白井黒子が御坂美琴から直接呼び出しを受けること自体は、別に珍しいことではない。
珍しかったのは、その連絡が妙に短かったことである。
『黒子、今どこ?』
『ただいま巡回を終えたところですの。どうかなさいましたの、お姉様?』
『悪いけど、ちょっと来て。場所送るから』
『もちろんですの! たとえ学園都市の果てであろうと、この黒子、お姉様がお呼びとあらば一秒でも早く――』
『あと、来ても驚かないで』
『何にですの?』
『……説明しづらいのよ』
そこで通話を切られた。
普段の美琴なら、黒子が余計な方向へ話を膨らませた時点で怒鳴るか、最低でも一言は突っ込みを入れる。ところが今回はそれすらなく、声音にも疲労と焦燥が混じっていたため、黒子はいつものような軽い呼び出しではないと判断し、送られてきた位置情報へ空間移動を繰り返した。
そして、公園へ到着した。
「お姉様、お待たせいたしまし――」
言葉が止まった。
黒子は目を瞬き、眼前の光景をもう一度確認する。
公園の中央付近に、美琴がいる。そこまではいいのだが、その隣にも美琴がいて、さらに少し離れたところにも、どう見ても美琴としか思えない少女が立っている。
「…………」
一人は、黒子が世界で最も敬愛する常盤台中学二年生、御坂美琴。
一人は軍用ゴーグルを額へ載せ、服装こそ違うものの容姿についてはほとんど同一と言ってよい少女。
そして残る一人も美琴と瓜二つで、こちらはどこか所在なさそうに肩を落とし、時折、自分の頭上に何かあるはずだとでも言いたげに手を伸ばしている。
黒子は三人を順番に見比べたあと、念のためもう一周視線を巡らせた。
「お……」
「黒子?」
「お姉様が……」
美琴の頬が引き攣る。
「違うからね」
「三人……」
「だから違うって」
「お姉様が三人いらっしゃいますのぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「人の話を聞けぇぇぇぇぇ!!」
公園へ黒子の歓喜と美琴の怒声が同時に響いた。
黒子は一瞬にして美琴達の目前まで空間移動すると、一〇〇三二号とアナザーを左右から見比べ、次いで本物の美琴へ視線を戻し、また二人を見るという動作を異様な速度で繰り返した。
「な、何ですのこれは!? わたくし、今日ここへ来るまでの間に、そんな徳を積みましたの!? 日頃の善行に対する神からの報奨ですの!?」
「神様はそんな趣味してないわよ!」
「お姉様が一人でもこの黒子には過剰な幸福ですのに、それが三倍など……わたくしの心臓が耐えられるかどうか!」
「だから二人は私じゃないって!」
「二人とも外見上オリジナルとほぼ同一であるため、白井黒子が混乱することには一定の合理性が存在します、とミサカは分析します」
「喋り方は違いますのぉぉぉ!」
一〇〇三二号を見た黒子の目がさらに輝く。
一方、アナザーは少し離れたところからその様子を眺め、珍獣でも観察するような目を向けていた。
「……非常に濃い人ですね、とミサカは第一印象を率直に述べます」
「聞こえてますの!」
「黒子」
美琴が呼ぶと、その声音が普段と違ったため、黒子もさすがに動きを止めた。
「冗談はそこまで。この子、ちょっとお願いできる?」
「この子?」
美琴が指したのはアナザーだった。
黒子は改めて彼女を見る。美琴と同じ顔に同じ髪、服装こそ常盤台の制服ではないものの、遠目なら本人と見間違えても不思議ではない。
「事情は?」
「……今は細かく説明してる時間がないの」
美琴が僅かに視線を逸らした。
「ただ、この子を一人にはしたくない。能力も今ちょっと不安定みたいだし、戻る場所も……まあ、安全とは言いづらいから」
「……そこは否定できません。現在アイテムへ帰還した場合、ミサカは第四位特製プリンの材料へ加工される可能性が極めて高いです、とミサカは非常に不本意ながら現状を認めます」
「プリンの材料……?」
黒子が眉を寄せ、数秒後、別の部分へ気づいたように顔を上げた。
「少々お待ちくださいまし」
「はい?」
「今、第四位と仰いましたの?」
「はい」
「第四位というのは、まさか学園都市のレベル5、第四位のことですの?」
