掟の底食い 作:ちわわのちくわ、
朗らかな陽が降り注ぐ海の上で、薄汚くみすぼらしい男がこれまた貧相な小舟に乗っている。漂流しているようにしか見えなかったが、ナミは藁にも縋る思いだった。
帆のロープを少しだけ緩めると、風を受けた小舟は水面を滑るようにしてゆっくりと距離を詰めた。
ごつりと船がぶつかって揺れる。転覆させないかと肝が冷えた。
ナミが口を開くより速く、彼が興奮気味に言った。
「お、おまえは外の、いくつかある島の人間?」
「へ? なに?」
空腹で頭が回らない。頭の芯がぼんやりとして、相手の言葉を追うのも億劫だった。
「それよりなにか、食べる物分けてくれない? ほんと死にそうなの、お金なら多少は……」
実際には多少どころではない。小さな村なら何年か暮らせる。
目の前の男も食うに困っていそうだが言うのはタダだ。
「し、死ぬのは困る。食え」
慌てて小魚を差し出した。
「ありがとう」
焼いたものを航海中に干したのだろうか、いや単に干からびているのかわからないがナミは齧りつく。久しぶりの固形物だ。
骨が多く味も大した事なかったが、それでも丁寧に可食部を平らげた。
水の入った筒も差し出されたのでありがたく頂くことにする。痛みかけだったが、文句は言えない。ぬるい水が喉で潤した。思わず目閉じる。
「ふぅ……っ、生き返ったわ」
人心地つくと多少の余裕が出てきた。いつもの泥棒猫の打算が頭を巡る。
(魚はともかく、水のお金は払わなくていいわよね。あっちから差し出してきたんだから)
少しでもケチろうと考えながら、魚の骨を海へ放ろうとした時だった。彼がすばやくナミの小舟へと乗り込んでくる。
「ちょっと、なによ急に!? 言っとくけど全部はあげないわよ!」
金がたんまりと詰まった袋を抱き寄せるが、彼はそんなものに見向きもしなかった。
彼の指先がかすめ取ったのは金ではなく、ナミの手を離れ海に落ちかけた魚の骨だった。
「もういらないなら、食べていい?」
「へ? あ……うん」
そのまま躊躇なく頭から骨をバリバリと咀嚼し始めた。それを見てナミはなんだか恥ずかしさを覚える。向こうだって、骨まで食うほど飢えていたのだ。
気まずそうに視線を泳がせ、二度見した。彼の小舟というにはお粗末なそれが離れていく。飛び乗った時の反動だろう。
二人して「あ。あぁ~」と見送るしかない。
「いいの? 追いかけなくて」
遠ざかる小舟を指差しながらナミが尋ねるが、彼は表情ひとつ変えない。
「泳ぎ方を知らない」
「そりゃ残念ね」
「いいよ。どうせ何も残ってない」
淡々と言い切るが、つまりは最後の食料を見ず知らずの女に渡したという事になる。
(こりゃ高くつきそうね。というか色をつけないと流石に罪悪感あるわ)
「ま、いいわ。この辺りから近くの島までは耐えられそうだし、相乗りといきしましょ」
「島? 村があるのか? どんな?」
「村っていうか、街だけど」
ナミは首を傾げる。
街の説明なんて考えたこともない。人がいて、船があり、酒場があって、市場があって。
「とにかく、ここらの海の中ではちょっとしたもんよ。お礼はそこであらためてするわ」
「まち……そこは……霧に覆われていたりする?」
そっと、繊細なガラス細工を慎重に置くような尋ねかたにナミは苦笑する。
「いーえ。温暖な気候で湿度は低く過ごしやすいいいところよ。物流の中継地点にもなってるし」
ナミの言っている事のほとんどが彼の知らない単語で構成されていたが、少なくともあの村では無い事だけは理解できた。
「もっと聞きたい」
彼は身を乗り出す。
「ええと、おまえは、外から……つまり、おれとは別の村の人間だよな?」
軽く肩をすくめて見せる。
「まあ、あんたが……ココヤシ村の生まれじゃなければね」
「ココヤシ村、ココヤシ村。そいういう村がある……他にもあるのか?」
「あるわよ」
「どれくらい? 夜の空の光る点くらい?」
「どうだろ、さっすがにそんなにはないんじゃない? 世界的な人口で言えばそれくらいいるかもだけど」
彼の奇妙な世間知らずぶりに、ナミの胸の奥で小さな違和感がさざ波を立てる。
「そういうあんたはどこから来たの?」
返事はすぐには返ってこなかった。
「多分、あっちの方」
彼が曖昧に指差した方向には、ただ果てしない水平線が広がっているだけだった。
「そうじゃなくて……島とか、村の名前は?」
「島の名前は無い、村も」
ナミは一瞬、冗談かと思った。
