掟の底食い   作:ちわわのちくわ、

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第七話 入浴

 デッキチェアでくつろぐナミが新聞を捲る。

 

 『海軍第153支部を統括する「斧手のモーガン」大佐が、圧政および職権乱用の罪で海軍に逮捕された。目撃者によると、モーガンは基地内で暴れていた「海賊狩りのゾロ」と「麦わら帽子を被った謎の少年」の二人組によって撃破されたという。恐怖政治の陥落に、シェルズタウンは解放の喜びに沸いている。』

 

 「ネズミ以外にも悪いヤツがいるのねー、大丈夫かしら、海軍」

 

溜息をよそに船は進み、やがて水平線の向こうから、徐々にその巨大なシルエットが姿を現した。

 イーストブルーでグランドライン前に立ち寄れる最後の町、ローグタウンが近い事はすぐにわかった。周囲を行き交う商船や客船が目に見えて増えていく。

 ココヤシ村とは比較にならない。

 

「あれが、ローグタウン……大きすぎないか?」

 

 モアが手すりから身を乗り出して呟く。

 隣でステューシーが風に揺れる金髪をかき上げながら、視線を街へと向けた。

 やがて雑多な喧騒が一気に押し寄せてきた。桟橋に船をつける。酒場の呼び込み、怒号のような値切り交渉、海軍の一団が巡回する足音。何もかもがこれまで訪れた地とは違う密度だった。

 

「すごい……」

 

 モアは目を見開いたまま、しばらく動けなかった。

 ナミと出会って最初に訪れた町にも衝撃を受けたが、それ以上だ。

 建物の数、人の数、何より誰もが自分の生活に忙しく、誰一人として彼に視線を向けない。

 

 まあそれは海の男たちで溢れる港だからというのも多分に含んでいる。

 荒々しい海の男たちの視線は、モアの両隣に並んで歩く女性に釘付けだった。

 

 一人は、目を引くオレンジ色の髪、タイトな服から引き締まった肉体を惜しげもなく披露しており、若く快活に満ちている 。

 もう一人は、真っ白な肌と波打つ金髪、歩くたびに匂い立つような大人の色気を周囲に漂わせ、妖艶さが溢れていた。

 歩くたびに揺れるその胸は豊満であった。

 

 血の気の多い男にとって、たまらぬものである。

 

「見ろよ、すげェ上玉だ」

「俺たちがエスコートしてやろうぜ。うまくいけば一晩中……おまえどっちがいい」

「へへ……オレンジの髪の方」

 

 下卑た笑みを浮かべた数人の男たちが、二人に声をかけようと荷運びの仕事をほっぽりだした。

 彼らが「よォ、お姉ちゃんたち」と口を開きかけ、あいだの男の顔を見て、いやどうすると互いを見合わせた。

 

 端正な顔立ちだが、大小無数の傷が異質で、そのアンバランスな風貌に男たちは気勢をそがされた。

 美女二人を侍らせていればそれなりに得意げになりそうなものだが、それが当然だと言わんばかりに無感動なのも底知れない。当の本人はローグタウンの圧倒的な文明に打ちのめされているだけだが。

 

 おそらくその筋の、手を出してはいけない相手なのだろうと勝手に納得し、肩を落として仕事に戻った。

 すごすごと退散する男たちを横目に、ナミがぼやく。

 

「案外あんたの雰囲気も役に立つわねー、変なのに絡まれるかと思ったけど」

「なにが?」

「わかんなくていーわよ……それより」

 

 ごほん、と咳ばらいをする。

 

「グランドラインに入る前に、ここで準備を整えるわよ。わたしは海軍に賞金を受け取りに行くから、モアとステューシーは市場での食料と日用品の買い出しを頼むわね。はい、これお財布とリスト!」

 

 モアの胸元に、細かく書かれたメモ書きとベリーが入った革袋を押し付けた。

 

「悪いけどモアくん一人でおつかい出来る? わたしも個人的な用があるから」

「ステューシー……あんためんどくさいだけじゃないでしょうね」

「わたしだってモアくんとデートしたかったけど……うふふ、グランドラインの航海には、このあたりの市場では手に入らない物も必要なの。後で教えてあげるわ」

「ほんと~? まあいいわ。不安だけどモア、頼んだわよ」

「わかった」

 

 なんとなく心配が纏わりつくが、待ち合わせを決めた。

 解散した後、ステューシーは分かれる二人の背を見送り、往来を避けるように裏路地を進む。

 

 やがて喧騒から離れた、ローグタウンを一望できる古い時計塔のバルコニーに辿り着いた。

 人気のないその場所で手すりに寄りかかり、眼下に広がる街並みを見下ろし思案を巡らせる。

 やがて思いついたように、ポーチからメモ帳を取り出し、短く書き込む。

 

「特筆事項無し。アラバスタ方面の情勢およびクロコダイルの動き知りたし。下記の調達──」

 

 紙を小さく折りたたみ、その掌に、ふっと息を吹きかける。すると黒い霧が紙片と共に舞い上がり、瞬く間に言伝を咥えた一匹のコウモリへと姿を変える。

 

 そのまま滑るように時計塔を一周すると街の奥へと飛び去った。

 ステューシーはそれを見届ける事無く、ヒールの音を響かせ、どこかいいカフェはないかと時計塔を後にした。

 

 

 

 :::

 

 

 