「麦野沈利です、とミサカは特に隠す理由もないため実名まで補足します」
「なぜあなたが第四位と一緒に行動していますの!?」
「現在ミサカはアイテムへ監視対象兼臨時要員として一時配属されています」
「アイテム?」
黒子の眉間の皺がさらに深くなる。
「何ですの、そのいかにも穏やかではなさそうな名称は」
「黒子」
美琴が釘を刺すように呼んだ。
「今はそこまで聞かないで」
「お姉様、わたくしが到着してから聞かなければならないことばかり増えておりますの!」
「分かってるわよ!」
「オリジナル、それではミサカが何らかの危険組織へ所属しているように聞こえます」
「第四位にプリンの材料にされかけてる時点で十分危険でしょうが!」
「そこは否定しづらいです、とミサカは苦渋の認定を下します」
黒子は頭痛を堪えるように額へ手を当てたが、美琴は小さく息を吐いてから彼女へ近づき、声を落とした。
「黒子なら、何かあってもすぐ移動できるでしょ。だから、少しだけこの子を見ててほしいの」
「お姉様からのお願いでしたら、もちろん断る理由などありませんけれど……」
黒子は今度は一〇〇三二号へ目を向けた。
「では、こちらの方は?」
美琴の顔が僅かに強張った。
答えたのは一〇〇三二号自身だった。
「ミサカ一〇〇三二号には、この後予定された場所へ移動する必要があります」
「予定?」
「一〇〇三二号」
美琴が低い声で呼ぶ。
一〇〇三二号は美琴を見た。
「何でしょうか」
「……本当に行くの?」
「はい」
迷いはなかった。
「予定時刻までに指定地点付近へ移動し、待機する必要があります」
美琴の指先が僅かに震える。
黒子には二人が何を話しているのか分からなかったが、少なくとも楽しい予定ではないことくらいは、その場の空気から察することができた。
「だったら、その方もわたくしがお預かりすれば――」
「それじゃ駄目なの」
美琴が即座に否定した。
「黒子、この子一人ならお願いできる。でも、その子まで隠したら……たぶん、何も解決しない」
「どういう意味ですの?」
「一個体が予定から外れた場合、別個体への振り替えが行われる可能性があります、とミサカは補足します」
一〇〇三二号が平然と言う。
「ちょっと!」
美琴が睨むが、黒子はすでに眉を寄せていた。
「別個体?」
「……黒子」
美琴は一度目を閉じた。
全部話すべきではない。黒子をこれ以上巻き込むべきでもないという判断が、その表情だけでも伝わってくる。
「お願い。今は聞かないで」
「お姉様……」
「私が何とかする」
その言葉を聞いた瞬間、少し離れたところにいた上条当麻の表情が変わった。
「御坂」
「何よ」
「その顔で『何とかする』って言われても、全然信用できねえんだけど」
「アンタには関係ないって言ったでしょうが」
「さっき人が今夜殺されるって話聞いた直後に、それで引き下がれるかよ」
「引き下がりなさいよ!」
一〇〇三二号はその二人をしばらく見てから、特に挨拶らしい挨拶もせず公園の出口へ歩き始めた。
「ちょっと!」
美琴が呼び止める。
「指定時刻にはまだ余裕がありますが、遅延する理由もありません」
「だから、アンタは……!」
追いかけようとした美琴の足が止まった。
力ずくでここへ留めても、それで絶対能力進化計画そのものが止まるわけではない。一〇〇三二号だけを拘束しても別の妹達が代替として選ばれる可能性があり、何より本人に逃げる意志が存在しない以上、ここで一個体だけを隠しても根本的な解決にはならない。
美琴は唇を噛み、やがて一〇〇三二号ではなく別の方向へ身体を向けた。
「……黒子」
「はい」
「お願い」
それだけ言うと、美琴は走り出した。
「お姉様!?」
「御坂!」
上条が一瞬、一〇〇三二号と美琴を交互に見た。
今夜殺される予定だという一〇〇三二号を追うべきなのか、それとも「私が何とかする」と言いながら、明らかに危険なことを考えている美琴を追うべきなのか。
迷ったのは、ほんの数秒だった。
「……くそっ!」
上条は美琴を追って駆け出した。
一〇〇三二号はそんな二人へ一度だけ視線を向けたが、追うことも呼び止めることもなく、自分の予定された方向へ歩き続ける。
