【十二月二六日・日中】
そして夜が明けて日付が変わった。
「……今日の夜も来る?」
僕はそう聞くと渚は「ああ」とぶっきらぼうに答える。
「実家にいるとダルい。まあウチの親は放任主義だが一度は戻らねえとうるせーから帰るけどよ」
「ぼ、ボクは日課のゲームがあるので……あ、で、でも夜にはまたお邪魔します……」
「……分かった」
こうして僕は自動車と最新のゲーム機を玄関から見送った、と言うのはいささか皮肉っぽすぎるだろうか。もちろん自分に対する皮肉だ。自分の時間を差し出して模範的消費者であることを取った自分への皮肉。
玄関の扉を閉め、自室へと戻る。
「……おはよお滝菜ぁ……」
高級AV機器……もうやめよう。ソラがようやく目を覚ました。そしてソラはおもむろにまだ開けてない缶ビールを手に取り、飲み始めた。
「飲み過ぎだってば。ていうか寝たのにまだ酒が残っているの?」
「えぇーいいじゃんいいじゃん。迎え酒って言うでしょ?」
言うまでもないけど、昨晩一番勢いよく飲んでいたのはソラだ。おかげ様で缶ごみはおろか、瓶ごみまでもが部屋の一角を侵略している。このままではベランダにごみを避難させることも考えなければいけない。あそこは避難経路も兼ねた共有スペースだし、外に食品類を置いたら虫が湧くから本当は良くはないけれど。
「それよりも」ソラがビールを飲み干す。「滝菜ぁ、あのねえ。彼女と別れたら一番最初にやんなきゃいけないこと、わかる?」
「知らないよ。元カノの物の処分?」
「おしい。答えはね」
ソラが部屋を這い、分岐タップを指さした。三口の直接コンセントに挿すタイプだ。
「盗聴器とその類の捜索」
「君は一体何を言っているんだ」
「真面目に言ってるよ?」
ソラはコンセントから分岐タップを引き抜き、さらにそこに刺さっていたスマートフォンの充電器等を抜く。
「滝菜、これスイッチもないし雷サージも入ってない、USB端子も無いただのタップでしょ?」
「さあ。梨奈が同棲してる時に勝手につけたやつだから知らないよ」
とそこまで言って僕は気付いた。そういえばこの部屋に僕が買ったタップは無い。全て元カノの梨奈が買ったものだ。いや、だからと言ってそんなことがあるはずはない。
「まあ聞きいてって。普通のタップの中ってさ、単なる金属板で分岐してるだけの単純な作りなの」
「知ってる。中学の授業で作ったから」
透明なプラスチックで中が見えるようなやつ。実家の押し入れに転がっているはずだ。
「あ、ホント? じゃ話早いわ」
ソラは突然タップを嗅ぎ始める。その行為に意味を見出せずに困惑するばかりだ。
「何が言いたいかってね、普通のタップから化学物質の臭いがするなんてほぼありえないわけ」
ソラはペン立てに混ざっていたプラスドライバーを取り、勝手に分解し始めた。
「はい」
そう言ってソラは外装を外したタップを僕に投げ渡す。そこには制御用の基板とそれに付随する謎のパーツが所狭しと詰め込まれていた。考えるまでも無く、これは普通のタップには必要無いものだ。化学物質の臭い――基板の処理に使われた薬品の臭いだろうか。
「てかメーカー名が刻印されてないノーブランド品ってだけであたしはおかしいなーって思うけど、フツーはそういうこと考えないよねー。というわけで」
ソラがしてやったりな笑みを浮かべて言う。
「タップ、全部外そっか」
◇
結論から言うと、僕の部屋のタップは全て盗聴器入りだった。狭い部屋にこんなにも念入りに仕掛けた執念に恐怖を覚える。
僕は愕然としてソラに問う。
「……どうやって気付いたの?」
「んーあたしが『ホテル女王』夜野金佳の娘だからかな? ほら、やっぱホテル業やってるママから部屋にそういうのつけるヤツがいるんだって話聞いた事あるし」
「……はい?」