 同じころ、ナミは町の中心近くにある海軍派出所の門をくぐっていた。

 そこらの支部とは比べ物にならない立派さで、グランドライン入り口に近いせいか海賊が集まる為、噂では本部所属の海兵も派遣されているらしい。

 受付のカウンターに書類を差し出す。

 

「アーロンとクロオビの賞金、受け取りに来たんだけど」

 

 受付の海兵が書類に目を通す。

 

「検視した部隊からの報告は受けています。ココヤシ村の一件ですね」

 慣れた手つきで書類を確認していく。

「では奥へご案内します」

 

 通された応接室のブラインドの隙間から差し込む細い光が、室内の埃を白く浮かび上がらせていた。

 ナミは革のソファに深く腰掛け、静かに呼吸を整える。

 やがて二本の葉巻を同時にくすぶらせた大柄な男と、受付の海兵が現れた。机の上にアタッシュケースと紙幣計算機、分厚いファイルに大きなスタンプが置かれる。

 

「待たせたな」

 男はどかりと対面のソファに身体を沈め、獰猛な肉食獣を思わせる鋭い視線をナミに刺した。

「スモーカーだ。決まりなんでな、立ち会わせてもらうぜ」

 

 受付の海兵がアタッシュケースから取り出した札束を紙幣計算機にセットする。

 

「こちらに金額が表示されますので、ご確認ください」

 

 年季の入った真鍮製の機械で、側面に小さな歯車が連なっており、ハンドルを回すごとにカチカチと規則的な音を立てる。

 札の枚数が小窓の数字盤に刻まれていく。

 スモーカーはナミの瞳から一切視線を外さず、煙の向こうから声を低く響かせた。

 

「二千万ベリーと言やあ大金だ。後で少なかった多かったで揉めると面倒なんでな。規則でこうなってる。急ぎか?」

「別に構わないわ」

 

 ナミはじっと、数字盤だけを眺める。スモーカーとやらはおそらく別格だ、ネズミなどよりも。

 喉の奥がわずかに乾いていた。

 

 ここはすでに海軍の口の中だ。急に不安が膨張していく。泥棒猫としての経歴を調べられており、このまま鉄格子の中へ連行されるのではないか。そう思わせる威圧感が、スモーカーという男にはあった。

 彼女の指先は、太ももの上でかすかに震えていた。

 ふいに、モアの名を胸の中で呼んだ。

 

 歯車が回る音だけが沈黙を埋めた。

 

「かなりの額だが、分割支払いで海軍にココヤシ村へ届けさせりゃあ良かったんじゃねえか?」

「わたしの勝手でしょ? 何か問題でも」

 

「いやなに、心配でな。こんな大金を持って海をうろついてたら、泥棒にでも奪われるかもしねえぜ」

 スモーカーの目は変わらず、ナミの奥底を射るようだった。

「イーストブルーには、海の上で盗みを働く泥棒猫ってのがいるらしいからな」

 

「初めて聞いた、どんなやつなの?」

「なんでも海賊専門の泥棒なんだとよ」

「良かった、わたしは海賊じゃない。おおかた、海賊同士が争い合っただけじゃないの? 海賊が海軍に被害届でも出しというなら信じるけど……噂話でしょ」

 

「噂話なもんだから、こっちとしちゃあ海賊専門ってのも信じきれねえし、やってることは海賊と同じだ。ま、気を付けるに越したことは無いだろ」

「そうね、気を付ける」

 

 スモーカーは何も言わず葉巻を一口吸った。煙がゆっくりと立ち上る。

 また一つ、精査された札束が積まれた。

 

「おい、まだ終わんねぇのか。海賊退治にご助力くださった善良な一般市民さんを待たせるんじゃねえ」

「こ、これで最後です」

 

 最後の束が機械を通り抜け、カチリと音を立てて数字盤が静止した。

 海軍の印のある帯封紙が巻かれた札束がケースに納められる。

 

「二千三十万ベリー。確認、間違いありません。よろしいですか?」

「ええ、確かに」

 

 ナミは内心で大きく息を吐いた。

 ようやく、喉元にナイフを突きつけられたかのような時間が終わる。

 

「もう手続きは終わりでしょ? ならわたしは」

 

 ナミがアタッシュケースに手を伸ばした時、低い声がそれを遮った。

 

「いや、まだだ」

 

 スモーカーはナミの言葉を地に縫い付けるように言って、ガラスの灰皿に葉巻を押し付ける。

 ナミは心臓の動悸を押さえるのに必死だった。

 まさか、本当にここで拘束されるのか。最悪のシナリオが脳裏をよぎり、背中に冷たい汗が伝う。

 

「行方不明のネズミも、アーロンの賄賂にあやかってた第十六支部の部下連中も、海軍の規律に則って正式に処分済みだ」

 

 言って静かに頭を下げた。遅れて受付の海兵もそれに倣う。

 

「ココヤシ村に起きた事はすべて、海軍の責任だ。すまなかった」

 

 ナミは一瞬、言葉を失った。

 ネズミへの侮蔑や、海軍への不信感がまったく無いと言えば嘘になる。だが、この目の前の男の、一切の言い訳を排除した頭の下げ方には払いのけられない重みがある。

 

「いいわ、別に。ケリはもう付いたんだし」

「……そうか」

 

 スモーカーは頭を上げると、分厚いファイルを開く。中には様々な手配書がファイリングされていた。

 その内の二枚を引き抜く。アーロンとクロオビの手配書だ。

 

 その顔の上に、スタンプを構える。無感動に、手配書に叩きつけた。

 

 『DEAD』

 血のように赤い文字が、二人の顔を覆うように押印される。

 

