「ミサカの転生チートがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
公園中へ響き渡った絶叫に、木の枝へ止まっていた鳥が一斉に飛び立った。
つい数秒前までミサカ・アナザーの頭上へ当然のように浮かんでいた方陣は跡形もなく消失し、どれだけ首を振っても、両手で頭の上を探っても、そこに残っているのは何もない空間だけだった。
「ちょ、ちょっと待て! 俺、そんな大事なものだって知らなくて――」
「返してくださいぃぃぃぃ!!」
「返すって言われても!?」
アナザーは半泣きの顔で上条へ詰め寄ると、その右手を両手で掴み、まるで内部に盗まれた何かが収納されているのではないかと疑うように、掌から手首まで必死に調べ始めた。
「どこに隠したんですか! 出してください! ミサカの方陣! ミサカのチート! 昨日やっと生えてきたばっかりなんですよぉぉぉ!」
「俺の手の中に入るわけないだろ!?」
「あなたの右手が触った瞬間に割れたんです! 現行犯です! 器物損壊です! 能力損壊です! チート保護法違反です!」
「最後の法律は絶対ない!」
「ミサカの世界には今できました!」
「無茶苦茶言うな!」
上条が困り果てた顔で右手を引こうとするが、アナザーは離さない。
少し離れたところでは、美琴が消えた方陣のあった場所と上条の右手を交互に見ながら眉を寄せ、一〇〇三二号も同じ箇所へ視線を向けていたが、最も異なる反応を示していたのはフレンダだった。
最初こそ彼女も驚いていた。昨日、自分達が爆弾を使い、『窒素装甲』を使い、『原子崩し』まで浴びせ、それでも最後には何一つ通じなくなった原因そのものが、見知らぬ少年の右手へ一度触れただけで跡形もなく消えたのである。
しかし、その驚きは長く続かなかった。
本当にあの方陣が消えたのなら、昨日まで自分達を散々苦しめていた状況そのものが変わった可能性がある――そう考えたフレンダの視線が、涙目で上条へしがみついているアナザーへゆっくりと移る。
方陣が、今は頭上のどこにも見当たらない。
「…………」
フレンダの口元が、ゆっくりと持ち上がった。
それは、先ほどまでアナザーにクレープを買わされ、飲み物を買わされ、アイスまで約束させられていた人間とは思えないほど、実に嫌な笑みだった。
「ねえ、アナザー」
「今忙しいです! ミサカは人生最大級の危機に直面しています!」
「いやいや、まだ決まった訳じゃないって」
妙に優しい声を掛けられ、アナザーが上条の右手を調べる動きを止めた。
「……はい?」
「方陣が見えなくなっただけで、能力そのものまでなくなったとは限らない訳よ」
「…………」
アナザーの目に、僅かな光が戻る。
「……確かに?」
「そうそう」
フレンダは笑顔のまま頷いた。
「結局、昨日までに手に入れた力はちゃんと体に残ってるかもしれないじゃん。見た目だけ消えたって可能性もある訳よ」
「フレンダさん」
「何?」
「今のあなたは、これまで会った中で最も理知的に見えます」
「どうも」
フレンダの笑みが一段深くなり、それを見た美琴だけが露骨に眉を寄せた。
「……あんた、何企んでんの?」
「何も?」
「その顔で言われても信用できないんだけど」
「失礼な訳よ」
フレンダは周囲を見回し、ほどなく道路脇に設置された別の自動販売機を見つけると、何でもないことのように指差した。
「ほら、あれ蹴ってみれば?」
「…………」
「さっきみたいに壊せたら、力が残ってるってことじゃん?」
「なるほど!」
「ちょっと待ちなさい」
美琴が止めようとしたときには、もう遅かった。
アナザーは先ほどまでの絶望が嘘のように顔を明るくし、自動販売機へ向かって歩いていく。
「ミサカは一瞬でも運営を疑ったことをここに謝罪します。きっと外見だけ消滅させる演出だったのでしょう。危うく評価を星一まで下げるところでした」
「その運営って誰なのよ……」
「では確認します!」
「いや、だから待ちな――」
ミサカ・アナザーは足を振り上げ、先ほど別の自動販売機を文字通り破壊したのと同じ感覚で、金属製の側面へ勢いよく蹴りを叩き込んだ。
ガンッ!!
