「とある武術の経験値いぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」
「何を言っていますのぉぉぉぉぉぉぉ!!」
常盤台中学外部寮の一室へ、アナザーと黒子の絶叫が重なって響いた。
入口に立つ寮監は、その騒音にも表情一つ変えなかった。ただし、アナザーの顔を見た瞬間だけ、僅かに目を細めている。
黒子と美琴が普段使っている部屋は、つい先ほどまで人を匿っていたとは思えない程度には整っており、壁際の勉強机にも、その日の教科書やノート、筆箱が几帳面にまとめられたままだった。その静かな室内には似つかわしくない二人分の叫びだけが響き、そこへ寮監が踏み込んできたのである。
「御坂」
「はい?」
反射的に返事をしたアナザーへ、今度は黒子がぎょっとした。
寮監はさらに視線を黒子へ移す。
「白井」
「は、はいっ!」
「昼間から何を騒いでいる」
「それは、その……」
黒子は一瞬、隣のアナザーを見る。
美琴と同じ顔。同じ髪。だが服装も違えば、言動はもっと違う。
寮監が少なくとも呼びかけの上ではアナザーを美琴として扱っている以上、黒子からわざわざ「実はお姉様のクローンです」と説明するわけにもいかない。
「少々込み入った事情がございまして……」
「込み入った事情?」
「はい……」
「なら後で聞く」
「後で!?」
黒子の顔が青くなる。
寮監は再びアナザーへ目を戻した。
「御坂」
「ミサカはミサカですが御坂では――」
「アナザー!」
黒子が慌てて割り込む。
「あなたは今、余計なことを言わず黙っていてくださいまし!」
「しかし黒子お姉様、アイデンティティの問題が」
「今は捨ててくださいまし!」
寮監は眉をひそめた。
今の返答、白井の異様な慌て方、そして本人ならまず使わない「ミサカ」という一人称。顔は確かに御坂美琴そのものだが、どうにも噛み合わない。
寮監はその違和感をすぐ口へ出すことなく、二人をしばらく観察した。
「で?」
「はい?」
「さっきから武術だの経験値だのと喚いていたな」
アナザーの目が輝いた。
「はい! 諸事情により一手ご教授願います、とミサカは武術の達人とお見受けした寮監さんへ正式にお願い申し上げます!」
「断る」
「即答!」
「ここは学生寮だ。道場ではない」
「そこをなんとか!」
「ならん」
寮監は興味を失ったように黒子へ向き直った。
「白井。御坂を部屋で暴れさせた件も含めて、あとで事情を聞く」
「寮監様、それにはですね――」
「言い訳はあとだ」
「ひぇぇ……」
黒子が縮み上がる。
その横で、アナザーは焦った。
せっかく見つけた。
前世の穴だらけの記憶が正しいのなら、この寮監はただの寮監ではない。常盤台のレベル5すら恐れる女であり、対能力者戦闘を含めた異常なまでの武術技能を持つ、今の自分にとって極めて有用な経験値供給源である。
なのに、このままでは普通に帰られてしまう。
何としても攻撃してもらわなければならない。
ならば。
アナザーは前世知識の中から、非常に危険な単語を一つ掘り出した。
「この行き遅れ寮監!」
空気が止まった。
「…………」
「…………」
黒子がゆっくりアナザーを見る。
「アナザー」
「はい」
「あなた今、ご自分が何を仰ったか分かっておりますの?」
「高度な戦術的挑発です、とミサカは――」
「それだけは絶対に言ってはいけませんのぉぉぉぉぉ!!」
黒子の悲鳴が部屋を揺らした。
「よりにもよって寮監様へ! あなたはご自分から棺桶へ飛び込んで蓋まで閉めましたのよ!?」
「ですが黒子お姉様、これで攻撃してもらえる可能性が――」
言葉が終わる前に、寮監が消えた。
少なくとも、アナザーにはそう見えた。
「……へ?」
次の瞬間には、目の前にいる。
踏み込んだ瞬間も、重心が落ちた瞬間も、肩が動いた瞬間も見えなかった。能力によって速度そのものを上げたわけでもないのに、人間の身体だけでアナザーの認識の隙間へ入り込み、すでに拳を腹部へ添えている。
触れただけに見えた。
「……?」
一瞬遅れて。
ドンッ!!