公園には、黒子とアナザーだけが残された。
黒子は美琴が消えていった方向、一〇〇三二号が歩いていった方向、そして目の前に残されたアナザーを順番に見比べたあと、大きく息を吐いた。
「正直申し上げて、事情の半分どころか一割も理解できておりませんの」
「ミサカも自分の置かれている状況を完全には理解していません、とミサカは同意します」
「ですが、お姉様からお預かりした以上、第四位に殺されるかもしれない場所へ、そのままあなたを帰すわけにはいきませんの」
「英断です。現在あそこへ帰還することは、自ら処刑台へ登る行為とほぼ同義です」
「ますます帰せませんの……」
◆
「ここが……常盤台の外部寮……」
「声を抑えてくださいまし」
黒子が即座に人差し指を唇へ当てる。
真正面から入寮手続きをしたわけではない。当然ながら、常盤台中学の寮へ所属不明で、しかも御坂美琴と完全に同じ顔をした少女を正規の手続きを経ず連れ込めるはずがなく、黒子は周囲に人がいないことを確認した上で、空間移動を使ってアナザーを自室へ直接送り込んでいた。
「見つかれば、わたくしまで大変なことになりますの。特に寮監様には絶対に見つからないようになさい」
「了解しました、とミサカは潜伏任務として認識します」
「そこまで大袈裟なものではありませんけれど……とにかく、今日はここで大人しくしていてくださいまし」
「…………」
「何ですの、その顔は」
アナザーはベッドの端へ腰を下ろし、肩を落とした。
「ミサカは駄目なオリ主です」
「……は?」
「原作主人公から出番を奪う予定だったのに、出会って数分でチートを消されました。暫定第零位になって、これから華々しいミサカ無双が始まる予定だったのに、今では自販機を蹴っただけで足が痛い普通のミサカです」
「少々お待ちなさい」
「はい?」
黒子が片手を上げた。
「先ほども第四位だの何だのと、とんでもない話が出ておりましたけれど……今度は何ですの?」
「何がでしょうか」
「第零位ですの!!」
「ああ」
「ああ、ではありませんの!」
黒子は思わず身を乗り出した。
「学園都市のレベル5は七人。その順位に第零位など存在しませんでしょう!」
「昨日までは存在しませんでした」
「今日から増えたみたいに言わないでくださいまし!」
「正確には暫定第零位です。第一位より上という意味ではなく、通常の順位体系へ入れづらいミサカを管理上例外扱いするためにつけられた行政上の暫定分類です、とミサカは誤解のないよう補足します」
「……それでも十分おかしいですの」
「ミサカもそう思います」
「なぜ当事者が一番冷静なんですの!?」
黒子はしばらく額を押さえたあと、深く息を吐いた。
「お姉様は本当に何をわたくしへ預けていったんですの……」
「駄目なオリ主です」
「そこへ戻りますのね」
アナザーは膝へ肘を置き、深く項垂れた。
「きっと読者からも『結局原作主人公頼りじゃん』と後ろ指を差されます。ミサカは駄目なオリ主です、とミサカは己の不甲斐なさに深く落ち込みます」
「その読者という方々が誰なのかは存じませんけれど、能力が使えなくなったかもしれないというだけで、そこまで自分自身を否定する必要はありませんの」
「だけではありません。ミサカにとっては生命保険そのものです」
「だからこそ、焦っても仕方がないでしょう?」
黒子がそう言った、そのときだった。
ピロリン。
「ひぃっ!?」
アナザーの身体が大きく跳ねた。
ほとんど条件反射に近い反応で、ポケットから鳴った携帯端末へ恐る恐る手を伸ばす。
「き、来ました……」
「何がですの?」
「第四位からの処刑通知か、フレンダさんからの現在地確認か、あるいは絹旗さんからの超葬儀案内かもしれません……とミサカは最悪の可能性を列挙します」
「何ですの、その職場は……」
アナザーは震える指で画面を確認しようとして、途中で止まった。
読まなければ内容が分からず怖いが、読めばもっと恐ろしい内容が書かれているかもしれない。その葛藤が、端末と自分の顔を交互に見比べる挙動へあまりにも露骨に現れていた。
黒子はしばらくその様子を見たあと、眉を寄せた。
「貸しなさい」
「え?」
