魂の眠る地、死者の庭園 ~フリーレンの幻想入り~   作:龍改二

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第6話 幽雅に咲かせ、墨染の桜 -生と死の境界-

 

空間の裂け目の奥底で蠢く無数の赤い瞳が、白玉楼の冷え切った大気を舐めるように見つめていた。

 

引き裂かれた虚空の縁を彩る毒々しい紫色のリボンが、冥界に吹く風に微かに揺れる。そこから優雅に歩み出てきた八雲紫は、手にした日傘の先を軽く雪面へ触れさせると、まるで初めからそこに存在していたかのように、当たり前の所作で佇んだ。

 

豪奢な道士服の裾が、純白の雪の上に滑らかな影を落とす。その顔には、事態の深刻さなどどこ吹く風といった、底知れない笑みが張り付いていた。

 

「遅かったわね、はコッチのセリフよ紫!」

 

霊夢がお祓い棒を構えたまま、不快感を隠そうともせずに声を尖らせた。寒風に長い黒髪と緋色のリボンが翻る。

 

「今までどこで油を売ってたわけ? 幻想郷中が雪に埋もれて、人間も妖怪も凍え死にそうなのよ!」

 

「そうだぜ、今まで何してたんだ? アリスの家から冥界まで、手がかりを追って飛んでくるこっちの身にもなってほしいもんだな」

 

魔理沙も箒の柄に体重を預け、尖った帽子の下から紫を睨みつける。

だが、その二人の詰問を遮ったのは、西行妖の枝の下に座す幽冥の姫の、鈴を転がすような笑い声だった。

 

「あら、霊夢。紫を責めちゃ可哀想よ。紫はずっと、私のお手伝いをしてくれていたんだもの」

 

幽々子は扇で口元を隠し、細められた瞳で紫を見つめた。

 

「幻想郷中の春を根こそぎ集めて、それを凝縮した魔力へと変える……そんな無茶な芸当、境界を弄れる紫にしかできないわ。彼女が力を貸してくれたからこそ、西行妖はここまで目を覚ますことができたのよ」

 

「……はあ?」

 

霊夢の眉が、これ以上ないほど不快そうに吊り上がった。

 

「アンタも一枚噛んでたわけ? サイテーなんだけど」

 

「人聞きが悪いわね、霊夢」

 

紫は日傘を傾け、切れ長の紫色の瞳を細めてみせた。その表情には焦りも後ろめたさも微塵もなく、ただ冷徹な観察者の余裕だけが漂っている。

 

「私はただ、求められた境界を少しばかり緩めて差し上げただけよ。冬と春、生と死、現世と冥界。隙間を広げれば、零れ落ちたものが一箇所に集まるのは自然の摂理でしょう?」

 

「ハッ、屁理屈だけは相変わらず達者ね」

 

霊夢が吐き捨てるように言い、視線を再び幽々子へと戻した。

 

「紫の言い分はどうでもいいわ。幽々子、いい加減にしなさい。その集めた春を今すぐ幻想郷へ返しなさい。下界でお花見ができなくなったら、博麗神社の参拝客がゼロになっちゃうじゃないの」

 

「お花見なら、ここでいくらでも見せてあげるわ」

 

幽々子は静かに立ち上がり、背後の巨大な樹幹を仰ぎ見た。八分咲きにまで花開いた薄桃色の桜が、重苦しい死の芳香を撒き散らしながら、冥界の冷たい風にざわめく。

 

「この西行妖はね、満開になるとそれはそれは綺麗な花を咲かせたそうよ。……見た者の命を、すべて奪い去ってしまうほどにね」

 

その声音には、恐怖も忌避感もなく、ただ純粋な陶酔が宿っていた。

 

「でも、遠い昔に誰かがそれを封印してしまったの。花が開かないように、根元深くに何重もの結界を施してね。……私はもう亡霊だから、これ以上死ぬこともないわ。だから見てみたいのよ。文字通り『死ぬほど』綺麗な花をね。あと少し……ほんのひと握りの春さえあれば、この樹は完全に目覚めるわ」

