飯炊きの翁 作:調理チーフ
時は戻って、現在。酒寄彩葉の借りるアパートの一室には、良いニオイが流れていた。
「暑いのに、鍋……」
「冷房入れてんだろ」
「…………流石に、赤ちゃんの体調まで無視できないから」
「俺としては、その調子でもう少し自分の事にも気を配ってほしいんだがな?」
ぐうの音も出ない指摘を受けて、気まずそうに彩葉は顔を逸らした。
彼女の前ではちゃぶ台の上にカセットコンロが置かれており、その上では浅めの鍋がセッティングされ蓋をされていた。
グツグツと煮える音が、食欲を増進させるBGMとなっている。
彩葉が質の悪いナンパに引っかかった日を皮切りに、二人はこうして時折食卓を囲む。
毎日ではない。それぞれがそれぞれにバイトをしており、プライベートがある。その点を考慮し、且つ彩葉の顔色が悪くなる前に北斗が料理を手に乗り込んでくる形だ。
因みに、調理に関しては北斗の自室で行われ完成品、若しくは完成間近となってから彩葉の部屋に運ばれる。
極貧生活をする彼女の切りつめを知るが故の配慮。また、稼ぎに関しては北斗の方が多かったりする。
鍋の煮える音を聞きながら、彩葉はチラリと食事を持ってきた男子を見やった。
「元気なもんだな。腹は……減って無さそうか。重湯は要らなかったか?」
慣れた手つきで赤ん坊を抱き上げた北斗。その目元はもっさりとした前髪で伺えないが、口元には優しい笑みが浮かんでいた。
今も、右腕で赤ん坊を抱き上げ、手袋に包まれた左手でじゃれさせている。
彩葉の視線に気づいたのか、北斗は顔を上げた。
「ん?心配しなくても、
「いや、そこは心配してないから…………杜部って、何というか赤ちゃんの面倒見るのに慣れてない?」
「気のせいだろ」
「いや、絶対に気のせいじゃないから。今だって、滅茶苦茶安定した抱っこしてるじゃん」
彩葉が指摘するが、北斗は肩を竦める。
うごうごと彼の左手にじゃれつく赤ん坊は、先程大泣きした時と打って変わって興味津々に目を輝かせて遊びに夢中だ。
明らかに、手慣れている。ジト目を向ければ、件の青年は視線を気にする様子も無く鍋のふたへと手を掛けていた。
「…………よし、完成だ」
「あ、良いニオイ……」
「手早く作ったにしては及第点だろ」
いや満点、と彩葉は内心で点数の改定する。
鍋の中でぐつぐつと煮込まれているのはすき焼き。所謂、トリすきと呼ばれる鶏肉を使ったすき焼きだった。
小鉢に割り入れた卵を解いて、そこに濃いめの味付けとなった鍋の具材を通して頬張る。
「はふはふ……うまぁ~……」
「簡単な割には、旨いから良いな。っと、お前はダメだ」
「うぅ~~」
すっかり胃袋を掴まれている彩葉を尻目に、北斗は小さな手を伸ばす赤ん坊から小鉢を離す。
先の通り、濃い目の味付けだ。赤ん坊が口にするには、少々パンチが効きすぎているというもの。
代わりに、彼は箸を置くと脇に置いていた水筒を手に取った。
蓋がコップ代わりになる魔法瓶。そのコップへと注がれるのは少々白濁したとろりとした液体だ。
コップ越しに温度を確認して一つ頷き、彼は小さい木の匙を手に取った。
「まあ、良いだろ。ほれ、あーん」
「あ~~」
小さな口に木の匙が滑り込む。
むちゃむちゃとまろい口が動くが、直後に小さな頭が傾く。
「う?」
「ふっ……味の濃い奴は、まだ先だな」
口元に微笑を浮かべて、自分の食事もおざなりに北斗は赤ん坊の世話を焼く。
鍋に舌鼓を打ち、白米を掻きこんでいた彩葉は不意にその光景を見ながら手を止めた。
「…………やっぱり慣れてない?」
「……まあ、昔取った杵柄って奴で納得しとけ」
「いや、あんた同い年じゃん」
「じゃあ、バイト先で知る事があったんだ」
「居酒屋で?」
「子連れぐらい来る」
適当な言い訳に聞こえる返答に、彩葉のジト目が飛ぶ。
だが、それ以上突っ込むような事はしない。
こうして食事を共にするが、彩葉も北斗も互いの抱えた事情には必要以上に踏み込もうとはしなかった。それこそ、知っている事といえば表面のふわっとした部分ぐらいだろう。
互いに、それ以上の距離を詰めようとはしなかった。そもそも、甘酸っぱい感情なども無いのだからある意味この距離感は正しいのかもしれない。
一時間ほど過ぎて、元々三人分弱で作っていた鍋はすっかり空となった。
火を落とし鍋の熱気も十分に落ち着いた所で、彩葉は鍋掴みを手に鍋を流しへと持っていく。
食事の提供は、北斗。後片付けは、彩葉。
最初こそ、使った食器はそのまま北斗が回収していたが借りを作るばかりとなった状況に耐えられなかった彩葉がごり押してこの分配となっていた。
彩葉が洗い物をする間、北斗は赤ん坊を抱え直すと肩のあたりに顔が来るようにしてその小さな背中を軽く叩く。
「…………けぷっ」
「よぉし、出来たな。偉いぞ」
「あいっ!」
持参した綺麗なタオルで口元を拭えば、赤ん坊は輝くような笑顔を向けてくる。
かと思えば大きな欠伸と共にプツリと電池が切れたように穏やかな寝息を立て始めた。
「寝ちゃった?」
「おう」
手に残った水気を、エプロンで拭いながら彩葉は北斗の後ろから声を掛ける。
