酔わなきゃラブコメやってらんねえ   作:響野響

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過去においてきたもの

 暖房をつけても尚寒いと感じる。やっぱり日本の冬は一月からが本番なのかもしれない。そんなことを思いながらふと外を見た。

 がしゃん、と突然ベランダに出る窓が割れた。

 いや、割られたが適切な表現だ。

 適切か? 突然ベランダに現れた招かれざる客が窓を割る、という状況は。

 その不適切な客は割った窓の穴から手を挿し込み、窓の鍵を開け、ためらいなく僕の部屋へと入って来た。

 

「り、梨」

 

 僕が奈、と言う前に彼女はその右手に持つ包丁を僕に突き付けた。

 

「立って」

 

 彼女はそう言うけれど、僕は意味も分からず竦むばかりだった。が、同時に腹の古傷が痛み始めた。

 そう、僕は知っている。この夕月梨奈という女は本当に人を刺す。まだ付き合っていたころは工作用ナイフの刃をほんの数ミリ出して皮膚を傷つけただけだったけど、今回は包丁だ。癇癪をおこして内臓まで刺し入れるなんてこと容易に想像できる。

 

「梨奈、落ち着いて……」

「早く立って!」

 

 ダメだ。彼女はひどく興奮している。最悪の選択か、最悪でないだけの選択肢か。今の僕にはその二択しかない。

 僕は後者を選んだ。彼女の言う通り立ち上がる。

 

「両手をあげてついてきて」

 

 彼女の言う通り、僕は両手をあげる。そして床に散らばった割れガラスを踏まないようにベランダに出た。このアパートのベランダは他の部屋と繋がっていて仕切り板で区切られているタイプだ。ちょっとのプライバシーと引き換えに、火事などの非常時は仕切り板を割って別の部屋から避難にできるメリットがある。

 もっとも、そのせいで彼女の侵入を許すことになったけれど。隣室から侵入したんだろう、仕切り板が割られている。

 

「滝菜!」

 

 玄関から戻って来たソラがそう言った。

 

「……月梨夢愛! あんたイカれてんの!?」

「――ソラ、今なんて」

 

 どうして今ソラは梨奈のことを夢愛と呼んだのか、そのこと考えようとした瞬間、僕の首は梨奈の腕に締め上げられた。

 正直、彼女の細い腕と弱い力では呼吸が苦しいという風にはならない。問題はそう、サスペンスのお約束だ。拘束された僕の首には包丁が突き付けられている。

 

「動いたら殺すから!」

 

 その言葉で、今にも走り出しそうなソラの動きが止まった。梨奈が本当に刺せる人間だとソラも理解しているんだろう。

 僕はそのまま梨奈のなすがままに引きずられ、ベランダを通って隣室まで移動させられる。

 

「ざっけんなこのメンヘラ!」

 

 ソラは追いかけてきてくれたらしい声が聞こえた。けどその時にはもう僕は隣室に入れられてたし、梨奈は窓のシャッターを下ろしてロックをかけていた。

 シャッターが閉められた部屋には光が無い。何も見えない。

 

「ッ!?」

 

 ぱっと何かが僕を照らした。スマホのライトだろうか。まあ光源がなんであれ、考えるまでもなくライトの持ち主は梨奈だ。

 光に驚いた僕を、梨奈が突き飛ばす。堅い床でなく、衝撃を受け止められる何か――この感覚はおそらくベッド用マットレス――に背中を預けることになった。

 かちゃん、と僕の右手になにか金属製のものが取りつけられた。この感覚は知らない、と言いたいけれど残念ながら知っている。過去にも梨奈につけられたことがあるから。

 手錠だ。ドンキ・ホーテに売ってるようなプラスチック製のおもちゃではなく、ミリタリー専門店で売っているようなカーボンスチール製の高剛性の手錠。当然、鍵が無ければどうにもならない。もう一度かちゃん、という音が鳴った。おそらく手錠のもう片側をどこか取りつけたんだろう。

 

「滝菜……滝菜ぁ、滝菜ぁっ!」

 

 左手も同じように手錠をかけられた。もう僕は身動きが取れない。

 部屋の電気がついた。それでようやく自分の状況を把握できた。

 僕の両手にはやはり手錠が取りつけられていて、両手の手錠のもう片方はベッドのパイプに取りつけられている。僕は仰向けの情けない恰好でベッドに拘束されたわけだ。

 部屋はゴミだらけだった。弁当の容器、インスタント食品の容器、割りばし、化粧品、脱ぎ捨てられた服、空のペットボトル、ゴミ袋。足の踏み場もない。

 

