酔わなきゃラブコメやってらんねえ   作:響野響

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失われた青春

【一月三日】

 

 流石に年末年始は実家に帰ったものの、一月三日とまだ三が日だというのに僕は一人暮らしのアパートに戻った。

 どうも離婚した元父親絡みのトラブルが発生したということで、母が顔を出さなければいけない事態になったらしく、しかも何時に帰ってこれるかわからないということらしい。そういうわけで母が出るついでに、僕は駅まで送迎してもらう段取りとなった。その『事態』が一体どういうものなのかは気になるけれど、母は話したがらなかった。まあ元父親が絡んでいる時点でロクなことではないのは容易に想像ができる。

 アパートの鍵をポストの中から探す。無い。ということは、三人の誰かが来ているということだ。

 まだ正月なのに? 

 玄関に置いてある黒のロングブーツを見て誰が来ているのかはすぐに分かった。渚は車のペダル操作に差し障る靴を履かないし、萌花はこういうフェミニンなものを好まない。

 

「うえええ滝菜あああぁぁぁぁぁ……」

 

 予想通り、ローテーブルで飲んだくれているソラがいた。

 困惑と呆れの半々くらいの気持ちで、とりあえず荷物を置いて僕もビール缶を開ける。

 

 ◇

 

「愚痴ってもいい?」

「僕でよければ」

「え、ごめん。やっぱ待って。えっと……」

 

 僕は缶ビールを少し口に含んでソラが話し始めるのを待つ。ソラがロックグラスの氷を指でくるくると弄ぶ。言うべきか悩んでいるのだろうか。しばらくの逡巡の後、ソラは言った。

 

「家に居づらくてえー」

 

 そう言ってソラがウィスキーのロックをあおる。

 

「あたしの家族の話したっけ?」

「ソラのお母さまが夜野グループの総帥でお父様がその補佐ってことは」

「そっか。じゃあお姉様たちの話はしてないか。あたし、姉が三人いるんだけどね。長女が夜野ホールディングスの取締役かつ後継者候補で、次女が弁護士、三女が医者。ヤバくない? ヤバいよね?」

 

 ソラが空のグラスにウィスキーを注ぎ、またあおった。

 

「そして四女のあたしは、お姉様たちとは遠い世界で酒におぼれてるワケ。は、バカみたい……」

 

 ソラがローテーブルに突っ伏して大きなため息をついた。

 複雑な気持ちだ。ここは確かに大学全体で見たらさほど優秀な大学ではない。しかし大卒というだけで一般的には上澄みだ。しかしソラの姉妹はそんな一般論のはるか上の基準にいる。そんな姉妹に囲まれて育ったソラに一般論を説いたところでなんの慰めにもならないだろう。

 

「その、家族の目がキツいとか?」

 僕の問いに対し、ソラが手をひらひらとさせて否定の意をしめした。

「別にお姉さま達の性格が悪いとかキツいとかそーゆーのじゃなくて。むしろ苦労した分優しいっていうか、コンプレックスまみれでおバカなあたしを刺激しないように丁重に扱ってるっていうか、んーとアレなんだけ。……あ、そうそうアレ」

 

 また酒をあおった。

 

「腫れ物」

 

 そう言って彼女は酒――ではなく、ペットボトルから天然水を注いで飲んだ。

 

「あたしが帰るとさあ、ママは時間を作って会いに来てくれるし、生真面目な長女姉様は普段の姿からは考えられないくらい心配そうにするし、感情表現が苦手な次女姉様ですら出来るだけ会話しようとしてくれるし、三女姉様は何気ない会話からあたしの健康状態を見抜こうとするし」

「愛されてるじゃないか」

「滝菜あー。こーゆーのはね、配慮されてるってゆーの」

 

 はあ、とソラが大きなため息をついた。

 

「広い庭の大きな家に住んで、毎日高いもの食べて、きれいな服を着て、運転手付きの高級車で送迎してもらって、優秀でかっこいい姉たちがいて――あたしも姉たちみたいにすごい人間になろうって思ってた。この家ではどんな『やりたい』だって許されるんだからやってやろうって。でもダメだった。勉強もダメ、運動もダメ、芸術的才能も皆無。なにもかもダメダメ。クラスメイトにも姉を知ってる先生にも夜野家の特異点呼ばわりされる始末。その結果生まれたのはなーんにも中身のない酒クズメンヘラ女」

「そんなことないと思うけど」

「滝菜やさしー♡ 昔同じこと友達に言ったら『恵まれてるくせに? 嫌味?』って言われたわ。あ、今の嘘。元・友達ね。あはははは」

 ソラはグラスの天然水を飲み干し、またウィスキーを注ぐ。

「あたし、どうして一浪したか話してないよね?」

「そうだけど、別に一浪自体は珍しい話じゃないからね」

「精神病棟」

 

 ソラがウィスキーを煽った。

 

「あたしね、高校の時いよいよプレッシャーと自己嫌悪に耐えられなくなって、メンタル壊して、大暴れして、もう何が何だかわからなくなって精神病棟入ってたの」

「……そっか」

 

 予想外にデリケートな話が出てきて、僕は何も言えなかった。僕にできることは彼女の言葉に耳を傾けることだけだった。

 

「あそこは空気が綺麗で、火や刃物から遠ざけられて、家具の角が全て丸くて、清潔なベッドの置いてあって、いいところだったな……あたしが入ったのは高三の冬から半年だけだけど、映画で見るよりずっといい所だったよ。……あ、ちゃんと高校卒業してるからねあたし。学校だってこんなメンヘラの世話なんてしたくないだろうし」

 