「これでしまいだ。だいぶ時間を食っちまったな」

「……いいえ」

 

 ナミは重たいアタッシュケースを手にした。魚人二人分の命の重みだ。

 派出所を出る際に、ロビーにあった掲示板を横目で見る。

 掲載されているアーロンの手配書にもさっそく、応接室で見たのと同じDEADの押印があった。

 

 ナミはその瞬間、妙な感覚に包まれた。アーロンという存在が終わった事が正式に記録として残されたのだ。八年間、村を覆っていた影が、たった一押しの判で本当に過去に置かれた気がした。

 海軍の事務手続きで、すぐに他の支部でも同様の沙汰が下され多くの海兵が知るだろう。

 

 そして、グランドラインを含むほぼすべての地域に配られている世界経済新聞に掲載される海賊は、一説には一千万ベリーからとされている。

 事実なら程なくして、アーロンの顛末を誰もが知るだろう。世界中がその事実を共有し、やがて忘却されゆく。

 

 その忘却にいたるプロセスは、ナミ自身もそうだ。

 何年かすれば、ああ昔、アーロンとかいう許せない海賊がいた、程度まで擦り切れていくだろう。事実として、既に心はモアとの冒険への期待で満たされている。

 だから、急に自分の認識が世界に拡張されたような、一体となったように感じられた。

 

 ふい、とナミは視線を前に向ける。

 そして歩き出した。

 手に感じる命の重さは、やけに軽く感じた。

 

 

 

 :::

 

 

 

 一方その頃、ナミから買い出しのメモを渡されたモアは、ローグタウンの巨大な市場を歩いていた。

 

 新鮮な魚介類や色とりどりの果物、世界中から集まった香辛料の匂いが入り混じり、活気ある商人たちの声が四方八方から飛び交っている。

 あまりにも情報量が多く目が回る。だが、ナミに頼まれたお使いメモを勇気づけるように見る。この程度で参っていては、グランドラインとかいうところを旅できないだろう。

 

 お金の計算は厳しく叩き込まれたので問題無い。何度も船の中でお店ごっこをしたのだ。

 人ごみにもまれながら、まずは重い飲食料を買い付ける。

 

「はいよ水を十樽ね。それでにいちゃん、船はどこに泊めてる? なんて名だ」

「三番桟橋、ぶんどり号」

「ぶんどり……わかった」

 

 こういった大量に買い付ける品物は、配送業者が船まで届けてくれるシステムになっている。

 だいたい船名を言うと怪訝な顔をされるが、モアには謎だ。

 

 たまに女店主に割引されたりし、メモに残されたのは港付近の市場では手に入らない品物だった。

 入浴剤、ボディソープ、シャンプー、保湿クリーム、化粧水などのスキンケア類から、紅茶やチョコレートといった嗜好品。

 

 まったくわからないので店員に聞き、書いてある通りの物を袋に入れていく。両手いっぱいの荷物で街を行き来した。この類いは少量なので配送システムに対応していないのだ。

 傍から見れば使いっ走りだが、モアにはこういった事がたまらなく楽しかった。

 

 買い物も、知らない人にあれこれ尋ねるのも初めての事で、顔には出てないがずっと胸がドキドキしていた。

 ようやく最後の買い物を済ませる。一枚目のメモが終わった。もう一枚をめくると、たったの一文しかない。

 

『モアが好きに使っていいお金、一万ベリー。大切に使う事』

 

 心がときめいた。自分だけの、自由なお金。

 何を買おうかとうろついていると、ふと、路地裏にほど近い場所で開かれていた、胡散臭いガラクタ売りの露店の前で足が止まった。

 サビだらけの甲冑や、出所のわからない骨董品が乱雑に並べられているシートの端。そこに、一本の古びた刀が無造作に転がっている。

 

 ローグタウンに着いてから、これを腰に差している人をたまに見かけた。武器である事は教わっている。つまり戦う為の物で、なんとなく欲しいなとは思っていた。

 グランドラインは危険と聞かされていたので、備えとして。

 

「なんだい、こいつが気になるかい?」

 露店のオヤジがモアを見上げる。にっと、笑ってぼろぼろの歯をのぞかせた。

「男ってやつぁ、どうしても刀に惹き付けられるよな。けど悪いな、そりゃオモチャだぜ」

 

 モアは断りを入れて手に取ってみた。

 鞘は寄木細工で華美なものの、木から削り出した刀の模型だそうだ。 

 

「……?」

 

 だが持ち上げてみると予想していた木の軽さではなく、手首にズシリとした負荷がかかった。 

 

「中に鉄かなんかの重しが仕込んであるんだろ、たぶん。本物に似せる為に。抜けねえけどな」

「これ、いくらだ?」

「お? 買うのかい? そうだな……本来なら二万ベリーと言いたいところだが、色男にゃあ半額の一万ベリーでどうだい?」

「本物だとどれくらいする?」

 

「そりゃまあ、ウン十万はくだらねぇさ。こいつは模型だが硬ぇから、ぶん殴ってもいいんじゃねぇか。酔っ払い相手に何回か使ったが、たんこぶくらいは作れたぜ」

「じゃあこれを買う」

「え? マジ? 一万ベリーで? うははっ、そりゃどーも。なんか悪いね」

 

 モアはお小遣いから一万ベリー払い、その奇妙な木刀を手に入れた。 腰のベルトに差し込むと、心地よい重みが腰に伝わってくる。

 

「……ナミに怒られるかな」

 