「~~~~~~~~~~ッッ!!」
自動販売機は壊れず、僅かに揺れただけだった。
代わりにアナザーの身体が硬直し、蹴りを入れた右足を抱えるように両手で掴んだ次の瞬間、その場でぴょんぴょんと片足跳びを始める。
「いっっっっったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「…………」
「痛い! 痛いです! 足が! 足が普通に痛いですぅぅぅぅ!!」
耐えきれず芝生へ倒れ込むと、今度は右足を抱えたまま転がり始めた。
「何ですかこれ! 自販機硬い! 金属ってこんなに硬かったんですか!? さっきはもっと柔らかかったですよ!?」
「さっきがおかしかっただけでしょうが!」
美琴が思わず突っ込む。
「うあぁぁぁ……ミサカの小指が……ミサカの小指が死んでいます……!」
「多分死んでいません」
一〇〇三二号が淡々と告げる。
「外見上、骨の突出や著しい腫脹は確認できません、とミサカは簡易的な観察結果を報告します」
「精神的には粉砕骨折です!」
「精神的な粉砕骨折という医学用語は存在しません」
「妹なのに冷たい!」
そこまで喚いたところで、アナザーはようやく自分以外の人間へ意識を戻し、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先にいるフレンダは、心配するどころか、ものすごく楽しそうに笑っている。
「フレンダさん?」
「何?」
「なぜ笑っているのでしょうか」
「いや別に?」
「口角が昨日ミサカを爆破したときより上がっています」
「気のせいな訳よ」
「気のせいではありませんよね!?」
アナザーはまだ痛む右足を庇いながら立ち上がり、そのままフレンダへ詰め寄った。
「やっぱりなくなってるじゃないですかぁぁぁぁ!! あなた分かってて蹴らせましたね!?」
「いやあ、結局確認は必要だった訳よ」
「もっと安全な確認方法があったでしょう!?」
「でも分かったじゃん」
「何がですか!」
フレンダは満面の笑みを浮かべる。
「昨日までの無茶苦茶な力、なくなってるって」
「…………」
その意味を理解した瞬間、アナザーの表情が固まり、対照的にフレンダの笑みはさらに深くなった。
「麦野に報告するって訳よ」
「…………はい?」
「麦野に報告するって訳よ!」
今度は、どう聞いても心底嬉しそうだった。
その一言で、アナザーの脳裏へ昨日から今日にかけて麦野へ浴びせてきた数々の言動が一気に蘇る。おばさんと呼び、『原子崩し』を完全無効化して勝ち誇り、第零位を何度も強調し、わざわざ第四位と呼んで煽り、今朝になってからも安全を確信して散々調子へ乗った。
その全てをやった自分が、今はもう無敵ではない。
ようやく現在置かれている状況を正確に理解し、ミサカ・アナザーの顔から血の気が引いた。
「待ってください」
「じゃ!」
「待ってくださいフレンダさん」
フレンダが身を翻す。
「報告するって訳よ!」
「待ってぇぇぇぇぇぇぇ!!」
アナザーが手を伸ばしたときには、すでに遅かった。爆発物を扱う暗部の構成員は逃げ足まで普通の少女とは違い、フレンダはそのまま公園から道路へ飛び出そうとする。
寸前で一度だけ振り返ると、実に清々しい笑顔で叫んだ。
「麦野ォー! いい知らせ持って帰るって訳よー!」
「言わないでくださいぃぃぃぃぃ!!」
だが、フレンダは止まらず、そのまま文字通り脱兎の如く走り去っていく。
後には、追いかけようにもまだ右足が痛く、芝生の上へ崩れ落ちるしかないミサカ・アナザーが残された。
「…………終わりました」
「何が?」
今度は上条が、事情をほとんど理解できないまま眉を寄せた。
「ミサカの人生です」
「いや、さすがに大袈裟だろ」
「大袈裟ではありません! あの人は昨日ミサカの右手を消し飛ばした人なんですよ!? その攻撃が今は通るかもしれないんですよ!? しかもミサカは今日だけで何回あの人を煽ったと思ってるんですか!」
「俺が知るかよ!」
「ミサカも数えたくありません!」
アナザーは芝生へ両手を突き、そのまま項垂れた。
「せっかく第零位になったのに……たった一日で転落人生です……昨日までのミサカ無双が……ミサカ無双ルートが……」
肩を震わせながら、今度は本気で泣きそうな声を漏らす。
「うぅ……転生チート……帰ってきてください……ミサカはもう運営を星一とか言いませんから……せめて星三に戻しますからぁ……」
