掟の底食い 作:ちわわのちくわ、
コノミ諸島を襲った嵐は、まるでこの八年間に蓄積されたすべての怨嗟と悲哀を吐き出すかのような猛烈な激しさだったが、朝が来ると淀んだ雨雲が消え去り、透き通った青空が広がっている。
アーロンパークに強襲した村人たちが帰ってくる。みな、傷を負いながらもその顔はこれからの希望に満ちていた。
戸口から顔を出した誰かがそれを見て声を漏らす。遠くで誰かが喜びの声を上げる。それが伝染するように、村のあちこちから響き渡った。八年分の沈黙を取り戻すように。
アーロン海賊団の一掃は、ココヤシ村のみならず二十の町村で構成されるコノミ諸島全域の解放だった。
おそらく、嵐の日に海で見張っていた魚人は逃げた。再び襲ってくるかもしれないが、立ち向かう覚悟があっての作戦決行だった。
各町村と連携した外敵への備えと訓練が今後の課題となるだろう。
アーロンパークに溜め込まれていた物資や資金はコノミ諸島全体で分配される手筈であったが、それぞれの申し出で前面的に戦ったココヤシ村へと集約された。
ナミはその金の主な使い道を、今回の作戦で負傷した村人の治療とアーロンに滅ぼされたゴサの町の再興資金に充てた。もちろん、一億ベリーは自分の取り分だが。
ココヤシ村は自ら戦い、傷つきながらも本当の終わりと自由を得たのだ。
ナミはモアを連れ、ベルメールの墓へと再びやって来た。
「わたしのお母さんのお墓」
「墓ってなんだ?」
産まれた村に墓地はあったが、底が立ちいっていい場所ではないので知らなかった。
「亡くなった人が眠る……」
(比喩表現は混乱するか)
「死んだ人を土に埋めて、こうしてたまに、生きている人が顔を見せに来る場所かな」
「いい景色の所にある」
「そうでしょ」
自慢げに胸を張る。
朝露に濡れてきらめく一面のオレンジ畑が見渡せた。反対側には水平線が広がっている。
冬の日差し中、冷たくも柔らかな風がそよいだ。
「ねえ、わたしの夢、聞いてくれる?」
「うん」
「自分の目で見た世界地図を書きたい。世界ってわかる? この目の前に広がる海の全てって意味。その為にグランドラインを目指す」
「どういうところなんだ?」
「噂通りなら、たぶんアーロンよりも危険な連中がたくさんいる。けど、そこにはわたしの想像を超えた航路や気候、海流、島や、人、文化がある。いろんな所を巡って、全部を記して……だから」
だから。
昨晩考えた次のセリフが出てこない。
(なに急に恥ずかしくなってんのよ! 一緒に来てって、いや来い? 来てくれる? だっけ。わぁーもー!! どーせモアは行く当てがないんだから、付いてくるに決まってるのに!)
「あんたも来る?」
言って自分の声が裏返っていた事に気づいて顔が熱くなる。
(なに今の聞き方! もっと普通に言えたでしょ!)