「ふふふ。ようやく私の所に戻って来たね、滝菜」

 

 部屋の中心で、まるでゴミ山のお姫様のように梨奈が立っていた。

 

「本当に滝菜が戻って来た! わたし苦労したんだよ? だって滝菜おったら、取り戻そうと決めたのにずっとあの三人の誰かと一緒にいるんだもん。手を出すタイミングが無くてこまっちゃった。盗聴器もあの女が全部外しちゃうし! 本当にありえない! わたし、ずうぅっと滝菜のお話を聞いていたかったのに! あいつストーカーの才能でもあるんじゃないの?」

「梨奈」

「なーに?」

「どうしてソラは君のことを夢愛と呼んだんだ」

「それはねえ」待ってました、と言わんばかりに梨奈が「わたし本当は月梨夢愛だからだよ」と言った。

「嘘だ」

「嘘じゃなーいよっ。ほら、見て」

 

 そう言って梨奈は高校の生徒手帳を取り出した。そこに書いてあるサインは、間違いなく僕が彼女に書いたサインだった。

 そんなバカな。

 どうしてそれを梨奈が持っている。

 考えるまでもない。

 じゃあ僕が大学生になってできた恋人は。

 

「あ、顔全然違う? そりゃそうだよ! かわいいって思われたくてメイク頑張ったんだ……滝菜はわたしのこと家族としてしか見てなかったし、月梨夢愛として、義妹として再会しても恋愛感情を持ってくれないでしょ? だから素顔が分からなくなるくらいメイクしてたんだー。ちょっとだけ整形もしたよ? でもいつか素顔を見せる時、滝菜がわかんなくなるくらい顔いじるのもやだったから、本当にちょっとだけだよ?」

 

 性交渉の誘いを断るたびに申し訳ない気持ちになっていた相手は。

 口づけを交わした君は。

 僕の話を聞いてくれた君は。

 束縛の強い君は。

 僕に刃物を向けた君は。

 でも心が不安定だけど、本当は優しい君は。

 君は本当に。

 僕の義妹。

 

「っあ、あ」

 

 僕が義妹に恋していたこと。

 彼女から受けていた理不尽。

 もう何が何だかわからない。僕の頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 

「ほーら滝菜ショック受けてる。わたしのこと、やっぱり女として見てくれてなかった。だから成り済ましたのに。上手くいきそうだったのに。でも、もういいよね」

 

 もういい? 何が?

 

「もういいよね。本当は愛があるやり方よかったけど。うん、もういいよ」

 

 何が?

 

「やっぱりわたし思うんだよね。女も男も、挿される方も挿す方も、結局求められるのが一番気持ちよくなれるんだって。でも、もういい。もたもたしてるとケーサツ来ちゃうし。どーせあの女通報してるでしょ」

「何が?」

「え、セックス」

「セッ……?」

 

 義妹が一体何を言っているのか一瞬理解が追いつかなかった。

 

「わたし滝菜と家族になりたいの」

 

 そう言って夢愛が僕の上にまたがる。その手にはまだ包丁が握られている。

 

「わたしの人生で幸せだった時間は、滝菜とお母さんがいた間だけだった。でもあの馬鹿な男が馬鹿なことをしたせいでわたしたちは離ればなれ。もう家族にはなれない。でも――」

 

 彼女の小さな舌が自らの唇を濡らす。

 

「わたしが滝菜の子を孕めば、それってもう家族でしょ?」

 

 反射的に、僕は夢愛を突き飛ばそうと腕を伸ばした。けど僕の両腕は手錠でベッドに拘束されている。手錠が僕の腕に食い込んで、それで終わり。

 

「滝菜ッ!」

 

 反意を察した夢愛が僕の耳元に包丁を突き立てた。あとほんの数ミリ近かったら僕の顔は見事なアシンメトリーになっていただろう。

 

「知ってる? 男の人って死んでも数時間の間なら首絞めれば勃起するし、精子も死滅しないんだって。最悪、体を切り刻んで精巣を取り出せばいいんだよ? そんなことさせないでね? 気持ち悪いし、滝菜と気持ちよくなりたいし」