 ふとそんな考えが頭をよぎったが、両手に袋と新しい武器携え、表通りを歩く。

 すると同じく刀を腰に差した眼鏡の女とすれ違った。お互いの腰にある得物に視線が交錯する。

 モアは意味も無く、共通点があるのが嬉しい。外の人間と関わりを持てた気がして。

 

 すれ違ったはずの女がぶつぶつ言いながら後ろ歩きで並走してきた。

 モアの顔など一切見ていない。眉間にしわを寄せ、精査するような視線はモアの腰に差された刀の模型だけに釘付けになっている。

 眼鏡をくいくいしながら、ぶつぶつと呪文のような言葉が口から漏れ出ている。

 

「えっ……うーん、鍔まで非対称の寄木って、あーいやでも後期ならあり得る……かな? 柄まで木だし、樫木っぽいのもやっぱり」

 

 道行く人々が、後ろ向きに歩きながら怪しげな独り言を呟く眼鏡の女を避けていく。

 モアが足を止めると、女は自分の足に躓いて尻もちをついた。

 

「俺に何か用?」

「あ、いえっ! 唐突に申し訳ありません! 私、けっして怪しいものでは……あのっ、海軍のたしぎ曹長と申します!」

「おれはモア」

「珍しい刀をお持ちのようで。よければ少し見せていただけませんか? わたしこういったものに目が無くてですね」

 

 えへへ、と尻もちの醜態を取り繕うように笑う。モアとしても、刀についてはほとんど知らないので教えてくれるなら構わなかった。

 ご馳走すると言うので、すぐそこにあったカフェのオープンテラスに向かう。

 

 たしぎはさっそく刀を水平に構えて抜こうとするが、予想通りびくともしない。そもそも鍔と鯉口が一体となっているように見える。

 削り出しで造られたのだから当然だ。

 

「なるほどそのように説明を受けましたか。で、芯に重りが入れられているとも?」

「うん」

「けれどおかしいと思いませんか。一つの木材を削り出したのであれば、どの段階で芯を入れるというのでしょう」

 

 モアは少し考え、ハッとして言った。

 

「たしかに!」

 

 たしぎは、むふーっと鼻息を荒くした。こういうリアクションを待っていたのだ、部隊の人間に話した時のように「へぇ~詳しいんスね」で終わるのではなく。

 そして蘊蓄を思う存分披露する相手を! 

 

「つまり、実は削り出しではないのです。そのように見せかける高等な技術が惜しげも無く使われた模造刀……いえ、私的にはれっきとした刀なのです」

「店の人は抜けないって言ってたけど」

 

 待ってましたと言わんばかりにクイクイと眼鏡の座りを直す。

(くぅ~~それそれ! そのリアクション)

 

「昔々、ワノ国にある刀匠がました。その方は一貫して非実用的な刀を造り続けた事でマニアからカルト的な、少なくない人気を得ており、同国の寄木細工の秘密箱から着想を得て製作された一連の作品は、やがて本人の名を冠するほどの、知る人ぞ知る名品と呼ばれるようになったのです! それがこの贋寓(がんぐ)と呼ばれる刀なのですおそらく!!」

 

 それって結局、ごく少しの人が好きなだけ? とモアは思ったが、難しい言葉が多かったので間違えてるかもと言うのを辞めた。

 

「話を戻しますと、贋寓には秘密箱と同じく内部や表面に仕掛けが施されており、ある手順を踏まないと抜刀できません。刀を売った店主はそれを知らなかったのでしょう……一見して模型ですし、知名度的に無理もありませんが」

「それって必要な時にすぐ使えないって事?」

「はい! そこがいいんですよねぇ~!!」

 

 そこまでおいしいわけではない珍味を食べて「これこれ~」みたいな言い方だが、たしぎが楽しそうなのでモアは黙ってジュースをすすった。

 たしぎはそのまま、すごい勢いで刀をさすさすとまさぐる。

 

「ちょっと待ってくださいね、え~とたしか、昔、本で、読んだ覚えが……鍔を柄と同じ模様に合うように回して、あれ? 解き方があって、ですね。だいたい同じ、らしいけど、次は鞘のここがスライドして」

 

 一体化していると思われた鯉口に隙間が生まれた。たしぎがにやりとする。

 

「先ほど、贋寓は非実用的作風と言ったのを覚えてますか? その思想は刀身にも及んでいて、一般的な刀は玉鋼等ですが、そういった物を使わず銅や石、時にはガラスなどを用いるそうなんです」

「それは……どういう意味があるんだ?」

「ふふ、まるで、開けてみるまでわからない福袋のようではありませんか!」

「福……?」

 

 刀としてどういう意味があるのかと聞いたが、返って来たのはモアにはわからない射幸心の話だった。

 

「本当は切先まで見たいのですが往来のある場なので、少しだけ……」

 

 刀身の確認の為、ほんの十センチほど抜き、たしぎはそれまで舞い上がっていた自分が音もなく凍りつくのを感じた。

 

 その鈍色は見間違いようなく海楼石だった。

 がちりと納刀し、震える手でそっと机の上に置く。

 

(贋寓の作風上ありえない。贋物? 銘まで確認してないから、誰かが刀身だけ入れ替えた可能性もあるけど)

 

 どちらにせよ、加工の難しい海楼石を刀身にするとなると並々ならぬ技術が必要だ。なまくらではない。一目見ただけでも斬れるかどうか、たしぎにはわかる。そしていかなる技法か、これは鍛錬されている。鋭利に研磨したのではない。