「行くよ。ナミとグランドラインに一緒に行きたい」
「へ? あ、いやいや。話聞いてた?」
あっけない返事に、なぜだか照れ隠しをして問いただしてしまう。
「即答すんじゃないわよ。危険な海なのよ? 海賊だらけなの、わかってる?」
「おれの夢とナミの夢は似てる。もっといろんな場所に行って、もっといろんな人に会いたい」
「……たぶん命がけの航海になるわ。いきなり死ぬことだってありえる。それでもいい?」
「いい。ナミと一緒なら」
モアにとってその生き方は苦ではなかった。底がそうだったからだ。むしろ死は任からの解放を意味する分、常に薄っすらとそれを期待した。
仲間と傍にある死を待ちながら耐える事より、死が傍にあっても仲間と夢を追えるなら迷う必要は無い。
「……そ、そう」
声がうまく出なかった。咳払いでごまかす。
「だったら、まあ、いいんじゃない」
ぶっきらぼうに言って、墓に向き直る。だが口元に浮かぶ笑みは隠せていなかった。
「ベルメールさん、聞いた? わたし、モアと夢を叶えるわ」
:::
二人はゆっくりと散歩するように家へと帰る。
海賊から解放されたココヤシ村は、のどかさを取り戻していた。
しかしまだ、不明な事があった。
ネズミ大佐の奇行。
チュウとムーモの行方。
そして、アーロンパークで残党を瞬く間に始末した後に姿をくらました謎の女。
最後の謎については、意外にも早期に解決というか、ナミの家のリビングで勝手にくつろいでいた。
ナミはじろりとその女に視線を向ける。
本来ならゆっくりとした時間の流れる昼下がりのはずが、どこか緊張感が満ちていた。
ティ系の薔薇を思わせる香水が漂っている。
場違いなほどに気品漂い、そして息を呑むほどに艶やかな美女。
ふわりと波打つブロンドのショートボブから覗く瑠璃色の瞳は、吸い込まれそうなほど美しかった。胸のサイドが大胆に開いたホルターネックの純白のミニドレスは、妖艶な肉体美を強調している。
「アーロンパークの件は礼を言うわ。で、あなたは何者なの?」
女は優雅に脚を組みなおした。嵐の夜、アーロンパークで村民に加勢してアーロン残党を瞬く間に始末した恐るべき手練れ。
テーブルを同じくするナミの視線に微笑む。
「そう警戒しないでちょうだい」
「だったらまずは名乗ったら? 助けてくれたのは感謝してる、おかけで死者もでなかった。けどその後は雲隠れしてまた急に現れるなんて」
腕を組み、不機嫌そうに小首を傾げる。なんとなくわかるのだ。似て非なる、しかし同類の香りがする。
女はそっと退屈そうに、しかしすべてを見透かすような冷徹な視線をナミへ向けた。
「事後処理で忙しいだろうと思って、あいだを開けたの。それと敵ではないわ、少なくとも今はね。それより、わたしが用があるのは彼の方なんだけど」
「要件を先に言って」
「あら、保護者の方かしら?」
「そういう駆け引きをしたい気分じゃないの」
「ネズミ大佐がどうして一人でアーロンに挑まざるを得なくなったか、知りたくない?」
もしこの女が知っているとすれば、それはナミが逆立ちしても得られない情報だ。確認する必要がある。彼の掟に例外処理があるのかもしれないのだから。
「わかった。でもそっちが先」
「あなたたちの事は監視してたの。彼の能力を見極めたかったから。だからわたしとしてはネズミを使ってアーロンを排除されるのは避けたかった。掟の実効性を知る為にサンプルは多い方がいい。だから海軍に働きかけて、アーロンとの汚職を事由にネズミを脅して除隊させた」
海軍でなくなったネズミは、単独でアーロンを捕縛せねばならない状況に陥ったという訳だった。
「それが事実なら、あんたの興味本位でわたしたちは危ない橋を渡るハメになったんだけど?」
(いきなり大佐レベルの人事に介入できるってことは、この女は相当上の階級ってこと? そうは見えないけど)