アナザーが反応するより早く、黒子は端末を取り上げる。
「あ」
「そんなものが鳴るたびに怯えていては、休めるものも休めませんの」
「しかし、それはアイテムから支給された重要な業務端末で――」
「今すぐ対応しなければならない仕事があるのですか?」
「……たぶんありません」
「でしたら結構ですの」
黒子は届いた内容を勝手に読むこともせず、まず通知音だけを切ると、そのまま端末を机の引き出しへ収めた。
「緊急の用件なら後で確認すればよろしいですわ。少なくとも今は、音が鳴るたびにあなたが怯えながら一件ずつ読む必要などありませんの」
「…………」
「何ですの?」
アナザーは、少し不思議そうに黒子を見ていた。
「返してほしいのなら――」
「いえ。そうではありません」
アナザーは小さく首を振る。
「ただ、少々驚きました、とミサカは正直に告白します」
「端末を取り上げたことに?」
「それもあります」
黒子はそこで、まだ沈み切っているアナザーの表情を見て小さく息を吐いた。
「先ほどから『駄目なオリ主』だの何だのと仰っていますけれど、能力が使えなくなったからといって、あなた自身まで駄目になったわけではありませんでしょう?」
「…………」
「それに、本当に能力そのものを失ったとも限りませんの」
アナザーが顔を上げる。
「ですが、自販機は壊れませんでした」
「自販機を万能能力測定器のように扱うのはおやめなさい」
「非常に分かりやすい試験でした」
「分かりやすいだけですの」
黒子は呆れながらも、少し考える。
「そもそも、使えなくなったというのはどういう状態なんですの? 先ほどから『チートが消えた』としか聞いておりませんわ」
「昨日からミサカの頭上に浮かんでいた謎の方陣が、原主一号――上条当麻の右手に触れられた瞬間、パキンと割れて消滅しました」
「……頭の上に方陣?」
「はい。ミサカが動けば当然のようについてきて、攻撃を受けて適応するとガコンと回転する、非常に目立つ謎物体です」
「なぜその重要そうな情報を今まで説明していなかったんですの?」
「聞かれませんでしたので」
「聞かなければ分からない情報が多すぎますの!」
黒子は眉間を揉みながらも、話を整理する。
「でしたら、なおさらですわ。今確認できているのは、外へ現れていたその方陣が消えたことと、それまで出来ていたことの一部が出来なくなったことだけなのでしょう?」
「はい」
「能力そのものが根本から完全消滅した、と断定するにはまだ早いですの」
「表面へ現れていた方陣だけが消えた可能性……」
「少なくとも、そういう可能性を試す価値はあるでしょう?」
黒子は頷いた。
「その方陣は最初から頭上に浮いていたものですの?」
「いいえ」
「でしたら、最初に現れた時と同じ条件を再現してみてはいかがです? その時に何をしていたのか、何を考えていたのか、何か口にした言葉はなかったのか。順番に思い出せば、再び出す方法が分かるかもしれませんわ」
「…………」
アナザーはしばらく何も言わなかった。
一〇〇三一号として製造されて以来、自分が役に立つからでも、貴重な実験材料だからでもなく、ただ怖がっているからという理由で厄介なものを遠ざけてもらった記憶はない。
前世の人格を取り戻してからも、一方通行には殺されかけ、研究者には観察され、アイテムには能力を試され、ついには麦野を散々煽った報いまで目前へ迫っていた。
それに対して目の前の少女は、アナザーの能力にも正体にも大した利害を持たない。それでも怯えていれば端末を取り上げ、落ち込んでいれば「能力を失ってもあなた自身まで駄目になったわけではない」と言い、さらに能力を取り戻す方法まで真剣に考えてくれている。
その事実をゆっくり理解したところで、アナザーの胸の奥へ、これまでほとんど経験したことのない種類の感情が込み上げてきた。
「……白井さん」
「何ですの?」
「…………黒子お姉様」
「…………」
黒子の動きが止まった。
「今、何と?」
「あなたを黒子お姉様に認定します、とミサカは生まれて初めて自主的に姉という存在を制定します」
「もう一度」
「黒子お姉様」
「もう一度お願いしますの」
