掟の底食い 作:ちわわのちくわ、
倒れる事の無いモアの忍耐に、両軍の兵士たちが不気味さを覚え始めた頃。誰かがぽつりとこぼした。
「雨が降るって話……どう思う」
「どうって、なあ」
命を賭して居座り続ける異様な佇まいが、兵士たちの間に困惑と慄きを生んでいく。長い間、ビビ王女は姿をくらましていた。その目的が雨を降らせる男を探していたならば、あるいは、ひょっとすると──
その噂は、瞬く間に風に乗って駆け巡っていった。
王女様が本物の希望を連れて帰ってきたんじゃないか?
「お、おい! あいつ……どこかで見たことがあると思ったら、レインディナーズだ! 新聞に載ってたぜ、未来が視えるとかで荒稼ぎした!」
「未来って、そんなの信じられるか」
「だがポーカーでクロコダイルのハンドを言い当てたらしい」
その言葉を起爆剤に、兵士たちの間に薄っすらとした期待が広がっていった。
王女が探してきた未来を視れる男が、自分の命を賭けて雨が降ると言っている。
未来視と雨を降らせる行為の因果関係など、どうでもよかった。
ただ乾き続けるこの絶望の大地に訪れた希望に、誰もが祈っていた。
噂は反乱軍の背後にあるカトレアへと波及し、他の町へも広がった。
事態を見届けようと、町の人々が一人、また一人と家を飛び出し、遠巻きに砂丘を囲み始める。
日が経つにつれ、モアをただの狂人だと思っていた民衆や兵士たちの瞳に、言葉にならない希望と焦燥が宿り始めていた。数え切れぬほどの視線が砂漠の中央でただ一人、静かに座り続ける背中に釘付けになっている。
既に死んでいるのではと双眼鏡を取り出してみれば、まだ、まばたきをしている。生きてはいるがそれでも頬は痩せこけ皮膚は干からびていた。ひび割れた唇から滲む血すらない。
その姿を国王軍から見つめていたビビの胸は、張り裂けそうな罪悪感と痛みに締め付けられていた。
(作戦だと、頭ではわかっている。でも……っ)
雨が降るまでの時間を稼ぎ、クロコダイルの筋書きを狂わせるための最も有効な手段。事前にステューシーたちと練り上げた計画であり、モア自身が志願した役割だった。しかし、いざこうして死の淵に近づいていく彼の姿を見せつけられると、ビビの王族としての誇りと責任が激しく燃え上がる。
この国は、アラバスタは私の国だ。私の民が絶望し、付け込まれ、結果として私の民が起こした争いの火種だ。
それなのに、この国に何の責任もない一人の男にすべてを背負わせ命を削らせている。
拳を握りしめる。安全圏でただ指を咥えて見ているだけなど、これ以上耐えられるはずがなかった。
「ビビ様!?」
制止しようとする護衛たちの声を振り切り、ビビは陣地から飛び出した。澄んだ水面のような青髪は、国民ならば遠めに見ても誰だかわかる。
何十万もの兵士と民衆がどよめく中、彼女は焼けるような砂の上を走り、両軍の狭間で座り続けるモアのもとへと真っ直ぐに駆け寄った。
そしてその背中に自身の華奢な背をそっと預けて座り込んだ。背中越しに、まだ鼓動がする事への安堵を覚える。
「どうしたんだ」
声は酷く掠れていた。
「一緒に待つわ。約束の雨が降るまで、あと三日……私もここで、あなたと一緒に命を賭ける」
モアはそれ以上何も言わず、彼女を追い払うこともしなかった。
照りつける太陽の下、背中を預け合って座り込む一人の青年とこの国の王女。身を削る悲痛な光景に、誰もが心を痛めた。
無論、この事態をこまねいているクロコダイルではない。
:::
凍てつくような寒さが支配する夜の砂漠。
月明かりだけが白く照らす砂丘を、バロックワークスの精鋭たちを乗せたカルガモたちが疾走していた。
標的は、両軍の間に座り込むモアとビビの生け捕り。集結したのは、Mr.1とミス・ダブルフィンガー、Mr.2、Mr.3とミス・ゴールデンウィーク、Mr.4とミス・メリークリスマス、そしてMr.5とミス・バレンタインのペアまで揃った計九名。組織が誇る最高戦力。