「結果は変わらないわ。ネズミの件で海軍は動いていたし、仮にあなたたちが失敗したら、わたしがアーロン一味を排除するつもりだったもの。その程度の後始末はするつもり。仕事のついでに海賊を潰すくらいの気持ちは持ち合わせてるの」
「アーロンを? 二千万ベリーの賞金首よ!? 幹部だっている、それをあなた一人でなんとか出来るっていうの? 冗談も大概にして」
女は何も知らない学生に向けるような微笑みを浮かべ、視線を隣に移す。
「それより、モアくんだったわね? 見させてもらったわ、きみの能力。公然と使わなかったのは本当に偉いと思う。秘密というのは、何よりも強力な武器の一つだから」
よくわからないが、褒められているようだ。
「ありがとう。それで、あんたは誰だ?」
「申し遅れたわ。わたしはステューシー、世界政府の極秘エージェント。と言っても、きみは知らない言葉ね」
「嘘ね」
ナミは虚勢を張るが、そうであってほしという願いでもあった。だがそう仮定すればネズミの件には納得がいく。
「こんな辺鄙な村に来るはずがない」
「信じるか信じないかはご自由に……それでどうする? ナミちゃん、ここから先の話は聞かない方が身の為だけど。まだ間に合うわよ」
そう、世界政府の人間がイーストブルーの小さな村に用などあるはずがない。これまでの会話からおおよその予想は出来ている。
知れば危険どころではない。
「わたしはこいつの保護者じゃない」
ナミは席を立った。
「賢明ね」
隣に座るモアを半分押しのけ、同じ椅子に身を置く。
「相棒なの! 一人だけ危ない橋を渡らせるわけにはいかないわ」
「そう……」
どこか羨望に似た視線を向け、目を閉じ、ゆっくりと二人を見据えた。
「政府はゴムゴムの実と呼ばれる悪魔の実を長いあいだ追っていた。けれどそれに加え、近年、もう一つの悪魔の実の捜索命令が下されたの」
ナミがモアに視線を向ける。
「それが……」
「不明なの。どのような能力かもわからない。ただ対象となるのは、この世に存在しないはずの、存在してはいけない悪魔の実という事だけ」
「はぁ!? じゃあ、あんたたちはどんな形をしているのか、どんな能力なのかわからない悪魔の実を探してるってわけ? 見つけたとして、それが正しい捜索対象かわからないじゃない」
「そう。その条件では曖昧過ぎて対象の悪魔の実を判別する事は出来ない。けれど、逆なら? ある悪魔の実の能力を見れば、それが条件に当てはまるかは判断できる」
おそらく世界政府が探すそれは単純な強さを与える実ではない。戦艦を一撃で砕いたり、大軍をものともしないといった武力は、程度はあれど代替可能だからだ。
不可逆にありさまを変容しかねない、もっと、人類にとって漆黒そのもの。
人間の意志を貫徹する強制力、対象の世界の規則を歪めてしまう不条理性。
およそ存在を認可する事など出来ない。
掟の力はそれに該当して然るべきだった。
「わたしはほぼ確信しているわ。違ったのなら別の実を探すだけ」
ナミが語気を強める。
「モアを連れて行く気」
「それが仕事。だったけど、ここからが重要なの」
ステューシーは静かにモアを見据える。
「取引をしましょう。わたしにはどうしても守りたい人がいる。モアくん、あなたの力をその為に使ってくれるのであれば連行はしない」
モアは珍しく少しだけ考え込んだ。
「どうやって守ればいい」
「実のところそれが一番の問題。今すぐ危険というわけではないけど、その人の知的好奇心から考えて、いずれは避けられない。ただ、わたしが守りたい人を殺せという命令はわたしに下るからある程度の準備は出来る。わたしは意図してそういった密命を帯びる立場にいる。その時に力を貸してほしいの」
真剣に言った後、少し愛嬌を込めた。
「もちろん見返りは、あなたを政府に突き出さないだけじゃないわ。同行してあげるわよ」
「ちょっと待って、あんたにその命令が下るまで、ずっと付きまとうって事!?」