「おごぉっ!?」
腹の表面ではなく、身体の芯そのものが爆ぜた。
床を踏み込んだ力が脚から腰、胴、肩、肘を通り、一切逃げることなく拳の一点から腹部の奥へ流し込まれ、横隔膜から背骨までまとめて揺さぶる。
肺の空気が一息に吐き出され、膝が抜けた。
黒子の腹パンには、すでに適応している。
少なくともアナザーはそう思っていた。
しかし、これは違う。
同じ「腹を殴る」という結果であっても、黒子の拳と寮監の一撃では、身体へ作用する力の質そのものが別物だった。
「お……お……」
「アナザー!?」
「オロロロロロロロロロロ……!」
アナザーの口から虹が出た。
「アナザァァァァァ!!」
黒子が慌てて駆け寄り、床へ四つん這いになったアナザーの背中を擦る。
「だから申し上げたでしょう! 寮監様にそれだけは言ってはいけないと!」
「く、黒子お姉様……ミサカの内臓が……全員で緊急会議を開いています……」
「喋れるならまだ大丈夫ですの!」
「オロロロロ……」
「やっぱり大丈夫ではありませんの!」
寮監は床に伏したアナザーを見下ろし、それから黒子へ視線を向けた。
「白井」
「ひゃい!」
「なんだ、こいつは」
「それは……」
黒子は言葉に詰まる。
美琴から預かった。その事実は言える。
だが、第四位、アイテム、第一位との実験、暫定第零位という事情まで寮監へ軽々しく話してよいとは思えない。
「お姉様から一時的にお預かりした方ですの」
「御坂から?」
「はい」
「やはりこいつは御坂ではないな」
「…………」
黒子の顔が引き攣った。
やはり見抜いている。
「詳しい事情は……わたくしの口から勝手に申し上げてよいことではありませんの」
「そうか」
寮監はそれ以上追及しなかった。
そのことが逆に怖い。
一歩、黒子へ近づく。
「ひぇぇ……」
黒子が後ずさった。
「白井」
「はいぃ!」
「御坂本人にも、あとで話を聞く」
「お、お姉様にも!?」
ガコン――!
その背後で、重い金属音が鳴った。
寮監が振り返る。
黒子も振り返る。
床へ蹲っていたアナザーの頭上で、方陣がゆっくり回転していた。
吐き気が引く。腹部の奥に残っていた痛みが薄れ、まともに吸えなかった息が戻り、震えていた手足にも力が戻っていく。
アナザーは口元を袖で拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「…………師匠」
「誰が師匠だ」
「今のは非常に効きました」
「見れば分かる」
「ですが――」
アナザーが自分の腹を軽く叩く。
「経験値取得完了です、とミサカは成果を報告します!」
「…………」
寮監の目が細くなった。
次の瞬間、再び同じ距離へ踏み込む。
「また来ます!」
アナザーが腹へ意識を集中した。
先ほどと同じ、身体内部へ力を通す一撃。
拳が触れる。
ドンッ!
「…………!」
今度は違った。
衝撃そのものは確かに身体へ入ったが、先ほどのように一点から内臓へ突き抜けることはなく、腹部へ届いた力が接触した瞬間から全身へ薄く散らされていく。アナザーは半歩退いただけで、吐きもせず、膝も折れなかった。
「効きません!」
寮監は一度だけアナザーの腹部へ目を落とし、続けて掌を下から顎へ突き上げた。
「ぶっ!?」
まともに食らった。
だが、頭部が僅かに後方へ動いただけだった。
首から背骨、腰、膝までが一つの系として働き、顎へ入った力を身体全体へ即座に逃がしている。先ほどまでなら視界を白く飛ばしかねない一撃だったはずなのに、アナザーは驚いた顔で自分の顎を触っただけだった。
「……今のも痛くありません」
方陣は回らない。
すでに得た適応の範囲内だった。
寮監の眉が僅かに動く。
腹であろうと顎であろうと、肉体から肉体へ直接叩き込まれる打撃損傷そのものが、もう以前と同じようには通らない。
ならば。
三度目の掌底を放つように肩が動く。
「今度も――」
アナザーの視線がそこへ吸い寄せられた。
だが、掌は来なかった。
「え?」
寮監の上体には掌底の予備動作だけが残り、その下ではすでに脚が動いている。
足元へ脚を差し入れられ、上半身には逆方向から力を加えられた。
「ふぇっ!?」
支点が消えた。
天地が反転する。
ドンッ!!