「評価低くないか?」
上条が思わず聞き返す一方で、美琴は笑わなかった。
アナザーの口から何気なく出てきた「右手を消し飛ばした」という言葉が、おそらく誇張でも冗談でもないと、妹達がどのような実験へ使われているか知っている彼女だけは察し始めていたからである。
上条はしばらく何とも言えない顔でアナザーを眺めながら、自分が右手で方陣へ触れた直後にそれが砕け、この少女が本気で取り乱し、さらに自販機を蹴れば、以前とは違うと言って普通に痛がったことを順番に思い返した。そこへ、先ほどまで付き添っていた金髪の少女が能力喪失を誰かへ報告すると異様に喜んで逃げていった事実まで加われば、細かな事情こそ何一つ分からなくとも、自分が相当にまずいことをしたらしいという点だけは否定できない。
「……悪かった」
その声に、アナザーが顔を上げる。
「俺、本当に知らなかったんだ。いつもの変なものみたいに、触って消えるようなものだとも思ってなくてさ」
「いつもの変なもの?」
美琴が横から、話を先へ進めるように口を挟んだ。
「そこはいい」
上条は一度頭を掻いてから、改めてアナザーを見る。
「それで……あれ、そんなに大事な力だったのか?」
「大事なんてもんじゃありません!」
アナザーは勢いよく立ち上がった。
「昨日のミサカが生きているのは、ほぼ一〇〇パーセントあれのおかげです!」
その言葉を聞いた途端、上条の表情が変わった。
「……生きてるのが?」
「はい!」
なぜそこで胸を張れるのか美琴には理解できなかったが、アナザーは自分の武勇伝を披露するような勢いで話し始める。
「まず昨日、白髪モヤシに銃弾を反射されて被弾しました!」
「白髪モヤシ?」
「第一位・一方通行です!」
「は?」
上条の顔から困惑が消えた。
「その後も地面へ叩きつけられたり、空気をぶつけられたり、体の中の血を変な方向へ動かされたりして、ミサカは何度も死ぬほど痛い目に遭いました!」
「待て」
「しかし!」
上条が止めようとしても、完全に調子を取り戻したアナザーはそのまま続けた。
「そこで超すごい転生チートが覚醒! ガコンと回るたびにミサカは完全回復! 一度受けた攻撃は順次攻略! 最終的には第一位の反射まで突破して必殺ミサカパンチを叩き込みました!」
「…………」
「そしてその後!」
「まだあるの!?」
美琴が思わず叫ぶ。
「研究施設で針や刃物への耐性を獲得し、壁を破壊して脱走! さらに昨日はアイテムの皆さんと友好的な交流を行い――」
「どこが友好的なのよ」
「第四位に右手を消し飛ばされました!」
その一言で、それまでアナザーの勢いに押されていた空気が一変し、上条の目が見開かれると同時に、美琴も完全に言葉を失った。
アナザー本人だけが、なぜ二人がそこで黙ったのか分かっていない。
「ですが、そこでも方陣がガコン! 右手は完全復活! 以後『原子崩し』はミサカへ触れた瞬間に霧散し、爆弾の熱も攻略、『窒素装甲』も突破、拘束も攻略し、昨日の時点でミサカはついにアイテムを攻略済みコンテンツへと――」
「ちょっと待って」
上条の声が低かった。
アナザーが止まる。
「……何ですか?」
「それ、実験なんだよな?」
「はい?」
「最初のやつだよ。一方通行に撃たれて、叩きつけられて、身体の中まで能力で弄られたって」
「絶対能力進化実験ですね」
「それで、お前が死ぬ予定だったのか?」
「はい」
あまりにもあっさり肯定され、上条は言葉を失った。美琴も先ほどまでの呆れた表情を完全に消しており、その反応を見て初めて、アナザーは二人が自分の「無双」の部分ではなく、それ以前の出来事へ引っかかっていることに気づく。
「……え?」
一〇〇三二号が、その疑問へ答えるように淡々と口を開いた。
「事実です。旧一〇〇三一号は規定の実験において第一位・一方通行と戦闘し、死亡する予定でした」
そこで一度言葉を区切ると、一〇〇三二号はアナザーへ視線を向けた。
「また、ミサカネットワークへ共有された旧一〇〇三一号本人の感覚情報及び戦闘記録によれば、当該実験中には反射された銃弾による銃創、強い衝撃による骨格及び軟部組織への損傷、地面への激突、圧縮された空気による攻撃、さらに第一位の能力を直接受けたことによる体内への深刻な損傷が複数回発生しています」