ソラがさらっと言うものだから一瞬思考が追いつかなかった。今のソラの発言にはとんでもないワードが含まれている。
僕は恐る恐る彼女に問う。
「ホテル関係で夜野……金佳? もしかしてソラのご両親は」
「言ってなかった? 言ってなかったかも。あたしのママはキンカホテルの立ち上げた当人にして、夜野グループの総帥。厳密には夜野ホールディングスの代表取締役? あたし経営に関わってないから詳しくはわかんないけど」
絶句した。キンカホテルと言えばこの国の人間なら誰でも知ってるビジネスホテルの一つだ。グーグルマップで検索すれば日本侵略してるんじゃないかってくらいピンが表示されるし、田舎なこの辺でも駅の方にいけばあるし、都内なら駅から出た瞬間その看板が見えるはずだ。
「ビジネスホテル以外にも高級ホテル、不動産、工事、設備、ショッピングモール、リゾート……あとゴルフ場? 色々やりすぎてて覚えてないわ。ともかく、建物がらみならなんでもやってるよ。滝菜が普段使ってる場所も案外ウチ絡みだったりするかもねー」
昨日までの会話でソラがお金持ちなのはなんとなく察していたけど、実家が太いとかそういうレベルではなく、まさか日本有数の長大企業の関係者――どころかその創業者一族の人間だったとは。にわかには信じられない、というのが本音だけれど、それならお金にややルーズなところにも納得がいく。彼女のお小遣いがいくらかは知らないけれど、たとえテレビを何台買おうがサブスクをいくつ契約しようが、それは彼女の貯金の数パーセント、あるいは小数点以下パーセントの数字でしかないのだろう。本当の本当に、ソラは辞書通りの『お嬢様』ないし『御令嬢』だった。
「まー別にお金持ちじゃなくたってフツーの女の子はこーゆーことみんな知ってると思うけど」
そんなことないと思う。ソラがとんでもない社会階層の人間であることは気になるけど、とりあえず話の主題は盗聴器だ。
「……こうは思わなかった? この盗聴器は僕が仕掛けたとか」
もちろんそんなことをするわけがない。とはいえソラがどう思ってるかは気になる。僕が盗聴ないし録音していると思っているならちゃんと反論しなければならない。
「滝菜さ、あたしがタップ探すのに床這ってた時にお尻見てたでしょ」
「なっ」
「えっち♡」
からかうようにソラが笑う。仕方がないだろ、男なんだから――という言い訳で女性が納得した例はおそらく無い。僕はただ黙って顔を逸らすのみだった。
「本当に滝菜が仕掛けたなら、お尻じゃなくて盗聴器の方を見てたはずだよ」
「……そうきたか」
根拠としては弱い気がするけど、なぜだかソラの言葉にはそれだけで僕への疑いが完璧に晴れていると思わせるだけの圧があった。だからこれ以上は僕から言うことは無い。
「もちろん滝菜がやった可能性も考えなかったわけじゃないし、だから渚と萌花を帰らせてから調べたんだけど。嫌でしょ、楽しく飲んだのに盗聴器が見つかったーなんて騒ぎ出すの。あ、別にあたしは気にしなくていいから。陰険馬鹿女の卑しい企みをへし折るの最ッ高に気持ちいいし!」
そう言ってソラはまた缶ビールを開ける。そろそろやめた方がいいんじゃないかと思うけど、まあソラは聞かないだろう。
「警察とか呼んだ方がいい?」
「んー」ソラが空き缶をローテーブルに置く。「あまり意味はないかなー」
「……そうなの?」
「弁護士やってるお姉さまの受け売りなんだけど、盗聴器仕掛けること自体は罪じゃないんだって。だから盗聴器見つけたら別のところで罪を問うしかない。例えば住居侵入罪。けど、これあの馬鹿女が滝菜と同棲してる時に仕掛けたんでしょ? だとしたらそれは侵入してるとは言いにくい。あとは器物破損。盗聴器しかけるのにコンセント改造してればそれでいけたかもだけど、見た感じそーゆーの一つもないしねー。むかつく」
