魂の眠る地、死者の庭園 ~フリーレンの幻想入り~ 作:龍改二
冥界の冷たい静寂を、底知れぬ地鳴りが引き裂く。
白銀の庭園の中央に聳え立つ西行妖の巨躯が、天を衝く枝々を狂おしく波打たせている。幻想郷中の大地から、木々から、そして人々の肌から奪い去られた「春」の魔力が、目に見えるほどの薄桃色の奔流となって幹を駆け上がり、その樹冠に渦巻いていた。
八分咲きだった桜花が、さらに一輪、また一輪と花びらを開いていく。
その開花は生命の息吹などでは断じてない。かつてその呪いを永遠に封じ込めるために、何者かが命を絶ってまで編み上げた巨大な棺が、狂気によって無理矢理にこじ開けられようとしていた。
「もうすぐよ……。あと少しで……」
西行寺幽々子の姿が、輪郭を失い始めていた。
浮かび上がった足元から肉体の実体感が希薄になり、水色の着物も、肩の上で揺れる薄桃色の髪も、夜の湖に映る月影のように曖昧に揺らめく。
現世のいかなる刃も届かず、あらゆる破壊魔法すら干渉し得ない、完全なる夢幻の領域への昇華。西行寺幽々子という一人の亡霊が、痩せ細った蝋燭の灯火のように、その存在の根幹を失いかけているようだった。
彼女の背後に展開された巨大な扇の魔力紋様が、血を吸ったように赤黒く脈動する。
「――『反魂蝶 -八分咲-』」
白骨と闇夜を湛える扇が、天を仰ぐように掲げられた。
その刹那、白玉楼を覆っていた視界のすべてが、極彩色の光芒によって塗り潰された。
放たれたのは、先ほどまでの牽制など児戯に等しい、圧倒的な死の弾幕。
幾何学的な整列を保ちながらも、大気の揺らぎに乗って狂おしく螺旋を描く無数の蝶。その一羽一羽が、触れた生者の魂を瞬時に凍結させ、冥府の底へと引きずり落とす絶対の死を内包している。白銀の雪原は瞬く間に、毒々しいほどに美しい死蝶の海へと変貌した。
「くそっ、キリがねえ! あんなもん、まともに食らったら魂ごと消し飛ばされるぜ!」
魔理沙が絶叫しながら、箒の加速を極限まで引き上げた。
飛来する蝶の群れのわずかな間隙を縫い、錐揉み回転を繰り返しながら回避機動を取る。その手にある八卦炉は、連続照射による過熱で金属部が赤熱し、ジュウジュウと雪煙を蒸発させていた。
「喰らいなッ!」
魔理沙が放った数条の光線が、霊体化した幽々子の胸元を直撃する。
しかし、大気を焦がすほどの熱線は、幽々子の身体をただの陽炎のように素通りし、虚空へと消え去った。
「効かねえ……!? 霊体化してやがる! 攻撃が全部すり抜けるぞ!」
「当たり前でしょ、相手は冥界の主よ!」
空中を跳躍する霊夢が、お祓い棒を振るいながら叫び返した。
霊夢の周囲には、無意識に展開された透明な境界が幾重にも張り巡らされていた。迫り来る死の蝶がその結界に接触するたび、空間が激しく軋み、硝子が擦れ合うような凄まじい反発音が鳴り響く。霊夢の足先は重力を置き去りにし、空中に不可視の足場を見出して飛び回っていたが、その額には冷たい汗が滲んでいた。
純粋な威力や技術の勝負ではない。
幽々子が纏うその術――『反魂蝶』は、彼女自身の魔力が完全に尽き果てるか、あるいは彼女自らがその意志を取り下げるまで、絶対に破ることのできない「無敵の牢獄」だった。
「このままじゃジリ貧よ! フリーレン! ぼさっとしてんじゃないわよ!」
空中から霊夢の悲鳴に近い怒声が降り注ぐ。
霊夢のお祓い棒から放たれる博麗の神気も、魔理沙が限界を超えて撃ち続ける星型の弾幕も、実体を失いかけている亡霊姫には意味を成さなかった。二人は命懸けで空間を飛び交い、全神経を削りながら、死の蝶の奔流を押し留める防波堤となって時間を稼ぎ続けていた。
その嵐のような死線の只中で、フリーレンは静かに佇んでいた。
吹き荒れる冷風が、白いツインテールと着古したケープを激しく煽る。