「黒子お姉様?」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
「!?」
今度はアナザーが跳ねた。
黒子は両頬を押さえ、身体をくねらせながら天井を見上げる。
「お姉様のお顔! お姉様のお声! その方からわたくしが『お姉様』と! しかも自主的認定! ああ神よ、本日わたくしにどれだけの幸福をお与えになるおつもりですのぉぉぉ!」
「ちょっと怖いです黒子お姉様!」
「怖がるお顔までお姉様そっくりですの!」
「認定を撤回したくなってきました!」
「それだけはおやめくださいまし!」
黒子は一瞬で正気へ戻る。
アナザーは少しだけ距離を取りながらも、先ほどまでより表情を明るくしていた。
「それで」
黒子は咳払いをし、無理やり話を戻す。
「最初にその方陣が現れた時は、何をしていましたの?」
「……白髪モヤシと殺し合いを始める直前でした」
「白髪モヤシ?」
「第一位・一方通行です」
「…………」
黒子の顔から表情が消えた。
「黒子お姉様?」
「少々お待ちくださいまし」
「はい」
黒子はこめかみへ指を当て、一つずつ確認するように言葉を並べる。
「あなたは、第四位が所属しているらしい得体の知れない集団へ一時配属されていて、管理上とはいえ暫定第零位に指定され、そのうえ第一位・一方通行と実際に戦った、と」
「正確には、第一位との実験で殺される予定でした」
「情報を追加するたびに悪化させるのはおやめなさい!」
「事実なので仕方ありません、とミサカは抗弁します」
「お姉様は本当に何をわたくしへ預けていったんですのぉぉぉぉ!!」
黒子は頭を抱えた。
しかし、数秒後にはどうにか立て直し、アナザーへ向き直る。
「……その第一位と戦う直前に、方陣が現れたんですのね?」
「はい。その時は、自分がこのまま死ぬと思ってかなり必死でした」
アナザーは眉間へ指を当てた。
記憶の中でも、その瞬間の恐怖と切迫感は強く残っている。これから殺されると理解し、とにかく何でもいいから助かる方法を求めていたとき、意味も分からない奇妙な言葉が唐突に頭へ浮かんできた。
「確か……謎の言葉が頭に浮かんできたんです、とミサカは当時の状況を掘り起こします」
「どんな言葉ですの?」
「何でしたっけ……マコラ……」
「マコラ?」
「そうです。確か、マコラマコマコ――」
キン!
澄んだ金属音が鳴った。
「…………」
「…………」
二人が同時に頭上を見る。
そこには、つい先ほどまで完全に消えていたはずの方陣が、まるで昨日から一度も失われてなどいなかったかのような自然さで、静かに浮遊していた。
アナザーは目を見開いたまま立ち上がり、右へ動き、左へ動き、試しにしゃがんでからまた立ち上がる。その全てへ方陣が当然のようについてくることを確認した瞬間、両手で頭を抱えた。
「こんなに簡単に復活するのかぁぁぁぁぁ!!」
「声を抑えてくださいまし!」
「だって黒子お姉様! ミサカはさっき人生が終わったと思って上条当麻に泣きつき、自販機まで蹴って小指を犠牲にしたんですよ!? それが『マコラマコマコ』だけで復活って、あまりにも簡単すぎませんか!?」
「自販機については完全に自業自得ですの」
アナザーは頭上の方陣を見上げているうちに、みるみる自信を取り戻していった。
「戻りました!」
「そのようですわね」
「ミサカのチートが!」
「能力と言いなさい」
「これでミサカは再び無敵です!」
「そこまで言い切るのは早いのでは?」
「黒子お姉様は、まだミサカの能力を理解していないからそのような慎重論を唱えられるのです」
「では、どんな能力なんですの?」
アナザーは得意げに胸を張った。
「簡単に言えば、一度食らってこの方陣が回った現象は、次からミサカへ同じようには通じません!」
「……ずいぶん無茶苦茶な能力ですの」
「昨日は第一位の攻撃を始めとして、銃弾、衝撃、熱、第四位の『原子崩し』、絹旗さんの『窒素装甲』その他諸々を順番に攻略しました。つまり方陣が戻った今、それらの適応も当然復活しているはずです!」
「当然と言い切ってよろしいんですの?」
「証明は簡単です」
アナザーは自分の腹部を指差した。