「ぶべっ!」
背中から床へ叩きつけられ、後頭部まで含めた全身へ衝撃が走った。
打撃には耐えた。
だが、身体そのものを宙へ放り出され、床との衝突によって生じる損傷は別だった。
ガコン――!
方陣が回る。
「い、今のは普通に痛かったです……!」
寮監は待たなかった。
起き上がったアナザーの腕を取り、腰を入れ、再び身体を浮かせる。
「また投げられ――!」
ドンッ!!
背中から床へ落ちた。
「…………」
アナザーが瞬きをする。
「……あれ?」
同じように床へ叩きつけられた。
だが、痛くない。
背中が床へ接触した瞬間、衝撃が肩、背、腰、脚へ分配され、首も頭部も危険な角度へ振られず、呼吸すらほとんど乱れていなかった。
「投げられること自体は何も解決していませんが、落ちても痛くありません!」
「それ喜んでよろしいんですの!?」
黒子が思わず突っ込む。
寮監はもう一度アナザーへ手を伸ばした。
手首を取る。
肩を制する。
腰を入れる。
今度も投げは成立する。
「うわぁぁぁぁ!」
アナザーの身体が横方向へ飛んだ。
だが今回は床ではなく、黒子の勉強机へ肩からぶつかった。
ドンッ!
「わたくしの机ぇぇぇぇ!?」
机が大きく揺れ、最初からその上へ整然と置かれていた教科書やノート、筆箱が一斉に滑った。厚い教科書が床へ落ち、開いたノートがその横へ広がり、筆箱も転がって中の筆記具が散らばる。
「申し訳ありません黒子お姉様!」
「謝るなら飛んでこないでくださいまし!」
「ミサカの意思ではありません!」
アナザーはほとんど無傷で立ち上がった。
しかし、顔には不満が残っている。
「痛くはありませんけど、これでは師匠の好きな方向へ投げられ放題です」
「だったら大人しくしていろ」
「嫌です!」
寮監がまた踏み込む。
腕を取る。
肩を制される。
腰の位置を奪われ、上体と下体へ別方向の力を掛けられる。
「またぁぁぁぁ!」
アナザーは再び宙へ浮き、背中から床へ落とされた。
痛みはない。
それでも、自分の身体を思うように扱えないこと自体は何一つ解決していなかった。
もう一度。
足を掛けられ、上体を押され、重心を奪われる。
投げられる。
損傷はしない。
さらにもう一度。
寮監に手首を取られ、腰を制され、身体の向きを強制される。
その瞬間。
ガコン――!
「……今?」
アナザーの目が僅かに見開かれた。
今度の回転は、床へ叩きつけられた後ではない。
寮監によって重心を奪われ、自分の意思とは無関係な方向へ身体を運ばれかけた、その最中だった。
今まで適応していたのは、投げられた結果として受ける衝突だった。
今、方陣が拾ったものは違う。
重心をずらされること。
支持点を奪われること。
身体の軸と向きを、他人の力によって支配されること。
寮監は構わず、そのまま投げを完成させようとした。
だが。
アナザーの膝が僅かに沈む。
片足から重心が抜かれた瞬間には、反対側の足が必要な位置へ滑り、失われるはずだった支持点を新しく作る。上体を押されても硬直して逆らうのではなく、力の方向へ僅かに身体をずらしながら、中心軸だけは手放さない。
「……あれ?」
浮かない。
寮監が力の向きを変える。
アナザーの腰の位置も変わる。
さらに足を刈る。
刈られる直前には支持点が移る。
本人は何をしているのか理解していない。
身体だけが、どうすれば他人に重心を奪われず、自分の動作権を保持できるかという答えへ最適化されていた。
「今度は投げられていません!」
寮監の目が細くなる。
投げられた後のダメージへ耐えたのとは違う。
今度は、投げそのものを成立させていた体捌きに対応している。
寮監は手首を掴んだまま、流れるように関節を極めた。
「いだだだだだだだ! そっちは曲がりません!」
ガコン――!