 

 そして彼女は攻撃的な笑みを浮かべる。

 

「でもおしおきはいるよね?」

 

 そう言って夢愛は僕のシャツをめくり上げる。僕の腹の傷――夢愛が僕につけた――を見ると満足気に頷いて、そこに包丁の切っ先を這わせた。

 

「いっ」

 

 思わずうめき声をあげてしまった。

 恐らく実際に刺さっているのは数ミリ程度だろうけど、それでも痛いものは痛い。それに今の彼女の状態ではそれこそ致命傷になるような行動もとりかねない。

 

「……できたっ」

 

 僕はは恐る恐る夢愛が包丁を突き立てたところを見る。

 

『I L◇VE Y∐A』

 

「これで滝菜はわたしのこと見てくれるよねっ」

 

 吐き気がこみ上げてきた。彼女の異常な執着に、僕は薄気味悪さと恐怖を感じている。しかし何もできない。それが現実だ

 反射的に彼女から目を逸らす。すると、部屋にもう一人男がいることに気付いた。僕は窓側のベッドにいて、対角線上の部屋のすみに彼はいた。

 一目見て分かった。クリスマスイブのあの日、梨奈と寝ていた男だ。彼がゴミの山の中でうな垂れている。冬だというのに全裸だ。彼もまた手錠を……よく見ると足錠もかけられている。目が虚ろで、逃げ出す気力もないという様子だ。

 

「お兄ちゃんがどうかしたの?」

「――お兄ちゃん?」

「うん。お兄ちゃん」

 

 明らかに会話が成立してなかった。夢愛は明らかに部屋のすみの彼をさしてお兄ちゃんと呼んでいる。夢愛にとっての義兄は僕だけなはずだ。それとも僕が知らないだけで、彼女には兄がいたんだろうか。

 

「お兄ちゃん、クリスマスイブの日はそういう空気の日だから頑張ったけど、普段は二次元じゃないと勃起しないんだって。そんなのビョーキだよね。だから頑張って治そうとしたんだよ? でも治らなかったから罰としてご飯抜き」

 

 はあ、と夢愛がため息をついた。

 

「この世界にはいろんなお兄ちゃんがいるけど、やっぱり滝菜が一番。廃棄弁当をくれたコンビニのお兄ちゃんよりも、服とかアクセサリーをプレゼントしてくれたお兄ちゃんより、うん、別れてから気付くなんて遅いよね。お兄ちゃんとの浮気が滝菜にバレた時、本当に焦った。言い訳になっちゃうけど、滝菜からクリスマスイブなのにバイトだって言われた時、本当にショックだった。せっかくそういう雰囲気を作りやすい日なのに……わたし寂しかった。そんなときにね、お兄ちゃんから連絡が来たの。『会えない?』って。嬉しかった。だからわたし、早く帰ってきてねってお兄ちゃんに連絡したんだ。そしたらすぐにお兄ちゃん来てくれた。隣の部屋に行こう、なんて変なこと言ってたけど……おかしいよね、隣はお兄ちゃんの部屋で、わたしとお兄ちゃんの部屋はここだもん。その時のお兄ちゃん、変な顔してたけど何だったんだろうね? でも問題はその後、兄ちゃんとセックスしてる時に滝菜お兄ちゃんが帰ってきて……そう、滝菜おにお兄ちゃんとの浮気がバレたの。もうわたしどうすればいいかわからなくなったって……一度隣のお兄ちゃんの部屋に連れて行ってもらって、うん、お兄ちゃんもやっぱりわたしのこと信じられなさそうな顔してたけど、ちゃんとお兄ちゃんが好きだってこと話して許してもらった。その日はお兄ちゃんの部屋で過ごして、次の日のクリスマスの日もお兄ちゃんと部屋でゆっくり過ごした。そのうち滝菜に謝らなくちゃダメだよねって思いながら。でも……滝菜の部屋、ずっとあの女のどもがいる。滝菜と話す時間が全然作れない。今さらだけどごめんね……滝菜と話するにはこうするしかないって思った。滝菜の部屋にはもう入れないから、お兄ちゃんの部屋に連れてくるしかないって。あ、そういえばわたしずっと部屋の中にいたからサークルのお兄ちゃんたち心配してるかも。もうこうなっちゃったからわたしニュースになっちゃうかもしれない。そしたらお兄ちゃんたち驚くかな……」

