掟の底食い 作:ちわわのちくわ、
眩しい午後の陽光が降り注ぐ港町ナノハナ。活気あふれる波止場に停泊する一隻の大型帆船が停泊している。その甲板で、ビビは誇らしげな笑みで一行を先導していた。
「さあ見て! アラバスタが誇る船大工たちが総出で改装してくれたのよ!」
バロックワークスの露悪的な海賊のモチーフが撤去され、かわりに白とオレンジを基調とした爽やかなカラーに仕上がっている。
野心家のクロコダイルが海戦において軍事的優位に立つための試作船か、グランドラインでは珍しい三角型の縦帆が採用されていた。
一般的な横帆と比べて追い風時に劣るが、帆の取り扱いが容易で横風や斜め前からの風にも対応でき、なんといっても風上に向かって進むことが出来る。
一見すると革新的だがしかし、グランドラインで横帆が主流なのは相応の理由がある。縦帆は風を受ける方向が多い事が利点であるのに、あらゆる気象が流転するこの海で使いこなすのは至難の業なのだ。わざわざ扱いにくい縦帆を操るより、横帆にパドルでも付けた方がいい。こうして正式採用されず、死蔵されていたそうだ。
だがこの世界にただ一人、肌で天候を読む天資と真に優れた航海術を持つ者がいる。
ナミならば、縦帆はまさに彼女の為にある技術だった。
「腕が鳴るわ! 理屈の上では向かい風なら横帆に追いつかれることは決して無いし、グランドラインでも最速の船かも。あ、お願いしたミカン畑もあるわね」
甲板の一番日当たりが良い場所には豊かな土壌を敷き詰めたこじんまりとした畑があり、ココヤシ村から持ってきたオレンジが移植されている。
操舵室の上部は、夜空の星を観測して現在地を正確に割り出すため、半球状のガラス張りドームになっている。デッキチェアもあり星空を楽しむのにも最適だが、「使用料 30分100ベリー」と書かれた小さな料金箱が設置されていた。
モアは満足そうに言った。
「大きくていい船だな。もっと色んな所に行けそう」
隣に立つビビは思わず固まった。
「……え? あ、あの……モアさん? あの……わたしたち、婚約するんですよね?」
やっぱりこうなるか、とナミが手で顔を覆う。
ステューシーが説明した。
「えーと、モアくん。王位を継いだら、基本的にはその国に腰を据えて内政に注力するものなの。わかってなかった?」
「じゃあ王様にはならなくていいかな」
「そんなーーーーっ!?」
あまりにも軽い撤回にショックを受け、膝から崩れ落ちそうになった。
「許してやって、ビビ。こいつに倫理は無いの。あと五年くらいしないと身に着かないと思うわ」
モアにとって婚約とは、大切な人と一緒になるという事は理解しているがそれだけだ。
あの島で生かされ、外を知って一年も経っていない彼に、一般的な婚約といった概念に沿えというのは難しい話ではある。
「じゃあビビはアラバスタに残るのか? てっきり一緒に船に乗ると思ってたんだけど」
「それは……その」
四人で行動した日々は、辛くもあったが不思議と満たされていた。見ず知らずのじぶんに命がけで力を貸してくれた、信頼できる仲間との旅。それが続くのであればそうしたい。
「急に言われても迷うわよね」
とナミ。
そうねえ、とステューシーが後を継ぐように言った。
「内乱が全面抗争に発展したならともかく、未然に防いだ状況ならコブラ王の統治で問題と思うけど。いずれ帰還するのなら見識を広めるのもいいんじゃない?」
「大丈夫ならビビもおれたちと一緒に来ないか」
葛藤し、ふと脳裏に過ったのは、アラバスタ王国給仕長 テラコッタの猛々しい言葉だった。
「ビビ様。よろしいですか?」
恰幅の良い給仕長は紅茶を注ぎながら、いつもの人の好さそうな笑顔で言った。
「アラバスタを救ったビビ様は、コブラ王と亡きティティ王妃様が愛し合い結ばれた結晶なのです。すなわち、お二人の愛なくしてアラバスタは救われなかったでしょう」
ビビには、給仕長が何を言いたいのかわからなかった。
ただテラコッタは見抜いていたのだ、モアに向けられるビビ王女の視線の正体がなんであるか。同じ女として。
「ですから色恋を、国事の妨げや後回しにするものなどと思ってはいけません。ご自身の気持ちに正直に、遠慮などご無用!」
テラコッタは昔を懐かしむ。横恋慕に恋心の炎がバチバチと灯っていたあの頃を。幾人もの女と戦い、そうして見事勝ち取ったのだ。イガラムという夫を!!!
