ガコン――!
巨大な歯車が一つ噛み合ったような異音が夜の操車場へ響き、一〇〇三一号の頭上に浮かぶ方陣が初めて回転した、その直後だった。
最初に消えたのは痛みだった。
肩から胸、脇腹にかけて焼け付くように神経を侵食していた激痛が、鎮痛剤を投与されたときのように徐々に薄らいだのではなく、まるで痛みという現象そのものが途中から存在する資格を失ったかのように唐突に途切れる。それまで呼吸をするだけで肺の奥へ突き刺さっていた鋭い苦痛も消え、一〇〇三一号は何が起きたのか理解できないまま、大きく息を吸い込んだ。
「……へ?」
空気が何の抵抗もなく肺へ流れ込む。
つい数秒前まで、胸を僅かに膨らませるだけでも視界が白く染まりそうだったというのに、今は深く呼吸をしても痛くない。一〇〇三一号は地面へ横たわったまま震える指先を肩へ伸ばし、確かめるように血に濡れた箇所へ触れた。
銃弾に抉られていたはずの場所に、穴がない。
服には銃弾が通った痕跡があり、そこへ染み込んだ血液も消えてはいないのに、その下の皮膚だけは最初から傷など存在しなかったかのように滑らかだった。胸元も脇腹も同じであり、急速な失血によって冷え切っていた身体には再び正常な熱が戻り、霞んでいた視界も数度瞬きを繰り返すうちに急速に鮮明になっていく。
その様子を見下ろしていた一方通行は、すぐには動かなかった。
「…………」
離れた監視室では、生体データを表示していた複数の画面へ異常な変化が一斉に現れていた。数秒前まで生命維持に危険な領域へ落ち込んでいた心拍や血圧を含む数値が、治療らしい処置を一切受けていないにもかかわらず、あまりにも急激に正常域へ戻っている。
しかし、一〇〇三一号本人はそんな数値など知らない。
彼女が理解したのは、もっと単純なことだった。
「…………来た」
地面へ手をつき、恐る恐る上体を起こす。
力が入る。
膝を立てても眩暈は起こらず、そのまま立ち上がってみても身体は信じられないほど軽かった。
「ついに……転生チートが仕事を始めました!」
「…………」
「遅い! 非常に遅いですがギリギリ許します! ミサカはこれまでの不手際について運営へ寛大な処分を下すことを決定します!」
「何一人で納得してやがンだ」
一方通行の声音には、先ほどまでにはなかった僅かな硬さが混じっていた。
銃弾を受けて瀕死だった人間が、ほんの一瞬で立ち上がっている。再生系の能力そのものが学園都市に存在しないわけではないが、少なくとも絶対能力進化計画へ投入されているミサカ一〇〇三一号に、そのような能力が備わっているという情報はない。
そして何より、頭上に浮かんだ正体不明の方陣。
それが一度回転した直後、傷が消えた。
一方通行がその関連を疑い始めている一方で、当の本人が到達した結論は遥かに雑だった。
傷が治った。
つまり転生チートは本物だった。
ならば今度こそ勝てる。
「もう一回です!」
「はァ?」
一〇〇三一号は地面に落としていたアサルトライフルを拾い上げ、銃床を肩へ当てた。
「さっきは発動前だったから負けただけです! 今度こそ転生チートの恐ろしさを思い知りやがれ白髪モヤシィィィ!」
「……学習能力ねェのか、オマエ」
「あります! なので同じ攻撃をもう一度試して比較検証します!」
「それを学習能力がねェって言ってンだろォが!」
引き金を引いた。
連続する銃声が夜気を切り裂き、銃口から吐き出された弾丸が一直線に一方通行へ殺到する。
結果は、先ほどと何一つ変わらなかった。
一方通行の身体へ触れる寸前、複数の弾丸は進行方向そのものを書き換えられたように反転し、撃った本人へ向かって猛烈な速度で戻ってくる。
「…………あ」
ほんの数秒前まで勝利を確信していた一〇〇三一号の顔から、すっと血の気が引いた。
