掟の底食い 作:ちわわのちくわ、
クロコダイルが活動拠点として構えるレインベースは、乾ききったこの国にあって唯一、潤沢な水を保有していた。
革命軍の内乱などまるで関係無いかのような賑わいで、人々は夢の国と呼んでいる。
中心には国内最大規模のカジノ、レインディナーズ。湖の真ん中に浮かぶピラミッド型の豪奢な建物の頂点には、増築された黄金に輝く巨大なワニのオブジェが鎮座し、訪れる者たちを見下ろしている。
長い干ばつで疲弊したアラバスタであるが、栄えているのには降雨の他にもう一つ理由がある。
レインディナーズの客の多くは観光目的の外国人なのだ。
入国の多くを占めるリッチ国はアラバスタに比較的近くに位置し、島の磁気の噛み合いや相性がいいのか航路は安定していた。
かの国の特徴としては、経済的に著しく発展して財政豊かだが、国民性ゆえか娯楽産業が発展していない。なのでレインベースは国民にとって都合の良い可処分所得の使い道とバカンス地であり、レインディナーズの収入源にもなっていた。
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まだ夜の寒さの残る朝、従業員は開店前の準備に追われていた。金はもちろん、提供する飲食物の準備、清掃、チップの一枚に至るまで磨く。
事務方やバーテンダー、コックなど様々な職種の人間が集まっているが、主役を選ぶならやはりディーラーだろう。
厳かなホールで多数のカジノテーブル、スロット台が整然と並んでいるが、中央フロアはまた違った雰囲気があった。
そこだけ意図的に照明が絞られ、各種カードゲームを含めたハイリミットテーブルが高い天井からスポットライトを浴びている。いわゆる高額レートのVIPテーブルだが、個室とは別にプレーヤーの優越感や周囲の射幸心を煽るため、意図的に衆目を集める造りになっていた。これが案外評判がいい。
そんなラグジュアリーな空間で、ひときわ目を引くのはカジノの女王ことルーレットだ。
ディーラーのオド=ギンブルはこの台が気に入っていた。黒をベースとした丸みを帯びた大きなテーブルと紺のレイアウト*1は、艶やかな赤茶色の木目が美しいルーレットウィルを引き立てている。
ルーレットなのだから、ウィルが一番目立つべきだというのが彼の信条だった。
鋭い目つきと顎髭から粗野なイメージを持たれるオドだが、仕事に関しては非常に繊細だった。毎朝必ずウィルを丁寧に分解清掃する。アラバスタという土地柄、どうしても細かな砂の粒子がカジノ内に紛れ込んでくるからだ。最後に水準器を置いて盤面を水平に調整した。
ターリットを握り、僅かな粘りを感じながらウィルを回転させ、純白のボールを走らせる。手に馴染んだ22㎜だ。
ボールは0のポケットに落ちる。
「おはようございます!」
背後から弾むような声が響いた。
振り返ると、最近給仕として雇い入れた
そしてなにより谷間を見せつけるような際どいバニーガールの装いは、瞬く間に客やカジノで働く男たちの情欲を掻き立てた。
「ああ、おはよう」
答えながら、オドの視線はウミの胸元に吸い寄せられる。その胸は豊満であった。
こうした美女が仕事前に話しかけてくるのは、彼の自尊心を大変満足させる。
ボールは1のポケットに落ちる。
「すごぉーい……さっきは0でしたよね。今、狙って落としたんですか?」
ウミが盤面を覗き込むように少し前かがみになると、双丘は重力を伴ってたわわに形を変えた。
桜色の蕾がもう少しで、み、見えっ……ない! なぜ! 見えないがオドも少し前かがみになる。
「まあな。ハイレートで遊ぶ客は大抵スピン後に賭けるから、ディーラーがチップを見て落とす場所を変える事は出来ないが」
「じゃあまぐれで大勝ちしちゃうお客さんもいるんですか?」
「そういう事もあるが、トータルではきちっと回収するさ。客の視線や態度、賭け方のクセで大体はどこにチップを置くか予測できる、俺レベルのディーラーならな」
オドはその手の嗅覚に長けていた。
おおよその客のベットを読み、黒が続いたから次は赤のはず、奇数が続いたから、などといった博徒が縋りそうな流れを作り、それを裏切るようなスピンをする。
なるほどね、とナミはウィルに視線を向ける。
(ハイリミットテーブルのくせに0が一つしかないのはその自信の表れか)
ルーレットの出目は1~36の赤と黒、そして台によるが緑の0の計37マスだ。
一つの数字のみにベットした場合の倍率は35倍(賭け金返還含めば36倍)だが、確率は1/37。この倍率と確率の差をハウスエッジと呼び、差が大きければ大きいほど店にとって有利となる。
なので緑の出目は2~3が主流だ。シングルゼロ《0が一つ》のこの台は、オドの腕の高さの表れだろう。
雑談の間に、ボールは2のポケットに落ちる。
これを37まで順に続けるのがルーティーンだった。
「やっぱりみんなが言ってた通りだ……」
ナミは聞こえるような独り言を口にして、ぱっと花を咲かせたような笑みを浮かべる。