「詳しいね」
「女の子ならみんな知ってるよ!」
本当にそうかなあと心の中でつっこみを入れる。一昨日の鍵開けといい、ソラは本当にこういうことに詳しい。自己防衛のためだろうか、それとも特殊な趣味が……そこで考えるのをやめた。いらないこと口走りそうだし、証拠も無く人を疑うのは良くない。
「ま、呼ぶだけならタダだしいいんじゃない? 通報したっていう記録は警察に残せるし。本格的にやるなら民事しかないかなー。弁護士紹介するよ? お姉さまに連絡すればすぐ手配してくれると思うし」
「いやいい」僕の口から自然とそう零れた。「ソラにこれ以上手間かけさせたくないし……穏当な幕引きにしたい」
「ふーん。滝菜がそれでいいならいいけど」
ソラは微妙に腑に落ちなさそうな様子でそう言った。もしかしたらお嬢様のソラはこういう法律で殴り合うシーンに慣れているのかもしれない。
でも僕は疲れたという気持ちの方が強い。だからもういい。終わったことだ。
「じゃああたし帰ろっかな。流石に眠いわ」
「送るよ」
「玄関まででだいじょぶ」
「本当に? 酔ってるでしょ?」
「やぁん♡ 狼に襲われるぅ♡」
「……あのね」
「冗談だって」
そう言ってソラは玄関に歩いていく。
「じゃ、また今晩。多分お酒買ってくるからよろしくね」
とりあえず朝まで酔いが残るような飲み方はやめて欲しいな、と思いながらソラを見送る。
◇
ソラはイライラしていた。滝菜の元恋人が思った通りにストーカー気質だったこともあるが――自分自身も監視されていることに気付いていたからだ。
大学に入学してからずっとだ。ソラは何かにつけまわされていることに気付いていた。とはいえそれの正体はほとんど確信していたし、だれの差し金かもあたりがついていた。何もしなければ無害であるから放置していた。
ただ、ソラが新たな人間関係を築き始めた以上、それが有害な存在になり得るということは容易に想像できた。自分だけならいいが自分の周囲の人間まで報告書に記録されるのは気に食わない、そういった感情がソラを苛立たせていた。
外に出て玄関の扉を閉めたソラは、そのまま滝菜の部屋脇のパイプシャフトを開けた。中には飾り気のない包装紙で包まれた一メートル前後の棒状の何か。それは先日、滝菜の部屋に向かう際にパイプシャフトにソラ自身が隠したものだった。ソラはそれを取り出し、二階の通路を歩く。
階段を降りて道路に出ると、アパートの傍には日本のどこにいっても見つけられるようなコンパクトカーが停まっていた。それは持ち主がこだわりなくただ有名だからと選んだだけかもしれないし、あるいは一番売れているのが一番いいという理論で選んだのかもしれない。もしかすると、目立ちにくいという意味でソラを尾行するのに都合が良かったのかもしれない。
仮に最後の理由だったとしたら、それはソラをやや見くびっていたという話になる。ソラは当然に車のナンバーを控えていたし。その車が普段どこに停まっていて、どんな人間が乗っているのかもとっくに特定していた。
ソラからすれば簡単な話だった。そうなればソラの結論はこうだ。相手はソラが勘づける程度には素人である。
トイレで変装して追跡から逃れたこともある。そのままそれとなく男背後に近づき、彼のスマホ画面を覗き見したこともある。そして、男が主として誰とメッセージのやりとりをしているのかも知っている。おもむろに物陰に隠れた男を逆に追いかけ、その電話内容から相手を推察したこともある。そもそもの話、男が使っているのは社用携帯である。
ソラには姉が三人いる。男が連絡を取っていた相手は間違いなく、長女にして夜野グループの役員、夜野
いつ考えてもひどい名前だ、とソラは思った。
ソラがひどい、と言い切っているのは姉が自分の名前を嫌っているのを知っているからである。