迫り来る無数の死の蝶。それは、何百年もの間、冷たい忘却の底に沈められていた死者の無念と、咲くことを許されなかった桜の呪詛が紡ぎ出した、絶対の終焉だった。
その圧倒的な破滅の光景を前にして、フリーレンはゆっくりと杖を両手で構えた。
「ありがとう、霊夢、魔理沙。……もう少しだけお願い」
彼女の翡翠の瞳には、恐れも焦燥もなかった。
庭の中央で霊体化し、虚空に浮かぶ幽々子の姿を、フリーレンは見つめる。
幽冥の姫の瞳には、すでに理性の光は宿っていなかった。西行妖の根底から溢れ出る呪詛の奔流に意識を呑み込まれ、ただ盲目的に、自らを滅ぼすための開花を渇望している。
その狂気と忘却の底で、本人すら意味を理解していない生前の辞世が、うわ言のように唇から零れ落ちた。
『ほとけには……桜の花を、たてまつれ……』
幽々子の細い指先が虚空を掻く。
それに呼応して、展開された蝶の弾幕がさらにその密度を増し、冥界の空を圧殺するように埋め尽くす。光の粒子が雪を蒸発させ、大気そのものが死の冷気で凍りついていく。
『我が後の世を……人とぶらはば……』
その悲痛な歌を耳にした瞬間。
フリーレンの胸の奥で、何かが静かに、しかし決定的に符号した。
(――そっか)
フリーレンは、そっと目を伏せた。
(君はずっと、弔ってほしかったんだね)
仏には、桜の花を供えてほしい。
もしも自分の死後の世を、誰かが悼み、弔ってくれるというのなら。
それは、自らを犠牲にして西行妖を封印した生前の彼女が、冷たい土の下へ沈む直前に遺した、たったひとつの切実な願いだったはずだ。
だが、その記憶すら忘却の庭に溶け去り、残されたのは「桜を咲かせたい」という歪んだ執着の抜け殻だけ。死の底で永遠に彷徨い、自らが何のために死に、何を望んでいたのかすら思い出せないまま、冷たい雪の中で咲かぬ桜に焦がれ続けていた。
誰からも弔われることなく、自らを弔う言葉すら失って。
「……フェルンなら、きっと怒るだろうな」
フリーレンは小さく呟いた。
怒って頬を膨らませる弟子の顔が、脳裏をよぎる。
でも――。
「ヒンメルなら、きっと笑って褒めてくれる」
フリーレンは両足をわずかに開き、雪の地面をしっかりと踏みしめた。
赤褐色の杖を、両の手で真正面へと掲げる。
その刹那。
フリーレンの華奢な身体から、世界を揺るがすほどの圧力が解き放たれた。
ドォ、と。
白玉楼の庭園を満たしていた冷気が、一瞬にして逆流した。
フリーレンが千年の歳月をかけて編み上げ、自らの皮膚の直下に完璧に閉じ込めていた魔力の隠匿。魔族を欺くために極限まで絞り込んでいたその強固な制限が、いま、完全に解除されていた。
「なっ……!?」
空中を飛翔していた霊夢が、息を呑んで視線を地上へと落とした。
「マジかよ。……今まで隠してたのか」
魔理沙もまた、魔力の重圧に煽られた箒を咄嗟に立て直しながら目を剥いた。
地上に立つエルフの周囲の大気が、青白い光の陽炎となって揺らめいていた。
それは底の見えない深淵。周囲一帯を呑み込むほどの、遥かな過去から連綿と積み重ねられてきた、気の遠くなるような魔力の総量。
魔理沙の持つ八卦炉が、測定不能の魔力密度を感知して甲高い軋み音を立てていた。不自然な底知れなさなどという生ぬるいものではない。目の前に現出したのは、ただそこに在るだけで世界の輪郭を歪めてしまうような、規格外の大魔法使いの真の姿だった。
だが、解放されたその莫大な魔力は、破壊のためには動かなかった。
殺意の閃光を放つでもなく、封印の結界を編むでもない。フリーレンの杖の先端に集約された途方もない魔力は、ただどこまでも柔らかく、静かに、白銀の雪原の底へと浸透していった。
凍てつく大地を温めるように。
何百年もの間、冷たい忘却に晒され続けてきた死者たちの足元を、優しく包み込むように。
千年の記憶の奥底。かつて師フランメが教えてくれた、くだらない、しかし何よりも愛おしい魔法。