「黒子お姉様、ここを思い切り殴ってください」
「嫌ですの」
「即答!?」
「当たり前ですわ! 何を考えていますの!」
「昨日のミサカは腹部への強烈な打撃も受けています。衝撃系の攻撃は相当に攻略済みですから、黒子お姉様の腹パン程度なら効かないはずです!」
「その『はず』が非常に不安ですの」
「遠慮なくドーンと!」
「遠慮しますの!」
「お願いします黒子お姉様! 過去の適応まで戻ったかどうかは、今後のミサカの生死を左右する最重要確認事項です!」
「そんな言い方は卑怯ですの!」
黒子はしばらく拒否したものの、アナザーがどうしても必要だと言い張るため、最終的には深い溜息とともに立ち上がった。
「本当にいいんですのね?」
「はい! むしろ遠慮なく!」
「後から文句を言わないこと」
「もちろんです、とミサカは完全無傷を確信して保証します!」
「その自信が怖いですの……」
黒子は拳を握った。
さすがに全力ではないが、能力が本当に働くか試すという目的を考えれば、女子中学生同士のじゃれ合いで済ませるような強さでも意味がない。
「では――えいっ!」
ドスッ。
「ぐぽぉっ!?」
アナザーの身体が折れた。
「え」
黒子の顔が固まる。
アナザーは腹部を両手で押さえたままその場へ膝をつき、床へ額がつきそうなほど深く蹲った。
「い、痛いです……黒子お姉様……」
「ちょっと!? 効いてますの!?」
アナザーの身体はぷるぷると震え、涙まで滲んでいる。
御坂美琴とまったく同じ顔が腹を押さえ、涙目で自分を見上げて、
「黒子お姉様……ひどいです……」
と訴えてきた。
「…………」
黒子の胸中で、本来なら決して開けてはならない種類の扉が、ほんの僅かに軋んだ。
「お、お姉様のお顔でその表情は……その……非常に……」
「何を興奮しているんですか黒子お姉様!?」
「してませんの!」
ガコン――!
重い機械音のような響きとともに、頭上の方陣が回転した。
その瞬間、腹部を押さえていたアナザーの表情が変わり、先ほどまで身体を折らせていた痛みが急速に引いていく。
「……あ」
ゆっくり身体を起こし、腹部を触る。
「治りました」
「本当に?」
「はい……ですが」
アナザーは頭上の方陣を見る。
「今、回りましたよね?」
「ええ。確かに一度」
「黒子お姉様の拳を食らった後に?」
「そうですわね」
アナザーの表情から、徐々に先ほどまでの自信が消えていった。
「念のため、もう一発お願いします」
「まだやるんですの!?」
「確認しなければならないことがあります!」
「今度こそ知りませんわよ!」
黒子が再び、先ほどとほぼ同じ場所へ、ほぼ同じ強さで拳を打ち込む。
ドスッ。
今度は、アナザーの身体がほとんど揺れなかった。
「……効きません」
「先ほどとはまるで違いますの」
アナザーは喜ばず、むしろ顔から血の気を失った。
「黒子お姉様。今の一発目で、新しく黒子お姉様の拳へ適応したということですよね」
「そう見えますわね」
昨日までなら、この程度の単純な打撃で一から方陣が回るとはアナザー自身も考えていなかった。少なくとも、自分が蓄積してきた衝撃に対する適応がそのまま残っているなら、最初の一発をまともに受けて悶絶し、しかも直後に方陣が新規の現象へ反応するように回転する理由がない。
先ほど自販機を蹴った際にも、以前のような身体の頑強さは完全に失われていた。
二つを重ねれば、嫌でも一つの可能性へ行き着く。
「……経験値が消えています」
「経験値?」
「少なくとも昨日まで積み上げた適応が、そのまま残ってはいません。下手をすると全部リセットされていますぅぅぅぅ!!」
「声を抑えてくださいまし!」
黒子が慌てて止めるが、アナザーの頭の中ではそれどころではなかった。
一方通行の反射、直接的な体内ベクトル操作、飛来物、圧縮空気、地面への衝突、針、刃物、『原子崩し』、爆発による熱、『窒素装甲』、拘束――昨日から今日まで、自分が文字通り身体を張って積み上げてきた適応の数々が、幻想殺しとの接触を境として一度失われた可能性が高い。
「まずいです」
「何がですの?」
「この状態で白髪モヤシのところへ行ったら、開幕ブッパで普通に死ぬ可能性があります」