幸いにして目標は孤立している。民衆と軍隊に囲まれているが、こちらは複数人の能力者がいる。問題にならない。
だが綿密な計画を立てるボスが下した緊急招集に、どこか違和感を覚えないでもない。
その時だった。目の前に突如として何かが落下してきた。
湿り気を帯びた、ひどく生々しく重い音。カルガモたちがいっせいに悲鳴のような鳴き声を上げて急停止する。舞い上がった砂煙が晴れた先に転がっていたのは──
「これは……アンラッキーズだガネ!?」
Mr.3が顔を引きつらせる。それは上空からの斥候を担っていたラッコのMr.13と、ハゲタカのミス・フライデーだった。
血が砂の上にドロリと染み入り、匂いが夜風に乗ってエージェントたちの鼻腔を撫でた。九人の殺し屋たちの間に一瞬の動揺が走る。
「ごきげんよう……急いでいるところを悪いわね」
声は頭上から降ってきた。見上げれば、白いドレスに身を包んだステューシーが星空から音もなく降り立つ。
計画を狂わされたクロコダイルは、最高戦力を投入して誘拐という手段に出るだろうと予測は出来た。今なら王女とモアを一度に攫う絶好の機会。
時間の猶予が無いなら、一直線に向かってくる。あらかじめ待ち構えることは容易い。
Mr.2が真っ先に油断なくカルガモから降りる。他の者もそれに続いた。
ステューシーは血溜まりのそばで、殺気を放つ九人のエージェントたちを見回す。
「一応、確認しておくわ。あなたたちがやろうとしている事は、この国の罪のない人たち数十万人の死の上に成り立つ。わかっていてやっているのよね?」
「下らねェ質問だな」
Mr.1が両腕を刃に変え、冷酷に吐き捨てた。
「俺たちはプロだ。命令とあらば、数十万だろうが数百万だろうが関係ねえ」
「あちし達が良い子の仲良し組に見えるって訳?」
Mr.2もオカマ拳法の構えを取りながら言い放つ。
九人の顔に罪悪感はなかった。自己の為に他者の命を蹂躙することへの忌避感の無さ。珍しくない海賊的思考。
「そう、なら」
虚を突くように動いたのはオフィサーエージェント最強のMr.1だった。
スパスパの実の能力で両腕を重厚で鋭利な鋼鉄の刃に変え、間合いへと踏み込む。分厚い石壁すら容易に両断する斬撃。だが、ステューシーは避けるそぶりすら見せなかった。
ガキィィンッ!!
甲高い金属音と共に火花が散り、軌道が逸れた前腕にMr.1の顔が驚愕に歪む。渾身の刃は、華奢な片手に振り払われた。
(なんだ!? 硬い! おれの能力でも斬れないほどだと!)
「ふぅん……超人系。全身を刃に出来るといった感じかしら」
ステューシーの凍てついた瞳を見て、反射的に距離を取った。
(なにか、マズい。あの女……いったい)
ステューシーはMr.1を追うことはせず、人差し指と親指を立て、銃に見立てた手を訝しむ顔へと静かに向けた。
「バン」
甘く囁くような声と共に指先から撃ち出された不可視の刺突。六式と呼ばれる海軍が有する戦闘技術、その応用、飛ぶ指銃だった。
「がッ……!! 」
弾体がMr.1の柔らかな眼球を正確に撃ち抜き脳髄に達する。いかに全身を刃に変えられる能力者であろうと、視界を確保する必要上、眼球を刃とするわけにはいかない。
右目からひゅるりと出血し、巨体は音を立てて砂丘へ仰向けに倒れた。
残りの八人は、オフィサーエージェントのトップがあっけなく地に伏せるさまに絶句するしかない。
ステューシーは自身の指先へ、硝煙でも吹き消すかのように、ふっと息を吹きかけた。
相方を殺されたミス・ダブルフィンガーが怒声を上げる。
「Mr.1に、なにをしたぁッ!!」
「あなたたちがアラバスタ国民にしようとした事」
些事とばかりに言い捨てる。
「そう熱くならないでよ。プロなんでしょ? あなたたち」
「この女っ! トゲトゲ──」
激昂するミス・ダブルフィンガーの肩を、Mr.2がそっと掴む。ステューシーから決して目を離さずに。