 

「なにか問題があった?」

「いえその、貴重な物です。お大事になさってください」

 

 すごすごと手を引くが、内心では興味を手放せなかった。

(知りたい。柄を外して茎にある銘を確認したい。贋寓なのか)

 

「けど見てもらってよかったよ。これ、返したらお金戻ってくるかな?」

「ええっ!! いやちょっと待ってください。なぜです! か、返すってどこに!?」

「さっき買った店。話を聞いてたら、一万ベリーもしたのに使い物にならない気がして」

「いっっつ! 一万ベリー、しか、ですこれは!! 贋寓作はだいたい十万ベリーはするっていうか」

 

 たしぎが大騒ぎする割には金銭的価値は低い。世に出ている本数は少ないが彼女の判断基準とは違い好事家の分類ではオモチャに近い。これを刀とすると怒る人もいる。当然だ、刀身が銀だのガラスだのでは良くて使いにくい家庭包丁の代わり。

 マニアが見たら、買おっかなどうしよっかな、程度のモノなのだ。

 

(けどそれは普通の贋寓の話で、これはそういう次元に収まる刀じゃ……)

 

 たしぎは顎に手をやり、真剣な面持ちで机の上の異端を見つめた。

 

(後期作……贋寓は晩年に海楼石がそう実用的でないと結論付けた? 能力者を一方的に無力化出来る材質を、一見して寄木細工の玩具とわかる形に封じ込めた理由は。それとも作風を捻じ曲げるほどの精神的変化がワノ国で……)

 

 なんとしても銘を確認したいが、大通りに面したオープンテラスでやるものではないくらいの常識は持ち合わせている。

 それに、抜刀に解法が必要なように、柄を外すにしても決められた解法が必要なのだ。

 残念ながらその知識はあやふやだ、自宅の書物に記してあったはずだが……

 

「モアさんお願いがあります!」

 たしぎは椅子を鳴らして立ち上がり、深く頭を下げた。

「この刀は海桜石という珍しい材質で、とても貴重なものです。その上で、しばらく貸してくれませんか! どうしても調べたいことがあるのです!! 必ず、すぐにお返ししますので」

 

「いいよ」

 

「ですよね。会ったばかりの人間にこれほどの刀を預けるなんて、わたしでも難しい……ええ?」

 たしぎは目をぱちくりさせ、モアの肩を掴んで激しく揺する。

「考え直してください! そんな簡単に他人に渡すなんて! わたしが悪人だったらどうするんですかぁ! 貴重な刀が悪者の手に渡るなんて許せません!」

 

 なんか無茶苦茶な事を言いだしたが、たぶん本人もいろんな本音とごちゃ混ぜになってよくわかっていない。

 

「おれは普通くらいだけど、たしぎは本当に刀が好きなのがわかった。だからいい」

「モアさん……」

 

 刀剣好きが認められた気がして、不覚にも涙ぐむ。ならば誠実に対応すべきだった。

 

「わかりました、担保としてわたしの刀を渡しておきます。時雨という業物です。釣り合うかどうかと問われれば否ですが、わたしにとって、とても大切なものです」

 

 モアは少し悩んでココヤシ村の事を思い出して首を振った。

 

「いらない。だってそれがないと、たしぎは海軍の仕事ができない。海賊に困ってる人を助けられない」

 

 その言葉に胸を撃たれた。会ったばかりの人間だし、刀の知識も無いが、短い会話を通じて彼が刀について親愛してくれるようになった気がして。

 そして、ココヤシ村の一件叱り、海賊蔓延り正義の力の手が及ばない世にあって海軍を信じてくれているのだと。

 

「……ではせめて、少ないですがいま持っている全財産です。持っていてください」

 

 そうして取り出された数万ベリーを革袋に入れる。

 

「後でこれと交換すればいいってこと?」

「はい! 必ずお返しします!」

 

 それで二人は分かれた。なんだかすがすがしい気さえする。いつ、どこで返すかも決めないままなのに。

 仕方の無い事だ。モアはこれまで、他人に何かを貸した事も無ければ、待ち合わせを決めたのは今回の寄港が初めてなのだ。

 たしぎは浮かれていたし、おっちょこちょいだから同じく仕方が無い。後で気付いて、めちゃくちゃ凹む。世界経済新聞の尋ね人欄を自費で払うことになった。

 

 ずん、ずん、と決意に満ちた表情で海兵宿舎に向かうたしぎとすれ違ったスモーカーは、その胸に抱く工芸品のような刀に目が止まったが、聞くと話が長くなるので見なかった事にして素通りした。

 

 

 

 たしぎは今日が非番であった事に心から感謝した。所蔵する刀剣類に関する書物をあさり、万全の準備で解法を確かめる。

 一手一手、戻す時の為にメモを取りながら慎重に細工を動かす。

 

 たしぎは、この刀が無銘であってほしかった。

 あるいは誰かが刀身を入れ替えたのだと願った。

 非実用的という作風が好きだったからだ。おちゃめな感じがして、刀という凶器を別の角度から表現したそれは癒しに似ている。

 それは海軍として刀を振るい、悪逆相手とはいえ裂傷切断、流血せしめる彼女にとっての仄かなぬくもりだった。

 

 丸一日かけて柄がいくつかの部品のように分解され、茎が現れた。

 

 たしぎは、この刀が無銘であってほしかったのだ。

 贋寓在銘であれば、それは刀匠の、あるいはワノ国そのものの変容を意味するのだから。

 

 

 

 :::

 

 

