マコラマコマコ 異戒神将ミサカ!   作:モリーマ

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ミサカはお家に帰りますぅぅぅぅぅぅ!

 実験中止のアナウンスが操車場へ響いてから数分が経ち、一〇〇三一号は研究員の誘導に従ってその場を離れながら、ようやく自分が本当に生き残ったらしいという事実を少しずつ受け入れ始めていた。

 

 もっとも、理屈では理解できても実感が追いついているとは言い難く、何しろ今日は、目を覚ましたと思ったら前世の記憶が戻り、自分が御坂美琴のクローンであると理解したその日のうちに学園都市第一位との殺し合いへ放り込まれ、銃撃から始まって体内への干渉、コンクリート片、空気の衝撃その他いくつもの方法で何度も致命傷を負わされ、そのたびに頭上の謎の方陣が回転して全快し、最後にはなぜか一方通行を欠陥電気付きのグルグルパンチで地面へ転がしているのだから、さすがに一日で処理できる情報量を大幅に超えている。

 

 一〇〇三一号は歩きながら両手を何度か開閉し、指が十本とも正常に動くことを確かめると、今度は腕を軽く曲げ伸ばししてみた。折れていた骨も元通りになっており、胸にも穴はなく、深く息を吸い込んでも痛みはないため、つい先ほどまで何度も人体として致命的な状態へ追い込まれていたことが、むしろ悪い夢だったようにさえ思えてくる。

 

「……ミサカは暖かい食事とシャワーを要望します、とミサカは拾った命を文化的かつ平穏に享受する権利を主張します」

 

 隣を歩いていた白衣の研究員が、一瞬だけこちらへ視線を向けた。

 

「それから可能であれば、普段の調整区画へ戻った後に柔らかい寝具を用意してください。今日は非常に疲れました、とミサカは労働環境ならびに居住環境の大幅な改善を要求します」

 

「検査が先だ」

 

「…………え?」

 

 足が僅かに止まり、一〇〇三一号は聞き間違いである可能性を期待するように研究員を見上げた。

 

「検査?」

 

「今回の実験では予定外の現象が多数確認された。身体状態と能力状態の確認が必要になる」

 

「ああ、健康診断ですね、とミサカは理解します」

 

 研究員から返答がないため、一〇〇三一号は数秒待ってから、今度はやや慎重な声でもう一度確認した。

 

「健康診断ですね、とミサカは念のため確認します」

 

 それでも肯定は返ってこなかった。

 

 一〇〇三一号の胸中へ小さな違和感が生まれたものの、この時点では、生きているという安堵の方がまだ遥かに強かった。普段寝起きしている生活・調整区画へ直接戻るのではなく、その前に別棟の検査施設へ寄り、身体を調べてもらうだけなのだろう。それが終われば暖かい食事を摂り、シャワーで血と埃を洗い流して、柔らかいかどうかはともかくベッドへ潜り込めるのだから、今夜死ぬ予定だった身としては採血程度を嫌がるのも贅沢というものである。

 

 そんなことを考えながら何気なく振り返ると、少し離れた場所で、一方通行が別の研究員から何事か説明を受けていた。服は埃に汚れ、白い髪も多少乱れており、その姿を認識しただけで一〇〇三一号の肩が条件反射のように跳ねる。

 

「ヒィッ」

 

 だが、距離はある。研究員も間にいる。そして何より実験は終わったのだと、三つの安全材料を順番に確認しているうちに、一〇〇三一号の胸の奥では非常に小さく、それ以上に非常に愚かな勇気が芽生え始めた。

 

 一方通行へ視線を向けると、向こうもこちらを見ており、一〇〇三一号は研究員の背後へ身体を半分ほど隠したまま、いつでも逃げられる姿勢を維持しつつ、そっと片手を口元へ添えた。

 

「白髪モヤシー!」

 

「…………あァ?」

 

「今日はこのくらいにしておいてやります、とミサカは安全圏から勝者の余裕を見せつけます!」

 

「テメェ今すぐ戻ってこい」

 

「ヒィィッ! 撤回します! 今の発言は誤送信だったとミサカは訂正します!」

 

 一〇〇三一号は即座に正面へ向き直り、研究員の背中を押しかねない勢いで歩き出した。

 