 

死者が望む、究極の死の美しさ。

自らの存在の起源すら忘却の底に沈めた亡霊が、ただ盲目的に希求する破滅の開花。

 

「……話通じる相手じゃないわね」

 

霊夢がお祓い棒を右手で握り直した。その足元から、大気を震わせることすらなく、絶対の静謐を帯びた神気が立ち上る。

 

「力ずくで春を吐き出させるわよ」

 

「そうこなくっちゃな! 弾幕戦なら慣れっこだが、今日は本気で叩きのめしてやるぜ!」

 

魔理沙が八卦炉を構え、その砲口に凝縮された熱光の火花が散った。

 

フリーレンもまた、無言で赤褐色の杖を水平に持ち上げた。

雪を踏みしめる靴底から、淡い魔力の波紋が静かに広がる。翡翠の瞳は、幽々子の周囲を漂う極彩色の蝶と、西行妖の根元に渦巻く不気味な魔力の奔流を冷静に見据えていた。

 

「あら、三人で私をお相手してくれるの? 贅沢なことね」

 

幽々子は艶然と微笑むと、手にした白骨の扇を、ふわりと胸の前で開いた。

 

その刹那。

白玉楼の庭園を支配していた凍てつく空気が、一瞬にして圧死するような重圧へと変貌した。

 

幽々子の背後の虚空へ、誘蛾灯のように妖しく明滅する青紫の魔力光が凝縮していく。手元の扇の開帳に呼応するように、それは天を衝く巨大な扇形の領域となって展開された。

そこには現世のいかなる絵師も描き得ない、死者の怨嗟と忘却の安らぎが混ざり合った、妖しくも美しい冥府の御所車の紋様が浮かび上がっていた。

 

「――おいでなさい、死を告げる幽胡蝶たち」

 

幽々子の囁きとともに、扇の紋様から無数の光弾が撃ち出された。

それは単なる魔力の塊ではなかった。羽ばたく蝶の形を取った極彩色の燐光――触れた生者の魂を瞬時に肉体から剥離させ、永遠の眠りへと誘う死の概念弾。数百、数千という数の蝶が、白銀の雪景色を七色に塗り潰しながら、津波となって三人を呑み込まんと押し寄せる。

 

さらにその蝶の群れの合間を縫うようにして、天空を貫くような極太の魔力光線――『鳳蝶紋の死槍』が、何本も雪原を爆砕しながら奔った。

 

「ちっ、華やかだこと。開幕からとんだご挨拶ね!」

 

霊夢が地を蹴り、何の予兆もなく空中へと跳躍した。

放たれた死の槍が霊夢の足元を直撃し、白砂の庭を数十メートルにわたって吹き飛ばすが、霊夢の身体は重力からも、その爆風の衝撃波からも完全に『浮いて』いた。彼女は空中を滑るように進みながら、無数の御札を死の蝶の群れへと散弾のように投擲する。

 

「お返しだぜッ!」

 

魔理沙が箒を急旋回させ、八卦炉から放射状に星型の閃光を乱射した。光と光が空中で激突し、冥界の静寂を切り裂く轟音が連続して鳴り響く。

 

一方、フリーレンは雪の上に佇んだまま、最小限の動きで杖を操っていた。

迫り来る死の蝶の軌道は、不規則で有機的だ。物理的な軌道計算を欺くように、空間の歪みに乗って死角から迫ってくる。

 

フリーレンは自身の周囲に瞬時に六角形の魔力障壁を展開した。

しかし、先ほどの妖夢との戦闘で得た教訓が、即座に彼女の術式を修正させていた。

 

(この蝶も、純粋な魔力弾じゃない。触れた対象の命を刈り取るという『概念』の塊だ。正面から受け止めれば、術者の魂そのものが侵食される)

 