 

 たしぎと別れた後、昼時になって、三人は一旦船に集まった。

 モアは配達された物資をぶんどり号に詰め込みながら、そういえば贋寓とやらはどう受け取ればいいのだろうと考えていた。

 なんだかもう手にする事は無い気がする。考えても仕方が無いので作業に戻った。

 

 ナミは詰め込みを手伝いながら在庫管理のリストを作成していた。

 お使いは問題無く完了したようだが、なぜだか多めにオマケされたようで、まるで今もいできたばかりのような瑞々しいリンゴまである。

 

「なんか青果とか多いんだけど、セールでもしてたの?」

「ナミの真似をしてお願いしたら、たくさんオマケしてくれた」

 

「まあ、得してるんだからいいけど……」

 

 ナミは、モアが麗姿を武器に市場のおばちゃんをノックアウトしてきた光景を幻視した。

 

「あんたそれ、いつか勘違いされて痛い目見るから、あんまやらない方がいいわよ」

「? わかった」

「よし、これで最後ね。ん~疲れたぁ」

 

 二人が一息つこうと甲板に出ると、ステューシーが船尾に佇んでいた。

 

「ちょっと~、いたなら手伝いなさいよね」

「ごめんなさいね、待っていたのよ」

「誰をよ」

「今来たわ」

 

 ステューシーはゆるりと手を掲げた。ちょっとした大きさの革袋を掴んだコウモリがその掌に飛び込んだかと思えば、黒い霧となり霧散する。

 まるで何事も無かったかのように、ステューシーの手には革袋を握られていた。

 

「なに、いま何が」

 ナミは目を丸くする。おそらく何かしらの悪魔の実の能力なのだろう。

 

 ステューシーは袋の紐を解き、中にあった紙を広げる。

 

『アラバスタ方面の情勢について。現在、同国では反乱軍の動きが活発化しており、内乱の兆しあり。

 当該海域への接近は、不確定要素に巻き込まれる危険性あり。航路の選定には注意されたし』

 

 文面に素早く目を通し、ステューシーは面白そうに目を細めた。

(クロコダイル、七武海の地位を隠れ蓑に火遊びでもしてるのかしら)

 

  次いで、袋の中にいくつかある補給物資を確認する。

 

(可愛い航海士さんにも、そろそろ役に立つところを見せてあげないとね)

 

「わたしの用は済んだけど、この後はどうするの?」

「そうねぇ、すぐに出発ってのもなんだし、実はお風呂に入ってゆっくりしたいのよね。この船にはシャワーだけだし、湯水をたっぷり使ってリラックスしたいし~」

「なら、いいホテルを知ってるから案内するわ。船の手伝いを出来なかったし、わたしが持つわ」

 

 ステューシーは島の中心部である一等地に聳え立つ最高級ホテルへと、二人を案内した。

 ドアマンが重厚な扉を開けると、足が沈み込むほどに分厚い絨毯が敷き詰められ、天井からは眩いシャンデリアが光の粒を落としている。謎動力のエレベーターで最上階のスイートルームへ向かう。室内は品の良いアンティーク調の家具が並び、ふわふわのベッドは見るだけで長旅の疲れを吹き飛ばしそうだった。

 

「二人ともお疲れ様。今日はここでゆっくり羽を伸ばすといいわ」

 

 ステューシーが上品に微笑む中、ナミの視線は奥のバスルームへと釘付けになっていた。

 これまで乗っていたぶんどり号にはシャワーしか備え付けられていなかったのだ。

 広々とした浴室に踏み入ると、猫足のついたマーブル模様が美しい大理石のバスタブ。それを見ただけで、ナミの瞳はキラキラと輝き始めた。

 

「お先にどうぞ、ナミちゃん。たっぷりのお湯に浸かりたいでしょう?」

「あらいいの? 悪いわね!」

 

 気遣うステューシーの言葉に、ナミは満面の笑みで飛びついた。意気揚々とバスルームへ向かいかけたところで、ふと足を止め、ベッドに座りスプリングでぽよんぽよんしているモアへと視線を向ける。

 

(……そう言えば、モアのやつは悪魔の実の能力者だから、一人じゃお風呂に入れないのよね……)

 

 お湯に深く浸かれば全身の力が抜け、そのまま溺れてしまう。「一緒に入って洗ってあげようか?」と誘うべきか一瞬だけ迷ったが、すぐ隣でステューシーが意味深な笑みを浮かべてこちらを見ているのに気がついた。

 

 今ここでモアを誘えば、間違いなくからかわれる。それに、久々の広いお風呂なのだ。まずは一人きりで、誰の邪魔も入らない至福の時を満喫したかった。

 

(あいつのことは、私が上がってから考えることにしましょ!)