「オドさんは、このカジノで一番のルーレットディーラーなんですね!」
「ルーレットだけじゃない、おれはポーカーでもバカラでもブラックジャックでも何でも出来る」
「すごーい! まさにカジノの支配者ですね!」
気を良くしたオドは、指間でチップを滑らかに弄ぶ。
(なるほどね、技術は本物。腕に絶対的な自信があるからこそ、過信しているタイプか。一度崩れれば脆そうね)
胸中で分析しながら、次の餌を放る。
「わたしなんてイブンさんに小言を言われてばかりなのに……」
オドの顔から余裕の笑みが消え、苦々しい影が落ちた。
「あいつか……ま、気にするなよ。誰かに文句を言う事でしか、自分が仕事をしている実感を持てないんだ」
「しーっ、オドさん、相手はカジノマネージャーですよ」
「おれから言わせれば、あんなやつは大したことないね。オーナーが交代した際、新オーナーと支配人に媚び売って今の地位にいるようなもんだしな……ディーラーとしての腕も俺より下だ」
ホールの奥から、規則正しい革靴の足音が近づいてくる。
「……チッ、おでましだ」
オドは舌打ちして表情をビジネス用に戻し、ナミに向かってしっしと手を振った。
「もう行きな。イブンがうるさいぞ」
「あ、はい! すみません、オドさん!」
ナミは可愛らしくお辞儀をすると、すれ違いざまに歩いてくる男へと視線を送った。
カジノマネージャーのイブン=ギンブル。弟のオドとよく似た面立ちだが、その表情は冷徹で、隙がない。
オーナーからの信頼も厚いらしく、オーナー交代時にカジノマネージャーに抜擢された。ディーラーを含めた従業員たちからは徹底した職業意識を恐れられている。
「オド」
すれ違うナミに一瞬だけ鋭い視線を向けた後、イブンは弟の前に立った。
「ウィルの水平調整は終わっているか? お前の腕を疑っているわけじゃないが、万全を期してくれ。いつもの投げ込みの途中のようだが」
マネージャーとしての淡々とした確認。そこに他意はなく、むしろ弟の仕事を信頼し、気遣うような色が僅かに含まれていた。だが、オドにとってその気遣いこそが、何よりも鼻につく。
「……言われなくてもわかってるよ、マネージャー殿」
オドは横を向いたままウィルを回し、冷たく言い放った。
「おれの腕がレインディナーズで一番な事くらい、おまえ自身がよく知っているはずだ。余計な心配をするヒマがあるなら、上のオフィスで支配人の相手でもしていればいい」
「……そうか。ならいい」
弟のあからさまな棘のある態度にイブンはそれ以上追及することなく、静かに眉間を寄せただけで足を開場準備の整うフロアへと向けた。
オドにとってイブンは目の上のたん瘤だった。歳はそう変わらないもののかたやカジノマネージャーで自分はディーラーだ。
そもそも奇妙な話だ。支配人とは一般にカジノマネージャーを指すが、代替わりしてから別の下位役職として扱われ、現女支配人のミス・オールサンデーとやらは仕事を副支配人に丸投げしている。
オドは一度、イブンにポーカーで勝負を持ち掛けた事がある。二人で飲んでいた時の事だ。気にくわない兄をギャンブルで叩きのめしてやろうと思って。
だが何を賭けるかという話になって、イブンが笑いながら「負けた方がカジノを去る」と条件を出すとオドはアルコールで口を誤魔化してうやむやにした。
それはオドにとって耐え難い恥辱であったが、だからといってそれを発露させ勝負する事も出来なかった。
やがて開店時間がやってくる。
オドは今日も客を転がした。ほどほどに勝たせてやり、回収するべき所は回収し、止める所はきっちりと止める。止める、とはつまり無謀なベットでの大勝ちだ。
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乾いた夜風がカーテンを揺らす、レインベースの外れにある宿の一室。カジノから帰還したばかりのナミが、自分の肩を叩きながら大きく息を吐き出した。
「ふぅーっ! もうクタクタ……っ! あの広いフロアを重たい酒瓶やグラス抱えて歩き回るだけでも重労働なのに、酔っ払ったオヤジどもの相手まで笑顔でさせられるんだから!」
言いながら、どかっとソファに身を埋めて大きく背伸びする。
「お疲れ様、ナミちゃん。連日仕事をこなしながらの内偵は疲れるでしょう……これでも飲んで落ち着いて」
「ん、ありがと」
ステューシーから受け取ったカップから、エキゾチックな香りが漂ってくる。
アラバスタ固有のスパイスを煮詰めた濃厚なミルクティーだ。一口飲むと、ピリリとした香辛料の刺激の後に強い甘味が広がる。疲れた身体を内側からじんわりと癒してくれる一杯だ。
「んーっ、美味しい! 疲れが吹き飛ぶわ~」
少しだけ目を閉じ、気持ちを切り替えて頬を軽く叩く。
「今日は金庫番に探りを入れてみたけど、レインディナーズの金庫規模はステューシーの見立て通り80億から多く見積もっても100億程度ね」