「そ。けど気にしないで、捜索は急かされていない。上の人間もわかっているから、不明の悪魔の実なんてそうそう探し当てられるものではないと。他のエージェントも何かのついでに捜索している程度だと思うわ」
「けどあんたは、世界政府が探すほどの悪魔の実なのだから、自分の目的に利用できると考えて積極的に探していたってわけね」
「どう? 納得してくれた?」
ふふ、と上品に笑っているが、ナミとしては、世界政府のエージェントが付きまとうなんて冗談ではなかった。
「けどそんなの、わたしたちに何のメリットもないじゃない。見逃されてるだけで。いざとなったら世界政府と戦うんでしょ? そんなの危険すぎる、取引どころか、恫喝もいいとこよ」
「こんな美女が一緒にいるのよ? モアくんは嬉しいわよね」
テーブルに身を乗り出す。ナミに負けず劣らずのたわわな双丘が存在を主張する。
「それは、そう」
「ちょっと、どこ見てんのよ!」
「ナミちゃん、あなたにとっても悪い話じゃないと思うわ。興味があるんでしょ? グランドラインに。向かう為の海図は持ってる? まさかドアマットが敷いてあって、ベルを鳴らせば簡単に入れるような場所だとは思ってないわよね。ウェルカムドリンクは無いのよ」
ナミはテーブルの下で拳を握りしめた。おそらく墓前での会話も聞かれていたのだろう。
(この女、本当に四六時中監視を……けどいつから? やりようによっては引っ掛けられる)
「私にも立場があるから派手な立ち回りをするつもりはないけれど、戦力としては十分通用するわよ。悪逆非道の海賊たちが跋扈する海でも。もちろん諜報能力もね」
元よりこちらが拒絶できる立場にない。断ればモアは連れていかれ、世界政府の前に放り出される。
だが、なんの保証も無しに爆弾を抱え込む気は無い。
「条件がある」
「なに?」
「モアの掟に従って」
「どういう?」
「仲間になれ。それならわたしたちも安心できる」
「……」
ステューシーはモアの能力のサンプル欲しさにネズミを除隊処分させ、魚人たちに能力を使わせて様子を見た。
彼女がどうやって監視していたのかは謎だが、見つけられ、視られていたのはココヤシ村からで、カネカ丸の時はまだ見つけられていなかったはず。
ナミはステューシーの短い沈黙を見てその仮定を満足させた。
掟を立てられても主観によっては定義に揺らぎが出る事実を知らないから、戸惑いが生まれ、能力の影響の試算をしている。
ステューシーが、場合によっては仲間を裏切れるという観念を持っているのなら、掟は十全に効果を発揮しないので快諾するはず。
仮にそういう観念を持っていなかったとしても、掟を立てないよりはずっとマシだ。どういう心境の変化があるかわからないし、隙を見て後々詰めてがんじがらめにしてやればいい。
ナミは内心でざまあみろと舌を出した。
(これは最低限の条件。わたしたちの身の安全は保障しないと。試金石ってやつよ)
取引が破談になるのは困る。このあたりがギリギリのラインだろうと試算した。
「悪い条件じゃないでしょ? 仲間なんだから、わたしたちもあんたを助ける。守りたい人ってのも。疑ってるわけじゃ……いえ、疑ってるからこそ、確証が欲しい、あんたがわたしたちを裏切らないという」
「そうね……好きにして」
「よっし、それじゃあモア」
「嫌だ」
「は?」とナミ。
「え?」とステューシー。
「悪いやつかわからないなら掟を使うかもだけど、ステューシーは良いやつだと思う。嵐の日に村の人を助けてくれたし」
「いやいやいや、別に酷い掟を立てるわけじゃないじゃない!? 仲間になるって人に仲間になれって命令しても何も変わらないでしょ?」
「変わらないなら、しなくていい」
「ぐうっ」
痛い所を突かれた。それは言葉の上の事であって、実態は不明瞭だから掟を立てるのだ。
ステューシーは小首を傾げて誘うような視線を送る。
「本当にいいの? 念の為、能力を使った方がいいんじゃない? もし他のエージェントがきみの能力を見つけて確信でもしたら、状況によってはわたしも立場を守る為に見捨てるかもしれないわよ」