それでも寮監は離さない。
手首を固定し、肘を押さえ、肩まで連動させて圧力を加え続ける。
だが、やがて手応えが変わった。
アナザーの肩甲骨が滑るように動き、肘の位置がずれ、胴体まで連動して回転することで、関節だけへ集中していた力が全身へ分散されていく。
「……あれ?」
先ほどまで悲鳴を上げていたアナザーの声から、苦痛が消えている。
寮監は固定を維持したまま角度を変えた。
極まらない。
力の方向を変える。
それでもアナザーの身体が追従し、関節だけを孤立させることを許さない。
「痛くありません」
そこで初めて、寮監はアナザーの腕を放した。
握り続けても、すでにその技では意味がない。
アナザーは解放された腕を曲げ伸ばししながら、目を輝かせた。
「すごいです! ミサカの身体が勝手に面倒臭い身体になっています!」
「褒め方がおかしいですの!」
騒ぎは、とうに一室の中だけで収まるものではなくなっていた。
平日の昼間であるため、大半の寮生は学校にいる。それでも体調不良などで授業を休んでいた少数の生徒が、断続的に響く衝撃音と黒子の絶叫を聞きつけ、何事かと廊下へ姿を見せ始めていた。
「な、何の音ですの?」
「二〇八号室からですわ……」
一人が恐る恐る室内を覗き込む。
「えっ」
「どうしましたの?」
「御坂様が……」
「御坂様?」
「御坂様と寮監様が戦っていらっしゃいますの!?」
「ええっ!?」
廊下がざわめいた。
「どうしてその組み合わせで!?」
黒子は額を押さえた。
――お姉様ではありませんの!
しかし、そんな事情を説明できる空気ではない。
その間にも、アナザーの側で新たな欲が生まれていた。
殴られても効きにくい。
投げられても痛くない。
重心を奪われにくくなり、関節を極められても身体が勝手に逃げる。
ならば。
「師匠!」
「誰が師匠だ」
「今度はミサカから行きます!」
「来るな」
「行きます!」
アナザーが右拳を大きく振りかぶった。
「ミサカパァァァァンチ!」
「技名からして不安しかありませんの!」
身体能力だけなら、普通の中学生とは比較にならない速度だった。
しかし、その動きは素人そのものだった。肩が先に上がり、拳を大きく振りかぶり、腰の回転と腕の動きは噛み合わず、どこへ拳が飛んでくるのかを最初から宣言しているような軌道である。
寮監は半歩ずれただけで拳を外し、伸び切った腕へ掌を添え、その勢いを前へ流しながら肩を軽く押した。
「あ」
「うわぁぁぁ!?」
アナザーは自分の勢いを殺せず、二歩、三歩と前へ泳いだ。
「い、今のはノーカウントです!」
「勝手にしろ」
「もう一回!」
今度は左拳。
寮監は手首へ触れ、外へ払った。
拳の軌道が逸れ、同時に肩を押され、攻撃に使っていた身体の軸そのものが外される。
「またぁ!?」
ガコン――!