「早く行きましょう! ミサカは急速に検査施設への親近感を取り戻しました!」

 

「さっきまで帰りたいと言っていただろう」

 

「白髪モヤシの半径五〇メートル以内より安全なら、現時点ではどこでも構いません!」

 

 少なくとも、その時点では本気でそう思っていた。

 

     ◆

 

 操車場から移送された先は、一〇〇三一号が普段寝起きや身体調整に使用している生活区画ではなく、実験データの解析設備が集中した別棟の精密検査区画だった。

 

 簡素な検査着へ着替えさせられた一〇〇三一号は、白いベッドの上へ腰掛けながら室内を見回した。床も壁も天井も白く、照明から降り注ぐ光まで妙に冷たく感じられ、目の前を行き交う人間まで揃って白衣を着ているため、清潔ではあるものの、人間が休息する場所というより物品を分解して調べる場所のように見えて仕方がない。

 

「では、まず採血を行う」

 

 研究員が準備した採血管と注射器を見て、一〇〇三一号は僅かに肩の力を抜いた。少なくとも、ここまでは想像の範囲内だった。

 

「……何本ですか、とミサカは事前確認を求めます」

 

「十二本」

 

「多くないですか?」

 

「比較用を含む」

 

「ミサカ一人から何と何を比較するつもりなのか疑問を呈します」

 

「腕を出せ」

 

「……了解しました、とミサカは生還者の余裕を見せます」

 

 針が皮膚へ入り、血液が細いチューブを通って採血管へ流れ込む。前世でも採血程度なら経験したことがあり、少女の身体になっているという根本的な問題さえ脇へ置けば、この程度は通常の医療行為だと受け入れられる。

 

 ところが一本目が終わったところで別の採血管が用意され、さらに違う部位へ針が向けられた。

 

「次」

 

「まだあるんですか?」

 

「別部位から採る」

 

「血液に部位ごとの個性でも存在するのでしょうか、とミサカは医学への素朴な疑問を提示します」

 

「部位差を見る」

 

「ミサカの血にそこまでの期待を寄せないでください」

 

 二本、三本、四本と検体が増えていくにつれ、一〇〇三一号の表情からは徐々に余裕が失われていった。死なないための実験ならともかく、命が助かった直後から自分の血液が次々と管へ詰められていく光景は、見ていて気持ちのいいものではない。

 

「……あの」

 

「何だ」

 

「ミサカは今頃、暖かい食事の献立について考えている予定だったのですが」

 

「検査が終われば考えろ」

 

「その言葉を信頼してよいのか、ミサカはかなり疑っています」

 

「動くな」

 

「はい」

 

 やがて採血が終わり、一〇〇三一号は目に見えて肩の力を抜いたのだが、その安堵は研究員が次の器具を取り出すまでしか続かなかった。

 

「では次に皮膚組織を採取する」

 

 器具台の上には、小型のメス、鉗子、そして用途の分からない採取器具が並んでおり、一〇〇三一号は先ほど緩めたばかりの肩へ再び力を入れた。

 

「局所麻酔を――」

 

「待ってください、とミサカは検査内容に異議を申し立てます」

 

 研究員の手が止まり、一〇〇三一号は先ほどよりも明確な警戒を浮かべながら器具を指差した。

 

「これは健康診断ではなかったのでしょうか」

 

「健康診断とは言っていない」

 

「確かに言っていませんでしたが、否定もしませんでしたよね、とミサカは巧妙な黙秘に抗議します!」

 

「必要な検査だ」

 

「採血までだと思っていました!」

 

「異常現象の解析には組織サンプルが必要になる」

 

「組織という言葉を人体から採る文脈で使われると急激に怖くなります!」

 

「麻酔はする」

 

「論点はそこだけではありません、とミサカは訂正を要求します!」

 

 抗議によって検査予定が変更されることはなく、局所麻酔を施された後、一〇〇三一号の皮膚からごく小さな組織が切り取られた。

 

 本人は最初から顔を背けていた。痛みそのものは麻酔で抑えられていても、自分の身体へ刃物が入り、その一部が容器へ移されていると想像するだけで、首筋の辺りが落ち着かなくなる。

 

「終わりましたか?」

 

「まだだ」

 

