魂の眠る地、死者の庭園 ~フリーレンの幻想入り~   作:龍改二

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第5話 東方妖々夢 -死者たちの庭園-

 

結界の裂け目を抜けた瞬間、肌を刺していた冷気の質が明らかに変わった。現世の凍てつく風が肉体を物理的に突き刺す針のような冷たさとするならば、この庭園を満たす大気は、骨の髄、さらには精神の深奥にまで音もなく染み入るような、底知れぬ静謐を湛えた冷たさだった。

 

見渡す限りの白銀。遠く連なる漆黒の瓦屋根と朱塗りの欄干、幾重にも連なる回廊が、降り積もる淡雪の中にその輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。手入れの行き届いた枯山水の砂紋の上を、薄い雪の層が均一に覆い、飛び石の頭だけが黒々と顔を覗かせていた。

 

しかし、その広大無辺な庭園に満ちているのは、完全な虚無の静けさではなかった。

 

雪に覆われた白砂の庭を、幾つもの淡い燐光が音もなく滑るように行き交っている。

それらは人間の姿を取ってはいなかった。輪郭の曖昧な、人の頭ほどの大きさの半透明の白い球体。揺らめく蝋燭の火のように尾を引く霊魂たちが、大気の中を緩やかに浮遊していた。ある霊魂は、自らの身体で器用に竹の箒を支えながら庭石の雪を払い、ある霊魂は、湯気の立ち上る急須と湯呑みを載せた木製の丸盆を、落とすこともなく滑らかな平衡を保ちながら回廊の奥へと運んでいた。

 

叫びも、嘆きも、足音すらもない。

ただ、課せられた作業を果てのない日常として繰り返す、無数の死者たちの群れ。

 

フリーレンは歩みを止め、赤褐色の杖を両手で握りしめたまま、その光景を立ち尽くして見つめていた。

翡翠の瞳が、雪の庭を漂う霊魂のひとつひとつを、瞬きすら忘れたかのように追う。

 

(ここは……私が目指している魂の眠る地・オレオールと同じなのか?)

 

大陸の最北端、人類の立ち入りを拒む魔王城の跡地に眠ると伝えられる場所。

かつて師フランメが手記に遺し、ヒンメルと再び言葉を交わすために旅を続ける理由となった、死者の魂が集うという聖域。

命を終えた魂が行き着く果てが、このような場所だというのだろうか。死者たちが肉体を失い、ただ形のない光となって、永遠に庭を掃き、茶を運び、当たり前に存在し続けている場所。もし旅の果てに待つ光景がこれと同じなのだとしたら――。

 

フリーレンの胸の奥底で、かつて経験したことのない種類の動揺が、冷たい澱となって広がりかけていた。

 

「はー、ここだけ満開だなあ」

 

先行していた魔理沙が感嘆の声を漏らし、とんがり帽子の鍔を押し上げた。

霊夢もまた、お祓い棒を肩に乗せたまま、呆れたように息を白く吐き出す。

 

「満開どころの騒ぎじゃないわね。幻想郷中の春を根こそぎ掻き集めて、こんなところで独り占めしてるんだから」

 

二人の視線の先、庭園の中央にそれは聳え立っていた。

 

他の木々が深い冬の眠りに閉ざされている中で、その一本の巨木だけが、異様な存在感を放って冥界の空を圧していた。天を衝くほどに太い幹は、まるで古の龍の身悶えのようにねじれ、四方八方に張り巡らされた無数の枝は、白銀の世界を覆い隠すほどの天蓋を形成している。

その枝々の先には、凍てつく大気の中で狂い咲くようにして、夥しい数の花弁が薄桃色の花を咲かせていた。満開には至っていない。だが、全体の八分ほどを覆い尽くすその桜花は、吐き気を催すほどに濃厚な芳香を放ち、周囲の雪を熱気で溶かしながら、妖しい光を放っている。

 

巨大桜――『西行妖』。

 

その狂おしいまでに美しい徒花の根底には、生命の輝きとは対極にある、底知れない死の澱みが渦巻いていた。見る者の魂を誘い込んでいるかのような、墨染のように黒い呪いの気配。

 

そして、その巨大な桜の樹の下、雪の積もる石造りの欄干に腰掛け、優雅に足を揺らしている一人の少女の姿があった。

 

