94:回帰
それからのヤンは撤退の準備に追われた。言峰を大広間の入り口の外に横たえ、バーサーカーに岩で通路を塞いでもらう。ただし、大広間の内側から。
そうしておいてから、ライダーが駆るペガサスで天井の穴から上に出た。そして、霊体化できる者は霊体化し、不可能な者はそそくさと山道を駆け下りた。
近づいてくるサイレンと回転灯に冷や冷やしながら。キャスターの予想より、警察や消防の到着は10分は早かったのだ。
士郎たちはそれで済んだが、柳洞寺に残ったキャスターは一世一代の演技をする羽目になる。遠い親戚の不幸の相談をしに来たところに、至近距離で起きた災害に怯える美女という役どころだ。
寺から離れられない住職夫妻と息子たちに代わり、帰宅してきた葛木宗一郎がタクシーで送ってきてくれた。彼女の教え子たちは、彼にとっても生徒で、先ごろの不幸をきっかけに顔見知りとなった。(という暗示をかけるのも、キャスターの寺通いの理由である。)
教師という安定した職業、年頃もよく、人柄も申し分ない。無愛想なのが玉に瑕、いい人なのに……と思っていた住職夫人は、キャスター嬢と葛木の様子に脈ありと思ったそうな。
それが、円蔵山の洞窟崩落事故における、まだしも明るい話題だった。夜が明けるのを待って、洞窟の捜索を開始した消防と警察が発見したのは、落石で埋まった通路に倒れた言峰綺礼であった。
孤児の監禁と虐待、そして十年前の連続児童誘拐殺人の容疑者。医師による診察の結果、数時間前に死亡したことが確認された。
当初、目立った外傷はなかったが、検死の結果、心臓破裂が判明した。急性心筋梗塞などでまれに起こる病状である。
落盤事故による死ではなく、たまたま洞窟の崩落が重なったのだろう。大いなる意志が罪人を告発するかのように。
「
警察官らは肩を落とした。
「しかし、これじゃ、子どもがあんまりにも可哀想だ」
被疑者死亡で刑事告訴はできず、書類送検に終わるだろう。孤児たちの救済は、民事訴訟に託されることになる。言峰が所属していた聖堂教会は支援を申し出ているが、世間の目は冷たい。犯行を見抜けなかった組織を信用できるか。
結局、子どもたちは行政の手に委ねられることになりそうだ。
そして、言峰綺礼の犯罪との関連は不明だが、警察が捜索していた空き家から、左腕を失った外国人女性が発見された。発見当初は意識不明の重体だったが、現在は回復に向かっているとのことだ。
そうしたニュースがテレビから流れてくる。もう明日は期末考査。高校受験の翌々日、教職員はその採点に追われ、在校生は休みだ。期末考査の最後のテスト勉強の日である。
それを口実に、衛宮家には聖杯戦争に関わった高校生が一堂に会していた。勉強にはろくすっぽ手を付けていなかったが。
「なあ、この女の人って、ランサーのマスターか?」
「おう。あの野郎に腕をバッサリ切られてな。
逃げはしたが、てっきり死んじまったとばかり……」
戦場を駆けたランサーの経験は正しい。四肢を切断するほどの重傷は、すぐに手当をしないと間違いなく死ぬ。間違っているのは、ランサーの本当のマスターの頑丈さだ。
「……こう言っちゃ悪いけど、ジジイの同類じゃないだろうね?」
疑惑の視線を向ける間桐慎二に、ランサーはひらひらと手を振った。
「それはねえな。やたらと頑丈で力が有り余ってるだけだ」
ではバーサーカーの同類かと士郎は思ったが、賢明にも口には出さなかった。
「そ、そうか。……ランサー、見舞いに行くのか?」
「さぁて、どうすっかねえ。俺ももうすぐ消える身だ」
ランサーの視線は、炬燵で微睡んでいる黒髪の青年に向けられた。残りの召喚期間で、出来るかぎり魔力を補充し、イリヤの令呪でブーストして船を呼ぶ。それに希望する者を乗せ、出航すると彼は言った。
「サーヴァント召喚のシステムから考えると、
『世界の外』に出れば、座に自動的に戻るんだろう?