「ありがとうナミちゃん。これで目標金額がはっきりしたわ。経営陣が火消しに動くラインとしては保有金額の10%以上の損失。つまりクロコダイルをおびき寄せる為、私たちはカジノから10億ベリーを引き出す必要がある」
アーロンの懸賞金がかすむほどの途方もない金額に、モアとビビは現実感を保てない。
「だったら、勝負はルーレットね」
ナミの具体的な一言で空気が変わった。
「ハイリミットテーブルならマックスベット*2が1000万ベリー。ストレートアップ*3で勝てば一撃で3億5000万ベリーの損失を与えられ、ルールもシンプルでモアに駆け引きを覚えてもらう手間が省ける。ディーラーのオドは手練れだけど能力を使えばどうとでもなるし」
「けどあそこはクロコダイルが来る前から続く伝統あるカジノよ……今はヘンなワニの像が建ってるけど」
ビビが口を挟んだ。
「いきなりモアさんがハイリミットテーブルに着く事は難しいと思う」
「そこは本人に頑張ってもらうわ。入り浸ってる飲んだくれの夫人がいるから、気に入られて紹介してもらって」
「どうやって気に入られればいいんだ?」
「ローグタウンでおばちゃん相手に値切ったんでしょ? だいたいそれと同じことをすればオッケーよ」
いけるのか、それで。ビビとステューシーは互いを見やる。まだ世間知らずが残るモアには荷が重そうだが、まあ、付き合いの長いナミがそう言うならなんとかなるのだろう。
「ストレートアップで三回勝てば計10億5000万ベリー……目標の10億ベリーに十分届く。それに──」
カジノにはフロアに流通するチップの総額の現金を保有する義務があるが、海賊のクロコダイルが遵守しているかは怪しい。また、ステューシーの調べではバロックワークスに直近で大規模な武器の密輸調達があった。おそらく反乱軍に流すのだろう。
その金がカジノの金庫から拠出されているとすれば、モアたちの仕掛けによる損失割合は全体の15~20%に達すると考えられる。経営的には大やけどを防ぐために何らかの手を打たなければならない絶対防衛線。
「──それに1/37を三連続で当てるとなると1/50000の確率」
ナミはシニカルに笑って続けた。
「幸運で済まされる領域を遥かに超えているけど、だからこそクロコダイルの餌になる。イカサマで10億ベリーを自分の財布から抜かれて黙っていられる性格ではないでしょ?」
「そうね。あのプライドの高さだもの。必ず自分の手で始末を付けに来る」
通常、この手の損失にはセキュリティと相談して対応を決める。
イカサマの手口がわからなければその時点の金を支払い帰って頂く。
あるいは実務処理を理由に後日支払いにして調査の為の時間を稼ぐ等が考えられるが、それではアラバスタの英雄、七武海としての格好が付かない。
本人が直接、必勝のゲームを持ち掛けて取り返しに来るだろう。
モアと直接邂逅させる千載一遇。掟を立てるチャンスはそこしかない。
ナミが腕を組んで考え込む。
「となると、アウェイの雰囲気は作りたくないわね……モアが10億5000万ベリーを手にした時に、周りからイカサマを疑われるより祝福されるような状況の方がクロコダイルにとってプレッシャーだし、よりメンツを気にして表に出てくるはず」
モアが周りの客にとって鼻持ちならないビギナーズラックなら、代理のプレーヤーで勝負を持ちかけて金を回収しても店の評判は落ちないが、逆であるならばオーナークラスが直々に勝負を挑まなければ臆病と捉われかねない。
それはクロコダイルの性格にとって我慢ならないはず。
ステューシーは唇に人差し指を当てて試算した。
「んー、アーロンの賞金はまだほとんど残ってるわよね?」
「そうだけど? ローグタウンで物資調達しただけだし」
「なら使い方を任せてくれる? モアくんが応援される方向で調整したいから……それと、クロコダイルが持ち掛けてくるであろうゲームってイカサマよね?」
「もちろん見当はついてるわ。見て。レインディナーズの鍵付き保管庫から盗んできた」
ナミは新品のトランプの箱からセキュリティシールを破り、デックを取り出す。テーブルの上でカードを混ぜ、慣れた手つきでシャッフルする。トランプが軽快に噛み合う音がした。
「いまのどうやったんだ?」
「リフルシャッフルといって、デックを二つに分け、カードの端を組み合わせて混ぜるやり方。これを二回、いくつかの束に分けてデックを切った後、もう一度リフルを行う」
その後、五枚のカードを滑るように配られたステューシーはナミを見やる。かわいらしいディーラーは小粋に肩をすくませていた。
モアたちにも見えるよう、テーブルの上で一枚ずつめくる。
「……」
スペードのロイヤルフラッシュが成立していた。約0.000153%の確率で発生する最高位の役が、チェンジ無しで。
「見てもいい……?」
ステューシーがデックのカードを手に取り、配られたロイヤルフラッシュのカードと見比べた。
(信じられない。戦闘時のように集中していなかったとはいえ、この私がイカサマを見逃したというの?)
