生まれた夜のことを、少年は覚えていない。
当然だ。
だが、母から何度か聞かされた話だけは覚えている。
自分が産声を上げた夜、家の周りに妙に鼠が集まったという。
床下。
納屋。
畑の畔。
石垣の隙間。
何十匹いたかまでは、母も数えなかったらしい。
「怖くなかったの?」
幼い少年が聞いた時、母は洗った布を干しながら答えた。
「別に」
「いっぱい鼠いたんだろ?」
「いたねえ」
「気持ち悪くなかった?」
「お前が生まれた日の方が忙しかったもの」
「……そっか」
実に母らしい答えだった。
村の者は違った。
少年の父親を知る者はいない。
人間だったのか。
妖怪だったのか。
今も生きているのか。
死んでいるのか。
母でさえ、ほとんど語らなかった。
だから少年は、村では少し扱いに困る子供だった。
「おい」
畑の端で遊んでいると、年上の男の子に呼ばれる。
「お前の親父って妖怪なんだろ?」
「知らない」
「知らないって何だよ」
「知らないから知らない」
「母ちゃんに聞けよ」
「聞いた」
「何て?」
少年は芋を持ったまま答えた。
「知らないって」
「変なの」
「俺に言うなよ」
別の日には、近所の老婆が芋をくれた。
「ほれ」
「いいの?」
「余ったからね」
少年は芋を二つ見比べる。
「大きい方もらっていい?」
「一個だよ」
「だから大きい方」
老婆は呆れた。
「そういうところだけは遠慮がないねえ」
「腹減ってるし」
「はいはい」
そんな人もいた。
逆に、少年が近づくと露骨に戸を閉める家もあった。
皆が優しいわけではない。
皆が冷たいわけでもない。
少年にとって村とは、そういう場所だった。
そしてその中で、母だけは違った。
母は少年を、
人間の子とも、
妖怪の子とも呼ばなかった。
ただ、自分の子として呼んだ。
母だけが使う名前で。
その名前を、少年は他人へほとんど教えなかった。
「なんで?」
と聞かれても、
「母ちゃんのだから」
としか答えなかった。
村の外れには、小さな祠があった。
ある日。
少年は祠の裏を近道にしようとした。
「こっち通った方が早い」
鳥居へ足を向けた瞬間。
後ろから母に襟を掴まれた。
「ぐえっ」
「勝手に入らない」
「なんで?」
「神様のところだから」
「俺、入ったら駄目?」
母は少し考えた。
「入れるかどうかは知らない」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
「なんで」
母は鳥居を見る。
それから少年へ言った。
「入れることと、勝手に入っていいことは別だから」
少年。
「……」
難しい。
「神様怒る?」
「それも知らない」
「母ちゃん知らないこと多いね」
「知らないのに知ってるふりするよりいいでしょ」
少年は黙った。
母は鳥居の前まで行き、軽く頭を下げる。
少年も真似する。
「お願いしないの?」
「今日は挨拶だけ」
「神様って面倒だな」
「こら」
「でも挨拶だけするんだろ?」
母が笑った。
「人にもするでしょ」
「……する」
「なら同じ」
少年にはまだ、よく分からなかった。
ただ。
勝手に入らない。
知らないものを、分かったつもりにしない。
それだけは覚えた。
母が病気になったのは、それからしばらく後だった。
最初は咳だった。
次に熱。
それでも母は起きようとした。
少年が布団へ押し戻す。
「寝てろよ」
「水が」
「俺が持ってくる」
「昨日こぼしたでしょう」
「昨日は昨日」
「便利なこと言うねえ」
母は笑った。
だが、その笑い方は日ごとに弱くなっていった。
村人も来た。
薬を持ってきた者。
食べ物を置いていった者。
様子を見るだけで帰った者。
家の外まで来て、結局入らなかった者。
母の病気が治ることはなかった。
ある夜。
少年は聞いた。
「母ちゃん」
「ん?」
「死ぬ?」
母の目が少年を見る。
少し長い沈黙。
「……たぶんね」
「嫌だ」
「うん」
「何とかならない?」
母は答えなかった。
その答えが、答えだった。
少年は母の布団へ顔を押しつけた。
泣きたくなかった。
泣けば母が困ると思った。
でも無理だった。
「嫌だよ」
母の手が、少年の跳ねた髪を撫でる。
「うん」
それだけだった。
母が死んだあと。
村の大人たちは困った。
少年には、それも分かっていた。
「誰が引き取る?」
「うちは無理だ」