天才と奇人は表裏一体というが、会社を一代で育て上げたソラの母もその例に漏れなかった。彼女は強烈な西洋コンプレックスを患っていた。娘の名前にはその影響がありありと出ている。
ソラの三人の姉の名前は上から順に
今はそんなことどうでもいい、とソラは思考を切り替える。
現時点において会社経営に関わっているのは役員の巴都莉紫亜だけだ。したがって、この男は長女の関係者ということになる。
長女にどのような目論見があるのかソラにはわからない。都内に巨大な屋敷を構える夜野家の人間でありながら地方の大学で一人暮らしを選んだソラを心配しているのかもしれないし、メンタルに問題のあるソラの監視のつもりなのかもしれないし、夜野家の娘として会社の評判を下げるような行動をすれば即座に警告を飛ばすつもりなのかもしれない。
なんにせよ、ソラにとってはもう男を見逃す理由は無くなっていた。
ソラは車の横を通り過ぎながら横目で運転席を確認する。くたびれたスーツ姿の男がいた。いかにも人生の結論が見えてきたといった風情の男が。その視線は手元のスマートフォンに向いている。誰かにメッセージを送っているようだ。ソラの存在には気付いていない。
ソラはフロントガラスをノック。男はその音で顔をあげ、ぎょっとした顔でソラを見る。ようやく監視対象がそばにいることに気付いたようだ。
男は慌ててエンジンをスタートしようとする――できなかった。ソラがボンネットに寄りかかっていたからだ。万が一にも経営者一族の娘をケガさせたら首が飛ぶ――男にもそんなことはわかっていた。
男は恐る恐る車を降り、ソラに声をかける。
「――い、一体なにしてるんですかあなたは」
「お姉さまの差し金でしょ? 『特命係長』ごっこは楽しかった?」
あくまで初対面としてシラを切ろうとする男に、ソラはそう言い切った。
「……ドラマ、みたこと無い? うだつの上がらない係長が実は会長直属のエージェントで、社員の不正をビシバシと――ってドラマ。あたしお父様の隣でよく見てたんだけど。まあいいわ。マンションまで送ってよ。場所、知ってるでしょ?」
皮肉だ。自分を監視しているなら当然居住地も知っているだろうという意味の。
「な、なんのことか私には」
その態度にソラの苛立ちはピークを迎えた。ソラは先ほど、滝菜の部屋のパイプシャフトから回収した一メートル前後の包装紙を破り捨てる。
男の首に冷たい感触が伝った。男はそれの正体を理解するや否や、滝のような冷や汗が噴き出してきた。
真っ赤な色で一メートル前後のそれはボルトカッター。作業現場においては金属の棒を用意に切断し、エンタメにおいてはマフィアキャラクターが人の指を切り飛ばしている巨大なハサミのような工具。
それがソラの手の中にあった。ソラがその工具を男の首に押し当ててる。もっとも刃は完全に閉じており、男の身体を傷つけるようなことは起こりえない。
そもそもボルトカッターはてこの原理で切断する工具だ。それゆえ、支点が極端に作用点に寄っており、逆説的に持ち手側を想像よりも開かなければ刃は十分に開かない。そして自重で勝手に開かないよう、使い手が意識して力を加えないと開かないようになっている。見た目の威圧感に反し、切断工具の中では比較的安全に使える部類だ。
「刃は開かないよ――あたしが取り扱いを間違わなければ」
「ごご御冗談を、お、お嬢様」
「できないと思う? 発想を逆転させてみなって……いくら夜野家の末娘だからって、どーして監視の目なんてつけることになったのか……あたしは冗談では終わらない」
冗談じゃない、と男は思った。そう混乱する男に、ソラは安心させるように(あるいは威圧するように)笑みを向けた。
「マンションまで送って。移動しながらこの後のこと、ちゃんと話そっか」