 

 最初の一文以外は聞き流した。聞き流した、と言うよりは聞こうとしてもまったく理解できなくて頭に入ってこなかった。その最初の一文も明らかにおかしい。

 

「この世界にはいろんなお兄ちゃんがいるってどういう意味?」

「もー、滝菜は何言ってるの?」

 

 くすくすと無邪気に夢愛が笑った。

 

「優しい男の人はみんなお兄ちゃんでしょ?」

「え?」

 

 僕の疑問なんて知らないように夢愛が言葉を続ける。

 

「滝菜、そこにいるお兄ちゃん、サークルのお兄ちゃん、こっそりお薬分けてくれるお兄ちゃん、みーんな優しいお兄ちゃん!」

 

 その言葉で僕はようやく夢愛の発言の違和感、その正体が分かった。どうして夢愛があの日、僕の部屋に男を入れたのかも。

 夢愛の言葉を素直にそのまま受け取ればいいだけだ。

 夢愛は自分に優しい男は、全て兄――滝菜と認識している。

 そして彼女は、例えそのおかしな認識によって齟齬が発生したとしてもそれを疑うことはしない。それが現実だから

 だから『滝菜がバイトで帰ってこないが、滝菜が来ると言うので喜んで招きいれた。そして滝菜と付き合っていながら滝菜と体を重ねてしまった。それが滝菜にバレた。部屋を追い出され、悲しくなった夢愛は滝菜の元で慰めてもらった。元気になった夢愛は滝菜とヨリを戻そうと決意した』という破綻したというシナリオも自然と受け入れることができてしまっている。夢愛の思考回路ではそれは当然に起こりうる状況だからだ。

 

 ああ、そうか。そうなんだ。理解した。

 夢愛はもう壊れてしまった。

 僕は心のどこかで思っていた。母が離婚した後、夢愛は親戚に預けられるにせよ、行政の保護を受けるにせよ、どうにか生きていてくれると。

 だから――もう僕はがんばらなくていいんだ、関わらなくていいんだって!

 でも結果はこれ。夢愛は壊れた。僕は中途半端に彼女に寄り添おうとして、逃げ出して、ショックで彼女は壊れた。

 ソラに言った言葉を思い出す――まずは自分を大切に。

 その言葉は誰かを見捨てる免罪符では無い。

 

「それじゃ、滝菜」

 

 夢愛は壊れた。

 僕が壊した。

 

「そろそろシよっか」

 

 夢愛が僕の股間を撫で、ズボンのジッパーを下ろす。そして彼女はパンツの窓に手を――その時だった。聞きなれない金属音が部屋に響いたのは。

 

「……? 何の音?」

 

 夢愛が玄関の方を見る。僕の位置からは見えないけれど、音から判断するに何か高速回転するもので金属を削り取っているような感じだ。

 がちゃん、と音がして何が起きたかわかった。この部屋の、何かが詰められていて鍵が刺さらない玄関のシリンダー錠を、電動工具かなにかで破壊して開錠したらしい。

 ぎい、と古びたドアクローザーのきしむ音が聞こえたけど、途中でドアチェーンがピンと張る音で妨げられた。

 ぱきん、と金属が破断する音が聞こえた。ドアチェーンはあえなく切断されてしまったらしい。

 

「鍵穴埋めればピッキングできないって思った? ざーんねんでした。インパクトドライバーでぶっ壊しちゃえば関係ないから。ホントはサンダーの方が確実だけど、火花で服に穴開くんだよねー。あ、重いから置かせてもらうわ。あとで取りにくるんでよろ」

 

 ドアをこじ開けたのはソラだった ブーツを履いたまま脚でゴミをよけながら部屋に入って来た。

 

「この前さ、萌花に『ヤンデレ』って言われるタイプのアニメキャラクターの話聞いたんだけど、まさにあなたみたいな人のことらしいじゃん。好きな人が別の誰かとくっつくくらいならあ(・)ら(・)ゆ(・)る(・)選(・)択(・)を厭わないエゴと独占欲の固まり。得意な武器は包丁」

 

 夢愛は唖然としてソラを見ている。

 

「ま、あたしなら包丁じゃなくてボルトカッター持ち込むけど。その方が便利じゃない? チェーンだってぶった切れるし」

 