「ヒイイイイイイィィィィィッ!?」
反射された弾丸が肩へ直撃し、続いて胸、腹部にも立て続けに命中する。
一〇〇三一号は反射的に目を閉じ、先ほど味わった激痛と失血を覚悟した。
ところが。
「…………あれ?」
痛くない。
衝撃自体は確かに身体へ届いているのに、皮膚が破れない。
一〇〇三一号は目を開き、恐る恐る自分の身体を見下ろした。服には新しい穴が開いているが、その下の皮膚には傷一つなく、本来なら肉体へ深く食い込んでいたはずの弾丸は、硬いものにでも当たったように地面へ転がっている。
肩を触る。
胸を撫でる。
腹部も確認する。
どこも痛くない。
「…………」
一方通行が黙った。
一〇〇三一号も数秒だけ黙り込んだが、その表情は見る見るうちに恐怖から歓喜へ変わっていった。
「…………無敵」
「あ?」
「ミサカ、無敵になったのでは?」
その推論を検証しようという発想はなかった。
本人の中では、銃弾を真正面から受けて無傷だったという事実だけで十分だった。
「フ、フフフ……フハハハハハ! やっぱり転生チートじゃないですか! さっきは起動に時間が掛かっただけだったんですよ! ミサカは運営への評価を星一から星五へ修正します!」
「オマエはさっきから誰と喋ってンだ」
「これでもう何も怖くありません!」
一〇〇三一号はアサルトライフルを投げ捨てた。
一方通行の眉が僅かに動く。
「今度はこちらから行きます!」
「……は?」
「銃が駄目なら拳です! 反射だかベクトルだか知りませんが、無敵になったミサカが直接ぶん殴れば済む話です!」
「待て」
一方通行が何かを言いかけたが、一〇〇三一号は聞かなかった。
つい先ほどまで地面へ転がって命乞いをしていた少女と同一人物とは思えないほど勇ましく駆け出し、勢いに任せて右拳を大きく振りかぶる。
「必殺! ミサカパァァァンチ!」
「技名まで頭悪ィのかよ!」
拳が一方通行の顔面へ届こうとした。
そして、接触した瞬間。
一〇〇三一号が全力で送り込んだ運動の向きが、本人へ向かってそのまま返された。
「ぐべっ!?」
単に拳を押し戻されたという程度では済まなかった。自分自身が振り抜いた力を、人体が受け止めることを想定していない角度から叩き返され、手首から肘、肩にかけて一斉に凄まじい負荷が掛かる。
骨格が嫌な音を立てた。
勢いを殺せないまま身体まで半回転し、一〇〇三一号は地面へ叩きつけられる。
「いだだだだだだ!? 無敵じゃない! 話が違います! 返品! クーリングオフを要求します!」
「だから何で銃弾が効かなくなっただけで、俺に触って平気だと思ったンだァ?」
「同じ物理攻撃というカテゴリーじゃないんですか!?」
「知らねェよ」
一方通行が一〇〇三一号へ歩み寄った。
その足取りは、先ほどまでとは僅かに違っている。
単なる実験対象へ予定通りトドメを刺そうとしているというより、目の前で二度続けて不可解な挙動を見せた存在へ、自分から確かめにいこうとしている。
「弾丸だけ、か」
「え?」
「撃たれても平気になった。けど、俺の反射そのものが消えたワケじゃねェ」
一方通行は折れた腕を抱えて地面へ蹲っている一〇〇三一号の前へしゃがみ込み、その顔を覗き込んだ。
赤い瞳から、先ほどまでの退屈は消えていた。
「え、ええと……ミサカは相互理解の重要性を思い出しましたので、ここで改めて平和的な対話を――」
「なら、コイツはどうだ?」
一方通行の指先が、一〇〇三一号の首筋へ触れた。
たったそれだけだった。
殴られたわけでも、蹴られたわけでもない。
それにもかかわらず、次の瞬間、一〇〇三一号の身体の内部で、それまで正常に保たれていた流れが一斉に狂った。
「――――っ!?」
声が出ない。
