【十二月月二十八日・朝】
昨晩はネガティブな話題の反動のようにどんちゃん騒ぎだった。そのせいか僕は眠気を強く感じる。日常生活に支障はきたさないレベルではあるけど。
「……頭が痛いわ」
「ぼ、ボクも……」
ソラと萌花がそう呻いた。二人は本当にノックアウト寸前といった様子だ。
当たり前だと思う。ソラと萌花は昨日、昼間からずっと酒飲んでいるのだ。それでなくても連日飲んでいるのだから、体調を崩して当然だ。
「馬鹿共がよ。平気なのはオレと滝菜君だけか」
ベランダで煙草を吸う渚が言った。彼女はやや眠そうではあるが、体調は問題ないらしい。
「うるさいわね……煙草取り上げられたらすぐ苛立つ神経伝達物質の奴隷の分際で……」
「るせえ。……滝菜君。一服だけさせてくれ」
「構わないよ」
「わりィな」
そう言って渚は冬の灰色の空に煙を吐いた。
「そういやお前らはどうやって帰るんだ。車出してもいいが」
「私はパス」ソラが言った。「今あなたの車に乗ったら吐くわ。からかってるのでなく、真面目な話よ。自分でタクシーでも呼ぶわ」
「それもそうだな」
渚も特に突っかかることなくソラの言葉を受け入れた。車の性質を鑑みた妥当な判断、というところか。渚のチューンドカーは足回りが普通の乗用車と比べて固い。段差で結構な突き上げがある。頭痛を起こしてる人間に脳を揺らすような車は酷だろう。
それにソラのマンションはどうやら駅のさらに向こう側にあるらしい。駅まで行くのも車かバスかという距離だ。マンションに着くまで渚の車で揺らされるのは耐えられない、というところか。
「……あ、じゃあボクは乗せてってもらおうかなって……」
「吐くなよ」
「だだだだいじゅおぶです。は、吐きませんよ……多分。うっぷ……」
「吐くなよ?」
「……まあ大丈夫じゃないかな。萌花のアパートはここから自転車で行ける距離だし」
「そ、そう言えばですけど。た、滝菜さん」
ふと、萌花が僕に話を振って来た。
「た、滝菜さんってその、生活費のためにバイトしてるんですよね?」
「そうだね」
「く、クリスマスから全然そういう様子ないですけど、ぼ、ボクたち邪魔になってないですか?」
「ああ」
そのことか。確かに一度も話題にしてなかった気がする。
「単純にシフト入れなかったんだ。大学生がターゲットの個人経営店は大学生が帰省する時期は店を開けない。全国チェーンの店も今時はそういうのに配慮してくれる。そういうわけで年末年始は休み」
そうなんですね、と萌花は言ってコップの水をちびちびと飲んだ。ソラはあくびをしながら髪を整え、渚の煙草も短くなってきた。僕は部屋の片づけを始める。
解散ムードの中、準備ができた順に帰路に着いた。まずは身だしなみを整え、配車アプリでタクシーを手配したソラが。次に煙草を吸い終えた渚が「暖機してくる」と言って部屋から出た。
最後に萌花がインスタント味噌汁を手早く食して、未だに部屋から出ない。車で待ってる渚が怒るよ。それとその味噌汁は僕のお金で買ったものだ。図々しさと思わなくない。しかし僕は昨日、他人のお金で三食食べ、夜には暴飲暴食をしたばかりだ。そんな状況で指摘するのはみっともない気がして何も言えなかった。
「あ、あの……」
「インスタント味噌汁のおかわりならまだあるよ。ご飯は炊いてないから難しいかな」
「い、いえ、そういうわけじゃないんです……」
萌花がお椀を置いていった。
「午後の予定が無いなら……ば、バイトしませんか。お金出しますし」
なんだって。
「詳しく聞こうか」