 そう言うソラはまさに、どう考えてもマフィアが指を切り飛ばす時か、現場職の人間が金属を加工する時以外持たなそうな、全長一メートルはあるだろうボルトカッターを携えていた。

 

「つまり、あたしの方がヤンデレとして格上ってコト。わかった?」

 

 ソラは得意げな顔でそう言った。

 

「こじらせてるだろうなーって思ってたけど、まさか拉致監禁に強姦未遂までやるとはさすがのあたしも予想外っていうか。ね、月梨夢愛(・・・・)」

 

 当たり前のように夢愛は本名を呼び、再び僕の中に疑問が浮かぶ。そもそもどうしてソラが夢愛のことを知っている? 確かに義妹のことは話したけど、顔写真などは見せていない。

 

「どうして知ってるのかって? 調べさせたからだけど。あたしお金持ちだから、お金でどうにかできることは大抵やれんの。そういうのあまり良くないかなって思ってたけど、でも実行可能な選択肢があるのにそれを選ばないのも見ようによっては人生舐めくさってる態度っしょ? そう思わない? ね、元(・)・月梨兄妹さん」

 

 どうやらソラは僕と夢愛の関係まで知ってるらしい。

 

「……なんなの」

 

 夢愛がソラの方に向き直る。

 

「お前は一体なんなの? わたしと滝菜の邪魔をして! わたしと滝菜は家族なの! 家族の邪魔しないでよ!」

「男性の性被害立証の難しさは知っての通りだけど、手錠をかけられただけで十分なのかな。滝菜、分かる?」

「……え、あ、いや、わからない」

 

 突然話しかけられ、要領を得ない返事になってしまった。

 

「で、あたしもあたしで鍵壊すわ勝手に部屋に入るわで色々やったけど、これ罪に問われると思う?」

「や、やむを得ない事情ってことでどうにかなるんじゃないかな……」

「だよね」ソラが満足気に言う。「滝菜もわかってんじゃん。あたしと滝菜は悪くなくて、どうあってもその女が悪いって」

 

 ソラが僕達の正当性について語っている。しかしそれは、夢愛からすれば単なる挑発にしか聞こえないだろう。

 

「わたしが悪い? わたしが悪いって言った? は? は? は? わたし達家族を引きはがそうとするお前のが悪いでしょ!」

「その様子だと、その子の罪は問えないかもね。発言が支離滅裂で明らかに目がイッちゃってるし」

 

 はあ、とソラがため息をついた。

 

「滝菜、映画だったらああいう子は大抵救われるけど、残念ながら現実にはハッピーエンドになり得ないことなんてごまんとあるワケ。そう、滝菜の説得で都合よくその子が寛解して和解するようなオチとか」

「わ、わたしの頭がおかしいって言いたいの!?」

「現実にはビターエンドにしかならないような状況なんてごまんとある。その子のいるべき場所は空気が綺麗で、火や刃物から遠ざけられて、家具の角が全て丸くて、清潔なベッドの置いてある鍵のかかる部屋。あたしもちょっとだけ入ったけど、映画で見るよりずっといい所だったよ……おかげ様で一浪しちゃったけど」

 

 ソラが自嘲気味にそう言った。濁してはいるが、おそらく精神病棟のことだ。

 

「でもね、ご同類ちゃん」

 

 夢愛のことを無視し続けていたソラが夢愛の方を向いて話し始めた。

 

「あたしは一度だって滝菜を傷つけようと思ったことはない。あなたと違って」

 そう言ってソラは夢愛の包丁を指さした。その切っ先は僕の血でぬれている。

「……わたしは救われたいの!」

 

 夢愛が眉間に皺を寄せ、憎悪を伴った目でソラを見る。

 

「わたしは産まれた時から苦しかった。お母さんは逃げて、お父さんはクズでアル中で牢屋の中! 新しいお母さんもわたしを追い出した! わたしには滝菜しか残ってないのにそれすら奪われる! 滝菜はわたしのなの! わたしの家族は滝菜だけなの! 消えてよおおおおおお! 滝菜は私のだってばああああ!」

「例えば」ソラが口を開く。「たとえ環境のせいで不幸になったとして、不幸は誰かにメンタルケアを強いる理由にならないとか、生まれを呪ったところで何かが改善するわけじゃないとか、あなたが繋がるべきは男じゃなくて福祉だとか、そういうのあるじゃん? でもあたしの立場から言ってもイヤミにしか聞こえないでしょ? だから――」