フリーレンは翡翠の瞳を静かに開き、その術式の名を口にした。
「――『花畑を出す魔法』」
その言葉が、冥界の静寂に落ちた。
霊夢も、魔理沙も、そしてスキマから覗いていた紫ですら、息を止めた。
この極限の死線の果てに放たれたのが、あまりにも他愛のない、民間の魔法であったことに。
しかし、その術式を駆動させたのは、数多の魔族を屠り続けてきた大魔法使いの、底なしの魔力だった。
大地が低く鳴動した。
白玉楼の広大無辺な庭園。手入れされた白砂の砂紋の下から、凍てついていた土の奥底から、無数の生命の萌芽が一斉に芽吹いた。
雪を押し退け、氷を割り、青々とした若葉が猛烈な勢いで地表を覆い尽くしていく。
そして、咲いた。
一輪、十輪、百輪、千輪――。
瞬く間に白銀の庭園を端から端まで埋め尽くしたのは、息を呑むほどに鮮烈な、青い花々の海だった。
花弁の中心に淡い光の粒を湛え、夜空の星屑を地上に散りばめたかのように発光する、可憐な花。
かつて、勇者ヒンメルの故郷に咲き乱れていた花。
彼が愛し、フリーレンが弟子とともに何ヶ月もの時間をかけて探し求め、彼らの旅路の節目ごとに手向けてきた、記憶の花――『蒼月草』。
視界のすべてが、純白の雪景色から、幻想的な蒼の絨毯へと塗り替えられていく。
西行妖の巨木の根元も、白玉楼の庭先も、凍てついていた池の縁すらも、淡い光を放つ無数の花弁によって埋め尽くされた。
そこから立ち上ったのは、死の冷気を力づくで吹き飛ばす熱量ではなかった。
日だまりのような、どこか懐かしく、穏やかな春の陽気を思わせる、濃密な生命の温もりと香気。
「……ぁ…………」
空中で猛威を振るっていた幽々子の扇が、ぴたりと止まった。
その変化は、理屈を超えていた。
空を埋め尽くしていた無数の『反魂蝶』。生者の命を刈り取るために放たれた極彩色の死の弾幕が、突如としてその殺意の軌道を失ったのだ。
蝶たちは、物理的な衝撃で叩き落とされたわけではない。
白玉楼を埋め尽くした蒼月草の放つ、圧倒的な生命の温もりと優しい香気に当てられ、まるで長い冬を越えてようやく春の光を見出したかのように、その羽ばたきを緩めていた。
一羽、また一羽と、極彩色の光を帯びた死の蝶たちが、ふわりと高度を下げていく。
それらは命を奪うためではなく、ただ咲き誇る青い花弁の蜜を求めるように、蒼月草の絨毯の上へと音もなく舞い降り、静かに羽を休めていった。
花の上に留まった蝶は、自らの宿業から解き放たれたように、淡い燐光となって青い花弁の中へと吸い込まれ、消えていく。
何万という死の弾幕が、ただ青い花畑に抱かれるようにして、次々にその姿を消していった。
嵐のような重圧は去り、白玉楼にはただ、花びらを揺らす微風の音だけが戻っていた。
「……綺麗」
幽々子の唇から、ぽつりと声が零れ落ちた。
背後に浮かび上がっていた冥府の巨大扇が散り花のように霧散し、陽炎のように頼りなく揺らいでいた彼女の身体が、その輪郭を取り戻していく。
完全な無敵を誇っていた術式を解除したのは、力でも言葉でもなかった。どこまでも青く美しい花畑の光景が、幽々子自身の内奥から、戦う理由そのものを浄化したのだ。
幽々子はゆっくりと、雪の代わりに青い花弁が敷き詰められた地面へと降り立った。
その草履の底が、柔らかい蒼月草の感触を確かめるように沈み込む。
彼女はしゃがみ込み、足元に咲く一輪の青い花に、そっと指先を触れた。
花弁から伝わってくるのは、死者の国には決して存在し得ない、確かな生の温もりだった。
「桜以外に、こんなにも綺麗な花を見たのは、初めてだわ。……とても、暖かいわね」
幽々子の双眸から、先ほどまでの底知れぬ狂気が完全に消え去っていた。
深淵の闇を湛えていた瞳は、春の小川のように澄み渡り、そこには憑き物が落ちたような、穏やかな寂寥が漂っている。