「あちしたち全員でかかるわよ」
燃えるような情感を飲み込む。
「……そうね。いえ、Mr.5とミス・バレンタインはこの場から離脱して任務を優先してちょうだい」
任務遂行の為の最低限の人数はカトレアに送らねばならない。
「了解だ」
「わかったわ……」
二人を除いたオフィサーエージェントがステューシーを半円状に囲い込む。
「キャンドルロック!」
Mr.3の前腕から飛び出した蝋がステューシーの脚を捉えた。すぐさま、ミス・ダブルフィンガーとMr.4、ミス・メリークリスマスが襲い掛かるが、ステューシーの身体が蜃気楼のように搔き消えた。
瞠目するオフィサーエージェントたちの背後からMr.5の断末魔が聞こえる。ミス・バレンタインは恐怖に顔を引き攣らせ、力なく座り込んでいた。
ステューシーが無造作に振り返る。
夜風が吹き抜け、ブロンドの髪を揺らした。
澄んだ砂漠に浮かぶ月光が彼女の美貌を照らす。しかし先ほどまでの優雅で蠱惑的な笑みなど欠片も残されていなかった。色が無く、温度が無く、意図して底に沈めてあった無機質を浮き彫りにしている。
殺しの為に存在する、精巧に作られた白磁の人形。
世界最強の諜報機関、サイファーポール“イージス”ゼロ。
すでに死は回避不可能な領域にあるのだと、残りは悟った。
接敵から数分で片が付いた。
ステューシーは服の砂埃を払い、少しだけ口を尖らせてため息をついた。
「あーあ、ナミちゃんの見てない所で戦っちゃった。これじゃあまだまだ、わたしの腕を信じてもらえないわね」
一人ぼやく彼女の背後で、月明かりがバロックワークスたちの哀れな末路を静かに照らしていた。
オフィサーエージェントは賞金首なのだが、自身の関与を否定して届け出るのは難しい。ナミに代理させるにしても、この人数を始末したと言うのは非現実的。
血の臭いにアラバスタの原生生物が集まってきたので、それらに任せる事にした。
:::
約束の一週間が経過した七日目の朝が訪れた。
無情にも空はどこまでも高く晴れ渡り、雨の気配など微塵も感じられない。何日も固唾をのんで見守っていた民衆と兵士たちの間に、次第に重苦しい落胆と諦めの空気が蔓延し始めていた。
限界はとうに超えていた。猛烈な日差しの中、ビビの意識はすでに白濁し、焦点の合わない瞳で虚空を彷徨っている。
そして、ついにモアの身体がふらりと傾き、焼け砂の上へ力なく倒れ伏した。
「モア……っ!! 」
民衆の最前列に紛れ込んでいたナミが、悲痛な声を上げて飛び出そうとした。だが、その腕が背後から伸びてきた手に強く引き留められる。振り返ると、いつの間にか背後に立っていたステューシーだった。
周囲に聞かれないよう、静かな小声で告げる。
「ダメよ。いま誰かが駆け寄れば、それに続いて介抱しようとする人たちが現れる。そうなれば、モアくんが命を懸けて立てた約束が有耶無耶になってしまうわ」
砂漠の中央では、モアが両腕に力を込め上体を起こしている。
「でも……っ!」
見ていられない。今すぐ水を飲ませてやらなければ、本当に死んでしまう。ナミが心配そうに顔を歪める中、ステューシーは淡々とした声で続けた。
「彼なら大丈夫よ」
その確信めいた囁きに、ナミはふと、モアと初めて出会った日のことを思い出した。ひどく痩せ細った体躯。だが彼は、その飢餓状態がまるで当たり前のことであるかのように平然としていたのだ。そして浴室で偶然見てしまった、全身に刻み込まれた無数の傷跡。
「そう考える根拠が、あるってことね……」
ステューシーは少しだけ躊躇って頷く。
海霧に包まれていた島の子供から聞いた、掟が壊れた夜の事。その引き金となった底という存在が、どう生かされていたのか。
ナミはやるせなく視線を落とす。