 

 ナミは小さく首を振って雑念を追い払い、贅沢に湯を貼る。

 衣服を一枚ずつ脱ぎ捨てると、湯気が満ちた温かい空気が露わになった素肌をふわりと包み込んだ。

 

 鏡に映るのは若々しく引き締まったウエストと、豊かな膨らみを描く胸の曲線美。シャワーで手早く艶やかなオレンジ色の髪についた海風の潮と、身体の汗を洗い流す。ナミはふんだんに張られたお湯の中へと、しなやかな片足を滑り込ませた。

 

「〜〜〜~っ! はあぁ、最高……っ!」

 

 指先からゆっくりとお湯に沈み、浴槽からお湯が溢れ出る。胸元まで温もりに包まれると思わず甘く吐息が漏れた。爪先を伸ばし、 湯船の縁に頭を預けて目を閉じる。久しく忘れていた開放感。やはり足を伸ばして入れるお風呂は良い。

 少し痺れるような熱さが心地よく、ゆらゆらと揺れるお湯が全身のコリを優しく解きほぐしていき、脱力感がナミを満たしていった。

 

「はあ……本当に天国だわ……やっぱりお風呂はこうじゃなくちゃ……」

 

 ふにゃりと頬を緩める。重い豊かな双丘も、今だけはお湯の浮力に委ねてぷかぷかと揺れている。滑らかな鎖骨から谷間にかけて、熱を帯びた柔肌はほんのりと艶めかしい桜色に染まっていった。

 ふと横を見ると、バスラックにいくつかの入浴剤が備えてある。薔薇や果物の香りのバスオイルの他に、ジグヤジーの石片がある。おお、ジグヤジーの石片とは浴槽の隅に置き沈める事で、指向性を持つ気泡や水流を吹き出し、血行促進や疲労回復の効果がある事で有名だ。

 やたら浮力の高いクウイゴスの木片と並び、なんだか便利だなぁと呼ばれている。値段も相当高い。

 

 こんな高級品は使わなきゃ損。バスオイルと併用すると、放つ甘いフローラルの香りが鼻腔をくすぐり、石片により噴流された気泡が全身をマッサージするかのようだ。

 

(これ、モアにやらせたら絶対びっくりするわね……)

 

 その様子を想像し、ナミ小さく笑った。そしてそのまま、うつらうつらと船を漕ぐ。

 

 

 

 そう長い間ではなかったが、明らかな嬌声と知った声が彼女を現実に引き戻した。

 聞こえてきたのは、酷く艶めかしく熱を帯びたステューシーの甘い声。肌がぶつかる生々しい気配。

 

 お湯の中で優雅にリラックスしていたナミの身体が、凍りついたようにピキリと固まった。

 カネカ号での一件が脳裏によぎる。

 

 ろくに身体を拭かずに、お湯を滴らせバスタオル一枚で浴室をでる。

 

「あっ!? な、なにやってんのよ! あんたらは──っ!?」

 

 お湯で温まっていたナミの顔が、一瞬にして沸騰したかのように真っ赤に染め上がった。

 息を荒くし、玉の汗を浮かべるステューシーが妖艶に微笑む。

 

「ナミちゃんもどう? 凄いわよ、掟で感度を上げてみたの」

「はぁ!? なにくだらないことに能力使ってんのよ!」

「あら、くだらないなんて事ないわよねぇ」

 

 するりとモアにしなだれかかろうとするその刹那、ナミと目が合う。性や男女間をめぐるそれではない。明確な対立的警戒。

 

 ナミがモアの腕を掴んだ。

 

「次、あんたの番よ。汗かいたんならお風呂に入りなさい」

 

 そう言われればそうなので、モアとしては断る理由もない。

 

「けど俺、一人じゃ溺れるし」

 

「わかってる。能力者だもんね、一緒に入ったげるわ……ステューシーもどう……」

 どこか鋭さを滲ませる口調で言った。

「三人は余裕で入れるくらい大きかったわよ、バスタブ」

 

「……わたしは、そうね」

 (やられた──)

「少し、休むことにするわ」

 

「そ。じゃ行きましょ」

 

 ナミはモアの手を引き、浴室へ向かう。

 一人残されたステューシーは、あーあ、とベッドに倒れ込んだ。

 

(測られちゃった。子猫と思いきや存外狐か)

 

 嫉妬などの低レベルな動機では無いことはステューシーにもわかる。性行為で淫液にまみれたこの偶発的な状況を利用して信頼を計られたのだ。

 悪魔の実の能力者にとって、水に深く浸かる行為は死に直結するリスクを伴う。全身の力が抜け、非能力者以上に無防備な状態に晒されるからだ。

 だから普段はシャワーで済ませるか、あるいは自身の命を預けられるほど深く信頼できる相手と混浴するか。

 

 ナミはステューシーを入浴に誘い、断られた。

 つまりまだ、本当の意味でモアとナミを信頼していないという事実を白日の下にしてのけたのだ。

 

(けど当たり前でしょ、そんなの)

 

 前腕で目を覆い、独り言ちる。

 

(世界はそんなに甘くないの。あなたたちみたいに無邪気に信頼し合うのは、致命的に脆弱よ。目指す目的が違うのなら尚の事)

 

 裏切りは山ほど見て来た。自身もまた、守りたい人の為なら世界政府を裏切る。所属するサイファーポールを裏切る。状況によってはナミもモアも裏切る。

 本当の意味で信頼できる仲間というのは、たぶん一生できないだろう。あちらこちらと立場を翻し、実を取る。別にそれでよかった。

 だが、どうしてか。だからかもしれないが、あの二人の関係には淡い羨望を覚えてしまっている。

 

(しっかりしなさい。今回はナミに隙を見せただけ)

 

 それが甘えであると断じ、思考を切り替える。それよりもひとつ、わかった事がある。

 モアの能力の有効性は行為だけでなく、個人の身体的能力にも作用する。

 感度を増やせばイキやすく、場合によってはイケと命じればその場で瞬時に絶頂させられ、逆に不感にする事も可能だろう。

 

 もちろん今回の実験は単にステューシーの性的趣向の為ではない。

 掟により身体能力そのものを上げる事が出来るのなら、戦闘能力も上げられる。

 

(もちろん、上限はあるでしょうけど)