彼女の心の奥底に何百年も巣食っていた、満たされることのない渇き。自らが何者かも分からず、ただ冷たい死の淵で叫び続けていた魂の痛みが、この見渡す限りの青い花畑に包まれることで、一瞬にして静かに満たされてしまっていた。
幽々子は立ち上がり、自らの背後に聳え立つ巨大な西行妖を仰ぎ見た。
八分咲きまで開いていた桜の花弁が、まるで自らの役目を終えたと悟ったかのように、静かにその開花を止めていた。狂乱の魔力の奔流は収まり、樹全体を包んでいた死の呪詛が、穏やかな眠りへと沈み直していく。
「……咲きもしない桜に躍起になって、なんだか、バカらしくなってしまったわ」
幽々子は骨のように白い扇をパチンと閉じ、自嘲気味に、しかしどこか晴れやかに微笑んだ。
「本当に美しいものは、何かを冷たく奪うようなものではないのでしょうね。むしろ何かを与えて、暖めてくれるような。……ふふ、おかしな話ね。私はもう死んでいるのに」
幽々子の言葉は、雪解けの水のように静かに庭園に染み渡っていった。
彼女は愛おしそうに青い花畑を見つめ、それから西行妖の太い幹へとそっと手を伸ばした。
「この桜を封じたという誰かさんも、それを知っていたのかしら」
自分が命を閉じた理由も、その棺の中に眠る自らの亡骸の存在も、彼女は思い出すことはない。けれど、もうそれを無理に暴く必要がないことだけは、その魂が本能で理解していた。死者は死者のまま、美しく手向けられた花の中で眠ればいいのだと。
「……驚いたわ」
庭園の片隅、空間の裂け目の縁に腰掛けていた八雲紫が、日傘を畳みながら溜息混じりに呟いた。
紫の妖しい双眸には、いつもの底知れぬ嘲弄の色はなく、ただ純粋な呆れと、隠しきれない感嘆が揺らめいていた。
「ただ、花を咲かせただけで。……西行妖の封印すら揺るがしかねなかったあの子の執着を、まるごと包み込んでしまうなんてね」
フリーレンは赤褐色の杖を下ろし、ゆっくりと息を吐き出した。
解放していた莫大な魔力を、再び何事もなかったかのように自らの内奥へと押し込め、完全な隠匿の殻の中へと沈めていく。
「だって」
フリーレンは蒼月草の青い絨毯を足先で揺らし、淡々とした、しかしどこか誇らしげな口調で答えた。
「綺麗な花が見たいって、言っていたからね」
その言葉に、紫は一瞬だけ目を丸くし、やがてくすくすと喉を鳴らして笑い出した。
「そうね。あなたの言う通りだわ、長生きな魔法使いさん」
直後、西行妖の枝先から、眩い光の粒子が一斉に解き放たれた。
幽々子が西行妖への魔力供給を完全に止めたことで、抑え込まれていた春が溢れ出したのだ。
樹の中に無理やり閉じ込められていた、幻想郷中の「春」の魔力。
それらが何千、何万という淡い光の帯となって天へと立ち上り、冥界の鉛色の空を突き抜けていく。雲の切れ間から本物の陽光が差し込み、凍てついていた大気を心地よい微風が撫でていく。
奪われていた季節が、あるべき場所へと還っていく。
冥界の空を越え、幽明結界を抜け、地上の博麗神社へ、魔法の森へ、人里へと、暖かな春の息吹が溶け広がっていくのが感じ取れた。
「……終わった、のか?」
魔理沙が箒を地面に下ろし、呆然と空を見上げた。
その隣で、霊夢もお祓い棒をだらりと下げ、深く、長いため息を吐き出した。
「まったく……えらい目に遭ったわ。でも、これで里にも春が戻るわね」
霊夢は着物の袖で額の汗を拭うと、足元に広がる青い花々を見下ろし、それからフリーレンへと視線を向けた。ぶっきらぼうな表情の裏に、確かな光を滲ませながら。
白銀に閉ざされていた死者の庭園は、いまや一面の青い光に包まれ、静かな春の訪れを迎えていた。
西行妖の根元で微笑む幽々子と、日傘を回す紫。
そして、役目を終えた赤褐色の杖を握り、遠い世界の空を想うフリーレンの佇まいが、その幻想的な風景の中に静かに溶け込んでいた。