 それだけは違う、と言いたい。僕も高校で失敗したけど、先生と母と学校側の取り計らいのおかげで卒業はできた。卒業式には行ってないけど。

 僕がそう言おうとしたところで「でも」とソラが言葉を続けた。

 

「でもこれって甘えなんだよね。だってあたし、お金持ちだから。望めばなんだって手に入るから。あたしはなんだって手に入る環境で、何もつかめなかった愚鈍な人間」

 

 その切実な言葉の前に、僕の言葉なんて無意味なように思えた。

 

「苦しいなあ……でも、その気になれば何もかも手に入るあたしにはこの苦しみすらきっと傲慢なんだよね……」

 

 琥珀色の液面は彼女の震える指でわずかに波打っていた。

 

「みんなの目がこわいよお……」

 

 彼女はそのままウィスキーを煽る――煽ろうとしたところで、僕は彼女のグラスを止めた。

 

「もう少し水を飲んだ方がいい」

「やだ。さっき飲んだ」

「子供みたいなこと言わない」

「大人だし。身体だけは。頭は低能。あはははは……はぁ」

 

 そう弱々しくため息をつきながらもソラはしれっとグラスを握る力を強めて取り戻そうとした。

 

「酒は楽しい時に飲むものだよ。そんなんじゃアル中まっしぐらだ」

「いっそそうなった方が家族全員諦めてくれるんじゃない?」

 

 どうしたものか、と僕は悩む。

 

「……ああ、そうだ。じゃあこうしよう。僕は今から酒の場にふさわしくない話をする」

「ふさわしく……ない(・・)話?」

「そう。もしも聞くに値しないと思ったらソラは抗議として酒を飲む。そしたら僕は話をやめる。話に付き合ってもいいかなと思うなら、その間は決してお酒を飲まない。いい?」

「おっけーおっけー。ちょっとしたゲームってことでしょ? でどんな話? 下ネタ? クソ映画? あたしへの文句?」

「馬鹿な男の失敗談だよ」

 

 ソラのからかうような表情が消えた。僕がする話の主役が誰なのか検討がついたのだろう。それはそうだ。一応誰の失敗談なのか濁したけれど、この話の切り出し方で自分事以外の話をするなんて無い。

 人は自分の人生で一冊、本が書ける――その言葉を知ったのはサマセット・モームについてのネット記事だったか昔見た映画のセリフだったか忘れたけれど、僕はこの言葉にポジティブな意味を見出すことについて懐疑的だ。本が書けたとして、読者がその本を面白いと思ってくれるとは限らないのだから。

 僕は僕の本が面白いとは思わない。

 でもちゃんと僕自身の話をしないと、きっと僕の言葉は届かない。

 じゃあ始めよう。《厄日の滝菜》がちょっとの間だけ月梨滝菜(つきなしたきな)――《ツキ無し滝菜》だったころの話を。

 

 ◇

 

 僕の母は自信を持って素晴らしい人と言えるけど、男を見る目だけは最悪だった。

 一度目の離婚は僕が物心つく前に行われた。一人目の父親は、僕が生まれて『父親』になった後も『若く自由な男』であることがやめられず、同窓会で再開した高校のクラスメイトと蒸発したらしい。とっくに『母親』になっていた母は親としての責務を果たすべく、しらみつぶしに男の居場所を探し出し、キッチリと慰謝料と養育費を請求したとか。

 二人目の父親は連れ子を伴ってやってきて、二度目の離婚は僕が高校三年生の時に成立した。

 その男は優秀なバーテンダーだった。バーテンダー日本一を決める大会でも優秀な成績を修めたこともある。男は僕の地元で小さなバーを開いていた。

 

「――新しい母親はあなたのような人がいい」

 

 と、たまたま店の手伝いに来ていた男の一人娘(この後僕の義妹になる子だ)がカウンターで飲む母に言い放ったのが馴れ初めらしい。男は焦り、母は大笑いし、二人は恋に落ち、僕に新しい家族が増えた。

 もちろん僕は二人を歓迎した。母が幸せそうなのは嬉しかったし、僕も家族が増えるのは不安もありつつも楽しみだったからだ。

 懸念があるとすれば、新しい父親の店をグーグルマップで調べたら評価が星五つ中の星二個だったことだけ。

 母は静かに飲みたいからと空いてそうな店を選んだだけだし、飲む酒も蒸留酒くらい。蒸留酒のいいところは適当に扱っても味が変わりにくく、経年劣化が進みにくいこと。もしも母がカクテルやワイン、ビールなどを飲んでいたら絶対にこの男と結婚しなかっただろう。

 その男は優秀なバーテンダー、だった。

 大会でも優秀な成績を修めた、こともある。

 過去形だ。

 つまりそういうこと。

 

 男ははっきり言って人格に問題があった。人前ではいい顔をしているが、裏ではすぐに怒鳴り散らして手が出るパワハラ気質。そのせいで元々務めていた高級ホテルのバーを追い出され、地元に戻って居抜きの小さな店を開くに至った。

 しかし男にはバーテンダーとしての腕はあっても経営の能力は無かった。端的に言えば『都会暮らしに疲れて田舎で隠れ家的カフェを開店』と同じ失敗だ。立地、想定している客層、店のコンセプト。なにもかもズレていた。店は上手くいかず、赤字を垂れ流し、毎日苛立ち、客に暴言を吐き、酒に逃げる――そんな生活を続けるうちに男は身体に異常をきたした。酒が切れると指が震えてシェイカーはおろかバースプーンを握ることすらおぼつかなくなった。やがてストレスで嗅覚を失った。