静かな時間だ。小さな寝息や、電灯の稼働音がよく聞こえる程度には静謐がそこにはあった。
「…………やっぱり、杜部が面倒見た方が良いんじゃない?」
「その話は、飯を食う前に終わったんじゃなかったか?」
「でも………」
「まあ、面倒に思う気持ちも分かる。赤ん坊の世話は、過酷だ。ただ、俺の部屋じゃ難しい。赤ん坊が触れたら危ないものも多い。その点、酒寄の部屋は物が少ない上に整ってる」
「………貧乏で悪かったわね」
「そうは言ってない。もう一点は、冷房だ。流石に、夏場で扇風機一本は死ぬぞ、お前」
「……」
スッと彩葉は目を逸らす。胃袋を掴まれ、私生活を知られている北斗に対して彼女の立場は実に弱かった。自身の事を思っての言葉故に猶の事反論できない。
昨今の夏場は、文字通りの殺人級の暑さだ。更にこのボロアパートの断熱性などお話にならないレベル。
口酸っぱく小言を連ねても、本人が動く気が無ければどうにもならない訳で。北斗は今回の赤ん坊登場というイベントを有効活用する事にした。
「……シャワー浴びてくる」
「おう、行ってこい。お前が上がったら、俺も帰る」
バスルームに背を向けるように胡坐をかいて座り込んだ同級生の男子の背中を一瞥し、彩葉は一式手に取ると扉を開けた。
同級生の美少女が扉一枚隔ててシャワーを浴びているという状況を前に、北斗は何とも思っていないようだった。
事実、彼の内心は小波の一つも起きていない。枯れていると称せるほどの、平穏っぷりである。
因みに、彩葉は彩葉で北斗の反応に慣れてしまっていたりする。健全な男女関係としては、割と致命的な状況に陥っているのではなかろうか。
そんな事を指摘してくれる相手もいない二人の夜は、この日も静かに更けていった。
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剣戟、弾ける。火花が散り、耳につんざく金属音が響く。
竹林を駆け抜けるのは、二つの影。
両者は一瞬の間を挟んで、月夜の下で交差し着地。少しの間を挟んで、片方が倒れ伏した。
『対戦 アリガトウ ゴザイマシタ』
独特な平坦さを持つ機械音声のボイスチャットを発するのは、勝ちを収めた方。
白銀のフルフェイス兜に同じく白銀の甲冑を身に纏って一部の隙間も無く覆われた大振りな槍を携えた狼の獣人だった。
仮想世界 ツクヨミ。AIライバーである
全世界でユーザー数一億人を突破した人気を博しており、その数は日夜増え続けている。
ここは、そんなツクヨミ内でも人気コンテンツの一つ、
ソロからチーム戦まで対戦可能で、その自由度は既存のゲームと比べても頭一つは軽く跳び越えている。専門プロゲーマーが一財産築けるほど、と言われればその人気度も分かりやすいだろう。
ツクヨミの登録者は、その全てがライバーとしても活動できる。現実でも使える仮想通貨も流通しており、先の通りゲーマーが一花咲かせたりと実に自由だった。
そして、その一人ユーザー名ナナホシはKASSEN内でもソロ対戦形式の配信を行っていた。
とはいえ、本人は機械音声のボイスチャット定型文を組み合わせて喋るだけ。それでも一定数の視聴者と、対戦相手が現れるのは彼自身が相応の実力者であるお陰であろう。
『本日 ハ コレニテ 御視聴 感謝』
深々と鎧武者が頭を下げて、配信終了。
完全にカメラが切れた事を確認して、ナナホシは現実の目を開いた。
「……はぁーーー……稼ぎは、上々……だな」
スマホの画面を開いて、
前髪に隠れた目元へと手を伸ばし、目から取り外すのはコンタクトレンズ。
スマコンと呼ばれる、ツクヨミにログインするためのアイテムでありスマートフォンに並んで日常生活の必需品にもなりつつある一品。
スマコンをケースに収めて、ふと北斗は己の左手に目を向けた。
春夏秋冬問わず、常に身に続けている手袋。外すとすれば入浴時位の物。
シャワーでも浴びようと中指の先を右手で摘まみ、左手を引き抜くように手袋を外す。
露となった左手は、異様だ。
僅かに手の甲と平にそれぞれ右手と同じ肌の色を残しながらも、それ以外は黒く歪んで焦げた様な肌の色。爪は歪んで波打っている。
酷い火傷の痕だった。本来の皮膚の弾力など失われ、突っ張って引き攣った肌は汗腺を喪失しており触れれば人肌とは思えない熱を孕んでいる。
左手だけではない。火傷痕は手首を伝って、袖の下に隠れた腕の方へと伸びていた。
握って開けば、見た目に反して素直な挙動。触覚が鈍く、一枚壁を隔てた様な感触しか感じられないがそれでも手という器官としては最低限の機能は残っている。
赤ん坊を抱く際に右腕を使っていたのは、この左腕の事情が大きく関わっていた。
触覚が鈍く、力加減が右に比べても曖昧な為繊細な作業には向かない故に。これもまた、北斗なりの配慮というものだった。
下着とパジャマを手に立ち上がった北斗は、ふと天井を見上げる。
静かなものだ。エアコンの稼働音以外には、窓越しの虫の声が僅かに聞こえる程度。
明日も騒がしい事になる予感を携えて、彼はバスルームへの扉を開けるのだった。