 

 ソラが僕に視線を向けた。

 

「滝菜。その子は確かに不幸だし、手を差し伸べられるべき人間だけれど、その子は不幸をあなたを追い詰める道具にしてしまった」

 

 僕はそうは思わない。月梨家と縁が切れて心が軽くなったのも事実だけど、夢愛には僕の手が必要だったと思うのも事実だ。

 

「あなたその子の居場所になれるけど、その子は居場所をくれない」

 

 僕はそうは思わない。たとえ偽りだとしても、僕と彼女の時間は安らぎだった。

 

「その子はあなたの差し伸べた手を握るでけど、あなたに手を差し伸べることはない」

 

 それは単に彼女がそういう立ち位置にいないだけだ。

 

「この世界はあなたを主役にした映画なんかじゃない。あなたはヒーローじゃない。誰かを救う立場じゃない。誰かを救えなくたって誰も責めない」

 

 …………。

 

「あのね滝菜……自分を大切にしてって言われた時、あたし嬉しかったんだよ。でもその言葉、今はあなたに返さないとね」

 

 僕は。

 

「あなたの過去を誰も責めない。あなたは責任を感じなくていい。何も償わなくていい。救えなかったものと、救いようがなかったものの区別をしていい」

 

 ソラは逡巡して言う。

 

「――差し伸べられた手に気付いて」

 

 僕は目元が熱くなっているのを自覚した。

 甘えていいのだろうか。

 責務から逃げ出していいのだろうか。

 そうしたとして僕は、明日から胸を張って生きられるのだろうか。

 反芻する思考と裏腹に、僕の頭の中にはシンプルな一言しか浮かばなかった。

 

「……助けてくれ」

 

 僕がそう言うとソラは屈託のない満面の笑みを浮かべた。

 

「ま・か・せ・て♡」

「ああああああああああ!」

 

 夢愛がベッドからとびだし、包丁をソラに向けた。

 

「おまえがわたしのセカイを壊すからああああああッ!」

 

 そして夢愛が飛び出す。腰溜めの、まさに通り魔がやるような構えだ。夢愛は筋力が無く、体重の軽い人間だけど、それでも十分に致命傷を負わせられるやり方だ。

 今さら僕は自分の発言に後悔する。あんなこと言えば夢愛が激昂するのは当たり前だ。いくら彼女を止めようと体を動かしたところで手錠が僕をベッドに縛り付けている。

 

「やっとあたしにソレを向けてくれたじゃん。はい、正当防衛ねこれ」

 

 僕の焦りと対照的に、ソラは余裕綽々と言った風にボルトカッターをまるでこん棒か何かのように振るった。

 きん、と金属音。それはソラのボルトカッターが夢愛の包丁を弾き落とした音だった。

 冗談みたいに鮮やかな一撃で、まるで映画のワンシーンの様だった。

 包丁が宙に舞い、くるくると回って床に落ちる。夢愛は呆然としてそれを拾えない。

 

「ざまあないわ。激昂して刃物で襲い掛かるとかウケる。まるで昔のアクション映画の敵じゃん。シュワルツェネッガーとかスタローンとかの頃の。もっとマシなやり方思いつかないワケ?」

 

 僕は唖然とし、夢愛は「ありえない……」と呆然と膝から崩れ落ちた。ソラは床に転がった包丁のマチの部分にボルトカッターの刃を当て、そのまま両断した。

 

「お待たせ、滝菜」

 

 ソラはそう言い、今度は僕を拘束する手錠の鎖を切断した。

 

「……良かったよ、社会の窓が開けっぱで気になってたんだ」

 

 僕は夢愛に開けられたズボンのチャックを閉めた。

 

「あ、結構余裕? 立てる?」

 

 ソラが僕に手を差し出した。一人でも立てたけど、多分僕は彼女の差し伸べた手を取るべきなんじゃないかと思えた。

 彼女の手を握り、立ち上がる。ほとんど自分の力で立ったけれど、それでもソラは満足気だった。

 

「ありがとう」

「どういたしまして。っと……もう一人いたわ」

 

 ソラが部屋のすみでうな垂れている男の手錠と足錠を切断した。

 

「ちょっとー? もしもーし? 間男くーん? 大丈夫―? 動けるー?」

 