「父方は?」
「分からん」
「半分妖怪なんだろう?」
「だからって放っておくのか」
「なら、お前が面倒を見るのか」
そこで話が止まる。
少年は家の中で聞いていた。
誰か一人くらい、
「うちへ来い」
と言ってくれるのではないか。
少しだけ期待していた。
誰も言わなかった。
怒りより先に、
「ああ、そうなんだ」
と思った。
翌朝。
少年は荷物をまとめた。
持てる物など少ない。
着替え。
少しの食べ物。
そして母の残した、小さな布。
家を出る。
村の入口まで来た時、老婆が追いかけてきた。
「待ちな」
「何?」
握り飯を二つ渡される。
少年。
「二個くれるの?」
「今日はね」
「昨日なら一個だった?」
「口の減らない子だね」
少年は握り飯を懐へ入れた。
「ありがと」
老婆。
「……戻ってきてもいいんだからね」
少年は村を見る。
母のいた家。
「母ちゃん、いないし」
老婆は何も言えなくなる。
少年も、それ以上言わなかった。
「じゃあ」
歩き出す。
「死ぬんじゃないよ」
背中から声。
少年は振り返らず答えた。
「死にたくない」
そのまま村を出た。
森に入った時、少年には考えがあった。
隣の村まで行けば何とかなる。
仕事くらいあるだろう。
飯だって、少しくらい手に入る。
半日後。
「……どこだよ、隣の村」
見事に迷った。
握り飯は食べた。
水も少ない。
足が痛い。
「現実ってもっと道あるもんじゃないの?」
誰に言っているわけでもない。
森は答えてくれない。
座り込みたい。
でも暗くなる前に、水だけは探したい。
耳を澄ます。
風。
鳥。
虫。
そして。
「……水?」
小さな音。
そちらへ進む。
枝に引っかかる。
転びかける。
ようやく小さな流れを見つけた。
「助かった……」
膝をつく。
水面へ手を伸ばして。
止まった。
自分の顔が映っている。
長い鼻。
目立つ前歯。
ぼさぼさの髪。
人間っぽい。
でも完全に人間ではない。
毎日見ていた顔だ。
なのに。
その瞬間。
頭の奥で何かが外れた。
「……え」
知らない景色が浮かぶ。
いや。
知っている。
高い建物。
夜でも明るい街。
車。
電車。
テレビ。
学校。
机。
スマートフォン。
コンビニ。
インターネット。
漫画。
アニメ。
現代の日本。
そして。
そこで生きていた、自分。
「う……っ」
頭を押さえる。
次々と記憶が戻ってくる。
今の自分には経験していないはずの人生。
なのに、自分のものだと分かる。
同時に。
母との記憶も消えていない。
村。
畑。
祠。
病気。
葬式。
全部ある。
「何だよ……これ……」
息を整える。
水面を見る。
もう一度、自分の顔。
そこで。
前の人生の記憶が、この顔へ名前をつけた。
少年の目が見開かれる。
「……待て」
水面へ顔を近づける。
「これ……」
長い鼻。
出た前歯。
痩せた顔。
「……ねずみ男じゃねえか?」
森から返事はない。
「俺?」
水面の自分。
「俺が?」
また沈黙。
少年は頭を抱えた。
「いやいやいや」
前の人生の記憶にいる。
鬼太郎のそばをうろついている。
金に弱い。
逃げる。
裏切る。
戻ってくる。
臭い。
「最後いらねえだろ……」
自分で思い出して自分で傷ついた。
だが、笑っている場合ではない。
ここが本当に自分の知っていた世界なのか。
作品で知っていた出来事がそのまま起こるのか。
いつの時代なのか。
何一つ確証がない。
「鬼太郎……」
口にしてみる。
いるのか?
今?
どこに?
分からない。
なら。
「……考えても分からん」
少年は水辺へ座った。
二つの人生。
前の自分。
今の自分。
どちらが本物なのか。
しばらく考えた。
そして。
「両方覚えてるんだよな」
母の顔を思い出す。
「母ちゃんのことも」
前の人生も思い出せる。
だったら。
「……両方俺でいいか」
随分雑な結論だった。
けれど、それ以上考える元気がなかった。
腹が鳴る。
「今は飯だな」
世界の真実より飯だった。
草が揺れた。
少年が振り向く。
一匹の鼠。
小さい。
ごく普通の鼠に見える。
鼠。
『にげろ』
少年。
「……」
鼠。
『はやく』
少年。
「お前、喋った?」
『くる』
「何が?」
『おおきいの』
「何が大きいんだよ」
鼠が走る。
数歩進み、振り返る。
『はやく』
少年は一瞬迷った。
確かめる?