「? わかったわ」
あの時はピンとこなかったが、今ならわかる。
(そうよ……テラコッタの言う通りだわ! ここで諦めるなんて!)
それにきっと、モアたちは様々な島で様々な長と出会うだろう。
国を纏める者として、学ぶことは多いはず。
そしていつか王族としてもっと立派になって帰国する。
ビビはぎゅっと拳を握り締めると、勢いよく顔を上げた。
海風が長い髪をたなびかせる。
「行くわ! わたしも一緒に!!」
結局、モアは王座を手放すことになった。
「ナミちゃんはこの展開を予想出来てたみたいだけど、訳を聞いてもいい?」
「うん? あー、ココヤシ村でわたしたちが言ってた事、忘れちゃった? 聞いてたんでしょ」
迷いのないナミの口振りに、ステューシーは記憶を探る。たしか──
ナミは屈託なく笑ってみせた。
「だって王様になっちゃったら、わたしとの夢が叶えられないじゃない!」
ココヤシ村で交わした約束が、王族という地位より遥かに勝ると信じて疑わないのだ。
ステューシーは一瞬呆気にとられ、まいったとばかりにくつくつと笑う。笑って、空虚さを誤魔化す。
眩しさを覚えたのだ。二人の間にある信頼に。
それはすなわち、彼女は疎外に位置している事を意味する。羨望とは、自らの内に無いモノを見た時に覚えるのだから。
(いやだわ。最近、らしくもない感傷に浸ってばかり)
感情を切り替える。この手の精神制御は手慣れたものだった。
ぱん、と小さく手を叩いてにっこりと笑みを浮かべる。
「かわいい王女さまも長い旅に付き合う訳だし、処女航海の前に四人で愉しみましょうか」
「楽しむって?」
何も知らない小動物のように、くりくりと可愛らしい瞳でステューシーを見やる。
「……ステューシー、あんた」
「だって、これから船で共同生活するんだもの。いつまでも隠しておくわけにはいかないでしょ?」
「まあーー、そーだけどー」
頭のうえに疑問符を浮かべるビビにとって、それはめくるめく鮮やかな色に満ちた体験だった。
:::
ステューシーは火照った身体にバスローブ姿で甲板に出て空を見上げる。
黄昏時だった。
柵にもたれかかり、心に開いた穴を埋めたくて港町を眺めるが、慰めにもならないことも理解している。
「それだけじゃ寒いだろ」
モアがやってきて一枚の毛布を分かち合うようにかける。
「ありがとう。二人は?」
「休憩してる……あれ、なんだっけ、コウモリ? アラバスタにもいるんだ」
モアが指さす方を見やると、灯りに誘われた羽虫を食べているのだろうか。街灯りと宵闇の境界線をなぞるように、黒い影が不規則な軌道を描いて飛んでいる。
ステューシーは指先から黒い霧を出し、コウモリを発現させた。
「それがステューシーの悪魔の実の能力?」
「ええ。そう言えば見せるのは初めてね」
ぱたぱたとモアの前に飛び、くるくると回ってステューシーの掌へと溶けるように消える。
「コウモリって鳥だと思ってたけど、今見ると犬みたいな牙があった」
「……ふふっ、どっちなのかしらね」
ステューシーは手すりに頬杖をついて、珍しく自嘲の表情を見せた。
「サウスブルーに、こんなお話があるの」
波の音に溶け込むように、静かに言葉を紡ぎ出す。
『サウスブルーのあるブドウ畑で、ネズミの被害に困った農家がフクロウを飼った。音もなく飛ぶフクロウに、夜目の利かないネズミは狩られていく。
そんなある日、コウモリが通りかかった。美味しそうにブドウを食べるネズミが羨ましくて、けれどフクロウは怖かったのでこう言った。
「わたしはお前たちと同じく牙がある獣だ。そのよしみで助けてあげよう。わたしが空からフクロウを見張って、近づいたら知らせてあげる。見返りとして、ブドウを取ってきてくれ」
コウモリの知らせは完璧ではないものの仲間の死は減り、ネズミたちは喜んでブドウを差し出した。
なかなか狩りが成功しなくなったフクロウが、ブドウ畑でコウモリを見つけた。