「行くつもりですの!?」
「行かなければ!」
アナザーは頭を抱えた。
「一〇〇三二号もオリジナルも原主一号も、最終的には白髪モヤシのところへ行く可能性が高いんです! なのにミサカだけここで安全にしている場合ではありません!」
「でしたらなおさら、無茶をせず――」
「経験値が必要です!」
「はい?」
アナザーの目が据わった。
「短時間で、効率的に、大量の攻撃経験を稼がなければなりません、とミサカは緊急育成計画の必要性を提唱します!」
「嫌な予感しかしませんの」
「こうなれば――常盤台百人組手を!」
「おやめなさい!!」
部屋から出ようとしたアナザーの腰へ、黒子が後ろから飛びついた。
「離してください黒子お姉様!」
「離したら何をするつもりですの!」
「まず廊下で見つけた常盤台生へ片っ端から能力を撃ってもらい、その後グラウンドへ移動して能力種別ごとに――」
「完全に不審者ですの!」
「ミサカは! ミサカはやらねばならないのです!」
「あなたが捕まったら何もできませんでしょう!」
「時間がないんです!」
「だからって寮生百人へ喧嘩を売る人がありますか!」
アナザーが扉へ向かって進もうとし、黒子が腰へしがみついて引き戻すたび、椅子がずれ、机へ身体が触れ、ベッドの脚まで床を鳴らす。本人達は必死だったが、廊下から聞けば寮内で大立ち回りでも始まったような騒音になっていた。
「離してくださいぃぃ!」
「大人しくなさい!」
「経験値が必要なんですぅぅぅ!」
「知りませんの!」
やがて、扉の向こうから一定の間隔を刻む足音が近づいてきた。
それを耳にした瞬間、黒子の身体が硬直し、アナザーを押さえていた腕の力まで別の意味で強くなる。
「黒子お姉様?」
「静かに」
「はい?」
「今すぐ、絶対に静かになさい」
アナザーが理由を尋ねるより先に、扉が開いた。
「白井」
「ひぃっ!?」
黒子の背筋が一直線に伸びた。
入口に立っている女性は怒鳴り散らしているわけでも、能力を使用しているわけでもない。それにもかかわらず、その低い一声だけで、つい先ほどまで騒然としていた室内の空気が瞬時に凍りつく。
「廊下まで聞こえているぞ。これはどういう騒ぎだ」
「申し訳ございません、寮監様! これは、その、非常に込み入った事情がございまして!」
「込み入った事情?」
「はい!」
黒子は直角に近い角度で頭を下げた。
その隣で、アナザーは初めて寮監の姿を正面から見た。
同時に、これまで穴だらけだった前世の記憶の中から、目の前の人物へ結びつく断片が一気に浮上してくる。
常盤台のレベル5である美琴すら規則違反を恐れ、空間移動を持つ黒子でさえ声を聞いただけで直立する寮監。
かつて知っていた物語では、半ばネタのように異常な強さを誇る人物として描かれていたはずの人物。
しかし、その後に触れた断片的な記憶の中では、『とある科学の心理掌握』を含む物語の広がりとともに、単なるギャグ補正では片づけられないほどの対能力者戦闘と武術の技量まで与えられていた。
さらに、その奥から異名めいた言葉まで浮かび上がる。
――死を呼ぶ鬼火。
アナザーの目が見開かれた。
今の自分が必要としているのは、短時間で大量の攻撃現象を経験し、失われた適応を積み直すことである。そして目の前には、能力へ頼らず、身体操作と武術だけで能力者を制圧する規格外の近接戦闘者がいる。
これ以上なく都合のいい存在に見えた。
「アナザー?」
黒子が嫌な予感を覚えて振り向く。
アナザーの顔は、先ほどまでの絶望が嘘のように輝いていた。
「と……」
「何も言わない方がよろしいですの」
「とある武術の経験値いぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」
「何を言っていますのぉぉぉぉぉぉぉ!!」
黒子の絶叫が響き、事情をまったく知らない寮監の眉間へ、さらに深い皺が刻まれた。
次回『ミサカ神拳継承者! その名はアナザー! 其はミサカを極めし者⋯』
※嘘です。
オリジナル小説の執筆も始めました。
ご一読いただけると嬉しいです。
『SF仙女武侠伝 無自覚TSサイボーグ、江湖武林を逝く!』
作品はこちらから