心臓から送り出される血液の流れが強引に乱され、血管という血管へ、本来あり得ない方向から圧力が掛かる。さらに神経や筋肉を正常に動かしていた微細な電気的信号にまで異常が波及し、身体そのものが自分の命令を受け付けなくなったかのように激しく痙攣した。
目の奥で熱が弾け、鼻腔から血が流れ落ちる。
口の中にも濃い鉄の味が広がり、先ほど折れた右腕の痛みなど忘れるほど、全身の内側から同時に破壊されていく感覚が襲ってきた。
「っ、が……あ……!」
一〇〇三一号の身体が力を失い、そのまま地面へ崩れ落ちる。
「血だって流れだ。電気だって向きがある。俺が弄れンのは、飛んでくる弾丸だけじゃねェンだよ」
一方通行の説明は、もはや一〇〇三一号の頭にはまともに入ってこなかった。
視界が歪む。
心臓の鼓動が一定にならず、吐き気と眩暈と激痛が重なり、全身のあちこちから自分の身体ではないような感覚が返ってくる。つい先ほどまで「無敵になった」と高笑いしていた自分を殴って止めたいと本気で思ったが、そのための腕すらまともに動かなかった。
「ヒ……ヒィ……」
それでも、死にたくないという欲求だけは薄れなかった。
一〇〇三一号は辛うじて動く左腕を前へ伸ばし、砂利を掻いた。
足は動かない。
立つこともできない。
それでも腹這いの姿勢で肘を使い、身体を少しずつ引きずり、一方通行から一センチでも遠ざかろうとする。
「ヒィィ……来ないで……ミサカは、やっぱり無敵宣言を撤回します……!」
「…………」
「調子に乗りました……ミサカが悪かったです……だから、その……見逃して……」
ずる、ずる、と。
血と埃で服を汚しながら進むその姿には、先ほどまでの威勢など欠片も残っていない。
一方通行は追わなかった。
代わりに、一〇〇三一号の背後へ付き従うように浮かんでいる方陣へ目を向けていた。
銃撃によって瀕死になった直後、一度回った。
直後に傷が消え、その後、同じ銃弾は通じなくなった。
そして今度は、その後に一〇〇三一号自身が一方通行へ殴りかかり、反射によって腕を破壊されたうえ、さらに体内へ直接ベクトルを操作されて再び瀕死になっている。
一方通行の赤い瞳が細くなった。
「まさか……」
その呟きと重なるように。
ガコン――!
二度目の音が鳴った。
一〇〇三一号の身体が、地面へ這いつくばった姿勢のまま硬直する。
「…………へ?」
頭上の方陣が、また一つ分だけ回転していた。
そして直後、全身を内側から引き裂いていた苦痛が急速に消えていく。
乱れていた心拍が正常な周期へ戻り、異常を起こしていた血流も静まり、痙攣していた筋肉へ再び本人の意思が通るようになる。折れていた右腕も、内部で破綻していた骨格が巻き戻されるように正しい位置へ戻り、鼻や口から新たな血が流れ出すこともなくなった。
一〇〇三一号はしばらく腹這いの姿勢のまま固まり、それから恐る恐る右手を開いた。
閉じる。
もう一度開く。
「…………治ってる」
痛くない。
右腕を地面へつき、そのまま身体を起こす。
立てる。
つい先ほどまで、体内を好き勝手に掻き回されたような状態だったというのに、今では身体のどこにも異常が感じられなかった。
一〇〇三一号は呆然として自分の手足を確認したあと、ゆっくり一方通行へ顔を向けた。
一方通行も、彼女を見ていた。
監視室では再び生体データが正常化していたが、その数値以上に一方通行の関心を引いたのは、一度目と二度目の回転の間に一〇〇三一号が受けた現象だった。
一度目に回った後、銃弾は通じなくなった。
二度目に回るまでの間に新しく受けたものは、自分の反射による接触拒絶と、それを利用して拳そのものを本人へ返す作用。そして、自分が直接触れて行った血流や生体電気へのベクトル操作。
もし、あの方陣が一度受けたものに対して何かを変化させているのなら。