「……わからないわ、マークドでもないし、傷も無い、ショートカードのようにカードを弄っているわけでもない」
「一目で細工が無いと見抜くのはさすがね。カードは正規品のものよ」
「マークド? ショート?」
モアとビビが首をかしげる。
「マークドはカードの
ステューシーは、ふぅと小さくため息をついた。形の良い唇を不満げに少しだけ尖らせる。
「けど、そのどれでもないのにナミちゃんはフェイスがわかる。ちょっと悔しいわね。この分野を知らない訳じゃないのに」
みんなが考えている間、ナミは手慰みに、手の中で五十余枚のデックを瞬時に五つの束に切り分ける。両手指の間で扇状に並べ、目まぐるしく交差させ、また元の一つのデックに戻す。
「ギブアップ?」
「降参ね」
「これはわたしも苦労したけど、答えはカットにあるのよ」
「カット? それはナミさんがシャッフルする時に何かしてたって事?」
「してたしシャッフルをカットとも言うけど、いま言っているのはカードの製造工程における裁断の仕方よ」
トランプは製造時に52枚のカードが一枚のシートとなって印刷され
その際、フェイスを上に裁断されるとトラディショナルカット。バックが上だとモダンカットになる。
「何が違うんだ?」
「想像してみて。木の板に何度かノコギリを引いたとき、溝ができるわよね? 断面で見るとV字になるでしょ? わかりやすくするための極端な例だけど。これはカードの裁断にも当てはまる」
「つまり、厳密にはカードの端は傾斜がついていて断面図で考えると台形なのね、それがマークドになっている?」
この世には、断面で見た時にフェイスの辺が短くバックの辺が長いカードと、その逆のフェイスの辺が長くバックが短いカードの二種類が存在する。
これら自体にイカサマの意図は無く、製造工程における不可避の物理的変形であり、紛れも無く正規品と扱う。
「正解、デックの中でそのスペードのロイヤルフラッシュだけがモダンカットで、残りはトラディショナルカットってわけ。セキュリティシールはあったけど、その程度の入れ替えはいくらでも細工できるからね。工場に息がかかってるとか」
「……よく気付けたわね」
「詳しい原理は省略するけど、トラディショナルカットは構造上、リフルなんかのカードを組んだシャッフルをしやすくマジシャンやディーラーに好まれ、モダンカットはその逆。何度かリフルを繰り返したら、違和感のある数枚を見つけたって感じ」
全員が触ってみるが、種を明かされても違いが判らない。
「おそらくこのデックでイカサマが出来るのは限られた人間だけでしょうね。レインディナーズではギンブル兄弟の二人」
「というか、そんな凄いイカサマを出来るナミも相当凄いんじゃ……」
「んまあ、海賊相手にこれで稼ぐ事もあったからね。それに、気付かれずにスるには指先の繊細さがモノを言うのよ」
「確かにナミちゃんの指捌きのテクはスゴいものね」
「そこ、王女の前で下ネタを言わない。とにかく、フェイスが特定されればシャッフル後もパスやホップといったイカサマでロイヤルフラッシュを積み込まれる。リアルタイムだけど指摘するには遅すぎるわ。ていうかそもそもモアには無理」
とてもついていける世界ではない。ビビはスペードのエースの裏表を見返しながら、疲れたように溜息をついた。
「それにしてもスペードのロイヤルフラッシュだけマークドなんて、露骨すぎると思わないのかしら」
「そお? 完璧主義者のクロコダイルらしいじゃない。イカサマと思われない為にストレートフラッシュで妥協して、相手がロイヤルフラッシュだと目も当てられないし……それと、最初に言った鍵付きの保管庫には、おそらくこれと同じデックの未開封品が積んであって、そこから分類されてたからブラックジャックとかバカラ用のマークドデックもある。基本的にカードは敗北必至ね」
なんだか難しい話になって来たので、モアが結論を求めた。
「じゃあ俺は最終的にカード以外のゲームでクロコダイルと勝負しないといけないって事か」
ナミが腕を組んで試算する。
「ん~~。ま、それについては問題無いわ。掟を立てるまでも無く」
「わたしもナミちゃんに同意見よ。スペードのロイヤルフラッシュを出すというのがわかっていればいいと思う」
絶対に負けるゲームを持ち掛けられても問題無いのか? モアとビビは釈然としない顔で互いを見やる。
「それより」とステューシーが机に視線を落とした後に言った。
自然降雨まで残り17日。
レインベースの気象データを見るに、クロコダイルはあと15日前後でダンスパウダーを使いその雨を奪う。バロックワークスに天気を読めるわけもなく、ただルーティーン化していると思われ、予測は難しくない。
時間的猶予は長くない。絶対にクロコダイルにダンスパウダーを使わせるわけにはいかなかった。
「それより、クロコダイルに立てる掟の文言についてだけど」
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ギャンブルの喧騒から少し距離を置いた、豪奢なラウンジエリアのバーカウンター。薄暗い照明の中、一人でワイングラスを傾ける妙齢の夫人。
誰もが認める薔薇のような気品漂う顔を持ちながら、誰一人として寄せ付けない、触れる前からわかる氷の棘を纏っている。
深いスリットの入ったボルドーのドレスに身を包み、長い黒髪は片目を覆うように流れていた。覗く方の目は伏し目がちで、グラスの揺れる赤い液面をぼんやりと眺めている。気だるげというより、世界の大半に飽いたような目だった。