ソラは男の返事を待たずに車に乗り込み、男はもうどうしようもないことを認識し、運転席に戻った。
男がエンジンを始動し、車を走らせる。
車内でソラは質問した。
「名前は?」
「く、
「ふーん。お姉さまとどういう関係なの? 単なる部下と上司ならこんな本業とはなんの関係もない仕事頼まないと思うけど」
「高校時代に生徒会活動でお世話になり、縁あって大学も同じ学部学科でして……」
「ふうん」
「はい……」
数秒の沈黙の後、ソラはまた質問をした。
「それだけ?」
「は、はい……あ、本来の仕事の方はリモートをさせていただいており……」
「色気が無いなー」
「はい?」
「あの生真面目几帳面厳格努力家かつ天才肌できつい性格が災いして命令か指示以外でのコミュニケーションにちょっと難のあるお姉さまには、あなたみたいに尻に敷きやすそうな男がちょうどいいって思ったんだけどね」
「わ、私のような男が巴都莉紫亜様にお近づきになるなど、ありえません。ありえません……」
ソラがため息をついた。ソラからすれば軽いアイスブレイクのつもりだったが、逆効果でしかなかったのは明らかだ。
やっぱり会話って難しいわ、とソラは小さく呟く。
「だいたいの事情は想像できるわ。お姉さまに言われたんでしょ。メンヘラがやらかさないか見張るようにって」
「そ、そんなことは! 巴都莉紫亜様はあなたのことを心配して……!」
「まだあたしが話してるんだけど?」
ソラはボルトカッター切っ先を黒伏の股間のあたりに置いた。まさか本当に暴力を振るわれるわけではない、そうは思いつつも男としての根源的な恐怖が黒伏に言葉を飲み込ませた。
「あ、そうだ。あたしのマンションの盗聴器。アレ帰ったらで全部撤去するから。あれは弁護士の芙蘭静香お姉様の入れ知恵? あたしの部屋手配したのは巴都莉紫亜お姉様だし……なんでもいいけど」
ソラはボルトカッターをちらつかせながら言葉を続ける。
「このままだと今日の報告は『監視対象にバレて、刃物を突き付けられて送迎しろと脅されました』になっちゃうでしょ? あたしは別にそれでもいいけど、あなたは困るでしょ? お姉様の期待。裏切りたくないでしょ? だから――」
ソラが黒伏の股間からボルトカッターをどかした。
「取引しましょ。あたしのために仕事して」
「お嬢様のために……?」
「そう。そうすればあなたはたった一つだけ嘘をつけばいい。あたしにみつかりそうになったけど何とかバレずにやり過ごした、って。他のことは正直に報告すればいいし、これからもあたしの監視を続ければいい。報告することに困ったらあたしが適当にエピソードでっちあげてあげるわ」
「……何をすれば」
「あたしにも調べて欲しい人、監視して欲しい人がいる。簡単でしょ? あたしにしたことを、また別の人にすればいいんだから」
「お言葉ですがお嬢様、それは探偵など専門家を雇われた方がいいのでは?」
「お姉様が身内の恥の監視を外部の専門家に委託するのをリスクと考えたように、あたしにも探偵を雇えない事情があるワケ」
「巴都莉紫亜様は決してそのようなことをお考えには――」
ソラが再びボルトカッターの刃先を向ける。彼女を刺激しないよう、黒伏はそれ以上の言葉を慎んだ。
黒伏としては歯がゆい思いだった。黒伏は巴都莉紫亜と同じ高校、大学の出だ。その付き合いはそれなりに長いが、社会人になってから身分や役職の違いからあまり言葉を交わしていない。それでも、その少ない言葉から妹を心配しているらしいことは明らかだったからだ。
しかしソラはそう考えていない。一人の大人としてソラの言葉を否定したい思いは強い。だが凶器をもっていて、ほとんど冗談だと分かっていてもほんの少し本気でやりそうな雰囲気を漂わせている人間を刺激するのは躊躇いがあった。それに今の黒伏はハンドルを握っている。余計なことを言ってソラが暴れ、その結果操舵ミスしたらどうなるかと考えると下手なことは言いだせなかった。