だが彼の顔はいたって真剣だった。しばらく見つめ、それから額を押さえる。
(いったいどんな未開のド田舎から出てきたのよ)
呆れかえったが金を盗られる心配は無さそうだし、まるで物を知らない彼に付き合うのは妙に退屈しなかった。何を聞いても驚くし、何を説明しても真面目に考え込む。まるで子供に世界を教えているようだった。
穏やかな風が帆を静かに膨らませる。
正直なところ無駄口をたたかず体力を温存したかったが、街までは海流と風が運んでくれる。それに孤独な海の上で食料が無い状況が続けば人恋しくなるもの。このどうしようもない世間知らずに付き合ってやるのは、ナミの精神衛生面上の一助になっていた。
「っていうか、おまえって言い方やめてよ」
ナミは片膝を抱えて顎を乗せながら言った。
「わたしはナミ。あんたは?」
「おれ? おれは……」
それまで無邪気だった彼の表情に、にわかに戸惑いの色が滲む。
「まだ無い。ナミはいろんな事を知っている。だから考えといてほしい」
「はあ? あんたの名前を?」
呆れ声が出た。が、真剣そのものの彼を見ていると毒気を抜かれて、ナミは小さく吹き出した。
ぼさぼさの髪、ボロボロの服。痩せた体。名前も無い。野良犬じゃあるまいし。
(いったい何日漂流したのかはわからないけど、頭が相当まいってるみたいね。それとも、名前を持たない文化の地域があるのかしら。島も、村も、個人すら? 名とは呪であるって考えを持つ人もいるって本で読んだことあるけど)
そんなナミの懸念を余所に、彼は思い出したように尋ねてきた。
「ココヤシ村って良い村?」
「ん~~~~。そーねー。わたしの大好きな村……だった、かな」
進んで語りたい話題ではなかった。愛憎入り混じる複雑な感情を隠すように、曖昧に誤魔化す。
しかし彼はそのわずかな翳りを見逃さなかった。
「底がいる?」
「ん? なに?」
聞き返すが彼は言いさした口を閉じ、何でもないと曖昧に誤魔化す。
今度は彼の方が言葉を濁してそっぽを向いた。その横顔には、触れてはいけない暗い深淵がほんの一瞬だけ覗いたような気がした。
風と海流に揺られ、やがて彼の視界に飛び込んできたのはひしめき合う白壁の建物と、何隻もの船がせわしなく行き交う港町だ。その何もかもが圧倒される。
「さあ着いたわよ。約束通り、お礼をさせてもらうわね」
ナミは小舟を港に寄せると、呆然とする彼の手を引いて足早に歩き出した。
石畳の道を荷車が行き交い、軒先では魚や果物が売られている。見たことのない色の服を着た人間が歩き、怒鳴り声と笑い声と船の汽笛が入り混じっていた。
市場でとりあえずの水分補給と栄養補給にサンドイッチを胃に収める。一口齧って固まる彼の手を引き、道を急いだ。
しかし彼は魚を見て止まり、野菜を見て止まり、猫を見て止まり、鐘の音を聞いて止まる。
そのたびにナミが腕を引っ張る。
まるで犬を連れ歩いている気分だった。
ひとまず浮浪者にしか見えない彼の服を選びに、路地裏の古着屋へ向かった。店先のセール品適当に見繕う。
まだサンドイッチを大事そうに齧る彼に無理やり着せて宿に向かう。
受付は彼の身なりはともかく薄汚い身体に眉を顰めたが、ナミがそれとなく胸元を強調すると鼻の下を伸ばして黙った。
「ていうかあんたまだサンドイッチ持ってんの? 誰も盗らないからそこ置いて」
部屋に入るなり、ナミは彼を浴室へと押し込む。
「ほら、まずは服脱いでそこに入って……って、お風呂の使い方もわからないか」
ぽかんと立ち尽くす様を見て、ナミは小さくため息をつき、蛇口をひねって見せた。シャワーから勢いよく流れ出す温かい湯に、彼はビクッと肩を揺らす。
「服は全部脱いでそこに置いておいて。いい? ここからお湯が出るから、この石鹼……白い塊で体の汚れを綺麗に洗い流すの。髪もよ!」
浴室を出て、ドア越しにあれこれと説明してやる。
「な、ナミ……白くてぬるぬるした……もこもこが、助けてくれ」
「それは泡っていう汚れを落とすものだから心配しないで。それを洗い流したら大きな桶にお湯を貼っといたから肩まで入っちゃって」
「わかった……温かい水、なんだか気分が良いな、これ」
「でしょー。お風呂に入るってのはね、自分っていう一番のお宝をピカピカに磨くのと同じことよ」
(あーわたしも早くお風呂入りたい)
いい加減、潮風や汗でべたべたの肌をなんとかしたかった。
「どう? けっこう悪くないでしょ? 十まで数えたら出て身体を拭いて、さっき買ったやつに着替えるのよ」