彼と出会ってから、ずっとその歪さを目の端で捉えていた。苦痛を異常ではなく日常として受け入れている。人が人として扱われないどん底にいたのではないか。あの傷だらけの身体が語る輪郭。得たくない確証に直感は触れていたのだが、無理に踏み込むことはしたくなかった。
「あいつの過去に……生まれた島に関係があるのね?」
重たい問いかけに、ステューシーは小さく陰りを見せた。
「もっとも、彼にとってはどうでもいい程度のことかもしれないけれど」
突き放すような、けれど理解しているような口ぶり。自分の知らないモアの一面を知っている女の存在に、ナミの胸の奥で複雑な感情が渦を巻く。歯痒さと、ほんの少しの嫉妬。同じ船に乗る自分が踏み込めない領域に、この女は立っているのだ。
ナミは悔しさを噛み締め、砂漠の中央で背中を合わせる二人の姿を見つめた。今、自分が彼にしてやれることは何もない。モアの覚悟を信じ、ただ見守ることしかできないのだ。
(もう少しだけ耐えて、お願いッ! もう少しだけ……!! )
ナミは胸の前で両手を強く握り合わせ、雲一つない空と、死線に立つ青年の背中へ向けて祈りを込めた。
そして唯一の懸念を尋ねる。それさえ、それさえ問題無ければ全てがうまくいくのだから。
「本当に……クロコダイルはダンスパウダーを使わないの?」
「
ステューシーもまた、二人を見守りながら冷静に答えた。
国王軍と反乱軍に潜入させているバロックワークスの工作員からの報告は、実に迅速だった。
ある男が「一週間後に雨が降らなければ自分を殺せ」と宣言し、両軍の間に居座っている。
すぐに報告が上がってきて、それがモアであることも明らかになった。なにせ少し前に10億を賭けてサシでやりあった相手だ。レインベースで知らぬ者はいないし、新聞にも載っている。
クロコダイルには、命乞いという体でモアを殺せない掟が立ててある。
合理的で計算高いクロコダイルは、だからダンスパウダーを使えなかった。
もしこのまま計画通りに雨雲を奪えば、約束の雨は降らず、モアは激昂した兵士たちに処刑されかねない。自身でも理解できない不可解さで、結果的、間接的にモアを殺す事になる選択肢を取れない。
要するにモアたちは逆手に取ったのだ、クロコダイルのしたたかさな計算高さとバロックワークスの迅速な情報網を。
目的の為なら、誰が死のうが構わなかった。実に海賊的で、それこそがクロコダイルを動かす規則だった。なのに、だというのに。
「なぜだッ!!」
デスクに拳を叩きつける。
霧のように不明瞭で、より強大な何かがモアを殺す事になる選択肢を拒む。
意味をなさない苛立ちが不快だ。突然、世界がまったく別の規則で動き出し、それに従わざるを得ない。
なぜモアを殺せないのか、思考の糸が手繰れない。
おそらくモアかその一味は能力者で、何かをされ、そして……駄目だ。いや──しかしただ一つ、わかることがある。
クロコダイルはすぐにその事実に突き当たった。
油汗が滴る。言いようのない落胆が臓腑に満ちる。
一つ確かなのは、負けゆくという事だけ。深い深い穴の底へ落下するように。
:::
太陽が真上へと昇りきり、影すらも灼熱の砂に焼き尽くされる昼時。限界は、唐突に訪れた。
すり減った糸がぷつりと切れるように、ビビの身体が力なく横へ傾き、熱砂の上へと崩れ落ちる。
「ビビ様が倒れたぞ!!」
遠巻きに見守っていた何万という群衆と兵士たちの間に、悲鳴のようなざわめきが広がる。
それすらぼんやりと薄れゆく意識の中、ビビの視界はちかちかと明滅していた。
(ダメ……? こまでなの……?)
乾燥した唇が微かに動き、声にならない言葉をぶつぶつと零す。自分でも何を口走っているのか分からない。ただ、全身を覆う絶望と諦観だけが彼女の心を沈めていく。
ビビの顔が影に覆われた。
「……ナミを信じろ」
枯れ葉が擦れるようなモアの声が落ちてきた。倒れたビビを日射しから庇うように座りなおしたのだ。
ぽたり、と。ビビの頬に、冷たい水滴が落ちた。
(……涙?)