「ひいいっ。思ったより食いつきがよくてぼ、ボクびっくりしました……」
悪いね。僕はお金が大好きなんだ。確定の出費として帰省のための交通費とか、来年の教科書代とかあるしね。
「それで、バイトって具体的には?」
萌花は一瞬躊躇いの様子を見せた。しかし背に腹は代えられない、と言った様子で言葉を続ける。
「お、大掃除です。ボクの部屋の……」
◇
大掃除をするにはやや遅い気がするし、ゴミをまとめたところでゴミの回収は年明けまで来ないし、萌花の話では相当部屋は汚いそうだけど、僕はお金がもらえるなら文句はない。
午前中の時間は仮眠にあて、起きたら昼ご飯(昨日残りのピザ)を食べ、自転車を転がして教えられた住所に向かった。
「……普通だ」
普通のアパートである。三階建のおそらく鉄筋コンクリート、それなりにヤレた感とそれなりの相場感のある、いかにも大学生が一人暮らしするためのアパートだ。
極めて普通で通常なら感動する要素はない。しかし家賃一桁万円で家族三人が暮らせるアパートを借りれる地域において二ケタ万円の駅前高層マンションを借りるお嬢様と、ナンバープレートに関東圏内の人間はもれなく距離を取る悪名高い地名の記載された改造車で通学する推定元暴走族を送った後だとこのなんてことない佇まいに安心感を覚える。
「あ……た、滝菜さん。ど、どうもです。へへ……」
駐輪場で自転車に鍵をかけると、ちょうどアパートから萌花が迎えに出てきた。
「あ、案内しますよ。さ、三階の部屋なんでちょっと歩きますけど……」
僕は彼女の後ろをついて歩く。日々の入ったコンクリートの階段の冷たさを
「今さらだけど、萌花はいいの? ここ数日で親しくしては貰ったけど、僕は男だよ」
「どういうことです?」
「男を部屋に入れるのに抵抗は無いのかなって。僕が言うのもなんだけど」
「た、滝菜さんも卑猥なこと考えるんですね。へへへ……」
あのさ。
「で、でもですよ……」
萌花がシリンダー錠を回しながら言った。
「ボクの部屋を見てそういう気持ちになれるなら、どんなアパートにも住めますよ」
そんなに汚いのか、と僕は身構えて部屋に入る。
「お邪魔しま……」
言葉を続けられなかった。吐き気が襲ってきたからだ。
「――――」
汚いとかそうでもないとか評価する段階まで思考が進まない。思考の前に危険信号が汗となって噴き出る。反射神経というやつだ、多分。違うかもしれない。ともかく萌花の部屋はひどいことになっていた。
僕はちかちか明滅する視界を深呼吸して落ち着かせようと――待った、こんなところで深呼吸したら死ぬ。僕は外に飛び出し、大きく深呼吸をし、あらかじめ脳に『ここから先は汚染区画である』とセットアップしてから覚悟を決めて萌花の部屋に上がり込んだ。
控えめな呼吸で部屋に戻る。僕の無意識は入室を拒否していた。僕は冷静に、どうにか臭いの正体を探る。
「……海老?」
僕の一言に萌花は「あ」と納得したような声を挙げる。
「せ、先週なんですけど、た、たまには料理しようかなと思ってえ、エビチリ作ったんですが、そ、その時に頭が一個ポロっと落ちて……まあいっかって」
「海老の殻を捨てずに放置!?」
僕は驚きのあまり絶叫のような声をあげてしまった。エビチリの調理工程を考えれば、エビは生の状態で頭を外すはず。ということは、このキッチンのどこかに腐敗したエビの頭が落ちていることになる。海老の腐敗臭はすさまじい。おそらく何らかの化学物質だろうが、ともかくすさまじい。僕だって翌日がゴミの日じゃないと扱いたくない。それを一週間放置だって?