 バーテンダーとしてはお終いだ。男は店に出ても灯りをつけない日が多くなった。

 そして男は母と僕に暴力を振るうようになる。

 家庭内暴力に勤労意欲の欠如。離婚の理由としては十分だった。

 母は相応の証拠を突き付け、即座に離婚の協議を開始した。

 男が離婚を拒否したために結局家庭裁判所まで持ち込まれることになったが、こうなればもう離婚は成立は確定したようなものだ。

 母は僕を連れてアパートを借り、こうして一年とちょっと、僕が高校一年生から高校二年生の間で父親がいた時間が終了した。

 

 さて、それで男との関係が途切れたのかと言えばそうでもない。

 僕は母の目を盗んで父親の店へと足を運んだ。なぜそんなことをしたのかと言えば、義妹から『父が暴走しないように見張ってて。お願い。遠くから見てればいいから』とメッセージが届いたからだ。僕はそのメッセージを無視することができなかった。

 もっとも、メッセージがとどかなくとも義妹のことについては懸念していた。義妹が時折店の手伝いをしていたのは、彼女の意志というより父の意図であるところが大きい。義妹が店にいる日は若くて可愛らしい女の子が見たいスケベオヤジが店に来るからだ。そしてそれは今でも続いている。

 とは言っても、毎日そうしていたわけでもないし、別に店内に入ったりしていたわけじゃない。店の外から窓越しに店内を確認していた程度だ。過度に接触するのは母へ不義理だし、かといって何もしないでいるのも心にしこりが残るようで嫌だった。

 まあ児童相談所に電話を入れるくらいはした。『家業の手伝い』という自分の子を働かせることができる法の聖域の前では無駄だったみたいだけど。

 

 高校二年生の冬、その日だけ僕は間違えてしまった。

 店の中を覗くと、カウンター席には店の雰囲気にそぐわないスーツ姿の紳士がいた。そしてカウンターには誰もいない。店の灯りはついている。

 何事なんだ、と僕は店に入る。その紳士に話しかけ、僕がこの店の一応関係者であること説明する。すると紳士は言った。

 

「ホテルに勤めていた頃の同僚です。時間が出来たので様子を見に来たのですが……ダメそうですね。材料が無いと裏に行ったっきり出てこない」

「何を注文したんですか?」

「マティーニ」

「様子見てきます」

 

 この時点でおおよそどんな展開なのか予想が出来た。マティーニの材料はジン、ベルモット、デコレーションにオリーブの実。すべてカウンターに用意してあるものだ。わざわざバックヤードに取りに行く材料はない。そして、なぜかカウンターに置いてあるはずのジンとベルモットが無くなっていた。ちゃんと確認していないけど多分オリーブも一粒。

 つまり、バックヤードに何かを取りに行ったのではなく、わざわざ目の見えないところに材料を持っていったという可能性が高い。今の男に客の前で華麗に――ましてなにもかも上手くいっていた時代の同業者の前でシェイカーを振るうことなどできないのだから。

 案の定だった。カウンターを挟んで向こう側にある扉を抜けてバックヤードへと赴くと、そこにはマティーニの材料と氷水の入ったミキシンググラスが用意してあった。

 想定外だったのは男椅子に座ったままいびきを立てて寝ていたことだ。男の前には空になったグラスが一つ。それと蓋の開いたジンの瓶。それで状況が分かった。景気づけに、あるいはアルコール中毒で震える指を抑えるためにジンを飲んだ。父の性格からして一杯では済まない。何杯かストレートで流し込んでいるうちに心地よい酩酊感に誘われてそのまま眠ってしまった。そういうところだろう。

 体を揺すってみる。起きない。声をかけてみる。起きない。両方同時に……起きない。

 困った。普通の客ならいざ知らず、男の顔見知り――それも心配して見に来るような人を追い返すようなことはしたくない。かといって、何も出さないまま起きるまで待ってもらうのも……。

 せめて客をもてなすくらいはしよう、そう思った。カクテルなんて作ったことないし、さほど詳しくもないけれど、マティーニなら混ぜるだけだし僕でも作れる。そう思ってしまった。

 僕はミキシンググラスの氷水を捨て、氷を詰め直し、規定量のジンとベルモットを注ぎ、ステアする。酒が冷え、溶けた氷が酒を薄めすぎてしまう前にグラスに注ぐ。最後にオリーブを添え、こぼさない様に持ち、バックヤードを出てカウンターで待つ紳士に差し出す。

 

「作る姿を見られたくなかったみたいですよ。まあ色々あった人ですからね」

 

 僕がそう言うと、紳士はため息をついた。

 

「私は審査員ではないのですけどね……ただ元気な姿を見れればそれで」

 

 紳士がマティーニを飲んだ。

 

「おや」感心した様子で紳士が言った「まだまだやれるではありませんか」

 

 その言葉の意味を理解するまえに、バックヤードから父親が――この時はまだ離婚調停中なので一応『父親』だ――飛び出してきた。

 

「どういうことだ」

 

 困惑するのも当然だ。なぜか別居中の息子がいて、かつての同僚には既に酒が提供されているのだから。

 

「どういうことも何もありませんよ」紳士が酒を飲み干した「思ったよりも腕は衰えていないようですね」

 

 紳士が千円を取り出して差し出す。

 

「申し訳ありません。そろそろ時間です。機会があればまた……」

 

 そう言って紳士は店を出ていった。

 その後、僕は父に問い詰められた。気おされて正直に答える。時々様子を見に来ていたこと。店の様子がおかしくて店内に入ったこと、父親のフリをしてこっそりカクテルを出したこと。

 

「つまり、あいつが飲んだのはお前が作ったマティーニで、だがあいつは俺が作ったものだと思っていると」

「……はい」

「そんな馬鹿な。あのクソ真面目な男がお世辞なんていうわけない……」

 

