学園都市第七学区には、その都市に暮らす大多数の人間が存在そのものは知っていても、内部へ入った経験はなく、そもそもどうすれば入れるのかさえ知らない異様な建造物が存在していた。
窓も扉もなく、外界から物理的に隔絶されたその建物の中心部では、巨大な生命維持装置に満たされた赤い培養液の中へ、一人の人間が上下を反転させた姿勢のまま沈んでいる。
男にも女にも、老人にも子供にも見える、見る者によって印象そのものが揺らぐような容貌を持つその人物こそ、学園都市統括理事長――アレイスター=クロウリーだった。
その眼前には物理的な支持具を持たない複数の情報画面が浮かんでいたが、そこへ表示されているのは、学園都市に存在する二百三十万人近い学生の統計でも、国外の政治情勢でも、魔術サイドの動向でもない。
映し出されているのは、一人の少女だった。
より正確に言えば、一個の実験材料として処理され、一人の人間として独立した判断対象になることなど本来ならば予定されていなかった少女の記録である。
画面中央に示されている識別番号は、一〇〇三一。
御坂美琴の体細胞を利用して製造された量産型クローン、通称ミサカシリーズの一個体であり、本来ならば絶対能力進化実験の過程で第一位・一方通行によって死亡し、その結果だけが次回以降の実験条件を調整するための演算材料へ組み込まれるはずだった存在だった。
ところが、一〇〇三一号は死亡していない。
それだけならば、実験上の誤差として処理する余地はあった。現実の現象を数式へ当てはめる実験において、予定された手順から外れる個体が一つ発生した程度であれば、追加の観測によって変数を補正し、次回以降の条件へ反映すれば済む。
問題は、その逸脱の仕方だった。
表示される映像が切り替わり、一方通行の反射によって跳ね返された弾丸を受けた一〇〇三一号が負傷する場面が映し出される。その直後、頭上へ既存の超能力理論では分類できない方陣が出現し、一定時間を置いて回転すると、負傷そのものが修復されるだけでなく、同種の弾丸によって再び同じ損傷を受けなくなった。
さらに映像を進めれば、一方通行の能力そのものへ直接干渉した結果として重傷を負い、もう一度方陣が回転した後には、それまで絶対的な防壁として機能していた反射へ後天的に対応し、青白い電気を纏わせた拳を一方通行の顔面まで到達させている。
もちろん、完全な勝利ではない。
戦闘全体を比較すれば、技量も演算能力も経験も一〇〇三一号は第一位へ遠く及ばず、何度も致命的な状況へ追い込まれた末に、適応という性質だけを利用してようやく一矢を報いたという方が実態に近い。
それでも、一方通行という存在を成立させている中核的な能力へ、戦闘の途中から後天的に対応したという事実だけで、無視するには十分すぎる異常だった。
次に表示されたのは、第四位・麦野沈利との能力検証記録である。
限定出力で放たれた『原子崩し』は、一射目で一〇〇三一号の右手を手首から先ごと消し飛ばした。しかし方陣が回転すると欠損した右手が復元され、まったく同じ条件で放たれた二射目は、彼女の皮膚へ触れた地点から攻撃としての輪郭そのものを失い、緑色の残光へほどけながら霧散した。
麦野が出力を引き上げ、複数同時に『原子崩し』を叩き込んだ後も結果は変わらない。一〇〇三一号から外れた光は壁や床を容易に抉り飛ばしているため、第四位側の能力が弱まったわけではなく、ただ一〇〇三一号へ接触した攻撃だけが、それまでと同じ形では成立できなくなっていた。
続けて記録されたフレンダの爆発物による高熱、絹旗最愛の『窒素装甲』、物理的な拘束についても、基本的な経過は一致している。
初回は有効であり、損傷や拘束が成立する。しかし方陣が回転し、受けた損傷が修復された後には、先ほどまで有効だった同種の作用が二度目から成立しなくなる。
単純に皮膚や骨格が頑丈になっているだけでは説明できない。