上条の表情が固まっても、一〇〇三二号は声色を変えることなく説明を続ける。
「いずれも未知の方陣が機能しなかった場合には戦闘継続が困難、あるいは生命維持へ重大な影響を及ぼし得る損傷でした。旧一〇〇三一号はそれらを受けるたびに身体を修復し、同種の現象へ適応したことで生存しました、とミサカはネットワーク上に共有された情報を補足します」
つい先ほどまで「必殺ミサカパンチ」だの「チート」だのと得意げに語られていたため、上条にはどこか現実感の薄い武勇伝のように聞こえていた。
しかし、一〇〇三二号の無感情な説明によって余計な装飾を剥ぎ取れば、残る事実はあまりにも単純だった。目の前の少女は実験という名目の下で、普通ならその場で死んでも不思議ではない攻撃を何度も受け、それでも偶然手にした未知の力によって辛うじて生き残っただけで、本来の計画ではそのまま死亡する予定だったのである。
「ミサカシリーズは本来絶対能力進化計画の実験材料として製造され、各個体が指定された条件下で第一位と戦闘し、死亡することによって実験データを蓄積します、とミサカは説明を続けます」
「おい」
上条の声が、さらに低くなった。
「それって……」
「ちょっと!」
美琴が突然、一〇〇三二号の前へ一歩出た。
「それ以上はいいから!」
一〇〇三二号が瞬きをする。
「なぜですか、とミサカは説明中止の理由を要求します」
「いいから! こいつには関係ないの!」
「御坂?」
上条が美琴を見る。
「何だよ、それ」
「アンタには関係ないって言ってるの!」
「人が殺されてる話聞かされて、関係ないで済むかよ!」
「済むの! これは私の――」
「絶対能力進化計画は現在も継続中です」
一〇〇三二号が美琴の横から平然と言った。
「ちょっとぉ!?」
美琴が振り返る。
「本日も予定された実験は実施されます」
「言わなくていいって!」
一〇〇三二号は美琴の制止を意に介した様子もなく、自分の胸元へ片手を添えた。
「そして、今あなたの目の前で話しているこのミサカが、ミサカ一〇〇三二号です。本日の実験対象個体として指定されています、とミサカは識別番号と現在の予定を明示します」
上条の視線が、反射的に一〇〇三二号へ固定された。
「……お前が?」
「はい」
一〇〇三二号は、いつもと変わらない調子で答える。
「予定時刻に指定地点へ移動し、第一位・一方通行との戦闘実験を実施します。その結果としてミサカ一〇〇三二号、すなわち現在あなたと会話しているこの個体が死亡することも、計画上の予定に含まれています、とミサカは回答します」
「ふざけんなよ」
低く漏れたその声には、先ほどまでの困惑とはまるで違う感情が混じっていた。
「何だよそれ」
上条の拳が強く握られる。
「実験だからって、人を殺していい理由になるかよ。お前も何でそんな平気な顔してんだよ!」
「ミサカは実験用に製造された個体です」
「だから何だ!」
一〇〇三二号が僅かに目を見開いた。
「作られたとか、実験用だとか、そんなの誰が勝手に決めたんだよ! 死ぬのが予定だって言われて、はいそうですかで納得できるか!」
「上条……」
美琴が何か言おうとして、結局それ以上を口にできずに止まる。
そのとき、場違いなほど軽い電子音が鳴った。
ピロリン。
全員の視線が一斉に音の方向へ向き、それが自分のポケットから聞こえたと気づいた瞬間、ミサカ・アナザーの顔が露骨に曇った。
恐る恐る取り出したのは、今朝アイテムへの一時配属を告げられた際、連絡用として渡された携帯端末だった。一般向けのメッセージアプリに似た操作感ながら、通信経路そのものは暗部向けに秘匿化され、閲覧権限や端末認証まで組み込まれているらしい。
「……来ました」
「何が?」
上条が尋ねる。
「たぶん、死刑宣告です」
「何で携帯にそんなの来るのよ」
美琴が呆れた声を出す。
「フレンダさんが絶対もう報告しています。『第零位のチート消えました! 今なら殺れます!』くらい言っていてもおかしくありません」
「そこまで言う?」
「言います。あの顔は言う顔でした」
アナザーは今にも端末を遠くへ投げ捨てたそうな表情のまま、渋々画面を開いた。
画面上部には、いつの間に登録されたのか、簡素なグループ名が表示されている。
――アイテム。
アナザーは一度目を閉じて覚悟を決めてから、恐る恐る届いたメッセージへ視線を落とした。
フレンダ:無事?