「これ海老の臭いだったんですね……へへ」
だいたいこんな状態のキッチンで料理をしたこと自体もツッコミたい。カップ麺の容器でゴミ箱と化したシンク。紙コップ紙皿割りばし。ゴミだらけで脚の踏み場のない床。ゴミ箱から溢れた消耗品類。何が入っているか分からない袋。何が入っているか分からない袋。紙コップ紙皿割りばし紙コップ紙皿割りばし紙コップ紙皿割りばし紙コップ紙皿割りばし紙コップ紙皿割りばし紙コップ紙皿割りばし。火の元だらけだ。
キッチンだけでこの調子では部屋の方がどうなっているか分からない。
無礼を承知で僕は萌花に聞いた。
「靴ではいっていい?」
「だ、ダメです……!」
参ったな、というのが正直な感想だ。この汚い廊下を靴下で歩きたくない――
「な、長靴はいてください。お、おおお客さんように用意してあります! く、靴が汚れますよ……!」
「……あ、そっちなんだ」
萌花が備え付けシューズボックス――半分以上は物置代わりになっていた――から長靴を取り出し、僕に差し出した。一応長靴の中を確認してから履く。何も入っていない。ゴキブリの死骸くらいは覚悟したけど。
僕はゴミを脚でよけながら、キッチンを通り、萌花の部屋に入った。
「うわ」
空き缶空き缶ティッシュティッシュペットボトル服服ティッシュ空き缶段ボール飲みかけのジュース。
「でへへへ……」
ビニ弁ビニ弁レシートレシートぬいぐるみ酒酒レシートビニ弁ゴミ袋下着類。
「床は収納ではない! 床は収納ではない!」
「た、滝菜さん!?」
「ああごめん。精神に異常をきたすところだった」
「ボクはへ、平気ですよ」
やかましい。僕は立ち眩み崩れ落ちそうになるのを踏ん張る。なんなんだこの惨状は。人は一年でこんなにも部屋を汚せるのか。普通は心理的なブレーキが働くんじゃないか。
ともかく――やるしかない。お金がかかっているのもそうだけど、このままでは萌花が埃と何らかの菌類で体調を崩す可能性がある。精神的にもおかしくなるかもしれない。だってこんなのサイコホラーじゃないか。青白いライトを用意すればもう映画の撮影ができそうだ。ワーカーホリックで私生活がズボラな僕の母だってこんなに部屋を汚してない。
僕は部屋に背を向けてを出る。
「あ……た、滝菜さん。逃げないで……こ、こんなのボク一人じゃ……」
「逃げないよ。ゴム手袋とマスクを買いに行くだけ」
「あ、そ、そうですか……清算するのでレシートを忘れずに……」
「まさか素手でやるつもりだったの?」
「ギリ平気かなって……へへ」
胸を張るな。
◇
「滝菜さんって、な、なんか違和感ありますよね」
掃除をしていると、萌花が突然そんなことを言った。
「どういうこと?」
萌花の言葉の意図がまるで分らなかった。萌花は「え、えと……」と手をぶんぶんと振りながら補足のための言葉を探している。
「た、滝菜さんの部屋ってき、綺麗じゃないですか」
「まあわりとこまめに掃除してる方かな」
「で、でも」萌花が迷った後言う。「は、話を聞くにた、滝菜さんって生活費のためにほぼ毎日毎晩バイトしてたらしいじゃないですか」
そうだね、と僕は掃除の手を動かしながら肯定する。
「ふ、普通そんなに余裕がない人間の部屋ってあ、あんなに綺麗にはならないんですよ。そ、掃除する余裕が無くなってしまいますから。お金の余裕も、時間の余裕も……こ、心の余裕も。だ、だから、た、滝菜さんってな、なんかチグハグなんです。ぼ、ボロい部屋とタイトな生活に対してわりと常識的な生き方をしているというか……」
「そういうものかな」
「そういうものです。き、着ている服だってきれいじゃないですか……。た、多分衣服を定期的に買い換えるよう、お、親に教育されたんじゃないですか……?」
痛い所つくな、と思った。その通りだ。服はまさに母から定期的に買い換えるよう耳にタコができるほど教えられた。最低限リソースを割くべきところと無意識のうちに認識してしまっていたんだろう。萌花の言う通り、金の無い人間の衣服はもっとやれている。
正直に言えば、母に頼ればお金はすぐに出てくるだろうとは思う。仕送りだって毎月振り込まれている。アパートだって、母に頭を下げればあそこよりずっとマシなところに引っ越せるだろうとも。