ネズミと同じくブドウを盗む者ならと鋭い爪で地に伏せると、コウモリは苦しそうに言った。
「待ってくれ、わたしはあなたと同じく羽のある鳥だ。そのよしみで助けてくれ。見返りとして、あなたの狩りを手伝おう。わたしは鼻で熱を感知できる、どんな小さなネズミも見逃さないから」
こうしてコウモリは、昼はネズミから献上されたブドウをたらふく食べ、夜はフクロウの分け前としてネズミを食べた。もともと全てのネズミを救えたわけではなかったので、どちらにもバレないはず、と。
フクロウは以前ほどではないがネズミを狩り、ネズミは以前ほどではないが仲間を狩られなくなった。
だが優れた耳を持つフクロウはある夜、コウモリが巧妙にネズミたちに危険を知らせている音を聞き取った。だから二度と飛べないように、その黒い羽を引き裂いて地に落とした。
コウモリは集まって来たネズミに助けを求めたが、あるネズミがこう言った。
「ぼくたちは決死の思いで取って来たブドウをたくさん捧げているのに、おまえの口からは血の臭いがする……」
コウモリは爛々とする無数の瞳に弁解する勇気もなく、我先にと群がるネズミたちに食われてしまったのでした』
「……わたしは牙があるから獣だ、羽があるから鳥だと寝返り続けたどっちつかずのコウモリは、最後に何も得る事も無く哀れに死んでしまった……利益と保身の為、立場を翻す者の末路を戒めとする有名な寓話よ……」
溜息を飲み込んだステューシーが、波間に視線を落とした。
なぜ急にこんなことを言い出したのか自分でもわからない。いや、本当はわかっている。じぶんは獣にも鳥にもなれない。すべてを裏切るという事は、すべてに見放されるという事。
いくら船を共にしても、闘いを共にしても、モアやナミ、ビビとは立場を同じくする事が出来ない。砂漠の時と先ほどのナミの笑顔を見て、よくわかった。それが突き付けられた現実なのだと。
「きっとそのコウモリは、自分自身ですら獣と鳥のどちらなのか最後までわからなかったでしょうね」
自虐するように薄く笑うステューシーを一瞥し、モアは少しだけ考えてから同じ波間に視線を落とし、静かに口を開いた。
「コウモリはコウモリだと思うけどな」
「え?」
モアの横顔を見やる。いつもと変わらない、純朴さを覚える端正で、傷だらけの。
「獣のネズミには羽が無くて、鳥のフクロウには牙が無い。コウモリだけが両方有るんだから、鳥でも獣でもなくコウモリなんだ。だからネズミの真似をしてブドウを食べたり、フクロウに従って狩りをする必要は無かったんだと思う。きっと、コウモリにはコウモリにしか出来ない事がある」
言って、ステューシーを見つめ返す。
「おれは、ステューシーが本気で助けたいと思っている人のためなら、命を賭けて手伝うよ。出会ったばっかりのビビにも同じ事が出来たんだから、信じて欲しい」
「そう、ね……」
戸惑いの色が、ステューシーの瞳をかすかに揺らす。
いずれ決断するべき時。世界政府という立場を取り、モアたちをいつでも切り捨てられる便利な道具とするのか。
静かな波音だけが響く甲板で、やがてステューシーはふっと息を吐く。
仮面を脱ぎ捨てたような柔らかい笑みを浮かべた。
「ねえ、モアくん。ナミちゃんたちを誘って、この船の新しい浴場に行ってみましょうよ。久しぶりに、たっぷりのお湯に浸かりたいの」
その言葉は猜疑に満ちた過去の決別であると同時に、信頼に満ちた未来への一握だった。
「おれもちょうどそう思ってた、汗が冷えて寒いし」
そして迷いのない手で彼女の手を取ると、二人は一枚の毛布に身を包んだまま、並んで歩き出した。
「ナミちゃんがお願いした猫足の大きなバスタブ、ちゃんとあるかしら」
「それとは別に大きな浴槽もあるって聞いた」
「いいわね。けど……ふふっ、狭いと密着できて楽しめそうじゃない?」
意味深に笑って、夜の寒さを埋めるように身を寄せ、モアの腕を胸で挟むように抱く。甘く脈打つ鼓動を聞いて欲しくて。
「出立の前に、お風呂で使うマットも用意しなきゃね」