「その『まだだ』という返答、非常に嫌な予感がするとミサカは警戒を強めます」

 

 その予感を裏付けるように、採取した組織を保存容器へ移した研究員はすぐ別の部位へ手を伸ばし、今度は先ほどよりやや深い位置まで器具を入れた。一〇〇三一号は麻酔越しにも伝わる圧迫感と異物感に眉を寄せる。

 

「…………痛くはありませんが、非常に嫌な感触があります、とミサカは率直な感想を述べます」

 

「記録する」

 

「その感想まで記録しなくていいです」

 

「次は筋組織」

 

「…………次?」

 

 一〇〇三一号は、研究員が新しい採取器具を用意する様子を見ながら、今まで以上にゆっくりと顔を上げた。

 

「筋?」

 

「少量だ」

 

「少量という言葉で安心できるほどの信頼関係はまだ形成されていません!」

 

 だが、それも実施された。

 

 細い採取器具が皮膚を貫いて内部へ入り、麻酔では消えない圧迫感が筋肉の奥へ押し込まれていく。一〇〇三一号はベッドの端を握り締めながら、これまで「検査」として何とか受け入れてきた行為が、少しずつ自分の理解している健康診断から遠ざかっていることを意識し始めた。

 

「……ミサカは、そろそろ食事とシャワーの話へ戻ることを提案します」

 

「もう少しだ」

 

「その『もう少し』は信用できない種類の言葉だとミサカは学習しました」

 

 その後も、採血とは明らかに性質の違う穿刺や組織採取が部位を変えながら繰り返された。直接生命を危険に晒すほどのものではないとしても、皮膚を破られ、内部へ器具を入れられ、自分の身体の一部を検体として持っていかれる行為が重なるにつれ、一〇〇三一号は次第に口数を減らしていった。

 

 身体的な苦痛以上に、自分の肉体が一人の人間のものではなく、必要な場所から必要な試料を取り出すための資材庫として扱われているような感覚が強まっていたのである。

 

 そして何度目かの採取器具が腕へ刺し込まれた、そのときだった。

 

 ガコン――!

 

 もはや嫌になるほど聞き慣れ始めた重い音が検査室へ響き、一〇〇三一号だけでなく、器具を扱っていた研究員達の動きまで一斉に止まった。

 

 頭上に浮かんだ方陣が、一つ分だけ回転している。

 

 その直後、それまで腕や脚へ残っていた穿刺痕や小さな切創が、時間を逆向きに辿るように急速に塞がっていった。

 

「記録!」

 

「回転を確認!」

 

「既存損傷、修復しています!」

 

 一〇〇三一号は修復されていく自分の腕を見つめ、喜ぶでもなく、ただ疲れ切った声を漏らした。

 

「……またですか、とミサカはそろそろ驚くことにも疲れてきました」

 

「今の損傷は致命的ではない」

 

「そこへ注目するのは非常に嫌な予感がします」

 

 研究員の一人が新しい注射針を手に取ったことで、その予感は急速に現実味を帯びた。

 

「確認する」

 

「何をですか」

 

「同一刺激への反応」

 

「しなくて結構です、とミサカは明確に拒否します」

 

「腕を出せ」

 

「嫌です」

 

「出せ」

 

「ミサカは先ほど明確に嫌だと言いました」

 

 研究員が半ば強引に一〇〇三一号の腕を取り、注射針の先端を皮膚へ当てて圧力を掛けたものの、先端は表皮へ食い込まず、その場で止まった。角度を変え、さらに圧力を加えても結果は変わらず、最後には皮膚ではなく針先の方が僅かにしなったため、一〇〇三一号はその隙に腕を引っ込めた。

 

「刺さらないではありませんか、とミサカはこれ以上の検証不要を宣言します」

 

「圧を上げろ」

 

「なぜそうなるんですか!?」

 

 周囲の研究員達が一斉にざわつき、今度は別の刺激を確認するという声とともに小型のメスが取り上げられた。一〇〇三一号は露骨に身体を引いたが、刃先は腕へ当てられ、そのまま皮膚の表面を滑っていく。

 

「本当に待ってください、とミサカは強く要求します!」

 