ただ、僕としてはそう言うのに頼りたくない。女手一つで僕を育ててくれた母には感謝もあるし、申し訳なさもある。一浪という後ろめたさもある。
要するに、これ以上母のリソースを削りたくないのだ。仕送りと生活費は可能な限り賄う。必要な分だけは申し訳ないが頂戴し、残りは返金する。その頂戴した分も、お金が出来次第返金する。それが僕の目標だ。貯蓄を作ることを考えると達成見込みは再来年。しかし――もしもソラという資本主義の女王が僕達にお金をばら撒き続けるなら、来年には達成できてしまいそうだ……喜ぶべきか、悲しむべきか、申し訳なく思うべきか。
――と、答えるわけにもいかない。僕のやり方が他者から見て
というわけで、適当に煙にまくことにした。
「単に物がないだけだよ。その理屈なら、萌花は相当余裕がないことになっちゃうけど」
「ぼ、ボクは……」萌花が言い淀む。「た、単にだらしないだけです……む、昔から何度もお母さんに怒られて……」
などと話しながら掃除を続けていると、デスクの周りだけは足場が確保されていることに気付いた。そこにはいかにも光り出しそうなパソコンとモニターが置いてあった。
動画配信でもしているのだろうか、アームスタンド付きのマイクに専門職しか使わなそうなオーディオ機器、ウェブカメラにリングライトが置いてある。
「配信でもしてるの?」
「え、あ。ハイ。趣味で……」
「こんな汚い部屋から配信?」
「ぶ、VTuberですからセーフです!」
わたわたと焦った様子で萌花がそう答えた。
「でも実写配信で使うようなリングライトもあるじゃないか」
「……検討はしたんです。検討は……」
萌花は顔を逸らしてそう言った。まあ部屋の状態を考慮しなくとも、萌花の性格を考えればあまり顔出しは得意そうではないなとは思う。
「なんの配信してるの。やっぱりゲーム?」
僕は少し話を広げてみることにした。ちょっとした休憩だ……メンタルの。部屋が来たな過ぎて気が滅入ってしまった。
「最近はれ、レトロゲームの配信です。ドロップ率小数点以下のアイテムを求めてのじ、地獄のクエストマラソンですよ!」
「……またマニアックだね」
「ぼ、ボクも同じ感想だったんですが、やってみたら意外とオッサンにウケてて……コンスタントに視聴者数三ケタ行くんですよね……びっくりです」
なるほど、ニッチ層をしっかりつかんだらしい。僕はあまりライブ配信を見ないけれど、個人で三ケタは普通にすごいんじゃないだろうか。
「それにしても萌花が配信か……」
「そ、想像できませんか」
「正直」
「そ、そりゃそうです。普段はこ、こんな感じですから。で、でも、ぼ、ボクも結構頑張ってるんです」
すると「こほん」と萌花が咳払いをした。
「こんばんございまいますゥー! 眠れないおまえらの眠らないアイドル! 不眠ちゃんだよー☆」
僕は唖然としてゴミ袋を落とした。
「あ、滝菜さーん???? どーしたんですかー???? まるで信じられないアホでも見るような目をしてー???? それとも普段のボクとのギャップでドキドキしちゃいましたかー???? もー滝菜さんもカワイイですねー!!!!」
「誰?」
「ボクは寝付き最悪系吸血鬼VTuber!
「酔ってる?」
「酔ってません」
「びっくりしたから元に戻って」
「……あ、ハイ。すみません……」
しおしおとしぼむ様に萌花の雰囲気がいつものそれに戻った。
「……酔ってる時の再現ってところかな」
「え、ええ。やっぱり配信するからには元気があ、あった方がいいかなって……じ、自分を出さずにえ、演技することに徹したらな、なんかイケそうな感じになったので……で、で、でもYPの消耗が激しいのでい、一日二時間までです」
「YP?」
「
「そんなマジックポイントみたいな……」
「ぼ、ボクの正体を知ったからにはチャンネル登録して数字盛ってください。べ、別に動画はみ、見なくてもいいです。は、はは恥ずかしいですし……」
「あいかわらず図々しいのか引っ込み思案なのかわからないね萌花は……」
「そ、そろそろ掃除に戻りましょう」