方陣が回った。
「…………」
アナザーが自分の拳を見る。
攻撃されたのではない。
自分が出した力を逸らされ、攻撃姿勢そのものを崩された。
その現象へ、方陣が反応した。
「もう一回です!」
「好きにしろ」
右拳が出る。
先ほどより振りかぶりが小さく、肩も無駄に浮かない。腰の回転と拳の到達が噛み合い始め、寮監が同じように腕を外へ流しても、今度は体幹の軸まで一緒に持っていかれることはなかった。
「おっ!」
だが、寮監は流しただけでは終わらない。
アナザーの肘へもう一方の手を当て、拳から肩、腰へ繋がっていた力の線を途中で切る。
せっかく軸を保った身体から、攻撃の勢いだけが消えた。
「えっ?」
そのまま胸元へ軽く押し込まれ、アナザーは再び一歩後退する。
ガコン――!
「また回りました!」
次に出た拳は、さらに変わった。
腕だけで先行せず、足の踏み込みから腰、肩、拳までが途切れず繋がる。寮監が前腕を合わせて外へ流しても、攻撃全体の連結が簡単には切れない。
それでも寮監は拳を逸らした。
だが。
今度は、流された右腕を無理に元へ戻さない。
外へ流された方向へ身体がそのまま回転し、前へ出た左肩から次の拳が伸びた。
「え?」
アナザー自身が驚いた。
寮監は二撃目も外へ逸らす。
その接触によってアナザーの上体が開く。
以前ならそこで姿勢が崩れ、攻撃も止まっていた。
今度は違う。
開いた身体を右足が追い、足裏が新しい支持点を作った瞬間には、流された力そのものが次の動作へ繋がっている。
「なんか続きました!」
「実況している場合ですの!?」
寮監がさらに一歩外へ回り込み、アナザーの連撃を正面から外す。
アナザーも追おうとする。
しかし間合いの詰め方が甘い。
寮監が肩へ触れ、その進行方向を僅かにずらした。
アナザーの踏み込みが空を踏む。
「また!」
ガコン――!
今度は単に相手が避けたからではない。
追撃のために踏み込んだ身体へ寮監自身が干渉し、その進行方向を狂わせられたことへ方陣が反応した。
次のアナザーは、さらに短い踏み込みで寮監へ迫った。
相手へ向かう直線を固定せず、寮監が外へ回れば足がそれを追い、肩を押されても一歩ごとの支持点が細かく組み替わり、簡単には進行方向を失わない。
「ちょ、ちょっと待ってください」
黒子が目を見開いた。
最初は、子供が喧嘩で拳を振り回しているのと大差なかった。
それが、捌かれるたびに変わっている。
拳を振るたび、無駄が消える。
力を流されれば軸が残る。
運動連鎖を断たれれば、次には切れにくくなる。
踏み込みを外されれば、進路を修正する足運びへ変わる。
アナザー本人は拳法の型など一つも知らず、連撃の組み立てを理解しているわけでもない。それでも寮監から物理的に攻撃を潰されるたび、その原因となった姿勢、軸、力の伝達、足運びが、同じ潰され方をされにくい形へ最適化されていく。
「御坂様の動きが……」
廊下の寮生達も気づき始めた。
「先ほどまで、寮監様へ一度も触れられていませんでしたわよね?」
「ええ。でも、今は……」
アナザーの拳が寮監の頬のすぐ横を抜ける。
寮監が首を僅かに動かしてかわす。
その回避方向へ、アナザーの反対側の拳が続く。
前腕で逸らされる。
アナザーの身体は、逸らされた方向へそのまま回り、次の位置へ足を置く。
寮監が足を掛ける。
崩れない。
腕を取る。
身体全体が連動して逃げる。
アナザーが拳を返す。
寮監が流す。
流された力を殺さず、別角度から次の打撃へ変える。
防御へ適応し、自分の攻撃を物理的に潰される現象へも適応することで、攻防の双方が同時に研ぎ澄まされていった。
その光景を、廊下に集まっていた一人の少女が食い入るように見つめていた。
肩まで伸ばした黒髪。
妙に落ち着いた表情。
やがて、その少女がぽつりと呟く。
「……ミックスアップですわ」
「え?」
近くにいた寮生が振り向いた。
そして、驚いたように声を上げる。
「あなたは鴨川源子さん!」
黒子は内心で叫んだ。
――誰ですの!?