姿を見る?
何がいるのか知ってから――
森の奥で、
ばきっ。
太い枝が折れた。
少年。
「……いや」
立つ。
「知らないのに確認しに行く理由ねえわ」
鼠を追う。
「待て!」
『おそい』
「お前と足の長さ違うんだよ!」
背後。
何かが動く。
少年は振り返りたくなった。
だが、やめた。
見ることで助かるとは限らない。
鼠が岩場へ入る。
『ここ』
「そこ通れない!」
鼠。
『おおきい』
「悪かったな!」
鼠が別方向へ走る。
少し広い隙間。
少年は身体を滑り込ませた。
黙る。
外を何かが通る。
重い足音。
低い気配。
少年は覗かない。
ただ待った。
長い。
怖い。
逃げたい。
もう逃げている。
やがて音が遠ざかる。
鼠。
『いった』
少年。
「本当に?」
『いった』
「お前、間違えることある?」
鼠。
『ある』
少年。
「じゃあもう少し待つ」
鼠が首を傾げる。
『なぜ』
「間違えるんだろ?」
『うん』
「じゃあ待つ」
鼠。
『こわい?』
少年。
「怖い」
即答。
『よわい?』
少年。
「今はたぶん」
それを口にしても、不思議と悔しくなかった。
弱いなら。
弱いなりに動くしかない。
外へ出た頃には、足が震えていた。
少年。
「……助かった」
鼠。
『たすかった』
「お前のおかげだよ」
『にげただけ』
「一緒に逃げてくれたろ」
鼠は何も答えない。
少年はしゃがむ。
「俺、お前の言ってること分かるんだけど」
『わかる』
「お前も俺の言葉分かる?」
『わかる』
「なんで?」
『しらない』
少年。
「……だよな」
分からないものを考えても答えは出ない。
なら使えるものは使う。
ただし。
少年は少し考える。
「俺がお前に『行け』って言っても、危なかったら行かなくていいからな」
鼠。
『?』
「嫌なら嫌でいい」
鼠。
『なぜ』
「俺が間違ってるかもしれないから」
鼠はしばらく少年を見る。
『へんなの』
「今日それ何回目だよ」
その日。
少年は鼠から森のことを教わった。
水。
蛇。
猫。
人間。
獣道。
ただし、すぐ問題が起きた。
鼠。
『こっち、みち』
少年。
「どこ?」
鼠が木の根元の穴へ消える。
少年。
「それ、お前の道!」
鼠が顔だけ出す。
『みち』
「俺は通れない!」
『おおきい』
「だから悪かったな!」
鼠から見た世界と。
自分が歩ける世界は違う。
当たり前だった。
だが、自分が教える時も同じかもしれない。
少年は遠くの煙を指す。
「あそこ、人がいるかも」
鼠。
『なぜ』
「煙」
『けむり』
「火がある。自然に出てるんじゃなきゃ、人が使ってるかもしれない」
鼠は煙を見る。
『にんげん』
少年。
「かもしれない」
鼠。
『いく?』
「今日はやめる」
『なぜ』
「疲れてる」
それだけ。
余計な格好はつけない。
知らない村へ。
疲れた状態で。
夜になりかけている時に入る。
何となく嫌だった。
鼠。
『こわい?』
「怖い」
『また』
「悪いか」
鼠。
『わるくない』
少年。
「ならいい」
夜。
木の根元。
少年は丸くなっていた。
鼠は近くにいる。
「お前、帰らないの?」
『あした』
「どっか家あるの?」
『ある』
「じゃあ帰ればいいのに」
『おまえ、へん』
「面白がってんの?」
『うん』
「正直だな」
少年は目を閉じる。
母のいない夜。
前の人生を思い出した最初の夜。
怖い。
寂しい。
何をすればいいか分からない。
全部本当だった。
少年。
「……明日どうするかな」
鼠。
『あした』
「そうだな」
今日分からないことは。
明日考える。
それでいい。
少年は眠った。