返事は無かった。
「聞いてる? わたしも入りたいんだけど?」
扉の前で耳をそばだててみるが、返ってくるのは不気味なほどの沈黙だけだ。お湯の跳ねる音も、体を動かす気配すら聞こえない。
「……ねえ、冗談はやめてよ?」
急に背筋が寒くなった。 ──泳ぎ方を知らない── 船の上で、彼が淡々と言い放った言葉が脳裏をよぎる。まさか、初めての入浴が気に入って声も出ないとか、単に出たくないから無視しているとか。それともお風呂に入ったことすらないから、本当に浴槽で溺れているのだろうか。いや、そんなはず、ありえない。ありえないが……
「ちょっと! 開けるわよ!」
バン、と勢いよく浴室の扉を押し開ける。石鹸の香りと湯気が立ち込める狭い浴室でナミの目に飛び込んできたのは、並々と湯が張られた浴槽の底へ力なく沈んでいる彼の姿だった。決してふざけている様子ではない。
「嘘でしょ!? なんでお風呂で死にかけてんのよ!」
なりふり構わず浴槽へ踏み込み、彼の細い両脇を抱えて力任せに引き上げた。
「ゴホッ、ガハッ……!」
水面から顔を出した彼は、激しくせき込んで湯を吐き出した。その身体は驚くほどぐったりとしていて、指先ひとつ動かす力すら残っていないように見える。ただの湯あたりや、泳げない人間の溺れ方ではなかった。まるで、身体の中の全エネルギーを根こそぎ奪い取られてしまったかのような、異常な脱力状態。
「しっかりしなさい! たかがお風呂で何やってんのよ!」
浴槽の縁に彼を寄りかからせ、ナミは肩を揺さぶる。彼は青ざめた顔で、かすれる声を絞り出した。
「わからない……ちから、が……ぬけて……」
「え?」
「温かい、水に……入ったとたん」
弱々しく呟く彼の言葉を聞いた瞬間、ナミの脳裏に海賊たちの噂話が呼び起こされた。
海の悪魔との契約。呪いを受ける代わりに人知を超えた特殊な能力を得るという伝説の果実。
ナミは目を見開いて、息も絶え絶えになっている彼を凝視した。
その呪いとは海からの拒絶。泳げなくなるとは聞いていたが、浴槽程度でもありうるのか?
「あんた……まさか、悪魔の実の能力者なの……!?」
結局、その場では埒は開かなかった。
(この世間知らずが悪魔の実なんて知ってるわけがないから当然だけど)
なのでナミが手早く入浴を済ませ──本当はゆっくりと湯船に浸かって疲れを取りたかった──適当に買ってきた屋台の食事を部屋に持ち込んで状況を整理することにした。
ちゃんとしたレストランで美味しいものでも食べて英気を養いたかったが、彼が本当に悪魔の実の能力者なのだとしたら、下手に他人の耳には入れたくない。大抵が与太話だと思うだろうが、リスクを好き好んで抱える必要は無い。
部屋のテーブルに広げられた香ばしい匂いを放つ串焼きの数々。 ナミは焼きたての豚肉に齧りつき、咀嚼しながら向かいに座る男をじろりと睨んで尋ねた。
「で、あんたお風呂で溺れてたけどさ、水が苦手って事?」
彼は中古のシャツの襟元が気になるのかちょいちょい弄っている。
「苦手じゃない。お風呂って良いな。身体もキレイになるし、温かい水も沢山飲める」
「死にかけといて何言ってんの!」
「ち違う、シャワーってやつの方」
「ふつーは浴室の水は飲まないの! はぁ~ったく……ていうかあんたも食べたら? 冷めちゃうわよ」
「いいのか?」
「当たり前でしょ。これ、船で貰った魚と水のお礼だから気にしないで」
促され、彼が串焼きを手に取る。ナミの真似をして油の滴る香ばしい豚肉を一口やってみる。柔らかく、噛むほどに旨味がジュワリと溢れ出て目を見開いた。
「けっこうイケるでしょ?」
「これ、すごい良い食べ物!」
獣のように夢中で貪り始める彼を見て、ナミは思わず少し微笑ましさを覚えた。
「あーもう、髪ごと食べてるじゃない。ほら、じっとして後ろで纏めてあげる。後で切った方がいいか……」
席を立って、串焼きを包装していた手ごろな紐でぼさぼさの髪をとりあえず結わえてやる。
彼に食べつくされる前にじぶんも腹ごしらえしようとし、ふと気づく。
(ん? お)
薄汚さで気付かなかったが、整えてやると案外男前だった。顔中傷だらけだが、それすら魅力を帯びているように思える。そして浴室では緊迫して気に留めなかったが、ボタンの留め方を知らないせいで開けた胸元からも大小さまざまな傷跡が見えた。その様子だと全身にあるかもしれない。凄惨な事故によるものか、あるいは──