薄桃色の髪を肩のあたりで柔らかく切り揃え、頭上には死者を象徴する三角形の白い布をあしらった薄青の天冠を戴いている。身に纏うのは、幽玄な水色と白を基調とした、死装束を思わせる艶やかな和服。片手に揺らす扇は妖しくも雅びやかで、その骨組みは白骨のように白く、地紙は宵闇のように暗い。

 

少女の周囲を、可憐な蝶が幾重にも舞っていた。

しかしそれは昆虫ではなかった。極彩色の燐光を放ちながら、闇を裂くように明滅する、魔力と魂の狭間に揺らめく光の結晶体。触れれば命の灯火を瞬時に消し去るような、冷徹で無垢な死の輝きを纏った蝶たちが、少女の指先の動きに合わせて戯れるように旋回している。

 

少女――西行寺幽々子は、扇を緩やかに翻し、侵入者たちへと視線を向けた。

その瞳は、底の知れない深淵の闇を湛えながらも、春の陽だまりのように柔らかく細められた。

 

「あら、お花見でもしに来たのかしら?」

 

鈴を転がすような、穏やかで涼やかな声が、雪の庭園に静かに染み渡る。

 

霊夢が一歩前に進み出た。その眼差しには、先ほどの妖夢に対するものとは異なる、明確な厳しさが宿っていた。

 

「お花見ならうちの神社でやるわ。集めた春を返してくれる? 下界はあんたの我が儘のせいで、凍え死にそうなのよ」

 

幽々子は扇の端を唇に当て、困ったように首を傾げてみせた。

 

「返してって言われても、困ってしまうわ。まだまだ八分咲きなのよ。もう少しでこの桜……西行妖が、完全に満開になるの」

 

幽々子は愛おしげに、背後の巨大な樹幹へと視線を投げかけた。その横顔には、狂気とも純真ともつかない、途方もない執着が張り付いている。

 

そのやり取りを背後で聞いていたフリーレンは、ゆっくりと歩みを進めた。

雪を踏みしめる靴音が、静寂の中に小さく響く。

フリーレンの翡翠の瞳は、幽々子の周囲を舞う死の蝶を、そして遠くで淡々と作業を続ける丸い霊魂たちを見据えていた。

 

「……ここにいる死者たちは、世界中から集まっているの?」

 

フリーレンの声は、感情を排した無機質な観察者のものだった。

 

「名前や、記憶はあるのかな。生きていた頃の誰かを覚えているの?」

 

その問いに、幽々子は扇を下ろし、初めてフリーレンの姿を正面から見据えた。

二人の視線が交錯する。

何千年の時を生きてなお老いることのない肉体を持つエルフと、遠い過去に命を散らし、亡霊として永遠の座に留まり続ける冥界の主。

 

幽々子は静かに、憐憫を含んだ仕草で首を横に振った。

 

「ここに集うのは、幻想郷という檻の中で死んだ魂だけよ。外の世界の魂がここへ迷い込むことは、滅多にないわ」

 

幽々子は扇の先で、回廊の脇をふよふよと漂うひとつの霊魂を指し示した。

 

「それにね、妖怪の魔法使いさん……あの庭を漂う魂たちを見てごらんなさい。彼らは生前の名前も、誰を愛し、誰を憎んだかも、とうの昔に忘れてしまっているわ。過去の執着も、生前の誇りも、すべて削ぎ落とされて、ただ白玉楼の庭を穏やかに漂うだけの、清らかな存在。それが、ここでの死よ」

 

幽々子の言葉は、残酷な宣告であると同時に、救済の理を説くかのようだった。

苦しみも、悲哀も、遺された者への未練も、すべては時間とともに摩耗し、やがて完全な忘却へと溶け去っていく。ここでは誰も涙を流さず、誰も誰かを求めて叫ぶことはない。永遠の平穏。完全なる安息。

 

だが――その言葉を耳にした瞬間。

 

フリーレンの胸の奥底を満たしたのは、落胆でも、絶望でもなかった。

張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けていくような、深く、静かな『安堵』だった。

 

(……そうか)

 

フリーレンは小さく、誰にも悟られないように息を吐き出した。

 

(なら、ヒンメルがここにいなくてよかった)

 

脳裏に蘇るのは、くだらない自慢話をしながら悪戯っぽく笑っていた青年の顔だった。

鏡蓮華の指輪を薬指にはめてくれた時の、微笑むような優しい眼差し。

民衆に手を振り、銅像を各地に建てさせ、くだらない冒険の思い出を楽しそうに語り合っていた、あの眩しい日々。

 