ビビは朦朧とした頭で考え、打ち消した。そんなはずはない。七日間、一滴の水も飲まずに地獄を耐え抜いた彼に、流す涙など残されているはずがないのだ。
しかし一つ、また一つと、冷たい何かが次々に顔を濡らしていく。命が求めるままに、ビビは本能的にひび割れた口を微かに開いた。落ちてきたそれは、舌を濡らし、干からびた喉の奥へと甘露のように染み渡っていく。
やがて、大地を揺らすような足音が響き始めた。超カルガモの大群が、何かから逃げるように、砂漠を激しく打ち据えながら迫り来る無数の足音だ。
(いえ、ああ……そうか)
ようやく、わかった。
ずぶ濡れになったビビのひび割れた唇が綻び、フフッ、と声にならない笑い声が漏れる。
それはアラバスタの乾ききった大地を打つ、猛烈なスコールの音だった。
「雨だぁああああーーーーッ!!」
「奇跡だ!! 本当に雨が降ったぞォオオ!!」
天を仰ぎ、両軍の兵士たちと民衆が狂乱の声を上げる。それと同時に、約束が果たされたのを見届けた幾万の人々が、堰を切ったように一斉に中央へと駆け出した。
「急げ!! 二人に療養食を!!」
「絶対に死なせるな!! この国を救ってくれた英雄だぞ!!」
「カトレアの医療機関には話が通っている、すぐに運べ!」
敵も味方もない。国王軍も反乱軍も、装備を投げ捨てて二人のもとへ殺到する。
視界を白く染め上げるほどの豪雨と人々の歓声が、ビビとモアを包み込んでいった。
その光景を群衆の端で見届けていたナミは、土砂降りの雨を全身に浴びながら、こらえきれずにその場にへたり込んで涙を流した。
「やった……! 本当にやり遂げたわ……!! 勝ったのよ、クロコダイルに!」
ダンスパウダーの汚染が残る大気の中でも雨雲を的確に読んだ航海士としての手腕と、互いの役割を命懸けで信じた確固たる信頼。それを目の当たりにしたステューシーは静かに微笑んだ。
「……ええ。あなたたちの勝ちね」
「なにバカなこと言ってんのよ……」
ナミが涙と雨を拭って、からりと笑った。
「わたしたち、でしょ!」
ステューシーは一瞬面食らった。
サイファーポールの人間に対して仲間意識が無いわけではないが、任務と命令で人間関係を測る世界政府のエージェントにとって、自己の目的の為に全てを裏切る事が出来る彼女にとって、ナミの爛漫は境界を曖昧にさせる。
その微かな動揺を見逃さず、ナミはふっと悪戯っぽく目を細めて小首をかしげた。
「あれ~? もしかして感動しちゃった?」
「……馬鹿ね。土砂降りの雨のせいに決まっているでしょう」
ふいっと顔を逸らしたステューシーの声はいつになく柔らかく、そして微かに震えていた。
それでも。それでもやはり長年染みついた仮面は完全には剥がれ落ちてはくれなかった。
(あなたたちを切り捨てる日が来るかもしれないのに)
そうならない事を祈る事は出来ても、目的の為なら避けられない出来事が起こってしまえば、やはり……
だからこれ以上近づくのを躊躇われた。近づけば近づくほど、裏切った時、双方を深く切りつけるだけなのだから。
差し出された温もりに飛び込むことすらできない臆病な自分を雨に隠しながら、ステューシーは濡れた髪越しにただ遠く、どこでもいい、ここではない他のどこかを見つめ続けていた。そこに自分を逃げ置くように。
:::
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三日三晩続く恵みの雨があがり、アラバスタの大地は希望に満ちていた。
世論では、ビビがグランドラインを二年間探し回り連れて来た男によって雨は降った。これにより救国作戦の要であった王家の名誉は回復され、戦う理由を失った反乱軍も武装解除し、長きにわたる内乱はついに終結したのである。
常にクロコダイルが後手に回ったのは、ひとえにステューシーの助言に従い別のレイヤーで戦い続けた戦略が有効に働いたからだろう。
敵の得意分野に付き合わず、別の場所で別の戦い方を行い、結果、敵対行為を感知されず、対処を遅らせる事が出来た。
まだ心地よい湿度が漂うアルバーナ宮殿の回廊で、ステューシーは晴れ渡った空を静かに眺めていた。彼女にとって、今回の件は極めて大きな収穫だった。
モアに対する何かしらの行為を禁じる掟を一つ立てれば、その掟を人質として間接的に掟以外の事も操ることが出来る。
モアが自死を取引材料にすれば、クロコダイルはモアの生命を保障する為にあらゆる条件を飲む。
もっとも、攫って幽閉という手段で回避する事も可能だ。が、それについては、彼女自身が事前にオフィサーエージェントたちを排除して防いでみせた。