モアは、死んだ母の事を言おうとして、どう伝えればいいのかわからなくなった。
母に死んでほしくはなかったが、死によって掟の任から逃れてほしくもあった。だから死んだときに、良かったという気持ちがあった。
それはおそらく、状況が逆なら母が彼に対しても同じ気持ちを抱いているだろう。
しかし今となっては、外を知ってからは守る方法があったのかもしれないとも思う。そいう方法があったのなら、守りたかった。
だからステューシーの守りたいという気持ちは、大切に思えた。
わからない。気持ちは難しい。諦めて、別の言葉で伝えた。
「死んでほしくない人がいるのなら、手伝う」
それがモアが言語化できる精一杯だった。
ステューシーが小さく吹き出した。口元を押さえ、急に笑いだす。二人はわけがわからず、見つめるしかない。
ナミはこの交渉の場でステューシーを見誤っていた。
ステューシーは、モアが仲間になれと掟を立てようとした場合、発言の途中で喉を潰して無力化し、ナミを殺して任務を遂行するつもりだった。
それほどの実力差があり、モアの能力は危険で強力であるものの道具程度にしか見ていなかった。エージェントとしての立場とモアの力を天秤にかけるなら、前者の方が目的に沿うと考えている。
そんな遥か格下が、知らないとはいえグランドラインに蔓延る魑魅魍魎たちと渡り合うつもりで手伝うと言ったのだから、急に可笑しくなってしまったのだ。
それも、自分の命の保険もかけずに、会ったばかりの人間に対して。とんだお人好しなのか、考えなしなのか。あるいは……
目じりの涙を白魚のような指先でそっと拭う。それすらも絵になる優雅さで。
長い睫毛を伏せ、唇に魅惑的な弧を描いた。
「いいわ。ふふ、掟を立てられないように、良い子にしてなきゃね」
:::
旅立つ前に、ナミにとって重要な始末しておく必要があった。
コノミ諸島の外に交易に出た村人に海兵を呼んでもらう。賞金首を仕留めたと。
灯台で検視が行われる。遠巻きにココヤシ村や、他の町村の人間までもが見物に来ていた。
海兵が死体を眺めながらぼりぼりと頭を掻いてボヤく。
「こりゃひどいな」
「ああ、しっかしよくまあ運よくピンポイントに雷が落ちて来たもんだ」
「天罰ってやつだろ。焼き魚になって当然さ」
冬ということもあり腐敗は進んでいないものの、炭化した死体は海兵であってもそうそう目にすることは無い。
別の海兵が、資料と遺体の骨格を照らし合わせながら調書にペンを走らせる。
「で、これはアーロンってことでいいのか? クロオビはこいつか? 損傷が激し過ぎる」
「見ろ、この特徴的な鼻と前腕からしてその二名でいいだろう。こいつらの拠点にもアーロン一味である証拠はあったんだ。十中八九間違いない」
「けど、とんでもねえ幸運だな。ただの村人が賞金首をやっちまうなんて。一晩で一攫千金か、羨ましい」
「バカ野郎! 本来はおれたちの仕事だ!」
不謹慎な口を叩いた若い海兵が、ごつりと頭をぶん殴られた。
「あとの魚人は……手配書に載っていなさそうだな。よし、賞金首の二体以外もすべて死体袋に入れろ!」
世界政府の規定により、賞金首の身柄引き渡しは生死を問わずだが、死んでいる場合は三割減額となりアーロンの二千万とクロオビの九百万の賞金は合計で二千三十万ベリーとなった。
書類を片手にした海兵が、ナミの前で居住まいを正す。
「確認いたします。アーロンおよびクロオビの討伐、受取人としてあなたのお名前を頂戴したい」
「ココヤシ村のナミよ。それでいい?」
「結構です。賞金は追って届けます。それと、今回の件はわれわれの力が及ばず、誠に……」
「ああ、いいからそういうの。貰えるものさえきっちり貰って、今後はコノミ諸島もちゃんと気にかけてもらえれば。それよりお金はいつ貰えるの?」
海兵は申し訳なさそうに頬を掻く。