もしヒンメルの魂が、この白玉楼の庭園に辿り着いていたとしたら。

彼が自分の名前を忘れ、仲間たちと旅をした記憶を忘れ、あんなにも大切にしていた人々との約束すらすべて失って、ただ丸い光となって庭の雪を掃いていたとしたら。

それこそが、本当の死だ。

 

自分が目指しているオレオールは、こんな場所ではないはずだ。

死者が生前の記憶を抱いたまま、遺された者と再び言葉を交わし、想いを受け渡すための場所。忘却による救済などではなく、確かに生きていたという記憶の証明。

 

「魂の眠る地でヒンメルと再会し、言葉を交わす」という自らの旅の目的が、決してこのような「忘却の安息」などではないことを、フリーレンは冷え切った空気の中で、痛切なまでに再確認していた。ヒンメルの記憶は、決して忘れられ消え去ってなどいない。いまも彼自身の魂に、そして自分という千年の器の中に、鮮烈な熱を持って生き続けているのだ。

 

フリーレンの翡翠の瞳に、静かな決意の光が宿る。

その僅かな変化を、幽々子の深淵の瞳は見逃さなかった。

 

幽々子は扇を広げ、自らの口元を隠しながら、フリーレンの存在の根源を透視するように目を細めた。

 

「私には『死を操る程度の能力』……誰の命でも、念じるだけで終わらせる力があるけれど」

 

幽々子の周囲を舞う極彩色の蝶たちが、一斉に妖しい燐光を強めた。

大気中の酸素が失われたかのように、周囲の空間が急速に凍結し、逃れようのない死の重圧がフリーレンたちの肩へと圧し掛かる。

 

「……あなた、随分と死から遠い種族なのね。魂の座が、肉体の奥深くにあまりにも強固に根ざしている。まるで、月からやってきたあの永遠の住人たちみたい」

 

死を司る亡霊の姫と、数千年の悠久の時をただ生き続けるエルフ。

一方はあらゆる命を不可避の終焉へと引きずり込む絶対の『死』の具現であり、もう一方は老いることのない肉体で時の流れを置き去りにし続ける『不老』の異端。

相容れることのない二つの理が、白銀の庭園の中央で真っ向から衝突し、大気が軋むような異様な緊張感が張り詰めていく。

 

「私はただのエルフだよ」

 

フリーレンは赤褐色の杖の先端を、ゆっくりと雪面から持ち上げた。

その身体から、一切の余剰魔力の漏出はない。しかし、彼女の内奥に眠る深淵のような魔力量を直感したのか、幽々子の周囲を舞う蝶たちが、警戒するように羽ばたきの速度を速めた。

 

「元の世界に帰るために、その春を返してもらう。……力ずくでもね」

 

「ふふ、威勢がいいのね。……この八分咲きの西行妖に、あなたたちの春を捧げてみるのも面白そうだわ」

 

幽々子が扇を掲げ、死の蝶たちへと意志を伝えようとした――その瞬間だった。

 

ピシリ、と。

 

硝子にヒビが入るような硬質な音が、雪降る白玉楼の虚空に鋭く響き渡った。

 

幽々子の扇が止まり、霊夢と魔理沙が反射的に背後を振り返る。

フリーレンもまた、杖を構えたまま視線を鋭く走らせた。

 

庭園の片隅、白銀の砂紋と枯れ木の間――何もないはずの大気が、まるで古い織物が裂けるように、横一線に唐突に切り裂かれていた。

 

裂け目の縁には、毒々しいまでに鮮やかな紫色の布地と、幾重にも結ばれた赤いリボンが覗いている。

そして、その裂け目の内側――闇と無数の不気味な赤い瞳が蠢く異界の隙間から、優美な日傘の先端が、音もなく差し出された。

 

「まったく、遅かったわね。冥界の門を開けてあげたというのに、随分と時間を食ったじゃないの」

 

艶やかで、どこか退屈を弄ぶような女の声が、裂け目の奥から滑り落ちてきた。

 

紫色の光の粒子が舞い散る中、空間の亀裂を押し広げて姿を現したのは、豪奢な道士服に身を包んだ金髪の女――八雲紫だった。

手にした日傘を優雅に回しながら、彼女の妖しい紫紺の双眸が、白玉楼の雪景色を、そして見慣れぬ異界の魔法使いを、面白がるように見据えていた。

 

 

 

 

 

 

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