「……例えば」
ステューシーは窓辺から離れ、ハイヒールの音を響かせ長い廊下を歩き出す。
「手紙一つでモアくんの命を盾にして大海賊を呼び出すことすら可能ってことね」
辿り着いた謁見の間。そこには、コブラ王とモアたち、そして不本意な形で王宮へ召喚されたクロコダイルの姿があった。
玉座に座るコブラ王が、厳しい面持ちでクロコダイルが画策していたユートピア作戦の罪状を一つ一つ問い詰め、読み上げていく。
王の眼下に立たされたクロコダイルは、奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばっていた。七武海としてのプライドも、数年がかりの完璧な計画も、すべてが水泡に帰した。
ミス・オールサンデーから手渡された手紙を目にした瞬間、それに従わざるを得なくなったのだ。
『直ちに無抵抗で王宮への召喚へ応じなければ、モアは死ぬ』
そのたった一文に逆らえない。自分の中のナニかが、やはり、どうしても、モアを殺す事になる選択肢を取れない。
大罪人を前にし、ようやく長い罪状が読み終わる。
しかし、コブラ王の口から出た裁きは予想を裏切るものだった。
「──国家転覆を企む内乱罪とはいえ、ユートピア作戦自体は未遂の罪でもある。よって貴公の刑は、今後もアラバスタのために尽力し、国の復興を支え続けることとする」
あまりにも軽い罪であった。
コブラ王はそれだけを告げ、ビビと、王と王女の視線を交わし、謁見の間を退室してしまった。重い扉が閉まり、広い部屋に残されたのはモアたちとクロコダイルだけになる。
「じゃ、さっそく掟を詰めましょうか」
沈黙を破ったのは、ナミの小悪魔のような笑みだった。
「とりあえず、もう二度と悪事を働けないようにするか」
モアが淡々と突きつける。クロコダイルの眉間が引きつった。彼にとってモアの存在自体が最大の弱点でありしかし、事実上は守らねばならい対象だった。
その緊迫した空気を楽しむように、ステューシーが上品に微笑みながら追い打ちをかける。
「よかったわね、クロコダイル。アラバスタの救世主と呼ばれていたあなたが、未来永劫この国に尽くすなんて。願ったりかなったりでしょう?」
クロコダイルの額に青筋が浮かぶ。必死に理性で押さえ込んでいるのが誰の目にも明らかだった。
ビビが一歩前に出た。
その瞳は、悲哀に暮れるばかりの少女のものではない。国を背負う王女としての確固たる誇りと、静かな怒りが宿っていた。
「あなたの野望は雨と共に流されたわ」
凛とした声が響く。
「あなたが砂に還そうとしたこの国が、これからどれだけ美しく豊かに復興していくか……その手で、一生をかけて、最前列で見届けてもらうわ。Mr.0」
ついに奥歯がひび割れる音がした。
わかるのだ、この後の顛末が。
己の野望の象徴だった古代兵器プルトンへの道は閉ざされ、王家の管理下で下部組織として、平和と他者のための献身を強制される日々。
それは決して消える事無く掠れる事も無い、魂に刻まれる呪い。
他人の命など砂粒一つほどの価値も無いと見下していた男が、他人の命の為に生涯を捧げる結末を迎える。
サー・クロコダイルを構成する主体が刷新される。
新たな規則に突き動かされる。
逃げ道が無い。
冷徹で非道な男の心に、かつて味わったことのない無力感と底なしの絶望が広がっていった。
:::
:::
国は内乱の後始末とクロコダイルを通じたバロックワークスの対処に忙殺されていた。
その間、モアたちは客人の扱いを受け宮殿の一室で戦いの疲れを癒している。
窓辺で紅茶のカップを傾けていたステューシーが遠くの街並みを眺めながら、ふと思いついたようにぽつりと呟いた。
「それにしても哀れね。あれだけ掟でがんじがらめにされたら二度と海賊的行為は出来ないでしょうけど……果たしてそれは、あの大海賊クロコダイルと言えるのかしら?」
かつて砂漠の王として君臨し、裏社会で恐れられた男。その野心も毒牙もすべて掟によって封じられ、疑問すら浮かばず死ぬまでこの国に挺身させられる一人の人間の末路に対する、皮肉混じりの感慨だった。
ソファでクッションを抱きかかえていたナミは、興味なさそうに肩をすくめてみせる。
「あいつの人格の主たる要因が海賊的行為なら……ま、今のあいつはクロコダイルじゃない誰かね。別にいいんじゃない? 海賊なんだし。命があるだけ感謝すべきよ」
自業自得、と言わんばかりの冷ややかな割り切りに、ステューシーはクスクスと愉しげに喉を鳴らした。