鴨川源子は周囲の注目を当然のように受け止め、目の前で繰り広げられている攻防を指差した。
「……互いが互いを高め合い、限界を限界でなくす。戦いながら強くなる、極めて高度な達人同士でのみ起こる現象ですわ!」
「そ、そんな……!」
「では御坂様は、寮監様との戦いの中で……!」
「ええ。お二人とも、今この瞬間にも強くなり続けております!」
「すごい……」
「これが、ミックスアップ……!」
寮生達から感嘆の息が漏れた。
黒子は頭を抱えた。
――全然違いますわぁぁぁぁぁ!!
寮監様は最初から達人ですけれど、アナザーは開始時点ではただのド素人でしたの! 捌かれて、崩されて、投げられて、そのたび頭の上をガコンガコン回しながら勝手に最適化されているだけですの!
しかし、外から見れば、鴨川源子の解説が正しいようにしか見えなくなっていた。
寮監の技術がアナザーの攻撃を潰す。
潰された経験へ適応し、次のアナザーはさらに鋭くなる。
鋭くなった攻撃へ、寮監がより高度な捌きを用いる。
それすら実際に身体へ受けたアナザーが、また次の段階へ最適化される。
寮監が攻め、アナザーが防ぐ。アナザーが返し、寮監が捌く。その往復を重ねるたび、開始時には絶望的だった両者の技量差が目に見えて削られていった。
寮監の側でも、この時には目の前の少女が御坂美琴本人ではないことを確信していた。
同じ顔を持ち、自らを「ミサカ」と呼び、常識では説明のつかない速度であらゆる現象へ対応していく。その姿を見れば、昔耳へ入った断片的な噂を思い出さずにはいられなかった。
正確な計画名も、何人が作られ、何の目的で利用されているのかも知らない。ただ、能力者の遺伝情報を利用する研究、子供を実験材料として扱う連中、そして御坂美琴に関係する何らかの研究が水面下で動いているらしいという程度の断片なら、昔の伝手から耳へ入ったことがある。
その時、自分は踏み込まなかった。
目の前にいる寮生達を守ることが自分の仕事だと線を引き、それより深い場所にあるものへは触れなかった。深く潜ればろくなものが出てこないと知りながら、それを理由に確かめようともしなかった。
今、自分の目の前で攻撃へ適応し、捌きにまで適応しながら迫ってくる少女が、その時耳へ入った断片の答えなのだとすれば。
――疑いながら踏み込まなかった私も、所詮は汚れた大人か。
寮監はそう自嘲した。
だからといって、今さら善人ぶるつもりもない。
目の前の少女は、これからどこかへ行くつもりだ。
白井に匿われ、安全な場所で大人しくしている者の目ではない。
ならば、自分から何かを教えることはしない。
助けるとも言わない。
ただ、まだ立てるのなら攻撃する。
――これで潰れるなら、それまでだ。
寮監の動きがさらに鋭くなった。
アナザーを先ほど机へ叩きつけた際、床へ散らばったままになっていた教科書の一冊へ、踏み込みの途中で爪先が潜る。
厚い教科書が回転しながらアナザーの顔面へ飛んだ。
「飛び道具!?」
初見だった。
反応が一瞬遅れる。
バサッ、と教科書が顔面へ直撃し、視界を丸ごと塞いだ。
「むぐっ!?」
痛みそのものは、すでに獲得した打撃・衝突耐性の範囲で大したことはない。
だが、問題はそこではなかった。
視界が消えた。
その瞬間には、寮監がもう懐へ入っている。
「しまっ――」
腕を取られ、軸をずらされる。
投げそのものへの体捌きは適応済みであるため、完全には浮かない。
しかし、相手を見失った状態では反応が遅れる。
アナザーはどうにか踏みとどまったものの、寮監の掌底を横腹へ受けた。
「ぐっ!」
ガコン――!