 あとで知った話だけど、マティーニっていうのはバーテンダーの力量が如実に出るカクテルらしい。シンプルだからこそ――ってことなのかもしれない。本当のところはわからないけど。ただ、父の困惑はこの話に基づいていることは明らかだった。

 父は考え込み――なにか思いついたのだろう、ほくそ笑みながら言った。

 

「滝菜。俺は母さんとお前にしたことをすごく反省してるんだ。今からでも関係を改善したい――だが、おれはもう歳だ。おれにはもうバーテンダーしか残ってない」

 

 元父親が強い力で僕の両肩を掴んだ。

 

「……あなたは何が言いたいんですか」

「お前には才能がある。バーテンダーの才能が」

 

 僕は両肩を掴む男の腕を剥がそうとする――その瞬間男の指に力がこもった。剥がれない。すさまじい握力だ。指が肩に刺さるんじゃないかという力。

 ふと男の目を見た。ぎょろりとして充血した目が僕の方を真っすぐ見ている。それは酒で興奮しているだけでなく、明らかに狂気を伴っていた。

 そう、それは自分の過去を全て清算できると不相応な夢を見てしまった咎人の目だ。

 

「俺は家庭内暴力と勤労意欲の欠如を理由に離婚を求められている。だが店が上手くいけば勤労意欲の欠如の方はどうにかできる――」

 

 それで離婚調停で有利に出れる、と。そんなわけないだろ。今さらどうにかできるわけない。

 

「言いたいことは分かる。だが俺の状況が好転すれば母さんは離婚を考え直してくれるかもしれない。滝菜、分かってくれ。夢愛には母親が必要なんだ」

 

 夢愛、月梨夢愛(つきなしゆあ)。男の一人娘で、僕の義妹。

 母が連れ帰ったのは僕だけだ。夢愛は父の連れ子――つまり、母に親権は無い。義妹だけはまだこの男の下に残っている。この何もかも道を間違えた男の下に。

 今日は姿を見せていないけれど、まだまだ青春を謳歌したい年頃なはずなのにまだ店の手伝いを強いられている可能性が高い。それに、このろくでなしと暮らしていてマトモな家庭生活を送れているとは思えない。

 

「何言ってるんだあなたは。店を立て直す? それと僕が一体どんな関係があるって――」

「俺の名前でお前が酒を作れ」

「……は?」

「それで俺はやり直せる……俺をホテルから追い出した連中を見返せるんだ!」

 

 その時僕の中に渦巻いた感情は二つ――呆れ、それと怒り。この男は家族のためと言いながらずっと自分の話しかしていない。しかしその不快感を感情を打ち消すように、頭の中に一人の顔が浮かんでくる。

 夢愛の笑顔。

 多少なりとも父の機嫌を取れれば夢愛のことを守れるかもしれない。

 夢愛はこの店で手伝いをしなくて済むようになるかもしれない。

 ずっとは無理だ。でもせめて彼女が高校を卒業するまでは……

 僕は父の提案を飲んだ。

 

 ◇

 

 僕の話がつまらないと思ったらソラは抗議の意として酒を飲む。

 幸いソラはまだ酒に手を付けていない。

 

「それで……それ上手くいった……の?」

 

 恐る恐ると言った様子でソラが言った。

 

「上手くいったと思う?」

「絶対上手くいかないと思う。だってその、滝菜のお父様に……」

「元、だよ」

 

 そこだけは間違えないで欲しい。

 

「……離婚相手に滝菜を育てるだけの能力があると思えないし、それ以前に状況がおかしすぎるし……」

「そうだね。先にこの話のオチを言うと、父の企みは僕の母が現場を押さえて崩壊した。離婚が成立して、この店は営業停止。父は強要罪、傷害罪、ネグレクトのコンボで手錠をかけられましたとさ」

「逮捕されたの?」

「うん」

 

 僕はグラスに酒を注ぎ、一口だけ口に含んだ。

 舌の上で酒を転がしながらあの時の記憶を思い出す。

 

「自分の料理の味見をしない料理人を信用できる?」

「味見をしない料理人なんていないでしょ? もしもいたとしてとても信用なんて……」

 

 そこまで言ってソラは何かに気付いたように言葉を止めた。逡巡の後、戸惑い気味に言った。

 

「まさか滝菜の元お父様、修行とかなんとか称して滝菜にお酒を飲ませたりはしていないでしょうね?」

「飲んだよ」僕は答える。「その日のうちにジン、ウォッカ、テキーラ、ラムのホワイトスピリッツをそれぞれ四十ミリ。翌日にはウィスキーとブランデーを店内にあった銘柄全部をそれぞれ四十ミリ。その翌日にはビールと各種ワインと日本酒、あと甲乙焼酎をグラス一杯ずつ。リキュールも全部舐めた。どうして大人はこんな辛い物を飲みたがるんだろうって思ったね」

 

 ◇

 

 僕にとって最悪だったのは(父にとって幸運だったのは)母がいわゆるバリキャリと言われる類の人物で、朝早く出勤して夜遅くに帰ってきていたということだ。母が帰ってくるのはどうあっても平均的な日本人が寝静まった後の時間。しかも酒癖も悲しいかな、母は飲兵衛だった。仕事帰りには絶対一杯ひっかけてから帰る。なので僕が夜出歩いていていても、べろべろに酔って帰ってきても、部屋を酒臭くしても母にはバレなかった。思春期の男の部屋には絶対に入るなって強く言ってたしね。