「風呂で? マット?」
「そっか、知らないわよね。洗いっこするのよ、ぬるぬるの液体を使って、お互いの身体でね。ぐちょぐちょのねちょねちょになって……気持ちいいわよぉ、お姉さんのテクを見せてあげる」
そんな不埒な世間話をしながら、ステューシーは自問した。なぜ、決める事が出来たのだろう。
やがて答えに辿り着く。
もしエッグヘッドで会ったなら、伝えよう。
ねえ、ベガパンク。わたし、あなた以外にも守りたい人たちが出来たみたい。
:::
「すっっっごいじゃない!!」
大浴場はナミの期待を上回るものだった。敷き詰められた滑らかな濃淡のある砂色のタイルに、奥に行くにつれ、波間を思わせる落ち着いたブルーのモザイクタイルが美しく浜辺を描いている。
注文通りの大きな猫脚のバスタブの他に、四人が思い切り手足を伸ばしてもまだ余りある広い浴槽もあった。
今はブラインドで視界を塞いであるが、大きな窓から海を一望できる造りになっている。
バスオイルはアラバスタ特有のものの他に、柑橘系のものまで取り揃えられていた。
そして、おお、クウイゴスやジグヤジー、ンニヒに並んで、なんだか便利だなあと呼ばれている謎チカラでお湯が出るし都合よくもう張ってある。
四人は手早く身体を清めると浴槽に向かう。ビビはまだ少しだけ股を開き、よたよたと歩いている。
「ほらモア、力抜いて。沈むわよ」
たっぷりと張られた湯の中で、ナミが背後からモアの身体を抱え込むように支えた。悪魔の実の呪いで湯に浸かると完全に脱力してしまうモアの背中には、浮力によってふわりと持ち上げられた豊かな双丘が、布一枚すら隔てずに生々しい弾力をもって密着していた。
彼女の腕がモアの腹に回され、オレンジ色の髪から滴る雫が鎖骨を滑り落ち、甘い吐息が首筋にくすぐったく掠める。
一方、対面では、また別の悩ましい密着劇が繰り広げられていた。
「ス、ステューシーさん……もう少し、というか、なんで向かい合わせなの……っ?」
「あら、ビビちゃんったら冷たいのね。私だってカナヅチなのよ……? ふふっ。そ、れ、に……裸の付き合いって大事なのよ。ほーら、もっとぎゅっとして」
「それはそうかもしれないけどお」
顔を赤くしてにして視線を泳がせるビビの目の前に、ステューシーの妖艶な笑みがあった。若々しく瑞々しい王女の珠のような柔肌に熟れた柔肌がぴたりと重なり、湯面の下でふたつの豊満な曲線が押し潰され合っている。
「んっ……ちょ、ステューシーさんっ、あんっ」
「いいお湯ね……たまにはこうして、誰かに身を預けるのも悪くないわ」
対面座位で久しぶりの入浴を楽しむ。
色香の漂うため息を漏らし、気怠げに目を細めた。張り詰めていた警戒心を溶かすような熱い湯の中で、素肌と素肌を直接触れ合わせる濃密な温もり。
こんな瞬間が来るとは、彼女自身思いもしなかった。なぜなら、とローグタウンの時を思い起こす。
悪魔の実の能力者にとって、水に深く浸かる行為は死に直結するリスクを伴う。全身の力が抜け、非能力者以上に無防備な状態に晒されるからだ。
だから能力者は普段シャワーで済ませるか、あるいは自身の命を預けられるほど深く信頼できる相手と混浴するか。
世界政府のエージェントとして、多くの敵を始末してきた彼女にとって、この瞬間は致命的に脆弱で愚かな行為だった。
(今までのわたしなら、絶対こんなことはしなかった。けどこれからは……)
ビビに言って、後ろから抱きかかえてもらう。モアとナミと目が合う。
ナミは、彼女の真意がわかっているのだろう。能力者の入浴という行為の重さ。だからただ静かに、何も言わず、口元に笑みを浮かべていた。
その信頼に、ステューシーもまた答えなければならない。たとえモアを傷つける事になったとしても。それこそが信頼だと信じているから。
「ねえ、ナミちゃん……」
胸に秘め続けていた推察を口にする。あの時、海ネコの挙動はおそらく……
「チュウとムーモは、どこへ消えたと思う?」