「ナミちゃんの海賊嫌いは筋金入りね」
「好きなやついる? ……ね、モア」
ナミが当然のように、隣で果物をぱくついていたモアの膝に両脚を乗せて同意を求める。
「ナミが嫌いなものは、おれも嫌いだ」
「ふふ、いい子ね~。海賊なんてロクでもない奴らばっかりなんだから」
迷いのない即答にナミが満足そうに口元を緩め、ステューシーが微笑ましい視線を向ける。
そんな穏やかな雑談で部屋の空気が和んでいた、その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音が響き、ゆっくりと扉が開く。姿を現したのは、どこか緊張したような表情を浮かべたビビだった。
「モアさん。身体の調子はどう?」
「おれは大丈夫。ビビこそ平気か? だいぶ辛そうだったけど」
「ええ。もうすっかり。その後の国政の手伝いの方が疲れたくらい」
可愛らしく舌を出し、佇まいを正した。
「今日はあの時の約束を果たすために伺いました」
ビビは背筋を伸ばし、深々と頭を下げる。仲間としてではなく、アラバスタの王女として口を開いた。
「今回の救国の英雄であるみなさんへ、コブラ王から申し出があります。一人一つ、どんな願いでも叶えると……軍事的全面衝突は避けられたとはいえ長年の乾きで国は疲弊していますから、望みには上限がありますが……可能な限り精一杯の誠意で応えたいとのことです」
「一人一つ、ね……そう言えばそんな約束だったわね」
モアの果物を横から摘まんだナミが、逡巡の後に瞳を輝かせた。
「じゃあ、わたしからいいかしら! 新しい船が欲しいわ。今のはリバースマウンテンでさえギリギリだったし、バロックワークスから上等なものを接収すれば国庫に負担はないでしょ? で、海賊っぽい物々しさを取り払って、わたし好みに改装してほしいの! 操舵室は広い窓で、甲板にはみかんの木を植えるちょっとした畑、スペースを考えなくていい余裕のある冷蔵庫と広いキッチン。それから……猫足の豪華な大きいバスタブが付いた浴場を作って頂戴! これは絶対ね! あと金庫も!」
ちゃっかりとした、けれど彼女らしい欲張りな要求にビビはフフッと笑みをこぼして頷いた。
「ええ、それくらいでしたら可能です。最高の船大工を手配して、ナミさんの理想通りの船に仕上げさせますね」
「やった! 話が早くて助かるわ!」
続いてステューシーが、意味深な微笑を浮かべながら口を開いた。
「あら、じゃあ次はわたしね。ビビちゃん、王国の地下神殿に
「ええ」
「わたしが望むのは……これから
ビビは第三者の介入に一瞬だけ躊躇ったが、国を守ってくれたステューシーの貢献を思えば拒む理由もなかった。
「分かりました。コブラ王にはわたしから上手く伝えておきます」
「助かるわ、ビビちゃん」
二人の願いが決まり、最後に視線が集まったのは、モアだった。
「モアは? 何か欲しいものや望みはある?」
ナミに尋ねられ、少しだけ首をかしげて長考に入った。金品にも名声にも執着のない。
何を望むのか周囲が見守る中、彼はぽつりと、どこか他人事のように呟いた。
「んー……王様になってみたいかな」
「……は? 」
ナミの手にあったグラスが危うく滑り落ちそうになった。
「え、なんで?」
「王様って、一体どんな気分なのかと思って。一番凄い村長なんだろ? おれの島じゃ、今思うと村長は悪いやつだけどアラバスタの王様は、話を聞いてるとすごい優しい人だってわかる。その違いがどうやって生まれるのか、わかるかなって」
子供が思いついたような軽々しい価値観と好奇心だが、スケールの大きすぎる要求にナミとステューシーは互いの顔を見合わせた。
「ちょっとモア、あんた冗談もたいがいに」
「さすがにそれは……いくら救国の英雄でも、一国の王位を要求するのは限度を超えているわ」
その気持ちは、わからないでもないけど、とは省略して言った。
立場と環境が人を作るのか、それを自分一人で感じ取り、きっと知りたいのだ。底とは必然であったのか。
当然、却下されて終わる話だと思われた。
しかし──。
ビビはその場に静かに佇んだまま、ゆっくりと深く俯いていた。その肩が微かに震えている。
「……わかりました」
「わかっちゃダメよ!!」
ナミがソファーから跳び起き、ビビの腕を掴んで揺さぶりながらツッコミを入れる。
「正気なのビビ!? こいつに王様なんて任せたら、この国がめちゃくちゃになっちゃうわよ!? ただの好奇心で言ってるのよ、このバカは!」
「で、ですが……っ!」
ビビは顔を上げず、小さな声で言葉を紡ぐ。