酷薄さと高いプライドを象徴するかのような真紅のルージュを引いた唇からは、ひどく冷めたため息が漏れる。
彼女はリッチ国出身で、同国にて玉の輿に乗ったはいいが、愛情が深かった訳でもなく……
互いにある程度結婚生活を楽しんだ後、夫は夫人が暇を持て余して仕事に手を伸ばされ引っ搔き回されるよりはと、バカンスのていで金を持たせてアラバスタへ送り出した。
夫人も最初は気楽なものだったが、やがては色褪せゆく。夫は若い娘と楽しんでいるだろうがそれに怒るほどでもないし、自分も若い燕と遊んだのだからお互い様だろう。
今となっては美貌と金目当ての男に声をかけられるのも鬱陶しい。寂しさを紛らわす為に、音が鳴っているという理由だけでカジノのバーで酒浸りな日々だった。
世界とはこれほどまでに狭く、画一的なのだろうか。
味のしないワインを呷る。ふと、隣の空席に無造作な気配がした。外套のフードを被った男のようだ。静かに水を一杯注文している。
それを遠巻きに眺めていた常連客たちが声をひそめて賭けを始める。
「久しぶりに見たな、あの女の隣に座るやつ。酒をぶっかけられるに一万ベリー」
「ぐちぐち嫌味を言われて泣き出すに一口。ハッ、おっかねえな、この辺の人間じゃねえんだろ」
「この賭けも数か月ぶりか? 逆切れでセキュリティに摘まみ出されるのがオチだな」
テーブルに紙幣がお遊びで並べられる。
「じゃ、わたしは上手くいく方に賭けるわ」
軽快な声とともに、バニースーツに身を包んだナミが、空いたグラスを片手に会話に割り込んだ。胸元からするりと取り出した紙幣を気前よく叩きつける。
「お、おい正気かよウミちゃん!?」
「新人だから知らねーだろうが、あの氷の薔薇に声かけてコテンパンに砕かれた連中なんて、このカジノじゃ掃いて捨てるほどいるんだぞ。おれたちとか」
「顔が良かろーが金持ちだろーが、お構いなしでこっぴどくあしらうような女だぜ?」
「まあいいじゃねーか、このままじゃ賭けは成立しなかったわけだし。へへへ」
男たちの視線はちらちらと、ナミの胸元から取り出された紙幣へ向けられていた。ほんのりと汗を吸いしっとりしていて、まだ暖かそうなそれは額面以上の価値がありそうだった。
なのでそれを見た他の客も次々と乗ってくる。
夫人は自嘲にも似た冷笑を浮かべ、色の無い視線を向ける。
金と身体を目当てに声をかけてくる身の程知らずの虫が久しぶりに湧いた。
「私の隣に座るなら、もう少し身なりに気を使う事ね」
「悪い、こういうところは初めてだから」
毒を含んだ言葉を意に介する事無く、モアは外套のフードを脱ぐ。
夫人の喉元まで上がった皮肉を飲み込む。顔には傷跡が幾筋も刻まれているが、それさえも魅力の一つにしてしまう雰囲気があった。浮世とは無関係で、どこか神秘的な。
アラバスタの日に長年晒された肌で無さそうな事から、自分と同じく別の島からやって来たのだろうか。
「見ない顔ね、どこから来たの?」
「イーストブルーからかな」
てっきり付近の島からかと考えていただけに、少し興味を惹かれた。
「となると、リバースマウンテンという所を越えて? カジノの為に?」
「いや。島の外の世界をもっと知りたかったから。ここに来たのはやる事があって」
「世界旅行のご感想は?」
「楽しいよ。いろんな人と会えて……けど、おれのいた島の村長みたいなのが、どこの島にも一人はいるのは残念かな」
「このアラバスタにも?」
「クロコダイルってやつ」
夫人は思わず小さく吹き出した。イーストブルーの、おそらく小さな島の村長が大国アラバスタの英雄と同列に扱われるとは。それも悪い意味で。
笑うほどおかしな事だろうか。とモアは思った。
支配して、搾取する。村長も、アーロンも、クロコダイルも、やっている事は何も変わらない。規模が大きくなっただけ。小さな村の村長と七武海は、モアにとっては同じだった。
「ここではあまり大きな声で言わない方がいいわよ」
これまで近寄って来た男とは、何かが異なる気がした。灰色の日常に降って来た異物。バーカウンターに頬杖をつき、面白そうに目を細める。
足先で半分脱ぎかけた真紅のハイヒールをプラプラと弄ぶ。それは整った爪先の上で危ういバランスを保ちながら、挑発的な弧を描いて宙を泳いでいた。
「けど楽しんでるなら羨ましいわ。わたしはここで二年くらいかしら? ずっとホテル暮らしで、ずっと代わり映えしなくて、ずっと退屈。楽しい事は何もない。ここには何の刺激も無い。お金のやり取りも、結局はおはじきを取り合っているようなもの」
バーテンダーがロックグラスをモアの前に差し出す。通常はウィスキーに使用されるものだが、アラバスタにおいて水は最も価値のある液体の一つだ。
グラスまで冷涼と澄み切った水を一口やる。他の国では味わえない潤いがあった。
「そうかな。俺はギャンブルって初めてだからよくわからないけど、楽しみにしてる」
夫人はモアに対する興味が急速に失せていくのを感じた。結局こいつも、俗世の、普遍的な、量産品。わかっているから尚のこと気に障る、それは同族嫌悪なのだと。つまらない自分を鏡で見ているような気がするから。
突き離すように言った。
「ああ、そう……それで? いくら勝って、そのお金で何がしたいのか聞かせてくれる? さぞ楽しめるのでしょうね」
「10億5000万勝って、大慌てで出てくるクロコダイルとゲームがしたい」
「は……じゅう、はぁ? えっ……なん、なにを……」