「それが……なにぶん二千万ベリーを超える大金ですので、このあたりの支部では現金を用立てするのに時間がかかりまして、本部の方での書類上の審査や事務処理もありますし」
田舎の海軍支部で二千万ベリーを用立てるとなるとそれなりに事だそうで、早く受け取りたいのなら話を通しておくので大きな街の海軍支部へ直接向かう事を勧められた。
ナミはしぶしぶその提案を受け入れ、ずっしりとした現金の代わりに海軍の押印がされた数枚の手続き書類を受け取って灯台を後にした
事前にこうなるだろうとステューシーから聞かされていたが、その通りになったのがなぜだか少し悔しい
海兵との検視に立ち会う直前のことだ。
意気揚々と「アーロンたちの賞金をふんだくって、これからの旅費にするわ!」と息巻くナミに対し、ステューシーは仕立ての良い爪を眺めながら、くすくすと笑っていた。
「そう上手くいくかしら? 可愛いお嬢さん。イーストブルーのこの辺りの支部に二千万ベリーもの現金が常備されていると思う? 本部の承認が必要な地方の手続きがどれだけ遠大で煩雑か、教えてもらうといいわ」
まるで海軍内部の財務規定の隅々まで知り尽くし、その上で面白がるような口ぶりだった。
ちょっとした嫌味程度だと思っていたが、ステューシーの言う通りになってしまった。
「やっぱりあんたの言う通りだったわ」
港に停泊させた脱出艇の甲板に戻るなり、ナミは不満げに唇を尖らせてステューシーを一瞥した。
「田舎の海だし、そりゃ二千万ベリーは無理か。ま、どのみち補給の為にローグタウンには行くつもりだったけど」
負け惜しみといい訳のカクテルを受け流しながら、ステューシーはデッキチェアに深く腰掛け、すべてお見通し、といった風に微笑む。
「うふふ、お疲れ様。けど彼らを責めないでね、遺体の損傷が激しいと詐欺の可能性もあるからより入念になるのよ。どうかしら? グランドラインへ行くなら、こういう世界のルールを知っているお姉さんが隣にいた方が何かと便利だと思わない?」
そう言って長い足を組み替え、有用性を誇るかのような余裕の笑みを浮かべる。
「はいはい。その世界のルールに、わたしたちを見捨てるだとか裏切るが入ってない事を祈るわ」
「あらイジワルね。そう言えば、この船の名前は?」
「え? あー、そう言えば特に決めてなかったわね」
んー、と人差し指を顎に当てて思案する。
「ぶんどり号」
呆れ半分で立ち上がる。それはひょっとしてギャグで言っているのか。
ツッコんだ方がいいのかわからないので触れないことにした。
「わたしの船じゃないからいいけど……それより、中を案内してくれない?」
「てっきりモアが説明してるのかと思ったけど」
「あの子は買い出しに行ってくれてるわ」
二人で船室に入ると、ステューシーは意外そうに声を上げた。
「いい船だと思ってたけど内装もしっかりしてるじゃない。ところどころ成金趣味って感じだけど。どこで手に入れたの?」
いそいそと荷物から取り出したハンモックを取り付けながらナミが答える。
アーロン一味である証の腕の刺青を書き換えた痛みが、まだひりひりと残っていた。
「どーせわかってて言ってんでしょ? それよりそっち持って。あんたの寝床になるんだから」
カネカの強大な自己保身の具現化とも言ってもいい脱出艇には、日常生活を送れるほどの設備が整えられていた。シャワー、台所、トイレ、その他諸々。
だがそれはあくまで自分と愛人達用であって、だからベッドは一つしかない。
「ベッドは使わせてくれないの?」
「新入りくせに生意気ね~」
「ふぅん……ココヤシ村に着くまで、どっちがベッドを使ってたの? それとも」
「なっ、それは……」
急にナミの顔が赤くなった。
最初はまあ無害そうだったので一緒のベッドで寝ていたが、求められればまんざらでもなかった。
「言っとくけどね! 変な想像しないでよ!? 床で寝かせるのは可哀想だし」
ステューシーはナミのすぐ耳元まで顔を寄せる。二人の胸が押し潰れた。吐息が触れるほどの距離で囁く。