それに黒伏はやはり怖かった。
巴都莉紫亜の期待を裏切ることが。
ソラの言う通りだった。
「あたしのお金は全部お母さまが管理してる。それが一人暮らしをする条件だったから。だからクレカの請求とか口座のお金の流れから全部筒抜けなワケ。バイトもちょっとした事情でできないし。
だからあたしは探偵を雇えない。不審な請求とか、不自然な現金引き出しとかあったらお母さまに絶対にバレるから。別口座に現金の移動なんてした日にはその日のうちに鬼電でしょうね。あの人は不景気の時代にカミソリみたいに薄い利益を重ねて会社をここまで大きくした人。不審なお金の流れにびっくりするくらい鋭い。あたしの『これくらいなら大丈夫でしょ』みたいな驕りは絶対に見透かされる」
そんなわけない、と思えないのが夜野グループに努めている黒伏の感想だ。
俗にいう社史編纂室は夜野グループにおいては左遷先ではない、というのは夜野グループに務める人間の間では有名な話だ。そこは小さなボロボロの木っ端ビジネスホテルがどう成り上がり、不景気の中ではどう生き残り、どう競合と戦ってきたのか壮絶な歴史をまとめるチームだ。
その歴史それ自体が夜野のブランディングになり、社員の士気にも関わる。したがってこの会社において社史は単なる記念誌ではなく、会社がどうして今こうして在るのかを認識するための重要な記録である――それは黒伏にも理解できる。問題はまだ夜野グループが社長の代替わりもしてないような歴史の浅い会社にも関わらずこれ、ということだ。
とどのつまり夜のグループの社史は、極端に言えば金佳のサクセスストーリーだ。
小さなホテルを手にし、不景気の中で利益を積み上げ、競合に食われることなく事業を拡大してきた彼女のサクセスストーリー。その過程で見たもの、捨てたもの、得たもの――夜野グループの歴史を紐解くと、そこにはほとんど必ず金佳の判断がある。
黒伏はソラの言葉に説得力を感じざるをえなかった。
「話戻すけど」ソラが言った「調査して欲しい人間は三人」
「八首滝菜様、縛夜渚様、夜々原萌花様、ですか?」
「滝菜だけあってる。渚と萌花はいい。あたし、彼女たちに迷惑かけたくないもの。最優先でやってほしいのは八首滝菜の情報集め。プライベートの情報を全部。どういう食べ物を食べていて、どういう生活をしていて、どういう性事情で、何時に起きてどこに出かけて何時に帰ってくるのか。どういう映画が好きなのか。どういう交友関係なのか。色々細かくわかるところ全部。あたしも出来るだけ滝菜の傍にいたいけど、四六時中は無理だし。
それとその元恋人の夕月梨奈と間男の監視と調査。今日滝菜の部屋であの女が仕掛けたっぽい盗聴器が見つかった。盗聴器は独占欲の現れよ。男の方はともかく、夕月梨奈は今でも滝菜の近くにいる可能性がある。不愉快だわ。あいつらは絶対にもう滝菜に近づかせたくない。本当に最悪の場合……それこそあの女が滝菜にまた近づいて、彼の優しさに付け込もうとするかもしれない。その時はあの女が人間としていかに腐ってるか滝菜にプレゼンするから」
「後者はともかく、滝菜様は……そこまで踏み込んだら半分ストーカーではありませんか?」
「だから?」
あっけらかんとソラが言った。絶句する男を尻目にソラは言葉を続ける。
「あたしは彼の全てを知りたい。あたしは彼が欲しい。誰にも渡したくない」
黒伏は運転のため当然に真正面を見ている。それでも、ソラから仄暗い目を向けられていることを認識できた。彼女の言う通りにしなければ悪いことが起こる。自分の進退は彼女にかかっている。黒伏はそう思わざるを得なかった。
「やってくれるでしょ?」
「……承知しました」