「すぐには無理ですが……お父様は元から、国民が幸せに暮らせるのなら誰が王位に就いても構わない、というお考えの持ち主ですから……モアさんなら、この国を命懸けで守ってくれましたし……きっと納得」
「だとしても論理的に無理があるわよ、ビビちゃん」
ステューシーも苦笑いを浮かべて口を挟む。
「そもそも彼にはネフェルタリ家の血筋も、継承権も一切無いでしょ? いくら英雄とはいえ他国の人間が正統性なくいきなり王になるなんて、国民だって納得するはずがないわ」
「ほっ、ほうほう、あります……っ!」
「方法? 」
食い下がるビビの言葉に、ナミとステューシーが首をかしげた。
するとビビは、ぎゅっと両拳を握りしめ、耳の裏まで真っ赤に染め上げた顔を跳ね上げた。涙目になりながら、意を決して口を開く。
「モアさん! わたしと結婚しましょう!!」
客室の空気が凍りつき、ナミは目が点になり、ステューシーは固まった。CP0の頭脳をもってしても斜め上すぎる決断。
そして当のモアだけが、「わかった」と何の事も無しに答えている。たぶんあんまわかってない。
「いやいや結婚て、あはは」
ナミが乾いた笑い声で言った。
「それ本気なの? つまり、
ビビは変わらず顔を染めたまま、消え入りそうな声で「……うん」とだけ返って来た。
「うーん、ちょっと待ってね。王位継承権を持たない者が王族と結婚しただけじゃ王位は継げないの」
フリーズから戻ったステューシーがあやすように説明する。
「アラバスタの正統な王位継承権はネフェルタリ家の血統に帰属するのよ。だからコブラ王が何と言っていようと跡を継いで国の最高権力者になるのは、あくまで第一王位継承者であるネフェルタリ・ビビ王女のみ。すなわち、たとえビビちゃんと結婚してもネフェルタリ家の血統を持たないモアくんの法的な立場は王配に留まるわ」
王配とは、将来的に王位を継いだビビ王女の配偶者であり、プリンスとも呼称される。王族としての尊称や権位は得られるが、国法上の最高決定権はビビ女王が握る。
ふぅむ、と可愛らしく顎に手をやるビビが、ちょっと待っていてくださいねと部屋を飛び出す。開け放たれたドアからは 「イガラム、イガラム! 聞きたい事があるの! これは友達に相談された話なんだけど、王位継承を持たない者が王族と婚約して王位に就く抜け道ってないかしら!?」 と漏れ聞こえてくる。
「なんと! いつの間にビビ様と同じお姫さまというお立場のお友達が! しかし他国ともなればアラバスタの法とは違う場合がありますので……」
「友達が言うにはね、その国はアラバスタの法と一言一句全く同じなの!」
「おお! それは数奇な! さぞ気が合うでしょうなあ! しばしお待ちください、法典を検めますゆえ」
それでいけるのか、イガラム。とナミたちが思っていると息を切らせてビビが戻って来た。
こほんと咳払いし、乱れた横髪を耳に掛けなおす。
「まずモアさんがネフェルタリ家に婿入り、改姓した上でわたしと共同統治者として即位すれば名実ともに国王となれます。王の、民が幸せになれるなら誰が王でも構わないという理念があり、また国民からの英雄としての支持がある現状であれば制度的、法的にも十分実現可能であり、臣下や世界政府からの反発も最小限でしょう」
うーん、気付いてしまったか。と、ステューシーは内心で腕を組み、どうするべきか悩む。
アラバスタの法律上における共同統治者の実態は王位を持つ者が複数存在するもので二頭政治に近いが、その運用理念とは、寿命や病による王の崩御がある程度予測できる状態で、空位を防ぐために制定されたものだ。
王位を持つ現国王の最後の数年を、同じく王位を持つ次代と重複させる事で、現国王急逝による統治者不在の空白を作らせぬのである。
ステューシーの記憶する限りでは、アラバスタで実際に運用された例は見られない。王が健康な状態で王位を継承させればよいだけであるし、ネフェルタリ家はみな、引き際を見誤る事はなかった。
運用理念から逸脱した搦め手だが、王座に就いたビビをモアが補助するという形で制度を利用するなら名目は立たないでもない。
それよりも、王ともなればアラバスタを離れるのが難しくなる。どうしたものかとナミを見やる。
が、意外にも呆れたような顔をしているだけだった。
(てっきりモアくんを取られて大慌てかと思ったけど……)
その様子を見ると、ナミにはなにか心配を跳ね除ける考えがあるかもしれない。
ステューシーは、ひとまずこの問題を先送りにする事にした。
今は、ポーネグリフだ。