飯炊きの翁 作:調理チーフ
朝。手早く灰色のシャツに、黒のスラックスというどこぞの社会人のような格好に着替えて杜部北斗は色々と乗せられたお盆を片手に自室を後にした。
響く階段を登り、向かうのは真上の部屋。
インターホンを鳴らせば、扉の向こうからはバタバタとして慌てる音が聞こえてきた。
間髪入れず、扉が少し開いて中から翡翠色が覗く。
「よお、おはよ」
「お、おはよう、杜部……」
「朝飯持ってきた」
「……ありがと」
一度扉が閉められて、チェーンが外されると再び扉が大きく開かれた。
ラフな部屋着に着替えていた彩葉。常の凛々しい眉が下がっており、何やら困っている様子だ。
「どうした?」
「いや、それが、その……」
北斗が問えば、歯切れが悪い。
彩葉の視線は部屋の中央へと向けられ、そこには布団と
ついでに、微妙に湿った様に見える敷布団。
「あー……やられたか」
「……うん」
「とりあえず、シーツは洗え。敷布団は……干すしかないか」
「いや、もっと突っ込む所あるでしょ」
「電柱から出てくる赤ん坊だぞ?一日でデカくなっても驚かねぇよ」
それはそう。この指摘には、彩葉も頷かざるを得なかった。
ぱっぱと布団を退けて、濡らした赤ん坊の世話をし、テーブルを置く。こういう時、手際の良い二人が揃っていると問題が片付くのも速いというもの。
朝食の準備を終えて卓に着けば、北斗の足元に小さい影。
「あぅ」
「へぇ?もうハイハイできるのか。優秀だな」
寄ってきた赤ん坊を抱き上げる北斗。首がちゃんと据わっている事を確認して、膝の上に乗せる。
今日の朝食は、ホットサンド。一口齧ればとろりとチーズが蕩けだす。加えて、スープにサラダと栄養バランスを加味しながら確りと食事として腹に溜まるラインナップ。
「う~~」
「お前には、まだ早い。歯も……生え揃ってはねぇな?」
ホットサンドに手を伸ばしてバタバタと動く赤ん坊を押さえながら、北斗はその口の中を覗き込む。
下顎に見えた小さな白い塊。因みに、乳歯の生え始めは六か月あたりとされている。
ホットサンドへと右手を伸ばす北斗。一方で、彩葉は彼が持ってきたカフェオレにホッと一息吐き出していた。
「朝から温かいご飯とカフェオレ……最高……」
「噛みしめる位なら、ちったぁ俺が来ない時の飯も改善すればいいだろ」
「分かってるけど……」
「若しくは、バイトを変えるかだな」
「……」
ホットサンドを齧りながら、彩葉は目を逸らした。
東京の時給は、相応に高い。しかし、同時に物価など諸々も高い。
当然であるが、そうなれば必要なのは割のいい仕事というものだ。
現状の彩葉は、バイトに奨学金で何とかやりくりしているような状態。北斗が苦言を呈すのも仕方ないというもの。
分が悪い。彩葉は、この話題を避けるために咀嚼していたホットサンドを飲み込んで口を開いた。
「そ、それで?杜部は、今日何か用事がある訳?」
「……そうさな」
話を逸らしにかかった事に気付き、北斗のジト目が向けられるが彼はそれ以上の追及をしない。
代わりに、視線を自分の腹部を押さえる手袋に包まれた左手にじゃれている赤ん坊へと向ける。
「とりあえず、必要品だろ。おむつ、粉ミルク、哺乳瓶、除菌バケツと除菌剤。服は……二、三枚程度か」
「うっ……やっぱり要るよね」
「とりあえず、最低限はドラッグストアでも揃うだろ。問題は、こいつが次はどの程度まで育つかだ」
「う?」
ホットサンドの最後の一切れを食べ終えて、手を払った北斗は赤ん坊の脇に手を差して目線の高さまで持ち上げる。
昨晩抱っこした時と比べれば、明らかに育っている。となれば、いつまで赤ん坊の姿で居続けるかも分からないというのが彼の見解だ。
北斗の言い分を理解したのか、彩葉も頷く。
「確かに。あんまり買い過ぎても、直ぐに大きくなったら元取れないもんね」
「ああ。足りないなら、都度買い足すべきだろ」
「……改めて、あんたが居て良かったよ杜部。私一人だと、テンパって散財してそう……」
「……想像できるな」
自分のもう一つの未来を想像し、彩葉は虚空を見つめた。
彼女は、周りに頼らない。否、
故に、北斗は無理矢理にでも食事を持ってくる。明確に作った上で持ち込めば、人の良い彩葉は断れない事を知っているから。
そんな朝の時間。この後、彩葉は頭を抱える事になるのだが当人はまだ知る由もなかった。
@
子供一人を育て上げようと思うと2500万以上の金がかかるとされている。コレに+αとして諸々の資金が必要になるのだから、子育てというのは大変だった。
「こ、こんなにかかるの……?」
テーブルに突っ伏して燃え尽きた彩葉は、そんなうめき声を吐き出すしかない。
赤ん坊の子育てに必要な一式を揃え、かかった金額は一万越え。
一応、ツクヨミの仮想通貨である“ふじゅ~”で払える額だった。その大半が吹っ飛んでしまったが。
「そんなもんだろ。ほれ」
「……え?……あ!」
項垂れる彩葉だったが、不意に震えたスマホに顔を上げれば目を見開いた。
そして、その画面を対面で赤ん坊を抱き上げる北斗へと向ける。
「ちょ、ちょっと!良いって、言ったじゃん!」
「よくはねぇだろ。それに、お前ひとりで面倒見てる訳じゃねぇんだ。俺が支払いの半分を担ってもおかしくねぇだろ?」