むしろ、一〇〇三一号と彼女へ向けられた現象との間に成立していた「この作用によって傷つけられる、あるいは拘束される」という関係そのものが、経験を経るたびに書き換えられているように見えた。
生命維持装置の中で、アレイスターの視線だけが僅かに動く。
画面の端には研究施設から提出された暫定報告書が表示されており、そこには未知現象であること、適応が累積している可能性が高いこと、既存の適応が失われた兆候は現時点で確認されていないこと、さらに適応速度、上限、発生機構、再現条件のいずれも不明であることが並んでいた。
そして、その末尾に記された「ミサカネットワークとの関連、不明」という一文だけが、他の項目よりわずかに長くアレイスターの視線を留める。
絶対能力進化実験を表面的に眺める者にとって、妹達は第一位を成長させるための消耗品にしか見えない。
だが、アレイスターにとっては違う。
実験の成否だけが重要なのではなく、ミサカシリーズという大量の能力者が都市各所へ存在し、それぞれが巨大な情報網によって接続されているという事実そのものに、彼のプラン上の別の価値があった。
だからこそ、そのネットワークを構成する一個体へ、予定表のどこにも記されていない変化が発生した以上、それを単なる研究事故として切り捨てるわけにはいかない。
「他個体への伝播は」
生命維持装置の外へ設置された集音装置が培養液越しの声を拾い、その問いに応じるように新しい資料が展開された。
ネットワーク上に存在する各個体の能力波形、AIM拡散力場、演算傾向、身体反応が並べられているが、現時点では他の妹達に一〇〇三一号と同様の方陣も、異常な再生も、適応現象も確認されていない。
「そうか」
だからといって、アレイスターが安心したわけではなかった。
むしろ、同一の遺伝情報を使用し、ほぼ同じ製造工程を経て、同じ学習情報を与えられた個体群の中で一〇〇三一号だけが異常を示したという事実は、別の問題を生み出している。
何が違ったのか。
製造工程に生じた差異なのか、外的要因なのか、偶発的な演算上の変異なのか、それとも学園都市の能力開発理論そのものでは拾い上げられない別系統の何かなのか。
現在のデータだけでは判断できない。
もっとも、判断できないものが存在すること自体は、アレイスターにとって珍しいことではなかった。重要なのは、その未知をどのように扱えばプランへ与える影響を管理できるかという一点である。
最も単純な方法は排除だった。
未知の変数がプランへ悪影響を与える可能性があり、しかもその変数が時間とともに成長を続けているなら、危険性が低いうちに除去するという判断には十分な合理性がある。
しかし、一〇〇三一号に対しては、その合理性すら保証されていない。
銃器はすでに通じず、爆発についても経験済みの作用は有効性を失い、第四位の主力攻撃さえ完全に無効化された。第一位についても、戦闘そのものでは大きく劣勢だったとはいえ、一度はその能力を突破している。
まだ経験させていない現象を利用すれば殺害自体は可能かもしれないが、一撃で仕留め損なった場合には、その手段まで次回以降の選択肢から失われる可能性が高い。
研究施設の者達が何度も試行を重ねた末にようやく理解した結論へ、アレイスターは記録を確認した時点ですでに辿り着いていた。
下手な排除行動は、一〇〇三一号をさらに排除しにくい存在へ育てるだけである。
そして、未知であるということには危険性だけでなく価値もある。
予定外であることと不要であることは同義ではなく、プランそのものも、予定された出来事だけを一列に並べた一本道ではない。不確定要素が現れたなら、除外するか、利用するか、あるいは利用した後の適切な段階で除外すればいい。
重要なのは、予定外のものを予定外のまま放置しないことだった。
アレイスターの指が僅かに動き、一〇〇三一号の識別情報が画面中央へ移動する。