フリーレンは障壁の表面に、魔力の極薄い反発層を幾重にも重ね合わせた。外側の層が侵食された瞬間にそれを切り離し、内側の層で物理的な運動量を相殺する多重結界。

バチバチと、蝶が障壁に触れるたびに、生命の灯火を奪い取ろうとする冷徹な死の波動が硝子を擦るような音を立てて弾け散る。

 

その激しい攻防の只中。

フリーレンの真横の空間が、前触れもなく縦に裂けた。

 

「――あら、あなた。幻想郷の住人ではないわね」

 

生温い風とともに、スキマの中から八雲紫が顔を覗かせていた。

乱戦の激流の中にありながら、彼女の周囲だけは時間の流れが止まっているかのように静まり返っている。

 

フリーレンは視線を幽々子の弾幕から外すことなく、淡々と杖の角度を微調整しながら答えた。

 

「見れば分かるでしょ。私は外の世界から迷い込んだんだ」

 

「それだけではないわ」

 

紫は日傘で自らの口元を隠し、妖しい紫色の双眸を細めた。

 

「その魔力、うまく隠しているけれど……千年以上は生きているわね? 肉体の輪郭と、魂の深みがまるで釣り合っていないわ」

 

フリーレンの眉が、わずかに動いた。

 

「……驚いたな。私の魔力の揺らぎをひと目で見抜いたのは……数えるほどしかいないよ。ゼーリエみたいな神話時代の魔法使いや、魔王くらいだ」

 

フリーレンが生涯をかけて練り上げてきた技術――魔力の隠匿。それは魔族を欺き、油断させ、屠るための絶対の偽装であり、並の魔法使いはおろか、大魔族と呼ばれる者ですらその不自然さに気付くことすら叶わない。

だが、眼前の女は、フリーレンがどれほどの魔力を隠し持っているかを、初見で当たり前のように看破していた。

 

紫は小さく喉を鳴らして笑った。

 

「私はね、境界を操る程度の能力なの。表層の魔力と、内奥の魔力の『境目』……ほかの大妖怪は騙せても、私にはあなたの魔力の境界が見えているわ。完璧にね」

 

紫の指先が、虚空を撫でるように動く。

 

「千年を生きる妖怪なんて、誰も彼も世の理を曲げかねない問題児ばかりよ。……あなたの存在は、幻想郷には少し劇薬すぎるわね。外の理をそのまま持ち込まれては、この世界の脆い均衡が狂ってしまう。ことが済んだら、さっさと元の世界にお帰りなさいな」

 

「そのために来たんだよ」

 

フリーレンは杖の先から無詠唱の魔力光を放ち、肉薄してきた死の蝶の群れを薙ぎ払った。

 

「元の世界に、待っている仲間たちがいるからね。……フェルンや、シュタルクが」

 

「そう。人間の仲間ね」

 

紫はどこか含みのある笑みを浮かべ、視線を庭の中央で舞う幽々子へと向けた。

その時、幽々子の放った『鳳蝶紋の死槍』の一撃が、二人の頭上を掠め、背後の回廊の屋根を轟音とともに吹き飛ばした。粉砕された瓦と木片が雪の上に降り注ぐ。

 

空中を飛翔していた霊夢が、紫の姿を捉えて怒声を浴びせた。

 

「紫ぃ! そこで油売ってないで、あんたが止めなさいよ! あんた、幽々子と友達なんでしょ!」

 

紫は日傘を傾け、平然と肩をすくめた。

 

「お断りよ。そのためにわざわざ結界に穴まで空けて、あなたたちを呼び入れたんだから」

 

魔理沙が箒で急降下しながら、苦々しい顔で叫ぶ。

 

「おいおい、自分勝手すぎないか!?」

 

「驚いたかしら? 私たち妖怪は自分勝手なのよ」

 

紫は楽しげに目を細め、悪びれもせずに言い放った。その開き直った態度に、霊夢は空中でお祓い棒を振るいながら深くため息を吐いた。

 

「そうだったわね、期待した私がバカだったわ!」

 