 ソラが脚で男をつつく。

 

「……うるさいな。気絶したフリしてただけだ。起きてると罵倒されるからな……最初から全部見てたし聞いてた」

 

 ふらふらと男が立ち上がる。

 

「動けるの? じゃ、あなたに仕事。もう少しで警察と救急が来るから、外で待って案内するように」

「……分かった」

 

 男はソラの指示を大人しく受け入れ、適当に服を着て、おぼつかない脚で玄関から出た。

 

「そういうわけで、そこでしばらく反省してなさいな。警察が来ればあなたはちゃんと保護されるから……ってことで最後に捨て台詞言っとくわ」

 

 ソラはそう言って夢愛を睨みつけた。

 

「滝菜が好きなら、滝菜があなたの実父の暴力を受けてる時にちゃんと助ければ良かったんじゃない? 警察すら呼ばなかったのは滝菜の無事なんかどうでもよかったからで、そんなことより滝菜が自分と同じ境遇なのが嬉しかったからでしょ?」

 

 ソラは同情と侮蔑が入り混じったようなトーンで、逡巡の後に言葉を続けた。

 

「お金で手に入らないものは大切にするべきよ」

「うるさいうるさいうるさいうるさい! 望めばいつだって幸せになれるくせに! 愛されてきたくせに! 帰る場所があるくせに! 家族がいるくせに!」

 

 夢愛が床に転がる包丁の刃を掴んだ。先ほどソラが持ち手を切り離したのだから、当然刃を素手で掴む形になる。夢愛の手から赤い血がにじんだ。

 

「だからわたしは滝菜が欲しいのに!」

 

 ソラが僕の手を力いっぱい引っ張った。まるで僕が彼女に引き戻されないためのようだだった。

 

「行こ!」

 

 僕は後ろ髪引かれる思いを振り切り、ソラと玄関から飛び出す。

 ところで僕は自室から夢愛の部屋までベランダ越しに引きづられた形だから、靴が無い。靴下でコンクリートを走る形になる。そう思っていたのに、外にはなぜかサンダルが用意されていた。反射的にそれを履く。

 

「あ、そ、ソラちゃん。滝菜さん。ま、待ってましたよ……」

「……萌花?」

 

 なぜか外には萌花がいた。

 

「あたしが呼んでおいたの。できるだけ証拠を押さえておいてって。ほら、萌花ってデジタル機器に強いでしょ?」

「は、はやく逃げましょう。な、渚ちゃんも、ま、待ってます、から……」

 そう言って萌花が駆け出す。僕らもそれについて、アパート二階の通路を走る。

「殺す! 殺すから! 殺してやる!」

 

 横目で後ろを見ると、包丁で手を真っ赤に染めた夢愛が追いかけてきた。まばたきなんて忘れたような狂気的な彼女の目に僕は恐怖を覚える。ただ、やせ細った彼女に走る力はあまりない。僕達はどうにか逃げおおせていた。

 一方の萌花は、やたらメカメカしい自撮り棒を構えながら逃走する僕らを先導していた。僕らを録画しているらしい。

 

「ひ、ひひひ。た、タンスの肥やしになってたスマホジンバルの出番がで、出来て嬉しいです。こ、これで彼女は言い逃れで、できませんよ。さ、さっきの会話も滝菜さんの部屋から録音し、してますから。しょ、証拠として使ってください」

「ちょっとちょっと萌花、意外とキモが太いじゃん!」

「オタクは図々しいんですよ。へへへ……」

 

 そんな会話をしながら階段を駆け下りる。一階に降りると、見覚えのある車が目に入った。デッパツ自動車製軽自動車・エッセイ。それのカスタム車と言えば渚だ。車道でアイドリングして停まっている。

 

「乗れ」

 

 渚がそう言った。まるで映画みたいね、とソラが呟く。僕もそう思うよ。助手席に萌花が乗り、後部座席にソラを押し込む。続いて僕も後部座席に滑り込んだ。

 

「渚、出して!」

「まったく、車は4ドア以上に限るな。特に逃走用は!」

 

 そう言って渚はクラッチを繋ぎ車を発進させた。

 後ろを見た。夢愛が走って追いかけてくるが、人間が車に追い付けるわけがない。どんどん彼女の姿が小さくなっている。

 