 

 例えばナミに、ぶんどり号を持ち上げろと掟を立てた場合、実行はされても実現はされない。彼女の持つ肉体のキャパシティを遥かに超えた掟だからだ。

 ゆえに、最強になれと掟を立てても現実として最強になれるわけでなく、その者の持つ能力を上昇させるに留まるだろう。

 だが、それでも十分すぎる。

 

 いずれ世界政府を相手取る時が来る彼女にとって、それは優位性を確立する方法の一つとなりうる。世界最強になりたい訳ではない。ほんの少し、相対する敵と紙一重でいいから上回る必要があるのだ。

 とはいえ、今すぐ強化を願い出ても余計な疑惑を生じさせかねない。ナミは未だに慎重な視線を向けている。

 ステューシーは、まだ胸に残る快楽を思って思考を続けた。

 

(だからまだ様子見ね。それにしても、うーん、次はどこの感度をあげようかしら。腋? 脚……やっぱり思い切って喉というのも……)

 

 

 

 その事実を、ナミもまた別の角度から理解し始めていた。しかも、ステューシーよりも一歩踏み込んで。

 立ち込める白い湯気の中、 たっぷりと張られたお湯が、ジグヤジーの起こす泡の対流とでごぼごぼと音を立てていた。

 

 結局ステューシーの甘言に乗って感度を上げてみたのだが、凄かった。

 

 ナミは広々としたバスタブの縁に背中を預けながら、全身の力を失ってぐったりとしているモアの身体を、溺れないように背後からしっかりと抱きとめながら考え込む。

 

 掟は立てられた人間の主観に左右される。特に受け取り方に幅がある文言であればあるほど、その制約の影響を受けるだろう。この事実をまだステューシーは知らない。

 上げられた感度もだから、その人物の主観によって多寡が生ずるはずである。

 

 こっそりと一人で遊んでみるがいつもと同じ気持ち良さだった。また、先の性交時については確かに快楽の度合いは強かったが、感度3000倍とかを受容するほどではない。そうだったら今頃死んでる。

(肉体的に受容できる感度の上限、これ以上気持ちいいと死ぬデッドラインみたいなものが人間には当然あるとして、私の主観的には死にたくないから勝手にセーブされてデッドライン-1以下に抑えられてる。そして一人ではいつも通りだから、それって、やっぱ)

 

 顔が熱くなるのがわかって、ぶくぶくと湯に頭を沈める。抱いているモアも不意打ちでぶくぶくと沈められた。

 

(こいつで気持ちよくなりたいって、思ってるんだ、わたし……こいつがいいって事!? いやいやいや! ……それに感度って、普通に腰使いみたいなテクや性感帯を開発すれば増えるもんでしょうし)

 

 それだけでなく、お互いの関係性や性癖、置かれた状況によって興奮の度合いも変化するのであるから、いずれは掟に関係無く今日と同じ気持ち良さに辿り着くことは考えられる。

 

(ていうか普通にこのままエッチが上手になればなるほど、掟による感度上昇の効果は相対的に小さくなる訳だけど……仮にいずれ素の気持ち良さがデッドライン-1に到達すると掟は意味消失しない? うん? これって掟を事実上無効化する例外処理だったりする?)

 

 脳に酸素がいきわたらなくなり、ぷはぁっ、と浮上。モアはえずいている。

 

 いや、そんなはずはない──

 ナミは、能力の圧倒的な無機質さを思い返す。容易く理に背理し、強制的に規則を背負わせ、人を世を非可逆的に変容させかねない、まさしく悪魔の実。

 掟は必ず、意味消失を回避し実現性を優先させるよう振舞うだろう。

 自己が与えた規則を失わせる事無く、しかしデッドラインを超えさせない方法。即ち──

 

(──デッドラインを引き上げるんだわ! そうすれば快楽の受容量に空きができ、そこに自らの感度上昇の効果を加算すれば掟は無効化されない!)

 

 この発見にナミの動悸が速まったのは、なにもスケベだからではない。

 前述のそれは快楽に例えた話であり、掟により肉体的な運動量やあらゆる技術の習熟の限界を引き上げる事が出来る仮説なのだ。

 

(わたしに剣豪になれと掟を立てた場合、即席である程度強くなれるけど鍛錬すれば、デッドライン……この場合は上限としてのポテンシャルと言い換えた方がいいわね……に、すぐにブチ当たる。私の元の剣豪としての能力が低いから。けどその瞬間、掟は相対的な消失を回避する為に剣豪のポテンシャルを引き上げる)

 

 剣豪としての腕が加算されている状態で経験や修練を積むのは、ポテンシャル到達を容易にするだろう。もっとも、剣豪に限らず上を目指せば目指すほど、習熟の難度は指数関数的に増大しそうだが。

 

 人間の地道な研鑽をあざ笑うかのようなタイムスケールの短縮法であり、同じ力である掟によってしか解呪されない、ある種の呪いにも似た恐ろしさを覚える。

 もし、悪意ある人間の手に渡っていれば……

 

 ナミはぞっとしてモアを抱きしめる。

 この男が、どうか道を踏み外す事がありませんようにと。

 

「ナミー、なんかこのジグヤジーってやつをチンコに当てると気持ちいい」

 

 ナミの胸元に頭を乗せ、わあー、と気の抜けた声を上げる姿に、ふっ、と笑みがこぼれる。

 ナミはかけがえのない宝物を守るように、彼の温かい背中をもう一度だけ、ぎゅっと強く抱きしめた。

 

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