 起床、登校、下校、出勤、退勤、睡眠。それが僕のルーチン。

 朝起きるとひどい疲労感と頭痛に襲われる。それでも学校には行かなくてはいけないから水道水をがぶ飲みして、作り置きの冷えた朝食を食べて登校する。時々頭痛薬を飲んでいたけれどやめた。なぜか減っていく薬を見た母に勘繰られそうになったから。

 登校するとすぐに仮眠をとる。学校の日程に合わせて起きる努力はしていたけれどそう上手くはいかない。ホームルームをすっ飛ばしたこともあるし、ひどい時には授業の開始すらスルーして寝続けた。クラスメイトはみんな受験を意識してピリピリしているのに。きっと印象は良くなかっただろう。

 気が付けばもう夕方だ。一ページも書いていないノートをカバンに詰めて、ひとりでとぼとぼと帰る。家に付いたら制服を着替え、早い晩御飯を食べたら父の店へ。

 

「当然だが、酒の味がわからないバーテンダーなど存在しない」

 

 バックヤードに入ると、決まって父はいくつかのショットグラスに酒を注いで待っていた。琥珀色の液体が揺らめいている。今日はウィスキーらしい。

 

「香りだけで当てて見ろ」

 

 知るかよ。お前には出来るのかよ。無理だろうな。アル中とノイローゼで嗅覚を失ったお前には。

 僕は適当に答える。

 

「違う!」父が怒鳴る「まあいい。次は飲んでみろ」

 

 本当に、本当にこの男は未成年に酒を飲ませることに疑問を持たないらしい。いいや、僕が絶対に告発しないことを見越しての行為だろう。

 ただでさえ忙しい母の手を煩わせたくない。

 義妹を守りたい。

 今未成年飲酒がバレたら内申点に傷がつくかもしれない。下手すれば退学。

 僕は父の言う通りに一つウィスキーを飲み干す。辛い。痛い。口内、喉、胃腸、全ての粘膜が燃えそうだ。

 

「銘柄は?」

 

 知るかよ。酒の味なんて分かるか。僕は適当に答える。

 

「違う!」苛立ちながら父が言う「せめてどこのウィスキーかくらいは当てろ」

 

 知るかよ。

 

「答えろ!」

「……バーボン」

「正解だが間違いだ」

 

 はあ?

 

「テネシーウィスキーはその要件を満たせば同時にバーボンウィスキーの要件も満たす。客であるならその区別をする必要はないが、バーテンダーなら覚えておかないと……なあ!」

 

 父が僕を蹴り飛ばす。睡眠不足の体は思うようにバランスが取れない。僕はうつぶせに床に倒れた。

 

「お前が!」

 

 父が僕の背中を踏みつけるように蹴る。

 

「ちゃんとしないと!」

 

 父が僕の背中を踏みつけるように蹴る。

 

「おれは破滅だ!」

 

 父が僕の背中を踏みつけるように蹴る。

 

「まあいい。店を開けるぞ。片付けておけよ」

 

 そう言って父はバックヤードから出ていき、僕だけが残される。

 何をやっているんだ僕は。

 しばらく床に転がっているのもアリかもしれない。立っているよりは疲れない。

 それにしても、あいかわらず父のやろうとしていることは意味不明だ。離婚を撤回させるにせよ、自分の名誉を挽回するにせよ、その方法として『子供をゴーストバーテンダーとして使う』は明らかに不適当だ。だから、本来の目的は言外にあるのだろう――離婚前に可能な限り金を稼ぎたいとか、そのあたりで。

 そんなことを考えていると、バックヤードにまた人が入って来た。

 父ではない。夢愛だ。学校から直行したのだろう

 

「またあの男が滝菜に暴力を振るったんですね」

「ちょっと眠かっただけ」

 

 僕は立ち上がる。すると夢愛が僕の所に来て抱き着いて来た。

 

「よしよし滝菜。痛かったでしょう」

 

 ぽんぽん、と。夢愛が抱き着いたまま僕の背中を優しく叩いた。まるで転んだ痛みに耐える子供をあやすかのように。

 

「滝菜はがんばってます。わたしはちゃんと滝菜のことを見ています」

 

 夢愛が体を離し、僕の顔を見て微笑む。

 

「わたしはずっと、ずうっと生まれたことを呪ってました。わたしを産んだお母さんはどこか行てってしまいましたし、あの男はすぐ怒鳴るし、学校いっても楽しくありません。でも、あの男が再婚して、兄できるって聞いた時とても嬉しかったんです。滝菜は優しくて、一緒にいるとあったかい。滝菜がいる場所だけは安心できるんです」

「夢愛……」

「わたしは滝菜がいればなんだってがんばれます」

 

 夢愛が僕の顔を撫でた。

 

「滝菜もわたしのためにがんばってくれませんか?」

 

 僕はその言葉にノーということが出来なかった。あんな男の下で生きてきたのだから、誰かに頼りたくなるのは当然だろうから。

 それにしても本末転倒だ。僕は夢愛がこの店で働かなくていいようにこんなことを始めたのに、夢愛は僕の傍にいたがっている。でもまあいい。夢愛が少しでも気が楽になるなら。

 

「そうだ滝菜。サインくれませんか?」

「サイン?」

「はい」

 

 そう言って夢愛が生徒手帳と油性ペンを取り出す。僕の通う高校では今風のプラスチックカードだけど、彼女の高校ではまだ手帳型らしい。

 

「どうして?」

「わたしが一番目になりたいからです。滝菜はすごいバーテンダーになるんですよね? ですから、わたしがファン一号です」

「……はは」

 

 否定したい気持ちは夢愛の笑みの前に引っ込んだ。その時の僕に、彼女の言葉を否定するほどの余裕は残っていなかった。

 