「……助かった。ありがとう」

「き、気にしないでください」萌花がそう言った。「び、びっくりはし、しましたけどね。ソラちゃんから、『滝菜を助けて』ってれ、連絡があ、あった時は。じ、実家に帰っていたら間に合いませんでした。」

「全くだ。車を用意できたのは偶然だ。私がそこのドンキでしか売ってない煙草を買いに来てて良かったな。実家からだったらとても間に合わねえ」

「ふふん、あたしの日頃の行いがいいのね」

「滝菜のだろ――あ、やべっ」

 

 渚が突然車のブレーキを踏んだ。急な停止に僕らの体が前につんのめる。

 

「な、ど、どうしたんですか?」

「マズった」

 

 渚が前方を指さした。目の前には交差点が広がっており、大学生数人が車の前を横断している。なんてことはない日常の風景だ。

 

「赤信号」

「はああああああ!?」

 

 ソラが叫ぶ。僕は反射的に後方を確認した。アパートからまだそれほど走っていない。人間が車に十分追いつける距離だ。現に夢愛はどんどん迫ってきている。

 

「緊急避難! 正当防衛! 優秀な弁護士つけるから! 罰金も払うから!」

「人を轢けってかこの馬鹿女!」

「ぴいいいいいいいいいいいい!!!!」

 

 ソラが叫び、渚が怒鳴り、萌花は悲鳴をあげる。そうしている間に夢愛が追いつき、その血まみれの手で車の窓を叩いた。

 

「滝菜! 滝菜お兄ちゃん! どこに行くの滝菜お兄ちゃん! わたしはここだよ! こ・こ!」

 

 ガラス越しに彼女の声が聞こえる。窓ガラス越しにはっきりと聴こえるのだから、相当の声量のはずだ。

 彼女が手の平で窓を叩くたびに窓が血で染まる。包丁はどこにいったのかと思ったら、左手に持ち直していた。

 包丁の切っ先が窓にたたきつけられた。当然、その程度で車の窓が割れるわけはない。確かに包丁の先端は鋭いから窓割ハンマーのように圧力を集中させて割れる可能性はゼロではない。けど、まさか夢愛の腕力では――ばり、という音がして窓ガラスに亀裂が走った。

 

「マジ?」

 

 小さな亀裂だ。しかし硬度の高い強化ガラスは一度亀裂が入ってからが脆い。あと一撃が加えられたら本当に割れてしまうかもしれない。

 ソラが早く発進するように言うが、信号は相変わらず赤だ。渚はハンドルを握る人間の責任で葛藤し、萌花は何もできない無力さの前でまた悲鳴をあげている。

 最悪の場合、僕は身を呈してでも彼女を止めなくてはならない。その覚悟をして夢愛を注視する。

 彼女と目があった。にやり、と彼女は狂気を孕んだ笑みを浮かべ。その左手を振り上げる。

 しかし、それが振り下ろされることは無かった。男が彼女の手を掴んだからだ。

 

「もういいだろ」

 

 その男は、先ほど夢愛に開放されたはずの男だ。警察と救急の誘導を任されたはずだけど、夢愛について来たらしい。

 

「梨奈、それでも俺は君のことが好きだ。好きなんだ――僕を好きと言ってくれた人は梨奈だけだったから――」

 

 そう言い、男は夢愛を抱きしめた。

 

「……お兄ちゃん」

 

 夢愛はそう言い、包丁を道路に落として彼の抱擁を受け入れた。

 信号が青になる。渚はやや急発進気味にアクセルを踏んで発進した。

 夢愛たちの姿が遠くなる。やがてすぐにパトカーと救急車のサイレンの音が聞こえてきた。その音で僕の緊張はようやく解けた。

 この後のことを考える。僕らの正当防衛は認められるだろうか。壊れたアパートの窓ガラス代とか鍵代とかは請求されるだろうか。夢愛はどうなるだろうか。もしかすると――夢愛とあの男はこれから先会うことは難しくなるかもしれない。

 最後の光景が脳裏に浮かんできた。僕でない男に抱きしめられる夢愛の姿――その顔には安らぎに満ちた表情が浮かんでいた。

 僕にはできなかったこと。

 

「やっぱわからないわ。ああいう子でも愛されるの? 愛されるってどうすればいいの?」

 

 僕にもわからない。ただ、彼は僕より上手くやったんだろう。

 それだけの話。




次回更新…10/7
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