萌花がやや強引に話題を打ち切って掃除に戻った。もしかすると何かを演じている自分を知り合いに披露するという行為に痛々しさを覚えたのかもしれない。今となっては誰でも配信できる時代だし、別にそんな風に思わなくてもいい気がするけれど。
しかしそういう流れになったからには僕も掃除に戻らなくてはいけない。そのために来たのだし、掃除が終わらなければバイト代が貰えないし。
僕は床に落ちていた紙箱を手に取る。すると、僕から見て箱の反対側が開き、中の物が落ちてしまった。ごとん、という質量感のある音。僕はそれを拾い、手に取って――それの正体に気付いた。
「……え?」
僕はそれをおそらく死ぬまで買うことはないが、それの正体は知っている。
僕はそれが何を模したものなのかよく知っている。男の下半身についているからだ。
僕はそれをどう呼称すべきか迷った。十八禁だからだ。
ええと、そうだ、隠語を設定しよう。デカくて太いからデッカード・フトシ、略してデッカーとでも呼ぶか。
デッカーを見つけた衝撃で僕は固まっている。僕の怪訝な様子を察して、萌花が僕の方を見てからが地獄の始まりだった。
「あ、あ、あ」
萌花が顔を真っ赤にして後ずさりする。
「ち、違うんです。そうじゃないんです。ぼ、ボクはその、い、一度も使ったことないです」
それなら助かるよ。もし女性が一度使い、体液の絡んだものを拾ってしまったなら、それこそ本当に僕は終わりだ。
「あ、あのあのあの。ちょ、ちょっと際どいASMR作品でも作ろうと思って買ったんですけど、こ、擦る音でも撮ろうと思ったんですけど、ば、バイノーラルマイクが高くて買えなくて、ノーブランドのバイノーラルマイクで撮ろうとしたんですけど全然臨場感がなくて、そ、そもそも際どいASMRなんて作ろうと考えたこと自体が恥ずかしくなって箱に封印してて」
そっか。次はバレないところに隠して欲しいな。男は巧妙に隠してるんだからさ。
「だ、だいたいそんなの入らな……」
「そうだね」
僕はデッカーを眺めてため息をつく。そして僕は――普段なら言葉にする前に思いとどまる発言をしてしまった。やはり僕も寝不足か、連日の飲酒は効いたか、デッカーを目にした焦りか――たぶん全て。
「常々思うけど、君たち女性は男に夢を見過ぎだ」
「ぴ」
萌花はそうか細い鳴き声を上げてその場に崩れ落ちた。床がゴミで汚れていることなど頭から飛んで行ってしまったらしい。
「ぴいいいいいいいいいぃ!」
僕が失言に焦っていると、部屋のドアが勢いよく開け放たれた。
ソラだ。
玄関で青筋を浮かべ、仁王立ち。
「そ、ソラ。どうして君が」
「私も萌花に声をかけられたのよ」
そう言ってソラがゴミの隙間を塗って部屋に入って来た。僕と萌花を見比べ、言葉を続ける。
「今朝の内にね。滝菜は知らなかった? 体調が良くなかったから最初は断ったのだけど」
知らなかったけど納得した。多分、萌花はまず女子に声をかけたんだろう。それはそうだ。恋人でもない、出会ってから日の浅い男を部屋に招くというのはかなり抵抗があるはずだ。ソラは体調不良で断り、渚は実家に顔を出しておきたいというところか。
「驚いたわ。この私に掃除を? 掃除道具なんてマトモに握ったことの無いこの私に掃除を?」
ふふっ、とソラが笑った。
「実は結構嬉しかったりするわ。私にとってはとても新鮮なこと。それに私、あまり誰かに誘われるという経験をしたことがないから。体調も落ち着いた、仮眠も取った、それなら仕方が無いとタクシーをすぐ手配してきたのよ。だというのに……」
僕は今の状況を冷静に整理する。
泣き崩れている萌花。
デッカーをナイフの如く手に持っている僕。
それを経緯を知らずに見ているソラ。
終わりだ。
「滝菜ッ!!」
ソラの怒声が部屋に響き渡った。
◇
僕はとぼとぼと帰路に着いている。
誤解は解けた。萌花が僕の味方をしてくれたのが大きかった。
それにしてもソラのゴミを見るような目は怖かった。ゴミは僕ではなく周囲に転がっているというのに。ははは。上手いこと言ったつもりか。
「はあ……」
掃除はどうにか終わらせた……ソラの監視付きで。
気が気がじゃなった。ソラの目が僕を一挙手一投足を監視していたからだ。
僕の目に萌花の下着などが映ろうものならキツい目で僕を睨んで奪い去った。僕にはそんな気はないのに、まるでそう言う気があるように扱われて虚しさが心につのるばかりだった。