今度は、その二つのどちらか――あるいは両方が、先ほどまでと同じようには通じなくなっている可能性がある。
一方通行はそこまで考えたが、まだ確信はなかった。
一方、一〇〇三一号はそんなことを何一つ考えていなかった。
彼女の頭の中を占めていたのは、一方通行へ接近した結果、自分の拳を跳ね返されて腕を折られ、挙げ句の果てには全身の血流まで滅茶苦茶にされて死にかけたという鮮烈な恐怖だけである。
「…………よし」
一歩下がる。
一方通行の眉が僅かに動いた。
「ミサカは重要な戦術的判断を下しました」
「あァ?」
さらに一歩、一〇〇三一号は距離を取った。
「あなたには二度と近づきません」
「…………」
「具体的には半径五〇メートル以内への接近を今後永久に禁止します」
「オイ」
「それでは失礼します!」
踵を返した。
そして、全力で走った。
「待てコラァ!」
「嫌ですぅぅぅぅぅぅ!!」
先ほどまで地面を這いずり回っていたとは思えない速度で、一〇〇三一号はコンテナ群の隙間へ飛び込み、一方通行から距離を取ることだけを目的に全力疾走した。
「ミサカは学習しました! 近寄らなければ血を変な方向へ流されることもありません! 近接戦闘は永久封印です!」
少なくとも、一〇〇三一号本人にとっては完璧な結論だった。
近づいたから酷い目に遭った。
ならば近づかなければいい。
先ほど銃弾が効かなくなった理由も、二度目に傷が治った意味も、頭上の方陣が何をしているのかも、今はどうでもよかった。
彼女は知らない。
最初の回転によって、すでに銃弾による攻撃は彼女を傷つけられなくなっている。
そして二度目の回転によって、新たに二つの現象への適応が完了していることも知らない。
一つは、一方通行の身体を覆い、接触してくる運動を自動的に弾き返すベクトル防御――反射。
もう一つは、一方通行が一〇〇三一号自身の身体へ直接干渉し、血流や生体電気の向きを狂わせる体内ベクトル操作。
現時点で適応しているのは、あくまでその三つだった。
銃弾。
一方通行の反射による防御。
そして、一〇〇三一号自身の体内へ向けられるベクトル操作。
一方通行が行えるあらゆるベクトル操作を無条件に無効化したわけではなく、まだ経験していない攻撃や現象まで攻略したわけでもない。
だが、それだけでも状況は決定的に変わっていた。
もし今、一〇〇三一号が恐怖を押し殺してもう一度一方通行へ近づき、同じように拳を振るったならば、今度は先ほどのように反射によって弾き返されることはない。
さらに一方通行が再び彼女の身体へ触れ、同じ方法で血流や生体電気を狂わせようとしても、先ほどと同じ結果にはならない。
もちろん、本人はそんなことを知る由もなかった。
「ヒィィィィ! 白髪モヤシがまだいます! ミサカは全力で戦略的撤退を継続します!」
「誰が白髪モヤシだァァァ!」
一〇〇三一号は走り続ける。
転生チートの性能を検証することよりも、一方通行から一メートルでも遠ざかる方が遥かに重要だった。
その背中を睨みながら、一方通行だけはすぐには追わなかった。
自分の手を見る。
次いで、逃げていく一〇〇三一号の頭上で何事もなかったかのように静止している巨大な方陣へ視線を移す。
これまで予定通りに殺し、予定通りに経験値へ変えるだけだった実験対象の一体が、二度死にかけ、二度立ち上がり、そのたびに先ほどまで通用していたものを一つずつ失わせている。
あの車輪は何なのか。
なぜ回る。
どこまで変わる。
そして次に自分が触れたとき、あるいはあの馬鹿が再び自分へ触れようとしたとき。
果たして、本当に先ほどと同じことが起きるのか。
その疑問が生まれた時点で、この実験はすでに、予定された絶対能力進化計画の一回分ではなくなり始めていた。