霊夢は再び身を翻し、無数の御札を扇状に展開して幽々子の死角へと殺到していった。霊夢の展開する不可解な結界が、幽々子の放つ死の概念を無造作に弾き飛ばしていく。理屈のない奇跡と、理屈のない死の応酬。

 

その喧騒を他所に、紫は再びスキマから身を乗り出し、フリーレンの耳元へと顔を寄せた。

その声音から、先ほどまでのふざけた色がすっと消え去っていた。

 

「……これ以上咲かせれば、取り返しのつかないことになるわよ」

 

冷たい囁きが、フリーレンの耳を打つ。

 

「あの木の下にあるものは、触れてはならない生と死の境界。……あれを満開にしてはならないのよ」

 

フリーレンは杖を握る手に力を込め、横目に紫を見据えた。

深淵のような紫紺の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、千年の孤独を抱えた者特有の痛切な翳りが揺らいだのを、フリーレンは見逃さなかった。

 

「……何かを隠しているね」

 

フリーレンは静かに指摘した。

 

「理由は知らないけど、君は彼女のことを気遣っている。……あんなふうに春を奪う手助けをしてまで、彼女の望みを叶えるふりをしながら、同時に霊夢たちを引き入れて止めさせようとしている」

 

紫の眉が、わずかにピクリと跳ねた。

日傘を回す手が止まり、紫はふっと自嘲気味に息を漏らした。

 

「……あら、余計な詮索は無用よ。……友人だからこそ、手を出しづらいこともあるの」

 

不器用で、理不尽で、回りくどい救済の手続き。

己の手を汚すことを恐れているのではない。ただ、千年の友が自らを無自覚な破滅へと追い込んでいく姿を前にして、余計な疑念を抱かせず、そしてその尊厳を傷つけることなく押し留める術を、この万能のスキマ妖怪すら持て余しているのだ。

 

フリーレンは、吹雪の中で舞う幽々子と、その横顔を痛ましげに見つめる紫の姿を重ね合わせた。

 

「理不尽で自分勝手だけど……魔族と違って、君たちには言葉通りの心があるんだね」

 

魔族の言葉は、人類を騙し、油断させるための音の羅列に過ぎない。そこには感情も、情愛も、友を想う痛みすら存在しない。

だが、目の前の妖怪たちは違った。傍若無人で、人間の都合など意に介さず、勝手の限りを尽くしながらも――その胸の奥には、確かに人間と同じ、熱を持った感情が息づいている。

 

「……妖怪か。不思議な存在だ」

 

フリーレンの呟きに、紫は再びいつもの食えない笑みを浮かべた。

 

「……さあ、無駄話はおしまいよ。あの子、いよいよ本気で咲かせる気だわ」

 

紫の姿が、スキマの闇の中へと音もなく沈み込み、空間の裂け目がパチンと音を立てて閉じた。

 

直後、白玉楼の庭園全体を、大地を揺るがすような巨大な魔力の脈動が襲った。

 

西行妖の巨木が、まるで歓喜の悲鳴を上げるかのように枝々を激しく震わせている。幻想郷中から吸い上げられた春の魔力が、その幹を通じて天へと吹き上がり、鉛色の空を狂おしい桜色へと染め変えていく。八分咲きだった花弁が、九分、そして満開へと向かって一斉に開き始めていた。

 

幽々子の身体が、雪面からふわりと浮遊した。

その水色の着物の裾が風に舞い上がり、頭上の天冠が淡い燐光を放つ。胸元に掲げられた白骨の扇から、先ほどまでとは比較にならないほど濃密な、絶対的な終焉の気配を孕んだ魔力が渦を巻き始めた。

 

極彩色の光を放つ蝶たちが、何万、何十万という光の奔流となって空を埋め尽くす。

白銀の庭園は一瞬にして、触れるものすべてを死へと引きずり込む、美しくも残酷な死者の楽園へと姿を変えようとしていた。

 

 

 

 

 

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