何を言っているのか意味不明だった。が、あまりにも大真面目に言うものだから段々と可笑しさが込み上げてくる。
「ふふ、あなたそれ、本気で言ってるの? 初めてなんでしょ、ギャンブルは。うふふ」
遠巻きに見ていた常連客たちが、初めて聞く氷の薔薇の笑い声に何事かとお互いの顔を見やった。
「ええ、それは、くくっ、それなら楽しみね、十分……ふふ、それで元手は?」
「2000万ベリーある。ハイリミットテーブルを紹介してほしい」
「なるほどね、わたしに声をかけてきたのはそういう事。うーん、なら、いいわ。手伝ったげる。お金も出せ、なんて言ったら蹴り飛ばすところだったけど。行きましょ」
モアの手を取り、夫人はアルコールでふらつきながらも上機嫌に歩き出した。
「う、嘘だろ……!? あの氷の薔薇が、男の腕引いてるぞ!?」
「おれにはあんな顔どころか、話も聞いてくれなかったのに……」
「あら、この勝負はわたしの一人勝ちみたいねえ」
ナミは悪戯っぽくウインクをしてペロッと舌を出し、たまげた顔で顎を外す常連客から容赦なく掛け金を巻き上げていた。
夫人のこころは、密やかに跳ねていた。
ハイリミットテーブルのディーラーはみな腕利きだ。特にルーレットのオドは。そこからどうやって10億5千万べリーを掠め取るのだろう。
懐かしい気持ちだった。子供の頃はいたずら好きで、そう、この子がどんないたずらをするのか楽しみなのだ。
だからスピン前に100万ベリーのチップを赤の7にストレートアップしても、構わなかった。これはまだ、入念な準備なのだと見て取れたから。
それで台を去り、翌日また100万べリーをストレートアップに賭ける素人以下の愚行でも、まったく構わない。その共犯関係にも似た高揚が冷めることは無かった。
あくる日もバーで飲みながら時間を潰し、モアに声をかけられるとハイリミットテーブルへ向かう。そして一瞬で100万ベリーを失うさまを見て、他の常連客にあーだこーだと賭け方を言われて可愛がられる様を遠くで眺めて別れる。その繰り返しにすら期待を膨らませるものだった。
そして十日目、酒臭いモアを見て確信したのだ。今日で最後なのだと。
一度、無理やりワインを飲ませると一口で顔を赤くしていた。むっとするほどの酒気を帯びるほど飲んだのなら、歩く事すらままならないはずだがその様子は無い。
周囲の客とディーラーの油断と同情、興味を買う為。仕掛けるつもりなのだろう。
不思議な事に、夫人にとって結果はどうでもよかった。クロコダイルに一泡食わせようと画策する、彼の無謀とも思える行為そのものに惹かれていたから。
「ねえ、わたしと賭けをしない?」
いつものようにハイリミットテーブルへ向かう途中で、夫人が短く言った。
「もしもこの最後の賭けにあなたが負けたら、わたしと」
「悪いが、それは成立しない」
「え」
夫人がモアの横顔を見やる。
「ここの最後の賭けの結果は、もう決まってるから」
夫人はまだその意味を理解できなかった。出来なかったが、すでに灰色の幕は切り裂かれ、その舞台に立っているのだと確信した。
:::
オドはこの九日間、薄っすらとした苛立ちに足首まで浸かっていた。
モアとかいう金を貯めて田舎から出て来たらしいこの男は、毎日決まった時間に来ては、スピン前に100万ベリーをストレートアップに賭ける。舐めたやり方だ。
当然勝てるわけもなく、その後は肩を落とし、外野にやいのやいのと言われて帰るのだ。
夫人に取り入ってハイリミットテーブルに着いただけでなく、ド素人の荒し行為にも似た賭け方と男の嫉妬を呼ぶ顔立ちだったが、見事なまでの負けっぷりとどこか放っておけない純朴さから常連たちからは受け入れられていた。
今ではちょっとした有名人で、モアが来る時間帯は来客数が増えるくらいだ。
だがそういった一攫千金を夢見る客を止めるのがオドの役目だ。こういったタイプは短期的に金を落とすが長期的な上客足りえない。
勝たせる必要が無いので、一度としてモアの賭けた出目にボールを落とすことは無い。
十日目の来店日、モアはステューシーに言われて安物のラム酒でうがいをしたあと頭から被った。アラバスタの強い日差しで、レインディナーズに着くころにはすぐに乾いたが、誰が見てもヤケ酒に逃げた酔っ払いの出来上がりだ。
ふらつく足取りでテーブルに着く。
オドは、こういうタイプの客を心底見下していた。知識も技術も無く大金を得ようとする博徒未満を。
だがテーブルに置かれた金額には一瞬、虚を突かれた。
「1000万べリーある、チップに変えてくれ。一枚でいい」
「……かしこまりました」
表にこそ出さないが、いつものようにすぐ後ろで見ていた夫人の動悸が速まる。無意識のうちに片手をモアの肩に乗せ、ぎゅっと握っていた。
重厚な円盤が静かに回り始める。
オドは一度目のベルを鳴らし、ベットの開始をプレーヤーに告げる。
「おい、モアのやつがまた赤の7にストレートアップだとよ。しかも1000万ベリーの大博打だ」
「勝てば3億5千万か。ははは、夢はデカいが、夢だぞそれは。寝てからにするんだな」
「もうあいつのギャンブルも見納めかぁ……金無くてもちょくちょく来いよ、奢ってやるから」
そのざわめきは瞬く間にフロア中に広がり、多くの客の関心は自分のチップの行方よりもモアの方へ向かう。いつもの赤の7へ置かれたそれに。
オドはそのチップを見下し、ボールを摘まむ。
(酔っ払いが。ここはそういう賭け方をするテーブルじゃないんだよ。その金置いて消えろ)
隣の老紳士が、これが最後かと察し寂しさを滲ませて言った。