《Takina Tsukinashi to Yua Tsukinashi》

 

 生徒手帳にそう書きつけた。彼女のリクエストで顔写真の見える透明セルのところに。一番見るページに書いて欲しかったらしい。文字に飾り気がなさすぎる気もしたけど、夢愛はご満悦だった。

 

「すうっと、ずーっと傍にいてくださいね。あの男がどれだけ滝菜を傷つけようと……わたし、ボロボロになった滝菜も大好きです」

「……ありがとう」

 

 僕は夢愛にバックヤードから出るように促す。店に来てしまった以上、接客しないと父に怒られるから。

 

 そして僕は夢愛の持ってくるオーダー表を見ながらカクテルを作る。

 毎日毎日、毎日毎日。毎日毎日毎日毎日毎日嫌になりながら僕はカクテルを作る。

 なまじ器用だったのが不幸だった。少しずつ客が増えていき、少なくともグーグルマップの星の数は三つと半分になる程度には評判が上がった。

 それでどうなったのかと言えば、父が増長した。

 毎日行われる修行(アレを修行と言っていいのかは別として)の激しさも客足の伸びの分だけ厳しくなった。つまり僕の飲酒量が増えたということだ。

 酒の味を覚えろ。

 飲んで覚えるんだ。

 飲め!

 僕は意識を朦朧とさせながら酒を飲み干す。時々意識を飛ばすと、父の蹴りが僕の背中を襲う。そして夢愛の慰めで立ち上がる。

 さて、こんな生活長続きするか? もちろん答えは『いいえ』だ。

 高校三年生のある夏。離婚調停開始から一年が経過しようとしている頃。

 アルファベットのIの如く下がる成績。

 学校での素行不良(主に居眠り)

 深夜の目撃情報。

 傍から見て明らかな心身の失調。

 エトセトラ、エトセトラ。

 これで不審に思われないワケがない

 Tips……二十歳未満での飲酒は法律によって禁止されているが、その飲酒した当人を罰する法律は無い。二十歳未満に飲酒を強要した人に対しては罰則が規定されている。

 

 その日、いつも通りバックヤードで修行(・・)をして、うっかり酒で意識を飛ばしたにも関わらず父の蹴りは飛んでこなかった。

 

「滝菜……滝菜……! ああ、どうしてこんなことに……!」

 

 僕は母の呼ぶ声で目を覚ました。母は床に転がる僕に縋りつくようにして泣いていた。

 

「うるせえ! 滝菜が勝手にやったことだ! おれはあいつに教えを乞われてたから教えただけ! 無理矢理飲酒なんてさせてない!」

「そんな言い訳が通るか」

 

 そう叫ぶ父が警察官と思しき人物に取り押さえられている。

 

「き、救急車の誘導してきます!」

 

 そう言って飛び出したのは僕の担任の先生だ。

 後から聞いた話によるとこうだ。明らかに異常な様子の僕を見て家庭環境の悪化を疑った先生と、それに驚いた母が相談して警察と一緒に僕を尾行していたらしい。

 夢愛。

 夢愛はどこにいるんだ。

 これも後から聞いた話だけど、夢愛はカウンター席の方で警察の事情聴取を受けていたらしい。

 僕はすぐに救急車に乗せられた。だからこれっきり夢愛とは会っていない。会うこともできない。

 強要罪、傷害罪、ネグレクト、営業停止。月梨親子は僕ら八首親子への接触を禁じられた。父がゴネ続けて伸びに伸びた離婚調停は逮捕をきっかけにすぐに終了した。

 しかし失った時間は取り戻せない。停学と留年だけは母と先生の訴えと学校側の温情で回避したけれど、そういうことじゃない。

 底辺まで下がった僕の成績では本来行けたはずの大学にも行くことはできない。

 学校に行ってもクラスメイトの輪に入れない。

 高校を出たら働く。そう言ったら母が泣いた。

 

「どうして私を頼ってくれないの?」

 

 結局一年だけ浪人して、どの大学でもいいから大卒の称号だけは手に入れる。そういう話になった。

 こうして、僕の青春は酒の味を覚えただけで終わった。

 

 ◇

 

「大学は実家から離れた場所を選んだんだ。一浪したところで学力を取り戻すには限界があるし、地元には僕の成績で行ける大学はないし――っていうのは建前で、本当はとにかく地元から離れて一人になりたかったんだ。母は反対したけど、条件付きで――まあ毎日電話するとかそういうので許してもらった」

 

 結局ソラは酒を飲まなかった。明らかに気落ちした様子でグラスの水面を眺めている。

 

「この話聞いてどう思った?」

「……あたしはやっぱり恵まれてる」

「待った。僕は『僕の失敗の話』をしたんだ。ソラの立場からすればそう聞こえるかもしれないけど、僕はそんな話をしたつもりはないよ。僕の失敗を聞いてどう思った?」

「失敗……? 滝菜はがんばったよ。何? 親子関係を立て直せなかったこと? 妹さんを守れなかったこと? そんなの滝菜のせいじゃないじゃん。滝菜が可哀そうだよこんなの」

 

 まくしたてるようにソラが言った。同情をして欲しいわけじゃないけど、同情をするなと言う方が無理だろう。卑怯だけど、ソラがそういう人間だというのは分かっている。だからそれを込みで話をする。

 

「そうなんだよソラ。僕はね、哀れみを向けられる程度にはやらかしたんだ。つまり、僕の失敗っていうのは」

 

 一息。

 