表示された「MISAKA-10031」という文字列の横に新しい管理項目が作成され、アレイスターは通常個体としての管理を終了させたうえで、独立した観測対象へ分類を移行した。
続いて開かれたのは、新しい呼称を設定するための入力欄だった。
アレイスターは少しの間だけ画面の中の少女を見つめる。
顔も遺伝情報もネットワーク上の所属も他の妹達と変わらないが、ここまで異質な性質を獲得した以上、もはや通常のミサカシリーズと同じ管理単位へ押し込めておく意味はない。
「ミサカ・アナザー」
入力された文字列が確定する。
続いて設定されたのは能力分類だった。
元々備えていた電撃使いとしての能力だけでは、すでにこの個体の性質を表現できない。一度経験した現象へ対応し、それまで有効だった攻撃や拘束を次々と過去のものへ変えながら、適応そのものを累積させていく未知の性質こそが、一〇〇三一号を他の妹達から切り離した最大の要因だった。
その上限は、まだ見えていない。
新しい名称が入力される。
正式な能力理論が確立したわけではなく、現段階では研究上の暫定名称にすぎない。それでも、分類不能だからと名称すら与えずに置いておくより、管理と観測のための識別子を設定した方が合理的だった。
続いて能力レベルの判定へ移ると、処理が僅かに止まった。
一〇〇三一号は本来、量産型能力者として製造された妹達の一人でしかない。
しかし現在観測されている性能は、既存のレベル4という分類では説明できなかった。一方通行の絶対的な防御を限定的とはいえ突破し、第四位の主力攻撃を完全に無効化し、しかも複数種類の現象への適応を累積させ続けている以上、その利用価値と危険性の双方に、現段階で明確な上限を設定することはできない。
もちろん、単純な破壊力なら麦野の方が遥かに上であり、速度、演算精度、戦闘技術といった各要素を個別に比較すれば、既存の上位能力者へ及ばない部分も多い。
だが、学園都市におけるレベル5の評価は、単なる戦闘力の順位表ではない。
能力研究上の価値、応用可能性、そこから得られる利益まで含めて判断される以上、一〇〇三一号をレベル4以下へ留める理由はなかった。
「能力レベル、レベル5」
入力が確定する。
その一方で、一〇〇三一号を通常の八人目として既存の順位表へ追加することはできなかった。
彼女の存在そのものが一般公開できるものではない。
御坂美琴のクローンであるという出自も、絶対能力進化実験も、その過程で大量の妹達が死亡している事実も、表沙汰になれば学園都市にとって小さくない問題となる。
「公開区分、非公開」
能力評価と情報公開の扱いが、別々の管理項目として確定された。
能力者としてはレベル5へ認定する。しかし一般向けに公開されるレベル5の一覧には追加せず、存在そのものを限られた範囲でのみ共有する。
さらに問題となるのが順位だった。
一〇〇三一号が第一位より強いかと問われれば、現在の資料だけで肯定することはできない。実際、一方通行との戦闘では何度も殺されかけ、そのたびに辛うじて適応して生き延びただけであり、総合的な戦闘能力で第一位を上回ったとは到底言えない。
しかし、既存の能力評価尺度へ当てはめにくく、しかも第一位の能力そのものを破る可能性を実証した存在を、通常の七人と同じ序列へ無理に押し込む意味もなかった。
「順位、暫定指定――第零位」
既存の第一位から第七位までとは別枠の管理番号が設定される。
第零位とは、第一位より上であることを意味しない。
既存の順位表へそのまま組み込めないために設けられた、順位以前、評価保留、例外処理を意味する暫定的な符号だった。
情報公開範囲についても、同様に段階が設定される。
一般向け能力者データベースには登録せず、学校教育関係にも非公開。警備員や風紀委員についても原則として情報を与えない一方、統括理事会内部では記録を保持し、暗部には必要範囲に限って通達する。
ただし、存在の痕跡を完全に抹消する必要まではない。