「大きく出たな勝算は?」
モアは自分のチップを眺めたまま言った。
「きのう海ネコを見た時に頼んだんだ。
くだらねぇ、とオドは内心で一笑に付す。
「海ネコか……縁起がいいな、私はまだお目にかかれたことがない」
「それと、実は未来を視れるんだ」
はは、と他のプレーヤーも苦笑した。負けが込むとこうなる人間は、掃いて捨てるほど見てきた。
もし事実なら、今までの負けはなんだったのか。
老紳士はからかうように言った。
「ほお、本当なら無敵の博徒だな……このゲームの結果はどうだ? ここのディーラーはスピン前のベットに落とすほど甘くないぞ」
「俺の勝ち」
「ふぅむ、なら」
ふと、不謹慎な考えが浮かんだ。
「このアラバスタの渇きが癒えるのはいつになる? 視てくれないか」
「七日後」
「え?」
そんな答えが返ってくるとは思わなかった。自然の事だからとか、そんな言い訳が返ってくるとばかり。
回転する盤とは逆方向に白いボールが解き放たれた。軽快な音を立てながらボールトラックを滑走していく。
テーブルを囲む客たちが一斉にレイアウトへと手を伸ばし、様々な色のチップが間に並べられていく。
「あ」と老紳士も急いでベットする。
「本当は俺、雨を降らせに来たんだ」
「いや、ちょっ、今」
老紳士の目がせわしなく他のプレイヤーのベットを参照し、賭けるべき場所を試算するのに忙しい。だというのに、訳の分からない事を言われて混乱する。
ノーモアベットまでビジュアル バリスティクス*4で粘ろうとするが。
(ダメだ、集中できん)
老紳士は諦めて、席に着いたマナー程度のベットの後、チップを眺めるモアの横顔を見やった。見やって、小さくかぶりを振る。
こんな戯言に関わる暇はない。彼は素直で、欲望渦巻くカジノにあって朴訥とした所が気に入っていたが、勝負事とは別だ。
ただ後ろで見ていた夫人だけは。夫人だけはそれを聞いて、なぜだか本気なのだと思った。
二度目のベルが鳴る。
賭けが締め切られた。
ボールの音が変わった。外縁から内側へ、重力に引かれて落ちてくる。
ここからが本番だった。
盤面に点在するデフレクターと呼ばれる菱形の突起にボールが弾かれた。甲高い音が一つ。プレイヤーの予測が崩れる瞬間だ。跳ねたボールは別のデフレクターにもう一度当たり、方向を変えた。運命の殻がひび割れるような、小さな二度目の音。
ボールがポケットの仕切りに弄ばれる。数字を二つ三つ飛び越えながら、速度を落としていく。乾いた跳ねる音が、テーブル全体に響く。
ころん、とあっけなくポケットに収まる。
モアを除くプレイヤーたちが息を飲む。
ディーラーの声が静寂を割った。
「レッド セブン」
夫人の口元が緩む。
老紳士が狼狽えたようにこぼす。
「きみ、まさか……」
一瞬の後、かき消すようにフロアが沸いた。
「うおぉおお! すげぇなこりゃ!!」
「おいおい、やったなモア!」
「あのガキ、マジかよ」
「億超えなんて何年ぶりだ」
「夢あるなぁ……くそ~~」
ありえねぇ。
オドは胸の内では愕然としつつも、的中したモアのチップの上に的中を示すドリーを置く。その指に動揺の震えは無かった。彼は、プロだ。脈拍も乱れていない。
「おめでとうございます」
押し出された36枚のチップ(賭け金返還含む)から、赤の3にベットした。マックスベットの1000万べリー。
(今ごろはセキュリティチームがモアくんの動向をチェックしているでしょうね)
少し離れたスロットの島から、変装して客に紛れたステューシーが動向を見守る。とはいえ、結果はわかりきっていた。二度目のスピンも、そうなる。
再び、いや前回に増してフロアが地鳴りのように沸き上がる。
夫人は周囲の目など一切気にせず、子供のように飛び上がって喜んだ。
さらにモアは、手元に配当された1000万ベリー相当のチップと引き換えに、近くにいた給仕のナミに言った。
「これでカジノの客全員に何か振舞ってくれ」
その言葉に、ギャラリーの熱狂は頂点に達した。給仕たちが大忙しで最高級のシャンパンやリキュール、ウィスキーを載せたトレーを運び、見ず知らずの客たちにまで次々とグラスが振る舞われる。
金額が金額なだけに飲み放題も同然だ。凄まじい熱気とアルコールの酔い、そして目の前で繰り広げられた奇跡の興奮で、客の全員がモアに狂信的な歓声を送る。
この台に、モアに相乗りするような無粋者はいなかった。それどころかまったく奇妙な事に、レイアウトの上にチップはたったの一枚しか置かれていない。席についていながら賭けないのはマナーに反するが、立ち入る事を躊躇われた。
これはモアとレインディナーズの勝負だと、博徒ならわかっているから。
今、モアと卓を同じくする者たちにとって幸運とは目先の数百万、数千万程度の己の勝ちではない。最前列で見届ける事の出来るこの状況を指していた。
三度目は、カジノの外まで歓声が響いた。
オドはチップの上にドリーを置く。その指は震えていた。客への振る舞いで1000万差し引き、10億4000万ベリーの損失。許容範囲を大きく超えていた。
「ベルを鳴らさないのか?」
モアはチップを爪弾いて弄ぶ。
「ネクストゲームだ」
オドは冷や汗をかいた顔を上げて、ある人物を目で探す。いつもはいるのに、いまはいない。どこにも。どこに。助けてくれ。
「おめでとうございます、お客様」
背後から声がした。振り向くといつの間にかイブンがいた。視線が合う。小さく頷かれた。
その顔を見て、オドは久しい感情を覚えた。目尻に涙すら滲む。
──にいちゃん。