絹旗:超大丈夫ですか? フレンダから聞きました
滝壺:あなざー、いたいところない?
「…………」
アナザーが瞬きをしてからもう一度読み直しても、予想していた罵倒も、嘲笑も、麦野の殺害予告も見当たらない。
さらに一件、新しいメッセージが表示された。
麦野:今どこにいる
「…………」
「どうしたの?」
美琴が怪訝そうに尋ねる。
アナザーは端末と目の前の三人を交互に見比べた。
「……心配されています」
「は?」
「ミサカ、心配されています」
先ほどまであれほど陰鬱だった表情が少しずつ解け、やがてアナザーは端末を胸元へ抱えるようにして目を輝かせた。
「皆さん……ミサカは感動しました。新しい職場は思いのほかアットホームでした、とミサカは暗部という名前からは想像もしていなかった温かな人間関係に喜びを覚えます」
「……アットホーム?」
美琴の眉間に深い皺が寄った。
一昨日、施設で自分を殺す勢いで追い回してきた連中である。特に麦野沈利については、その名前と「アットホーム」という単語が同時に成立する未来を、美琴にはどうしても想像できなかった。
「それ、本当に心配されてる?」
「もちろんです!」
その瞬間、新着メッセージが表示された。
麦野:帰ってきたら特別に手作りプリン作ってやるよ
「…………」
アナザーの目が輝いた。
「プリン!」
「そこなの!?」
「しかも手作りです!」
先ほどまで絶対能力進化計画の話で重苦しくなっていた空気を、一瞬で吹き飛ばす勢いだった。
「第四位が! あの第四位が! ミサカのために手ずからプリンを!」
美琴の顔が引き攣る。
「……絶対おかしい」
「嫉妬ですか、オリジナル」
「違うわよ!」
アナザーは嬉々として画面へ文字を入力した。
アナザー:ありがとうございます! どのような特別なプリンなのでしょうか、とミサカはワクワクしながら尋ねます!