学園都市の情報へ深く潜れる者、統括理事会周辺へ独自の経路を持つ者、あるいは暗部と長期間接触してきた者であれば、断片を拾い集めることで「表には存在しないレベル5らしい能力者が増えた」という噂へ辿り着ける程度の統制に留める。
完全な秘密と、公然とした存在の間にはいくらでも段階があり、ミサカ・アナザーはその中間へ置かれることになった。
最後に決めるべきなのは、今後の監視方法だった。
研究施設へ閉じ込める方法はすでに失敗しており、拘束するたびに拘束そのものへ適応される以上、無理に檻へ押し込むより、一定の自由を与えたうえで行動範囲を管理する方が合理的だった。
そして、その役割を担わせるうえで都合のいい組織が、すでに一〇〇三一号と接触している。
第四位・麦野沈利、フレンダ=セイヴェルン、絹旗最愛、滝壺理后によって構成される、統括理事会直属の暗部組織――アイテム。
彼女達は一〇〇三一号の能力の一部を目撃済みであり、しかも主要な攻撃手段の多くをすでに一度使用しているため、未知の刺激を不用意に追加する危険を抑えながら、通常の人間より遥かに危険な環境へ観測対象を置くことができる。
第四位を同じ場所へ配置しておけば、異常発生時の即応戦力という名目も立つ。実際には、その第四位の能力がすでに通じないという事実まで含めて観測対象になるのだが、それもまた一つのデータだった。
「アイテムへ一時配属。監視対象兼、臨時要員」
指示が確定し、複数の画面が順番に閉じていく。
赤い培養液の中で、アレイスター=クロウリーは再び沈黙した。
一〇〇三一号という予定外の存在を排除する判断は、まだ下さない。
プランへ組み込めるなら利用し、組み込めないなら切る。
その判断に必要な情報を、まず集める。
現段階で決めるべきことは、それだけだった。
◆
翌朝、アイテムの拠点には、普段とは少し種類の違う嫌な沈黙が降りていた。
テーブルの上に置かれた端末には、統括理事会側から送られてきた非公開の通達が表示されており、最初に絹旗、次にフレンダ、滝壺、最後に麦野という順番で内容を確認していた。
少なくとも、麦野が三行目へ到達するまでは何も起きなかった。
「……レベル5認定?」
麦野の声が低くなり、隣にいたフレンダの肩が分かりやすく揺れた。
「ま、まあ、結局昨日のあれ見たら、そういう評価になるのも分からなくは――」
「フレンダ」
「はい」
「黙って」
「はい」
麦野が端末へ視線を戻す。
そこには対象名、旧識別番号ミサカ一〇〇三一号、新規管理呼称ミサカ・アナザー、能力名
そこまでは、まだ麦野も耐えた。
問題は、その次だった。
順位――暫定第零位。
「…………」
麦野の眉間へ一本、深い皺が刻まれた。
フレンダがさりげなく半歩後退し、絹旗もほぼ同時に同じだけ距離を取ったが、滝壺だけはいつも通りの位置から動かない。
「……ゼロ?」
誰も答えなかった。
「第零位?」
なおも返事がないまま数秒が過ぎ、ついに麦野が顔を上げた。
「第零位ってなんだよ!! 第一位より上ってかァ!? 昨日のクソガキが一方通行より上だって言いてェのか上はァァァァ!!」
「違います違います違います!」
絹旗が即座に両手を振る。
「超そこちゃんと書いてありますから! ほら! 既存序列との比較を意味しない暫定的な管理符号って!」
「じゃあ何で零なんだよ!」
「それは私に言われても超知りませんよ!」
フレンダも慌てて端末を拾い上げ、問題の箇所を指差した。
「ほ、ほら麦野! 結局ちゃんと注釈ある訳よ! 既存の能力評価基準との単純比較が困難なため、通常順位から除外、便宜上第零位として扱うって!」
「だったら圏外とか番外とか書いときゃいいでしょうが!」
「それは超もっと怒るんじゃないですか?」
「絹旗ァ?」
「何でもありません!」
絹旗が即座に視線を逸らした。
麦野は端末を奪い取るように掴み、そのまま続きを読み進める。