 それでも傷はつかず、刃先が皮膚の表面を滑っても薄い赤みすら残らなかったことで、検査室の空気はそれまでとは明らかに異なるものへ変わった。

 

「切創も無効」

 

「針と刃物、双方に対する変化を確認」

 

「材質依存か、作用形態依存か」

 

「別素材の刃を用意」

 

「やめてください!」

 

 一〇〇三一号はベッドの奥へ退き、研究員達との距離を目に見えて広げた。

 

「もう十分でしょう! 針も刃物も通じません! はい検査終了、とミサカは極めて合理的な終了判断を下します!」

 

「まだ条件を特定できていない」

 

「条件を特定される側の意見も聞いてください!」

 

 しかし、研究員達の関心はすでに彼女の身体状態から、頭上の方陣が引き起こす現象そのものへ移っていた。別素材の針、異なる形状の刃、表層ではなく深部へ作用する器具、高出力刺激と、次々に検証候補が挙げられ始め、それまで一〇〇三一号を「検査する」ために使われていた設備が、今度は「どこまでなら傷つけられるか」を確かめるための道具へ意味を変えつつあることを、当人だけが嫌でも理解させられる。

 

「高出力刺激についても比較したい」

 

「おい」

 

「表層への刺激では判別できない。別方式で深部の反応を――」

 

「おい」

 

「生命維持装置を準備した上で――」

 

「おいぃぃぃぃぃ!!」

 

 一〇〇三一号の叫びが検査室へ響き、研究員達がようやく彼女自身へ視線を戻した。

 

「何だ」

 

「何だではありません、とミサカは猛烈に抗議します!」

 

 最初は採血で済んでいたものが皮膚組織へ進み、そこから筋組織まで採取され、それによって方陣が回ったと思ったら、今度は何が通じて何が通じないのかを調べるため、さらに強い刺激を加える話へ変わっている。しかも、その検査を受ける本人が怖がっているかどうかなど、研究員達の判断材料にはほとんど含まれていない。

 

「……それは何ですか」

 

「深部組織用の装置だ」

 

「ミサカには必要ありません」

 

「こちらには必要だ」

 

 その返答を聞いた瞬間、一〇〇三一号の表情から感情が一度抜け落ちた。

 

 この人達にとって重要なのは一〇〇三一号本人ではなく、何をすれば方陣が回るのか、何に対して適応するのか、どこまで損傷を加えれば新しい変化が起きるのかという答えの方なのだと理解した途端、脳裏へ数十分前の操車場が鮮明に蘇った。

 

 一方通行に銃弾を反射され、腕を折られ、血流を狂わされ、コンクリート片や空気の衝撃を叩き込まれ、そのたびに死にかけては方陣が回った。それと同じことを、今度は研究員達がもっと管理された設備の中で、もっと丁寧に、場合によってはもっと長時間繰り返そうとしているのだと気づいてしまえば、もはやベッドへ大人しく座り続ける理由はなかった。

 

 一〇〇三一号は研究員達の動きを警戒しながら片足を床へ下ろし、制止する声を聞いても止まらず、もう片方の足まで床へつけた。

 

「動くな。検査はまだ終わっていない」

 

 一〇〇三一号はその言葉を無視して立ち上がった。

 

「座れ、ミサカ一〇〇三一号」

 

 研究員達と出口を交互に見ながら、一〇〇三一号は頭の中で、この精密検査区画から普段の生活・調整区画までの位置関係を確認した。

 

 そこは豪華な家でもなければ、個人用の部屋が与えられているわけでもなく、前世の基準で見れば人間らしい生活環境と呼ぶにはあまりにも無機質な場所である。それでも、食事を受け取り、身体を洗い、眠ることのできる場所として今の一〇〇三一号が知っているのはそこだけであり、前世の感覚を取り戻した彼女にとっては、いつの間にか十分に「帰る場所」と呼べるものになっていた。

 

「ミサカは――」

 

「?」

 

 一〇〇三一号は出口へ身体を向けると、今度こそはっきりと宣言した。

 

「お家に帰りますぅぅぅぅぅぅ!!」

 

 研究員が動いた。

 

「待て!」

 

「嫌です、とミサカは本日の検査業務を一方的に終了します!」

 