「自分を大切にしなかったってことなんだよ。こんな試み、適当なところで切り上げて母でも学校の先生でも、なんなら警察にでも泣きつけばよかったんだ。殴る蹴るされたなら児童相談所だってちゃんと動いてくれたはずだしね。何をやるにしても自分がボロボロじゃあしょうがないのに、自己犠牲なんて精神論に酔っちゃったのさ。そんなの今時流行らないのにね」

「そんな言い方」

「でも事実だ。そうすれば僕は傷つかなかったし、子供っていうのはそうあるべきなんだよ。僕達は誰かに助けを求めていいし、それは子供と大人の境目にいる大学生だって同じだ」

 

 僕は自分のグラスに酒を注ぎ、一口だけ舐める。本当は酒なんて好きじゃない。しかし、僕とソラを繋いだのは残念ながら酒だ。どれだけ正論を述べようと、酒のおかげで進むコミュニケーションは実際ある。余計なお世話と思われるかもしれないけれど、酒の力を借りてでも伝えたいことがある。

 

「だからソラは……家のこととか、自分自身の能力のこととか、お金持ちかくあるべしみたいな気持ちがあるかもしれないけど……それは僕の想像よりずっと重いもので、僕の言葉は無理解ゆえの綺麗事にしか聞こえないかもしれないけど……そういうのはもっと自分を大切にできるようになってからじゃないかなって僕は思うんだ」

 

 まあ、と僕は誤魔化すように頭をかく。

 

「それができないから困ってるのはわかるけど……僕はそんなにソラがダメな人間とは思わないんだよね。素面だとちょっと毒舌だけど正直痛快だと思う時がある。渚と萌花もあれはあれでプロレスを楽しんでそうだ。酒を飲めば明るくてよく笑う一緒にいて楽しい女子大生の降臨だ。そういうのみんな大好きだと思うよそういうの」

「滝菜も好き?」

「そりゃ僕もす……」

 

 しまった。

 

「……滝菜あ~」ニヤニヤとソラが笑う「その言葉の続きはなーにー?」

「……そういう罠、よくないと思うな」

「あのね滝菜」

「うん?」

「ありがと」

 

 ソラがにへらと笑う。彼女の肩の荷を少しでも降ろせただろうか。そうなら僕は嬉しい。

 

「そういえばさ、あたしら乾杯してなくない?」

「君が一人で始めてたから」

「それもそっか。じゃあ今から乾杯しよ。もう飲んでいいでしょ?」

 

 そう言ってソラがグラスを掲げた。僕も彼女に合わせてグラスを掲げる。

 

「乾杯」

「かんぱ――ちょっとまって」

 

 ソラがグラスを打ち付ける直前、腕時計で時間を確認した。少し焦った様子で、ソラが立ち上がる。

 

「ごめん、ちょっとママの会社の人から電話しなくちゃいけないんだった。外行くわ」

「了解」

 

 そしてソラは立ち上がり、玄関から外に出た。

 

「お金持ちは大変だな……」

 

 僕はグラスをローテーブルに置き、彼女が戻るのを待つことにした。

 

「……まあ結局、僕は夢愛を置いて来てしまったんだけどね」

 

 ◇

 

 ソラが電話をかけた相手は黒伏実――夜野家姉妹の長女と関係が深く、その長女が遣わしたソラの監視役であり、ソラが脅迫して滝菜の元恋人と間男について調べされている夜野グループ社員の名前だ。

 ソラこの時間にあらかじめ電話すると黒伏に伝えていた。まさに滝菜の元恋人と間男についての報告を聞くためである。

 その前に、ソラは黒伏に謝罪した。

 

「本当にごめんなさい。あなたの言う通りだったわ。あたし、正面から滝菜と話したの。そしたら滝菜が寄り添ってくれた」

 

 それは以前、ソラが黒伏に強く当たったことに対する謝罪だ。黒伏はそんなことしなくても正面から滝菜とぶつかればいい、ソラはそれができるだけの資質を備えているのだからといい、ソラはそれに苛立って強い言葉を浴びせた。そんなことはできるはずが無いと思ったからだ。しかし現実には黒伏の言う通りになった。少し自分のことを話したら、滝菜もそれに応えてくれたし、慰めの言葉までくれた。これは完全に黒伏が正しかったと認めるのが誠実というものだろう。ソラはそう思った。

 

『お嬢様』

「あなたに凶器を向けたことも謝らせて。あなたは自分の仕事をしているだけなのに、理不尽だと思ったでしょう。あなたを咎めるにしてもやり方があったわ」

『お嬢様。それはいいのです。あなたの立場からすれば、あなたを陰から監視する私が不愉快な存在であったのは否定しようがないのですから。それよりも報告をさせてください。端的に言うならば、状況が良くないのです』

 

 黒伏の言葉に、ソラは眉をひそめた。状況が良くないと言われても、どう良くないのか想像だにできなかったからだ。

 

「分かった。初めて」

『まず浮気相手についてですが、名前は村上明(むらかみあきら)。お嬢様と同じ大学に通う学生です。彼はサブカルチャーに造詣が深く、大学でもアニメサークルに所属。そこで夕月梨奈と繋がりが出来たようです。彼……というかほとんどの男性のことを『お兄ちゃん』と呼ぶ夕月梨奈を男性向け美少女ゲームのキャラクターのようだと気に入り、親交を深めたようです。

 その夕月梨奈はサークル室に衣服など生活用品を持ち込み、事実上の住居として使用。彼女に絆されたサークルメンバーはそれを黙認……やがてサークルは夕月梨奈に好意を抱く男子学生数名と、彼女中心になりつつあるサークル状況に反発した学生とで二つに別れて崩壊したようです』

「肌が泡立つような話だけれど、それだけならよくあるサークラね」

 

 ソラがそう言った。しかしソラにはまだ、それがどう状況がよくないのか理解できなかった。

 