「何も言ってないわよ? ただ、モアくんと二人きりだったお嬢さんが、どうやって夜を過ごしていたのかなって、少し気になっただけ」
するりと距離を取る。悪戯な笑みを浮かべた。
「ハンモックで我慢するけど、わたしの事は気にしないで楽しんでね。けど混ぜてくれるなら」
「ああ、もういいからっ! その話は!」
自分のペースを乱してくる大人の女への言いようのない敗北感と嫉妬心に、ナミは真っ赤な顔のまま、悔し紛れにハンモックの紐をこれでもかとキツく結びつけるのだった。
:::
ココヤシ村から旅立つ日の朝。
ナミの門出を見送ろうと、村中の人間が押し寄せていた。
「まったく、あいつ……自分の船出の日に遅刻とは、どういう神経をしてるんだ」
頭に風車を挿した駐在のゲンゾウが、苛立たしげに懐中時計を何度も確認しながらぼやいた。出航の予定時刻はとうに過ぎている。
その横で、ノジコが小さく笑った。
「名残惜しいのよ、きっと。許してあげましょ」
甲板では、すでに出航準備を終えたモアが静かに海風に吹かれており、ステューシーは姿をおおっぴらに見せたくないのか船室でくつろいでいる。
「おーい! ごめーん、待たせたわね!」
やがて、村へと続く坂道からナミが小走りで駆け下りてきた。
「ナミ! お前、今までどこをほっつき歩いてたんだ! 皆が首を長くして待ってたんだぞ!」
ナミはゲンゾウの小言を受け流し、軽やかに乗船した。
「あはは、ごめんごめん! ちょっと最後に、一仕事あってね」
「ナミ、一緒に連れて行ってあげて」
ノジコが差し出したのは、小さな鉢植えのオレンジの苗だった。
しっかりと胸に抱える。
「ありがとう……ノジコ。わたし、頑張るから」
帆がはためき、風を受けて大きく膨らんだ。ぶんどり号は岸を離れ、ゆっくりと、太陽がきらめくコノミ諸島の外海へと滑り出していった。
「ナミ!」
ゲンゾウが、桟橋の先まで進み出て大声を上げた。その顔には、八年間耐え続けた苦悩の色は微塵もなく、ただ娘の巣立ちを案じる父親のような寂しさと温かさが滲んでいた。
「無理だけはするなよ! おまえはいつも危ない橋を平気で渡ろうとする。それとモアくん! ナミを支えてやってくれ」
モアは真っ直ぐに頷いてみせた。
「大丈夫、ナミは俺の相棒だから」
その淀みのない声にゲンゾウは安心したように小さく笑った。
ノジコが大きく手を振る。
「ナミ! これからは、あんた自身の夢の為に生きるのよ!」
「うん……っ! ノジコ、ゲンさん、みんなも! 本当に、ありがとう! 行ってきます!!」
ナミは大きく手を振り返した。村人たちの歓声が重なり合い、船は風を受けて遠ざかっていった。
島が水平線の向こうへ小さく霞み始めた頃。操舵室で海図を広げていたナミの背中に、キャビンから出てきたステューシーが、ふと思い出したように声をかけた。
「そういえばあなたが奪い返した一億ベリーだけど、貴金属もけっこう混ざってるんでしょ? ローグタウンで換金するなら……」
「ああ、あれ……置いてきたわよ」
「え?」
「昨日の夜の間に村中の家に忍び込んで置いてきたわ、そのうち見つけられそうな場所に。ちょろいもんよ、泥棒猫のナミにかかれば村の家の鍵なんて。だから寝坊しちゃって出航には間に合わなかったんだけど」
くあぁ、とあくびを噛み殺す。
常に余裕に満ちた表情のステューシーが明確に驚きを浮かべた。
「あなた、八年間、命を削って集めた一億ベリーなんでしょ? それを、全部……?」
「村の為のお金を村の為に使っただけ……それに、あんたの余裕ぶった顔を崩せたわけだしね」
悪戯を成功させた子供のように笑った。
「わたしは海賊専門の泥棒よ? グランドラインの海賊どもから、またすぐにごっそり頂けばいいし……アーロンたちの懸賞金二千万ベリーを貰える予定だしね。当面の旅の資金はそれで十分よ」
ステューシーは小さく息を吐き出し、やがて呆れたように、しかし確かな敬意を込めて微笑んだ。