 一〇〇三一号が本格的に駆け出す直前、すぐ近くにいた研究員がその腕を掴み、別の一人が「鎮静剤を」と声を上げながら、用意されていた注射器を手に取った。

 

「離してください!」

 

「押さえろ!」

 

「ちょっ、それは――!」

 

 拘束されている一〇〇三一号の上腕へ針先が押し当てられたものの、先ほど確認されたのと同様、注射針は皮膚を破ることなく止まった。研究員がさらに押し込もうとしても結果は変わらず、一〇〇三一号は自分の腕と、皮膚の上で虚しく滑る針先とを何度か見比べた。

 

「……刺さりませんね、とミサカは先ほど実証済みの結果を再確認します」

 

「もっと押さえろ!」

 

 その声を聞いた一〇〇三一号の口元が、ごく僅かに持ち上がった。

 

「フッ、とミサカは自分でも少々腹立たしい勝ち誇り方をします」

 

「今笑ったぞ!」

 

「では失礼します!」

 

 一〇〇三一号は捕まれていた腕を強く振り払い、その勢いのまま検査台の脇を抜けて出口へ走った。

 

「止めろ!」

 

「止まりません! 止まったら次に何をされるか分かりません、とミサカは逃走の正当性を主張します!」

 

「検査が必要だ!」

 

「そちらの都合でしょうがぁぁぁ!」

 

 電子ロックが作動して扉が閉まり始めるのを見た瞬間、一〇〇三一号は悲鳴を上げながら最後に残った隙間へ身体を滑り込ませ、検査着の裾を危うく挟まれそうになりながらも、どうにか白い廊下へ飛び出した。

 

 裸足が硬い床を叩く音に続いて研究員達の怒声が響き、数秒もしないうちに施設内の警報まで鳴り始める。それでも一〇〇三一号は速度を落とさず、背後から「止まれ」「戻れ」と命令されるたびに、むしろ足へさらに力を込めた。

 

「止まれ、一〇〇三一号!」

 

「嫌です!」

 

「戻れ!」

 

「断固拒否します、とミサカは正式回答します!」

 

 廊下の角を勢いよく曲がりながら、一〇〇三一号は頭の中に残っている施設構造の情報を引っ張り出した。目指すのはこの精密検査区画でも、今日の実験区域でもなく、妹達が普段身体調整を受け、食事を摂り、休息を取っている生活・調整区画であり、前世の記憶が戻ってまだ一日も経っていないというのに、そこだけが今の彼女にとって「戻れば少なくとも眠れる」と思える場所だった。

 

「ミサカはただ、暖かい食事を摂取して!」

 

 息を切らしながらさらに走り、背後から近づく足音を確かめながら次の角を曲がる。

 

「シャワーで血と埃を落として!」

 

 そこで一度息を吸い直し、追ってくる研究員達へ聞かせるように声を張り上げた。

 

「その後は布団で寝たいだけなんです、とミサカは極めて慎ましい要求を繰り返しますぅぅぅぅ!」

 

 拾ったはずの命を静かに噛み締めるという計画は、どうやら今日という一日に限っては達成を許されていないらしい。

 

 それでも一〇〇三一号は速度を落とさなかった。今日一日だけで銃弾を受け、一方通行の反射へ触れ、自身の体内をベクトル操作され、その後もコンクリート片や空気の衝撃を含むいくつもの現象に晒され、今度は検査室で針による穿刺と刃物による切創まで経験している。そのたびに頭上の方陣は回転し、傷を治し、同じ手段が再び自分を傷つけることを許さなくなってきた。

 

 生き残るという一点だけを見れば、それはとてつもなく強力な力なのかもしれない。しかし、当の一〇〇三一号が本当に欲しいものは、そんな異常な適応能力ではなく、今日これ以上死ななくていいという安心と、空腹を満たす温かい食事、身体に残った血と埃を落とすシャワー、それから次に目を覚ましたときにも自分が生きていると信じたまま眠ることのできる場所という、ただそれだけのものだった。

 

「ミサカは普通に生きたいだけなんですぅぅぅぅぅぅ!!」

 

 研究施設の長い廊下へ悲鳴を残しながら、一〇〇三一号は自分が勝手に「お家」と認定した生活・調整区画を目指し、裸足のまま全力で走り続けた。

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