『問題はこの村上明という男、クリスマスイブ以降行方不明なのだそうです』

「ふうん」

『住居が八首様の隣の部屋なのですが、見かけておりませんか?』

「……何ですって?」

 

 ソラは戸惑いながらも、滝菜の話を記憶から引っ張り出していた。

 いわく、隣人とは生活時間が違うみたいで一度も顔を合わせたことがない――今時珍しくない話だ。

 いわく、いつからかは分からないが鍵穴に折れた鍵が挿さって機能しなくなっていた――ゆえに滝菜は《開かずの間》と冗談めかして称していた。もしかしたら誰も住んでいないのかも、とも。

 しかしソラはその部屋の電力メーターは回っていることに気付いている――つまり室内で電力が使われているのは明らかで、そうであるなら誰かが住んでいなくては辻褄が合わない。

 以前にもソラは滝菜と話したことがある。単純なシリンダー錠なら簡単にスマートキーを設置できるし、究極的には物理キーがなくても開閉は出来ると。

 

「間違いないの?」

『元サークルメンバーからの情報です。信憑性は高いかと思われます。お金を握らせたらすぐに話してくれました。まあそれほど憎まれていたということなのかもしれませんが……』

「お金をはらったの? ごめんなさい。あたし、前も話したけれどそれ払えないわ」

『お嬢様、私はそんな安い給料ではないのですよ。夜野一族の皆さまのおかげで』

 

 黒伏がそう冗談を飛ばした。ソラの謝罪で黒伏の方も緊張が解けた様だ。

 ソラが考え込む。予想外の状況だった。間男が隣人だったとは――ソラにとって一番面白くないシナリオは、夕月梨奈が滝菜とヨリを戻そうと接触してくることだ。その彼女の関係者が近くにいるのだから気分がいいわけがない。

 

 ――あたしが彼女ならその状況を利用して隣室に居座り、不在を装いつつ滝菜の様子を探る。

 

 しかしそれはそれで新たな疑問が生まれた。クリスマスイブのあの日、なぜ夕月梨奈は滝菜の部屋にいた? 密通するならするで隣室にいけばいいだけの話――理解に苦しむというのがソラの正直な気持ちだ。

 

「……ま、いっか。それで、夕月梨奈については?」

『それが……私も信じがたいのですが』黒伏が言い淀む。『偽名の可能性があります』

「は?」

 

 急展開にソラの理解が追いつかなかった。黒伏はソラの反応は妥当だと理解しつつも報告をするしかない。

 

『夕月梨奈の身分を怪しんだサークルメンバーが、サークル室に置かれていた彼女の荷物から身分証を探したそうです。公的な身分証は所有していない様子でしたが、それに準ずるものは見つかったそうです。それを彼女に問い詰めたところ、偽名だと判明したと』

「何が見つかったの?」

『古い生徒手帳です。彼女が卒業した高校の。元サークルメンバーの方が写真を撮っていました。画像をいただきましたのでお嬢様にも送付いたします』

 

 ソラのスマートフォンから短い通知音。ソラはスマートフォンの画面を開き、黒伏から送られてきた画像を確認する。

 その画像は古ぼけた生徒手帳だった。そこには確かに彼女の名前と高校生と思しき彼女の顔写真があった。写真を見ても夕月梨奈の顔とは似ても似つかない。しかし同じ女性としてソラは理解していた――顔なんて化粧でどうにでもなる。あとは声や仕草――ソラはクリスマスイブのあの日、夕月梨奈の声が明らかに作られた猫なで声で苛立ったのを思い出した。それは男に好かれるためのものではなく、地声を隠すためのものだとソラは悟った。

 さらにソラが目を引かれたのはそこに油性ペンで書かれた英語の文字列だった。

 

《Takina Tsukinashi to Yua Tsukinashi》

 

 ツキナシタキナ。月梨滝菜。ソラはその名前を今聞いたばかりだ。

 ツキナシユア。月梨夢愛。それも今聞いたばかりの名前だ。

 ソラの頭の中に関係図が引かれる。

 夕月梨奈は偽名であり、本名は月梨夢愛である。

 月梨夢愛は月梨滝菜の義妹だった。

 八首滝菜はかつて月梨滝菜だった。

 八首滝菜はかつて夕月梨奈の恋人だった。

 とどのつまり、八首滝菜の元恋人は月梨夢愛である。

 同時に八首(月梨)滝菜の元義妹は月梨夢愛である。

 八首滝菜の元恋人は、義妹だ。 

 想像だにしない事態にソラの背中に悪寒が走った。

 

「――なんて、こと」

『彼女がどのような人物かは……申し訳ありません、調査中です。いかんせん情報が少なすぎて……また、ここに書かれたツキナシタキナと八首滝菜様との関係についても……』

 

 ただし、と黒伏が言う。

 

『八首滝菜様の隣は行方不明の村上明の部屋があり、その村上明と繋がっていた夕月梨奈は正体を偽っている。これは純然たる事実です。お嬢様、どうかお気をつけて』

「わかったわ。あなたは調査を続けて」

『承知いたしました』

 

 そのやり取りを最後に電話は終わった。

 

「嫌な感じ」

 

 ソラは確信した。夕月梨奈――月梨夢愛は狂ってる。

 そしてもう一つ確信した。この女はもう何をしでかしても不思議ではない。

 

「狂ってる、だって。馬鹿みたい。あたしも大概なのに」

 

 その時だった、滝菜の部屋からがしゃんと窓ガラスが叩き割られた音が聞こえたのは。




予定通りであればカクヨムにおいつくため、次回の更新はカクヨムを待つ形で10/5になります。
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