そこには、一〇〇三一号――現在はミサカ・アナザーと呼ばれる少女をレベル5へ認定した根拠として、第一位との実戦における能力干渉への適応、第一位の防御機構の一時的突破、第四位の『原子崩し』の完全無効化、複数異種現象への適応累積などが簡潔に並べられていた。
「…………」
麦野の指が震える。
フレンダは、その動きを見ただけで嫌な予感しかしなかった。
「む、麦野?」
「完全無効化」
「そこは読み上げなくていい訳よ」
「第四位の『原子崩し』を完全無効化」
「だからわざわざ声にしなくていいって!」
「誰が書いたのこれ」
「上の人じゃないですかね!」
「消してこい」
「無茶言わないでほしい訳よ!」
滝壺が横から端末を覗き込む。
「でも、むぎの」
「あ?」
「書いてあることは、だいたい昨日のまま」
「滝壺」
「うん」
「今それ言わない方がいい」
「そう?」
「そうです!」
絹旗が強く同意する頃には、麦野の額へ昨日見たものとよく似た血管がすでに浮かび始めていた。
「そもそもよォ……何であのクソガキがレベル5になってンのよ」
「いや、だから昨日――」
「フレンダ」
「はい黙ります」
麦野は苛立たしげに画面をスクロールする。
能力レベルはレベル5、公開区分は非公開、一般向け能力者一覧への登録はなく、通常の七名にも含めず、統括理事会直属の暗部には要注意対象として共有する――そこまでは、納得できるかどうかを別にすれば、少なくとも文章として読むことはできた。
だが、次の項目へ移った瞬間、麦野の指が止まった。
「…………は?」
その声を聞いた途端、フレンダと絹旗が揃って僅かに身を引いた。二人とも、すでに通達全文を読み終えている以上、麦野がとうとう最も厄介な項目まで辿り着いたことを察していた。
「……何よ、あんた達その反応」
「いや、その……」
フレンダが露骨に視線を逸らす。
「結局、そこが一番まずいところな訳よ」
麦野は二人の態度を訝しみながら、もう一度端末へ目を落とした。
臨時配属先――アイテム。
「…………」
今度は麦野が黙った。
端末には、ミサカ・アナザーを統括理事会管理下における特別観測対象とし、行動観察及び実地データ収集を目的として、暗部組織『アイテム』へ期限未定の臨時配属とする旨が、余計な感情を一切挟まない事務的な文章で記されている。
麦野がゆっくり顔を上げた。
「却下」
「いや私達に決定権ない訳よ」
「却下」
「二回言っても駄目ですよ」
「超というか、上からもう決定事項として来てます」
「却下ァ!!」
麦野は勢いよく立ち上がると、そのまま握った拳をテーブルへ叩きつけた。重い衝撃音とともに置かれていた端末が跳ね上がり、テーブルそのものも脚を軋ませながら床の上を僅かにずれる。
「誰があんなクソガキ面倒見るって言ったァ! 昨日散々人をおばさん呼ばわりした挙げ句、私の能力無効にして勝ち誇って、今日は第零位だァ!? 舐めてンのか上は!!」
「麦野、机!」
「知るか!」
「机は悪くない訳よ!」
「うるせェ!」
「むぎの」
「何!」
「昨日からずっと怒ってる」
「誰のせいだと思ってンのよ!!」
そこへ、場違いなほど軽い電子音が室内へ響いた。
ピンポーン。
四人の動きが揃って止まり、少し間を置いてから、もう一度同じ音が鳴る。
麦野の視線が玄関へ向くより早く、フレンダが椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
「私出る!」
「は?」
「結局こういうのは私の仕事な訳よ! うん! そういうことだから!」
誰もそんな役割分担を決めてはいなかったが、フレンダにとっては、今の麦野から少しでも離れられるという一点だけで十分な理由だったらしく、そのまま部屋を飛び出していった。
廊下を走る足音が遠ざかり、玄関の扉が開く音がする。
何か短い会話が交わされた後、不自然なほど長い沈黙が続いた。
絹旗が眉を寄せる。
「遅くないですか?」
