。
「……これを解呪するには、私でも数年かかるかもしれない」
フリーレンが振り返ると、石段の脇をふらふらと歩いていた霊夢が、結界の裾のあたりを指差して眉をひそめていた。
「は? ここから通れるみたいだけど?」
「「……え?」」
フリーレンと妖夢の声が、同時に重なった。
霊夢が立っている場所――石段の端、結界の境界線の一角に、まるで布地を刃物で丁寧に切り取ったかのような、人ひとりが優に通れるほどの『裂け目』がぽっかりと口を開けていた。その縁からは、微かな境界の綻びを示す紫色の燐光が、静かに立ち上っている。
妖夢の顔が、今度こそ絶望に染まった。
「け、結界に穴が空いている……!? そ、そんな馬鹿な! 幽明結界は完璧なはず……!」
「穴があるなら通るまでよ。ほら、行くわよ二人とも」
霊夢は妖夢の狼狽を一顧だにせず、裂け目へと無造作に足を踏み入れた。生者を拒絶するはずの結界が、その穴の周囲だけは完全に機能を停止している。
「じゃあな妖夢、また会おうぜ!」
魔理沙が快活に手を振りながら、箒を小脇に抱えて霊夢の後に続いた。
「あ、ちょっと! 待ちなさい……! ああ、幽々子様……すみません、私が力不足なばかりに……」
妖夢は石段の雪に片膝をつき、刀を支えにするようにして、ガックリと項垂れた。
フリーレンは裂け目の前に立ち、その滑らかな切断面に指先を触れる。
(……人為的に、空間の『境界』そのものがめくられている。白楼剣のような切断でも、私の知る解呪でもない。まるで、世界そのものを縫い直したような技術だ)
何者かがこの穴をあらかじめ用意し、自分たちを冥界へと招き入れているのではないか。そんな作為の気配が、冷たい風とともにフリーレンの頬を撫でた。
「フリーレン、置いていくわよ!」
結界の向こう側から、霊夢の呼ぶ声が響く。
「……今行くよ」
フリーレンは小さく息を吐き、赤褐色の杖を握り直して、裂け目の向こうへと足を踏み入れた。
境界を越えた瞬間、大気の質感が劇的に変貌した。
異質な寒気だけではない。そこに漂っていたのは、濃密な死の静寂。そして、季節外れの寒波の底から立ち上る、むせ返るような狂おしい桜の香気だった。
眼前に広がるのは、見渡す限りの白銀に染まった巨大な日本庭園――『白玉楼』。
死者の魂が集う不可侵の庭園に、一行は足を踏み入れた。