方陣が回る。
今回の問題は、飛来物そのものの痛みではない。
飛来物によって視覚を奪われ、その直後に本体から攻撃を重ねられるという複合状況だった。
寮監は床へ落ちていた薄いノートを、今度は横合いから蹴り上げる。
「また来た!」
アナザーは頭を大きく避けようとする。
だが、その動きでは視線まで寮監から外れる。
身体が途中で修正した。
視線は寮監へ残したまま、周辺視野で飛んでくるノートを捉え、掌だけを最短距離へ差し出す。
真正面から止めない。
側面へ触れる。
軌道だけを外す。
ノートが横へ抜ける。
その奥の寮監は、最初から視野の中央へ残っていた。
「見えます!」
拳が来る。
前腕で逸らす。
足払い。
支持点が移る。
腕を取られる。
肩から腰までが連動して逃がす。
そこでアナザーが反撃した。
右拳。
寮監が流す。
身体が流された方向へ回る。
左肘。
寮監が上体を引く。
追う足が間合いを詰める。
さらに拳。
手首を外へ逃がされる。
その接触を支点に、アナザーの身体が逆方向へ切り返す。
「御坂様が……!」
「寮監様と互角に……!」
「いえ」
鴨川源子が息を呑んだ。
「僅かに、御坂様が押し始めていますわ……!」
黒子にも否定できなかった。
開始直後には、アナザーは寮監の一歩すら視認できなかった。
今は違う。
寮監の拳を捌く。
投げを潰す。
飛来物と本体を同時に処理する。
そのうえ自分から攻撃し、その攻撃を物理的に潰されれば、次には同じ潰され方をしないよう身体の使い方そのものが変わっている。
アナザー本人が拳法を学習しているわけではない。
どの流派の型も知らない。
それでも、攻撃を失敗させた原因へ一つずつ適応し続けた結果、その身体は「相手へ攻撃を届かせる」という目的に対して、必要な動作だけを残す方向へ研ぎ澄まされていた。
寮監が拳を流す。
アナザーの軸が残る。
肩を押して崩そうとする。
崩れない。
足を払う。
支持点が移る。
その一瞬。
寮監の身体が、初めて完全にアナザーの間合いへ残った。
「…………」
アナザーの穴だらけの前世記憶へ、妙な映像が浮かび上がる。
中国拳法。
八極拳。
身体ごとぶつかる技。
何とか靠。
「えーっと……」
「…戦闘中に何を考えている」
「思い出しました!」
アナザーは身体を捻った。
「ミサカ神拳奥義!」
「そんな流派はありませんのぉぉぉぉ!」
黒子の絶叫が飛ぶ。
「なんか背中からぶつかるやつぅぅぅぅぅぅぅ!!」
「そこまで思い出したなら名前も思い出しなさいましぃぃぃぃ!!」
叫びだけを聞けば、到底まともな技が出るとは思えなかった。
しかし、その動きだけは別物だった。
踏み出した足が必要な角度と位置へ寸分違わず収まり、膝と股関節が沈み、腰には余分な捻れがなく、脊柱を中心とする全身の軸が一本へ揃う。床を踏んだ反力は足首から膝、股関節、胴体へ途切れることなく伝わり、腕にも肩にも余分な力を残さないまま、頭部から足裏までの質量すべてを一つの塊として前方へ運んでいく。
アナザー本人は八極拳を習ったことなどない。
鉄山靠の細かな理論も知らない。
だが、寮監から重心を奪われれば、それへ適応した。
軸を崩されれば、それへ適応した。
全身を連結した打撃を受け、その力がどのように身体を通るのかへ適応した。
自分の拳を流され、力の伝達を断たれ、姿勢を崩されるたび、それを防ぐための全身連動へ適応した。
防御と攻撃、その双方で積み上げた最適化が、この瞬間、一つの運動へ噛み合ったのである。
技を覚えたのではない。
身体が、あまりにも多くの失敗へ適応し続けた結果として、技の完成形に近い運動へ勝手に到達した。
その鉄山靠は、名前すらまともに知らない少女が放ったとは到底思えず、長年同じ一動作を反復し続けた熟練の達人が放つ一撃と見紛うほど、無駄がなかった。
「――っ」
寮監の目が、初めてはっきりと見開かれた。
崩そうとする。
崩れない。
流そうとする。
軸が逃げない。
力の方向を変えても、アナザーの身体が即座に補正する。
受けようとした時には、もう遅かった。
ドンッ!!