そしてもう一つ気付いた。柔らかい肉を食べているはずが、彼の口からぼりぼりと硬質な咀嚼音がする。
観察すると、肉は串ごと口の中に消えていた。
「串は食べ物じゃなぁい!」
鋭いツッコミが、狭い宿屋の一室に響き渡った。
「つまりあんたは、悪魔の実の能力者の可能性が高いって訳よ」
ナミはデザートのパイナップルをフォークでつつく。
「最近何か、変わった果物を食べなかった? こういう、カットされた状態がわかんないか、うーん、わたしも実物を見た事はないからわかんないけど」
「いつものじゃない物は食べた。海で拾った黒くて丸いの」
ナミの動悸が速くなる。確信に一歩ずつ近づいている。
とんでもない拾い物をしたかもしれない。
「で、その後なにか不思議な事が起こらなかった? 例えば」
「起こった。おれが邪魔をするなと言ったら邪魔しなくなったし、じっとしていろと言ったらじっとしていた」
「……それ詳しく教えてくれる?」
ナミは顎に手をやり、視線を伏せて思考を巡らせ、ある程度の結論に達した。
彼は声を媒介として他者に命令を下せる。
但しそれには条件がある。これまでのコミュニケーションから推察するに、能力を行使する為にはある程度の──銃を撃つために引き金を引くような──意識を持って行う必要がある。もし無条件で成立するのであれば、入浴時の泡のくだりでナミは即座に助けにいかなければならなかった。
そして複数人を同時に対象に取る事は出来ない。
彼は村で村人たちに追うなと命令したが、何人かは沖に出た船の顛末を知りたくてその命に反していたからだ。
フォークを指で弄びながら、彼に視線を向ける。スイカを皮ごと食っていた。よく食べるので美味しいのだろうが、それが表情に出ていない。驚いたりはするので感情が無いわけではないのだろうが、それもナミが気付いた点だ。だからどうという訳でも無いが。
それよりも彼にこの事実を説明するべきか。この恐ろしく強力無比な悪魔の実の能力を。
おそらく自決しろと命ずればそれに抗う事は出来ないだろうし、身体を捧げろと命ずれば誰もが従う。命令された当人はそれに何の疑問も抱かないかもしれない。
彼は聴取に協力的だったものの、なぜ村人に能力を行使したのかまでは明かさなかった。ナミとて、自身がなぜそうまで金に固執するのかを聞かれてもそう軽々しく口にしたくないので深入りはしなかったが。
「あんたはその不思議な出来事をどう思ってるの?」
口の周りのべしょべしょの汚れを拭いてやりながら尋ねた。
彼の瞳はどこに向けられるでもなく、ぽつりと答えた。
「掟」
「え?」
「掟、なんだと思う。村の掟が壊れたから、その力が誰かに移った。たまたまおれだった」
「……そう。ところでこれパイナップルって言うんだけど美味しかった?」
「おいしいって言葉がわからない」
「……良かった?」
「すごく良い」
「例えばさ、あんたの掟をその辺の誰かに使えば、毎日そいつにこれを持って来てもらえる。きょうみたいな食べ物を用意させられるってのはわかってる?」
「出来るのはわかる。けど……その誰かは食べ物が減るから困るかも。わからないけど、俺の中では掟を使う掟がある、と思う。出来るけどやりたくない。それをうまく言えない、言葉が足りない」
「ちょっと試しにわたしに使ってみて」
「ナミには掟を立てたくない」
「なんで?」
「わからない。いいヤツだから?」
「それがあんたの中の、掟を使う掟ってやつの正体の一つかもね」
極端に少ない語彙では言語化にも難しいだろうが、能力を使っていくにつれ明確になっていくかもしれない。
「とにかくあんたは誰かれ構わず能力を使いたくない。だからこそ、その力の事をもっと知っておく必要がるのよ。協力してあげるから、このパイナップルを私に一切れ食べさせてみて」
「……わかった。ナミはたくさん知っているから従う。
(よ~し! 絶対に食べないわよ! もうお腹いっぱいなんだし)
ナミは絶句した。舌に広がるジューシーな甘酸っぱさに。
話に聞くのと実際に体験するのではまるで違う。
例えばあらかじめ夢を見ないと決心しても夢を見る時は見る。無意識の部分には抗う事が出来ない。それと同じようにパイナップルを食べない事が不可能だった。ナミの主観ではそう感じた。いま死ねと命じられれば死んでいた。股を開けと言われれば開いていた。
震える手でフォークを置き、けれど口元に不敵な笑みを浮かべて彼を見つめた。
「わたしと組まない?」
「組むがわからない」