僕が悪いのか。脱いだまま放置している萌花が悪くないか。いいや、僕が悪いのだ。いくら招かれた側とはいえ、そういうところでちゃんと配慮をすべきだった。僕だって女の子に僕のパンツを拾われて洗濯機に放り込まれたら、たとえそれが純粋な配慮から来るものだったとしても恥ずかしい。
財布には萌花から受け取ったバイト代が入っている。あとで口座に入金するつもりだ。
「……はあ」
こんなにも釈然としない仕事の対価は初めてだった。
気をつけよう。
本当に。
「本当に気をつけなさい」
僕の隣を歩くソラが言った。
「男にも男の事情があるように、女の子にも女の子の事情があるものだわ。それを理解しないうちに異性の部屋に行くなんて愚かよ。お互いにどれだけ気を付けたとしても、どうしてもどこかですれ違うものだわ。その時どうやって配慮するか。次までに学んでおきなさい」
「分かってるよ」
僕達はアパートの階段を上り、僕の部屋までの通路を歩く。もはやソラがあたりまえのようについてきていることに疑問を持たなくなった。ここ数日、毎日顔を合わせているからだろう。この分だと二人もその内来るんだろうな、と思う。
「ええ。私とていつかはあなた達を部屋に招きたいという気持ちはあるから――」
ふとソラが言葉を切った。
「どうしたの」
「いえ……」
ソラが見ているのは僕の部屋の隣室の扉、その鍵だった。僕の部屋と同じく古めかしいシリンダー錠だ。同じアパートなので当然と言えば当然だけど。
ソラが引っかかる点があるとすれば、鍵穴に何かが詰められていて鍵を挿せない状態になっているところだろうか。
「この部屋、鍵穴が塞がってるわ」
「ああ、『開かずの間』ね」
僕が勝手にそう呼んでいるだけだけど。
「鍵が挿さったまま折れちゃったのかわからないけど、ずっとそんな感じだよ。誰も住んでなさそうだし、大屋がそのままにしてるんじゃないかな」
「誰も住んでなさそう……?」
ソラが指を顎に当てて考え込む。数秒の間、情報がまとまったのか話し始めた。
「ありえないわ。電気メーターが動いてるもの」
「本当に?」
ソラに言われて隣室の電気メーターを見た。確かに液晶の動作を示すインジケーターが点滅している。
「それに、こういう単純なシリンダー錠なら簡単にスマートロックにできるわ。両面テープでキットを取りつけるだけよ。そうすればスマホで部屋の鍵を開閉できるようになるわ」
「物知りだね」
「女の子なら誰でも知ってるわ」
ソラの知識には感心するばかりだ。やっぱりホテル女王の娘だけあって、建築系の情報に自然と触れることになるのだろうか。
「そっか。じゃあ生活リズムが合わないだけかな。本当に隣人の姿を見たことが無いんだ」
「……そうね。隣人に挨拶をするような時代でもないのは確かよ。まして、数年しか住まない大学生同士なら」
ソラはまだ納得しきれない様子だったけど、これ以上は詮索しても仕方がないといった様子で僕の部屋に向かって歩き出した。
僕も後を追い、部屋の鍵を開ける。
【夜野ソラの手帳】
隣人のことは気になるけど、それよりも萌花のことだ。
部屋に戻り、体を休めてから気付く。私に断られ、渚に断られたら次は滝菜に声をかけるに決まってる。
滝菜が萌花の部屋で二人きり?
そんなこと許すわけがない。
萌花の部屋に行って正解だった。あちこちに下着が転がってるし、ベッドだけは使える状態だった、滝菜がディルドを持っていた。大方床に落ちていたのを拾わせたんだろう。あるいは偶然か。どっちでもいい。なんて破廉恥な。許せない。
掃除中、滝菜に下着を拾わせないようにするのは大変だった。どうせ彼のことだから性欲を認めつつも理性で淡々と処理していくに決まっている。逆にそれが苛立つ。どうして他の女の下着を平気でさわれるんだ。許せない。心が苦しい。私という超絶美少女令嬢がいるのに、滝菜は私がしてほしいことを渚と萌花に先にしてしまう。許せない。
苦しい。許せない。苦しい苦しい苦しい苦しい。もっと私を意識して欲しい。
渚も萌花もいい友人になれると思っているけど、いっそ二人を排除してしまうか。
↑そんなの絶対に許さないから。