「うん」
「宅配便でも来たんじゃない?」
麦野が苛立たしげに言った。
「フレンダが宅配便相手にあんな黙ると思います?」
「知らないわよ」
やがて廊下の向こうから足音が戻ってきたが、その数が一人分ではないことに気づき、絹旗が僅かに目を細めた。
先に姿を現したフレンダの顔は、見事なまでに引き攣っている。
「……フレンダ。何でそんな顔してるんですか」
「いや……結局、私も今ものすごく帰りたい気分っていうか」
「ここ私らの拠点でしょうが」
麦野が苛立って吐き捨てる。
「何が来たのよ」
「麦野」
「何」
「怒らないって約束する?」
「するわけないでしょうが。早く言え」
「だよね」
フレンダが諦めたように横へ一歩ずれた。
すると、その背後から見慣れた茶色い短髪がひょこりと現れ、その頭上には、昨日の実験室で何度も不気味な回転を見せた正体不明の方陣が、何事もないかのように静かに浮かんでいた。
麦野の顔から表情が消えた。
絹旗もほぼ同時に固まり、滝壺だけが一度瞬きをする。
そこに立っていたのは、昨日の実験室で右手を吹き飛ばされ、爆破され、腹を殴られ、網で拘束されながら、その全てへ順番に適応し、最後にはアイテム側の主要な攻撃・拘束手段を事実上完封した少女だった。
昨日は損傷を受けるたびに回転し、その直後から先ほどまで有効だった攻撃を次々と無意味なものへ変えていった方陣が、今は少女の頭上で沈黙したまま浮遊している。その光景だけで、アイテムの面々には昨日の一連の出来事を思い出すのに十分だった。
ただし、本人の表情には昨日までの殺伐とした空気など欠片も残っておらず、新しい服に最低限の荷物、そして見覚えのあるゴーグルを身につけた姿は、むしろ妙に機嫌よく、新しい生活でも始めるような雰囲気さえ漂わせている。
一〇〇三一号。
否。
今朝から正式な管理呼称を与えられた少女――ミサカ・アナザー。
麦野と視線が合うと、その口元が僅かに持ち上がった。
「おはようございます」
麦野のこめかみが動く。
フレンダが横から小声で囁いた。
「ほら、挨拶は大事な訳よ」
「フレンダ」
「はい」
「後で殺す」
「何で私!?」
ミサカ・アナザーはそんなやり取りを気にすることもなく部屋の中へ一歩踏み込むと、妙に姿勢よく胸を張った。
「統括理事会の人に言われてきました! 本日よりこちらでお世話になります、ミサカ・アナザーです!」
麦野が何も言わない。
その沈黙をどう解釈したのか、ミサカ・アナザーはさらに誇らしげに胸を張り、言わなくてもいいことを、よりにもよって最も言ってはいけない相手の前で、満面の笑みとともに付け加えた。
「第零位! 第零位のミサカ・アナザーです! とミサカは元気よく新しい職場の皆さんに着任の挨拶をします!」
「…………」
麦野沈利が固まった。
昨日、自分の『原子崩し』が消滅したときよりも、その後、全力に近い攻撃を浴びせた少女が無傷で立っていたときよりも、ある意味では遥かに長く動きを止めている。
「……麦野?」
フレンダがおそるおそる声を掛けても反応はなく、滝壺が続けて「むぎの」と呼んでも、まだ動かない。
一方、ミサカ・アナザーだけは何が問題なのか理解していないらしく、不思議そうに首を傾げた。その動きに合わせても、頭上の方陣は一定の位置を保ったまま、静かに彼女へ付き従っている。
「どうかしましたか、第四位?」
その一言で、麦野の顔が引き攣った。
「は……」
低い声が漏れた瞬間、絹旗は危険を察して数歩後退し、フレンダもほぼ同時に逃げ道を確認する。
「超まずいです」
「結局、これ私玄関開けなかった方がよかった訳よ」
当のミサカ・アナザーはまだ何も分かっていない。
麦野の肩が震え、額へはっきりと青筋が浮かび上がった次の瞬間。
「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
第四位の絶叫が、アイテムの拠点全体を震わせた。