送信から数秒後、返事が届く。
麦野:手作りプリンを作ってやる。材料はお前な。
「…………」
アナザーの笑顔が止まった。
何度読み返しても、書かれている日本語そのものの意味は分かる。しかし、その意味を正しく理解したくないという本能的な拒絶だけが先に立った。
「誤字ですね」
「何が?」
上条が覗き込もうとする。
「日本語が少々壊れています」
アナザーは震える指で返信した。
アナザー:麦野さん、「材料はお前な」ではなく「材料は用意しておくな」の誤入力でしょうか? とミサカは善意に解釈したうえで確認します。
送った文章へ既読が付き、ほとんど間を置かずに返答が表示された。
麦野:間違ってねぇよ。
麦野:私特製の手作りプリン。
麦野:材料はお前な。
「…………」
アナザーの顔から血の気が消えた。
さらに通知が続く。
フレンダ:結局、愛情たっぷりな訳よ
絹旗:超手作りですね。材料の段階から
滝壺:あなざー、よかったね
「よくありませんよ!?」
思わず端末へ向かって叫んでも、追撃は止まらない。
フレンダ:ちゃんと帰ってくる訳よー
絹旗:麦野が超楽しみに待ってますよ
滝壺:むぎの、さっきから機嫌いいよ
「それ絶対良い意味じゃありませんよね!?」
そして最後に、決定打としか思えない一文が表示された。
麦野:逃げんなよ、第零位。
「…………」
アナザーは完全に固まった。
昨日までなら、麦野がどれほど怒っていようと笑っていられた。『原子崩し』は自分へ触れれば消え、怒らせても実害はなく、第四位が騒いでいるだけだと高を括ることさえできた。
しかし今は、自販機を蹴っただけで自分の足が痛み、頼みの方陣は消え、その事実を当の麦野まで知っている。
しばらく画面を見つめたまま動かなかったアナザーだったが、やがて何か重大な決断を下したように端末をポケットへ押し込み、一〇〇三二号の両肩を勢いよく掴んだ。
「一〇〇三二号!」
「何でしょうか、とミサカは突然肩を掴まれた理由を質問します」
「逃げましょう!」
「…………」
「今すぐです! この街からでも、この公園からでも、とにかく危険人物から可能な限り遠くへ逃げます!」
一〇〇三二号が瞬きをする。
アナザーは、冗談でも誇張でもなく必死だった。
「このままだとミサカは第四位にプリンにされ、一〇〇三二号は第一位に殺されます!! 利害が完全に一致しています! 二人で逃げれば怖くありません! 逃亡系姉妹ユニット結成です!」
「逃亡する必要性を認めません」
「…………はい?」
あまりにも平然と返されたため、アナザーは一瞬、言葉の意味そのものを理解できなかった。
一〇〇三二号は自分の肩に置かれたアナザーの手を見た後、いつもの無表情で彼女を見返す。
「ミサカ一〇〇三二号は絶対能力進化計画に使用されるため製造された実験個体です。指定された実験へ参加し、第一位との戦闘によってデータを取得することが、この個体へ設定された用途です」
「いや、用途とかではなく!」
「また、ミサカ一〇〇三二号が実験を拒否して逃亡した場合でも、代替となる妹達は多数存在します。個体一体の生存を目的として計画から離脱することに、現時点のミサカは合理的な必要性を認めません、とミサカは回答します」
アナザーの手から、徐々に力が抜けていった。
先ほど一〇〇三二号が自分自身の死を予定事項として説明したときと同じであり、そこには「死ぬのが怖くない」という強がりすら存在しない。そもそも自分の命を守るために逃げるという選択そのものへ、一〇〇三二号は十分な価値を置いていないのである。
前世で一人の人間として生き、その人格と価値観を現在まで持ち込んでいるアナザーにとって、その思考だけはどうしても理解できなかった。
「何でえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
思わず頭を抱える。
「死ぬんですよ!? 白髪モヤシですよ!? あいつ本当に容赦ないですよ!? ミサカなんて血とか骨とか色々大変なことになったんですよ!? 逃げましょうよ! 命は一個しかないんですよぉぉぉ!」
「ミサカシリーズには同一仕様の個体が多数存在します」
「そういう話じゃありません!!」
即座に叫び返したアナザーの横で、上条も険しい表情のまま一〇〇三二号を見ていたが、それ以上に強く反応したのは美琴だった。
「……もういい」
小さく漏れた声にアナザーが振り向くと、美琴は俯いたまま拳を強く握り、その指先を僅かに震わせていた。
「オリジナル?」
「その子に逃げろって言っても、今はたぶん無理よ」
一〇〇三二号を見つめる美琴の表情には、苛立ちだけでなく苦痛に近いものまで浮かんでいる。
妹達が自分達自身をどのようなものとして扱っているのか、美琴はすでに知っていた。だからこそ、その言葉を聞かされるたびに腹が立ち、それと同時に、自分がこんな存在を生み出すきっかけを作ったのだという罪悪感まで容赦なく蘇ってくる。
それでも、美琴はやがて俯いていた顔を上げた。
「……私が何とかする」
誰に言い聞かせるでもないような、それでいて自分自身に引き返すことを許さない響きを持った声だった。
「実験は、私が止める」