本物だったら、アルゴルやヘラクレスαぐらいは行けたんだけどなあ」
こともなげに言われて、現代人は呆気に取られたものだが。
「とにかく、ここで我々が消えてはイリヤ君が困るわけだ。
セイバーの望みは叶えてあげられないが……」
「いいえ」
セイバーは首を振った。
「もう必要がなくなりました。
私は力の限り、戦い、歩んできました。
私が歩みを止めても、人は歩き続けてくれる。
だからよいのです。やり直しなどしなくても」
セイバーは士郎の参考書を開いた。
「私の国に襲い来た蛮族も、必死に生を選ぼうとした人々だったのですね」
ページに記されていたのは、『ゲルマン民族の大移動』。
「正義とは時と場所、立場によって異なるとあなたは言いました。
それは正しい。ですが、全てではない。
もっと、
『皆が笑顔でいられる国を』」
アルトリアの抱いた最初の願い。
「キリツグの願いもそうだったのでしょうか。
その答えの一つがこの国にはあります」
「君は何だと思う?」
「豊かさです。皆で分かち合えるなら、争いはずっと少なくなる」
セイバーは切なげに微笑んだ。
「私は十年で十二の戦いを経験し、勝ち続けて来ました。
乏しい糧を争い、争いが続き、さらに国が貧しくなっていく。
剣を捨て、鍬を握っても追いつかない。また、奪われるのです」
気候の変動という、人の抗えぬもの。それがセイバーの真の敵だった。
「鞘を取り戻しても、聖杯に願っても、
この星そのものは変えられないでしょう」
「……そうだね。私の時代ではなおさら無理だ。有人惑星が沢山あるんだよ」
翠の瞳を瞠ったセイバーに、ヤンは不器用にウインクした。
「それでも、凛の家にあった壺が、私の時代まで残ったんだ。
この奇蹟のような時代も、少しでも長く続くといいね。
核の炎に失われることのないように。
士郎君たちの子孫もそうなることを願っている。
何か、残せるものがあるのだとしたら、平和が一番だ」
「そうですね……」
戦いを駆け抜けた王と智将は、見果てぬ夢の世界に降り立ったのだ。それがなによりの報酬だと、セイバーは考えるようになっていた。
「そう願いながら、私は逆のことばかりしてきて、死んでからまでやってしまった。
まったく度し難いことだよ。せめて、これ以上の犠牲は出したくないんだ」
聖杯を入手しないかぎり、セイバーは死の寸前へと戻る。ヤンの船には乗せられず、イリヤに取り込まれることもない。それを知っての言葉だったのだろう。
「さて、エミヤ君はどうするかい?
君はキャスターが招いたサーヴァントだ。
彼女には、何らかの算段があるかも知れないが……」
「……私もあなたの船に乗せていただくとしよう。
イリヤの体のことを考えると、負担は少ない方がいい」
「俺もそうするぜ。あの結界の本物をこの目で見られるんだろ?
ちっこい嬢ちゃんのことを思うなら、
バーサーカーのおっさんも乗るだろうよ」
「はあ」
ヤンは髪をかき回した。
「じゃあ、ちょっと、休んで力を蓄えないと……」
そう言ってから、微睡むか、横になっているかのどちらかだ。目を覚ますと、イリヤや凛に取り巻かれ、エミヤは茶を淹れと、下にも置かぬ扱いだった。ぎりぎりで消滅を免れたとはいえ、瀕死に近い状態なのである。
ウェイバー講師からの情報提供で、イリヤとヤンのラインを分割し、凛も魔力を供給してはいる。だが、栓をしていないプールに給水するようなものだ。
「ううー……。くらくらする……」
「大丈夫ですか、姉さん?」
目の下に隈を作った凛を桜が気遣う。
「こんなんでテストなんて無理かも……」
嘆く穂群原学園二年の不動のトップに、万年二位も溜息を吐いた。
「チャンスと言いたいところだけど、僕もさ。
期末直前に一週間も休んじゃね。
ところで衛宮。ノートはもっと要点を押さえて取れよ!
黒板を全部写したって意味ないぞ!」
「へっ!?」
「僕と同じ選択科目だから借りたのに……」
「す、すまん」
「原文なんて、教科書にあるだろ。
そっちにも書き込んで、要点をノートに抜き出すんだよ。
どうせ、復習の時は一緒に見るんだから」
士郎はビシリと固まった。高みにいる人間は、平均点のやや上にいる士郎と勉強のやり方が違う。
「……すみません。部活とバイトと鍛錬でそういうのあんまり……」
「まあ、いいじゃないか。落第さえしなければ」
うたた寝から覚めたアーチャーが仲裁に入った。
「私なんて、興味ない教科は及第ぎりぎりだったよ」
ほっとする士郎に、慎二は眉を逆立てた。
「そこで安心するな!
普通の普通と、トップクラスの下には巨大な差がある。
おまえ、フルマラソンを二時間半で完走できるのか?」
「や、フルマラソン自体がちょっと無理かも……」
「そりゃ私も無理だ」
のほほんとしたアーチャーにも慎二は噛み付いた。
「通信教育で、東大相当に合格するような変態は黙っててくれよ!
聖杯戦争を隠すには、遠坂と衛宮は普段どおりの成績でないとまずい。
衛宮は藤村先生に突っ込まれる。遠坂なんてもっと厄介だ」
黒髪の青年は肩を竦め、黒髪の少女は頭を垂れた。
「やっぱりまずいかしら……」
「たしかにその顔なら、体調不良で追試にできるかもしれないけどね。
……凄い隈だぜ。大丈夫か?」
「あんたに心配されるだなんて……。ありがと、慎二……」
そうしたやりとりに、ヤンは微笑んだ。凛に新たな友人が生まれようとしている。複数の海流が交わり、豊かな幸を君にもたらさんことを。
そして……。