「それと」
ソラが言葉を続けた。依然としてボルトカッターは黒伏に向けられている。
「いい? あなたからは基本的に連絡をしないこと。電話も、メッセージアプリもメールも全部ダメ。どうしても連絡が必要な時は、あたしが確実に酒に酔っているとその目で確認してから電話で連絡すること。直接会話するのはナシ。会話内容がバレるのイヤだし。なぜ酔っている時に限定するのかは聞かないこと。
「しょ、承知しました。ですが……」
「何?」
ソラからの圧に思わず唾を飲む。しかしこれだけは問わなければならない、と自分を鼓舞して彼は口を開いた。
「……お嬢様が自らを好むと好まざるとにかかわらず、お嬢様は男が好む属性を多く有しております。そのように慎重にならずとも、正面から普通に接すれば容易いのではないでしょうか……?」
「感情ではなんてデリカシーのない不快なセクハラ寸前の質問だって思ってるけど、その意図は理性で理解するわ。そしてそれを問わなければいけないと思った理由もね。ええ、わかるわ。あたしのやろうとしてることって極端だし」
ソラの言葉に裏はない。黒伏は事実を述べたに過ぎないし、その事実から導かれる当然の疑問であるとはソラは理解できた。
自惚れではない。ソラは自分の容姿が優れ、恵まれた環境で育ち、金銭に困らず、何不自由なく生活していることくらい自覚している。
黒伏の間違いは、そんな属性のソラがなぜ都内へのアクセスが悪い萎びた地方の、客観的に評価してあまりレベルの高くない大学を選んだのか(選ばざるを得なかったのか)全く想像しようとしなかった点だ。夜野グループは当然に東京に本社を構える。夜野一家の邸宅も都内だ。その娘たるソラが地方の大学を選ぶ理由は全くもって無い。
苛立ちを抑えながらソラは言う。
「普通に、ねー。普通。いい言葉。普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通普通。普通普通普通普通普通普通普通普通。ママもお父様もお姉さま達も普通。あなたも普通。普通っていうのはアレでしょ? その人の生まれからあたりまえに想定できる生き方のことでしょ? あたしは? ちゃんと夜野家のお嬢様として振るまえてる? 恵まれた生まれの恵まれた人間として振るまえてる? 社長のママ。そんなママを支えるお父様。二人の後継者として申し分ない長女、弁護士の次女、医者の三女。あたしがそんな夜野家の一員としてふさわしい人間に見える? そういう素養を備えているように見える?」
ソラはため息をつく。
「お金で買えないもの、あたしに要求しないでくんない?」
【夜野ソラの手帳】
あたしが衝動的なのはやっぱり心が不安定だからかな。
衝動的に行動して、失敗して、そんなことばかりの人生。
だけどここ数日はなぜか上手くいっている。
なぜか友達もできたし。
好きな人もできた。
好きな人。
滝菜。
ダメだとはわかっているのに衝動を抑えられる気がしない。
あの人ならあたしの汚点を(甘えを)受け入れてくれる気がする。
本当かな。
そうだといいな。
だから彼の全てを知りたい。
あなたはあたしを見てどう思ったの?
ねえ滝菜。
衝動的なあたしが、間違いを犯す前に好きになってくれると嬉しいんだけど。
例えばあなたを傷つけてしまうような。
例えば折角の友達を傷つけてしまうような。
例えばあたしが終わりを選ぶような。
(素面のあたしへ……ボルトカッターは引き続きパイプシャフトに隠す。何か聞かれたら業者が忘れたものかもしれない、で通すこと。
滝菜の部屋に盗聴器とそれに準ずるものを仕込む案は却下。なんで嫌われるようなことするの?
アパートに追加の道具を隠すのは賛成。アパートの駐輪場にリアボックス付きの自転車を設置して、その中に隠し解けばバレないかも?)