「いや、全額キャッシュバック!寧ろ、ちょっと多いし!……もー、そういうの良くないって、ホント……」
「馬鹿言ってんな。ここから大変なのは、お前だろ」
「……」
テーブルの天板に顎を置いて、彩葉が眉根を寄せる。
そんな彼女へと、北斗は自身のスマホの画面を見せつけた。
表示されていたのは、トークアプリのやり取り。
「シフトに穴が空いたからな、今夜はそっちで食ってくれ」
「ん、了解……ミルクってどうすんの?」
「一応、作り方は缶に書いてあるし、スマホで見れば図式で説明してくれるはずだぞ」
「……」
北斗の言葉を受けて、テーブルに頭を預けながら彩葉はスマホを操作。そして、そんな彩葉を赤ん坊はじっと見つめていた。
そんなやり取りのあったその日の夕方。北斗の姿は、バイト先の居酒屋にあった。
黒い長そでのシャツに、左手にはビニール手袋とニトリル手袋の二重装備。腰には黒いサロンを巻いて、頭にはバンダナ型の黒いキャップを被っている。
「悪いね、杜部君。急に入ってもらっちゃって」
「いえ、仕込みに出てない分楽ですよ」
「いや、本当に助かるよ。杜部君が居ると、お客さんも料理の注文多いからね」
眼鏡を掛けて大らかに笑うのは、この居酒屋の店主。
居酒屋“
店主の目利きに因る豊富な酒と、一品料理のおいしさから連日満員となる人気店。
この日の流れを確認していた店主と北斗の二人。
そこに、バックヤードへと通じる裏口が開かれる音がする。
程なく入ってきたのは、金髪に唇の端にピアスをつけた青年だ。
「おはざーす。お、モリちゃんじゃ~ん。ラッキー、今日は賄旨いの確定だし」
「おはようございます、宇尾さん」
肩を組んでくる宇尾に対して、北斗は特に反応なし。
見た目と言動の全てがチャラい彼だが、その本質的には真面目でそして自身の
基本的に、この店ではキッチン三人、フロア三人で回す。新人が居る場合は、四人になったりもするがラッシュになってもそれぞれに三人居れば事足りた。
そして、始まる
「一番さん、フライドポテトに枝豆ね」
「こっち、めざし上がります。焼き鳥どうですかね?」
「おっけ~。グラタンもそろそろ焼けるよ~」
ポジションは、キッチン内では三エリアに分けられる。
焼き物炒め物などのメイン系と、それ以外のサイドメニューゾーン。因みに、後者は手隙で洗い場を回す必要もあったりする。
そして、料理のサーブと接客を熟す中央ゾーン。
フロアでは、席への案内、料理の配膳、空になった食器の回収、会計等々。
これらに加えて、居酒屋で珍しくないのが酔っ払いの対処も出てくるのだから見た目以上にハードな仕事であるともいえる。
そんな時間を駆け抜けて、自分で用意した賄を北斗が平らげた時には既に時計の針は23時前を指そうかといった所。
「今日は助かったよ、杜部君。上がってくれて大丈夫だから」
「っす。お疲れ様です。賄は、いつもの所に置いておくんで適宜温め直してください」
「モリちゃん、おっつ~」
二人に送り出され、フロア担当にも頭を下げて北斗は裏へと引っ込む。
着替えを済ませ、一通りの荷物をカバンに突っ込むとその足で店を後にする。
帰路につき、北斗が思い浮かべるのはなし崩し的に一緒に子育てをする事になった同級生の事――――ではなく、自室の冷蔵庫の中身だった。
「卵は……まだあったか。ヨーグルト……牛乳……ソーセージやベーコンはあったから、明日の朝はこの辺りを使うとして……夕飯」
趣味と実益。杜部北斗は、自炊が好きだ。
元々は、別の理由から始めたモノだった。気付けば趣味となって今では、仕事でも重宝する技術となっている。
無意識の内に、北斗は己の手袋に包まれた左手を持ち上げていた。
「……」
一度握って開き、手を下ろす。見上げた空には、月が輝いている。
そんな忙しい三連休。赤ん坊というのはハイハイが出来る様になるとますます目を離せなくなる為に、それぞれのプライベートも勝手に削られていった。
そんな三連休も終わりの深夜の事。
「……あ゛?」
ヘルプでバイトに入った北斗は、寝入って一時間ほどで目を覚ました。
目を開ければ、見慣れた天井。耳に聞こえてきたのは、甲高い泣き騒ぐ声とそれから聴きなれたもう一人分の焦った声。
もう一度、目を閉じた北斗。だが、流石に放置するには居心地が悪すぎた。
「はぁ……」
ため息と共に起き上がり、玄関へ。
階段を登り、目的の部屋のインターホンを押そう、としたところでその指は止まった。
このアパートのインターホンは、周囲に響くのだ。ただでさえ、騒がしいのにこれ以上騒ぐのは宜しくないだろう。そんな判断が頭を過り、指を引っ込めて緩い拳を作り扉をノックする。
ノックの音が届いたのか、室内が慌ただしくなる。
何やら作業する音の後、鍵が開く音が響き扉が開く。
「……杜部?」
「よお、酒寄。何か「あー!ごはん!」……あったらしいな?」
扉の隙間から覗いてくる彩葉と、彼女に隠れて姿は見えないが聞き覚えの無い高い声が北斗を出迎えた。
直後に、彩葉が何やら叱っているが声の主には暖簾に腕押し、糠に釘。
閉まろうとする玄関扉の縁に指を掛けてそれを惜し留め、北斗は空いた手で頭を掻いた。
「……とりあえず、話聞いても良いか?」
玄関で押し問答する訳にもいかず、彼はそう切り出すのだった。