「当カジノの歴史に残る、実に素晴らしい大勝利でございます」
落ち着いた口調で、モアを祝福する客に水を差さぬように注意を払いながら続ける。今は、時間を稼がなければならない。このままではたった一人の家族が殺される。
「つきましてはお客様のご利益を確実にお守りするため、当カジノでは一定額を超える配当が発生した際、標準手順として三段階の確認を行っております。まず監視室にて、先のゲームの進行に問題がないかを映像電伝虫の記録で確認いたします。これはお客様を疑うためではなく、お客様の権利を守るための手順です。
次に、総配当額が当テーブルの保有現金を超過しておりますため、大金庫との現金搬送手続きと帳簿の照合が必要となります。ネクストゲームをご希望のようですが、その後の払い戻しを確実かつ迅速に保証する為の手順です。最後に、この金額の払い戻しの場合は上席の承認が必要となる事を予めお伝えしておきます。いずれも十五分から一時間ほどでございます」
恭しく、かつ淀みなく事務手続きを説明し、フロアに満ちる熱気を損なわないよう配慮しながら告げた。
一拍置いて、口元に微笑みを添える。
「従って手続き完了までの間、ゲームを一時中断とさせていただきます。個室のVIPルームにてご用意をととのえておりますので、どうかごゆっくりお過ごしください」
「いや、ここで待つよ。みんな喜んでくれてるのが嬉しいし」
イブンは一瞬だけ目を細めた。
(だろうな)
「……かしこまりました。それでは、少々お待ちを」
深々と頭を下げ、白い顔のオドと共に裏のオーナールームへと消えていった。
「きゃあああっ! 凄いわ、凄いっ! あなた本っっ当に最高よッ!!」
カジノ側が引き上げた直後、興奮の絶頂に達した夫人がモアの首に腕を絡ませ、勢いよく股の間へ横向きに座り込んだ。
ドレスの深いスリットは重力に従って限界まで開き、滑らかな脚が露わになる。
モアの胸板に密着した豊かな双丘の柔らかな感触と、香水、それにワインの吐息が立ち上ってくる。
突然のしかかってきた重みは心地よく、嬉しい。太ももに感じる尻の感触も。
「ふふっ、あはは! 10億よ! たった三回のゲームで10億! あんなに青ざめたディーラーの顔、初めて見たわ!」
短期間ではあるが、何日も共にした夫人にはこれが偶然でない事はわかっていた。金額の多寡ではなく、何かを仕掛け、それが有効に働いた結果にはしゃぐ。
少女が悪戯の成功に胸をときめかせるような、久しく忘れ、無くしたと思っていた童心のままに喜ぶ。
「まだ終わってないけどな」
本当に、見せてくれるのだろうか。七武海のクロコダイルが尻拭いにやってくる様を。決して金では買えない光景を。
上気した熱い頬をすり寄せると、情熱的な音を立てて頬に唇を押し当てた。無骨な傷跡の上に、真っ赤なルージュの跡がくっきりと残る。
「お、ま、た、せ、いたしましたぁーっ!!」
ドンッ!!
と擬音が付きそうな程凄まじい勢いでテーブルにグラスが叩きつけられた。笑顔を貼り付けたナミが、モアの膝の上で身をくねらせる夫人に割って入るように給仕する。
「こちらを飲んで少々お待ちくださいねー! キンッキンに、それはもうキンッッキンッッに冷えてやがるオレンジジュースでーすっ!!」
「な、なによあなた!」
「はいはいご夫人もご自分のお席へ! モアさんのお膝が、重みでバキッと折れちゃいますからねっ!」
「はぁ!? そんな重いわけないじゃない! 失礼ねこの女!」
「俺そんな弱くないけど」
ナミが「うふふふ」と笑いながら、力ずくで夫人をモアから引き剥がしにかかる。
美女二人がバチバチに火花を散らすさまに羨ましいやら恐ろしいやら、周囲のギャラリーたちがさらに沸き立った。
:::
一時間が経過した頃。
10億4000万ベリーの動向を見届けようと、フロアの熱気が冷めやらぬまま異様な緊張感が漂う中、ふっと人々の会話が途切れた。重厚な扉が開き、重々しい足音がフロアに響く。
人混みが割れ、客たちが息を呑んで道を譲った。先ほど奥へ引いたイブン、支配人、副支配人、そしてオドを引き連れて現れたのは、豪華な毛皮のコートを羽織り、口元に太い葉巻をくゆらせた男。
レインディナーズのオーナーであり、王下七武海。サー・クロコダイルだった。
「クハハハ……ずいぶんと景気のいい荒らし方をするやつが現れたと聞いて来てみれば、こんなガキとはな」
クロコダイルはテーブルを挟みモアの前に立つと、見下ろすように凶悪な笑みを浮かべた。が、その眼光には微塵も笑いなど含まれていない。いつでも相手を潰せるという威圧感だ。
だが、その光景を隣で見上げていた夫人の胸の奥では体の芯が痺れるような高揚感に満ちていた。
大国アラバスタの英雄。この地に現れた海賊を殺して回る悪魔の実の能力者。政府にすら認められた大海賊。
夫人にも畏怖はあった。だがクロコダイルがどれほど大物ぶって余裕を見せようともその実は、イーストブルーから来た若者のたった一枚のチップから始まった悪戯によって、金庫の底を気にしながら自分の足でフロアに引きずり出されたのだ。
『10億5千万勝って、大慌てで出てくるクロコダイルとゲームがしたい』
バーカウンターで彼が口にした言葉が、今、寸分の狂いもなく現実となって目の前で繰り広げられている。
世界の広がりと、極彩色を覚えた。
夫人は、ふつふつと込み上げる笑いを必死に噛み殺していた。ここで笑ってクロコダイルの不興を買うほど愚かではない。彼女の瞳はもはや、無気力な氷の薔薇のものではなかった。