アナザーの背面が寮監の胸元へ突き刺さった。
足裏から立ち上がった全身の質量と加速が一切途切れずに伝達され、ただ身体をぶつけたとは到底思えない衝撃となって寮監を弾き飛ばす。
ドォンッ!!
寮監の背中が壁へ激突した。
「寮監様ぁぁぁぁぁ!?」
黒子だけでなく、廊下の寮生達からも悲鳴が上がった。
壁が低く軋み、細かな埃が落ちる。
寮監は壁を背に立ったまま、すぐには次の一歩を踏み出さなかった。
数秒。
息を整える。
そのまま背を壁へ預け、ズルズルと腰を落とし、床へ座り込む。
「寮監様……」
「御坂様が……勝った?」
「まさか……」
寮生達が息を呑む。
鴨川源子だけは、深く頷いた。
「これこそが、ミックスアップの到達点……!」
――違いますの!
黒子は声にも出さず、心の中だけで否定した。
寮監は壁を背に座り込んだまま、アナザーを見ていた。
ほんの少し前まで、自分の第一歩すら認識できなかった少女だった。
腹へ一発入れれば吐き、投げれば床へ落ち、自分から拳を振れば簡単に流され、その勢いだけで勝手に体勢を崩していた。
それが今では、飛来物を処理しながらこちらから視線を切らず、拳を逸らし、崩しへ耐え、自分の攻撃を捌かれればその捌き方さえ通用しなくなり、最後には熟練者と見紛う一撃で自分を壁まで叩き飛ばした。
異常な能力だ。
危険でもある。
だが、寮監の胸へ浮かんだのは、それだけではなかった。
この街には、子供を道具として扱う仕組みがある。
大人達が作った。
大人達が黙認した。
自分も、その全てを知らなかったとはいえ、疑わしい断片を耳にしながら確かめようとはしなかった。
そんな現実を普通の子供が正面から壊そうとすれば、先に子供の方が壊される。
だが、目の前のこれは違う。
殴られればその殴り方を越え、投げられればその投げ方を越え、自分の拳を潰されれば、次にはその潰し方まで通用しなくなって戻ってくる。
ならば。
――こいつなら、いつかこの街のクソったれな現実そのものまで、通用しないものに変えられるかもしれんな。
「し、師匠……!」
感極まった声が思考を中断した。
寮監が目を上げる。
アナザーは胸の前で両拳を握り、尊敬に満ちた目でこちらを見ていた。
「あなたは、ただの行き遅れ寮監ではありませんでした……!」
「アナザー」
黒子の顔が青くなる。
「おやめなさい」
「ものすごく強い行き遅れ寮監でした! とミサカは最大限の敬意をもって師匠への評価を上方修正します!」
「あなたは何を言っておりますのぉぉぉぉぉぉぉ!!」
黒子の絶叫が廊下まで響いた。
寮監は壁を背に座り込んだまま、しばらく無言でアナザーを見上げた。
怒鳴りもしない。
立ち上がりもしない。
ただ心の中で、一つだけ極めて冷静に決める。
――後で御坂を〆る。
自分と同じ顔をした、こんな危険物を白井の部屋へ置いていった本物の御坂美琴には、きっちり事情を聞かなければならない。
「師匠?」
「アナザー!」
黒子がアナザーの肩を掴んだ。
「今は何も言わず黙ってくださいまし! これ以上は本当に取り返しがつきませんの!」
「しかし黒子お姉様、師匠への感謝がまだ――」
「十分伝わっておりますのぉぉぉぉぉ!!」
昼間の常盤台中学外部寮に、またしても黒子の絶叫が響き渡った。