翌朝。
甚兵衛が藤吉の店へ着くと、店先では藤吉と弥助が何かを話していた。
いつもの軽いやり取りではない。
弥助は荷札を片手にしており、藤吉は帳面を開いている。二人とも声こそ荒げていないが、表情は少し固かった。
「……これ以上は下げられん」
藤吉が言う。
弥助も困ったように帳面を見る。
「でも向こうは、さらに安く出してます。このままだと、しばらく客を持っていかれるかもしれません」
甚兵衛は戸口で足を止めた。
何の話か。
気になる。
かなり気になる。
しかし、まずは挨拶だ。
「おはようございます」
藤吉が顔を上げた。
「おう」
弥助もこちらを見る。
「早いな」
「最近は寝坊しないようにしてる」
藤吉は平然と答えた。
「それが普通だ」
甚兵衛は少し不満そうに眉を寄せる。
「そこは成長を褒めてくれてもいいじゃん」
「仕事を始めてから言え」
「はい」
すぐに箒を取る。
店先。
軒下。
人の通る道。
商品へ埃を飛ばさないよう、風の向きも一度見る。
以前なら、掃けば掃除だと思っていた。
今は違う。
どこへ埃を集めるか。
人が通るか。
品物に当たらないか。
一つずつ確認してから箒を動かす。
それでも。
耳は完全に藤吉たちの方へ向いていた。
甚兵衛。
「……何の話?」
藤吉。
「掃除」
「違う。さっきの」
「仕事が一段落してから聞け」
甚兵衛は口を尖らせる。
「はいはい」
気になるが、先に仕事。
掃除を終える。
次に、昨日覚えた棚の品を確認する。
一つ持つ。
見る。
置く。
次。
数え終えたものと、まだのものを混ぜない。
弥助が横からその様子を見る。
「随分慎重になったな」
甚兵衛。
「金を間違えるよりまし」
「品を落としたこともあったな」
甚兵衛の手が止まる。
「芋はもう忘れて!」
弥助は笑う。
「失敗は忘れない方がいいんじゃなかったか?」
「そういう意味じゃねえ!」
「じゃあ帳面に残しとくか」
「もう絶対残ってるだろ!」
声を上げながらも、手元は止めない。
その辺りは少し慣れてきた。
朝の仕事が一段落すると、甚兵衛はすぐ藤吉のところへ行った。
「終わった」
藤吉は帳面から顔も上げない。
「何が」
「朝の仕事」
「で?」
甚兵衛は待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「さっきの話」
藤吉がようやく顔を上げた。
「覚えてたのか」
「気になることは忘れないんだよ」
横から弥助。
「品の数は忘れるのにな」
甚兵衛。
「人には得意不得意がある!」
弥助が笑う。
藤吉は帳面を閉じた。
「近くに別の商人が来てる」
甚兵衛。
「新しい店?」
「店を構えるわけじゃない。しばらく、この辺りの村を回って売るらしい」
「安いの?」
「物によってはな」
甚兵衛の顔が明るくなった。
答えは簡単に思えた。
「じゃあ、うちも安くすればいいじゃん」
藤吉。
「何で?」
「売れるから」
「本当に?」
甚兵衛は止まった。
「……」
この聞き方。
最近よくある。
自分が簡単に答えた時に限って、藤吉はこう言う。
大体、その後に何かある。
甚兵衛はすぐ言い直さなかった。
「待って」
藤吉。
「待つぞ」
甚兵衛は考える。
安くする。
客が来る。
たくさん売れる。
金が入る。
そこまでは簡単だ。
だが昨日、教わった。
店へ入った金と、店の儲けは同じではない。
「……仕入れた値より安くしたら、損する?」
「当然だ」
「じゃあ、損しないところまで下げる」
藤吉。
「それで店は続くか?」
甚兵衛。
「……」
また一つ増えた。
仕入れた金さえ戻ればいい。
――本当に?
昨日の話を思い出す。
「次の品を買う金」
「他は」
「運ぶ金」
「他は」
「働いてる人に払う分」
弥助が横から口を挟む。
「俺の飯も頼む」
甚兵衛。
「自分で言うなよ」
藤吉。
「まだある」
甚兵衛は露骨に嫌そうな顔をした。
「多い!」
藤吉は店の中を指す。
「この建物」
甚兵衛も見る。
柱。
屋根。
棚。
戸。
「壊れたら?」
「直すのに金がいる」
「品が駄目になったら?」
「損」
「盗まれたら?」
「損」
「売れない日が続いたら?」
甚兵衛。
「……金が入らない」
藤吉は頷く。
「病気で働けん者が出たら?」
そこで。
甚兵衛は少し止まった。
弥助を見る。
藤吉を見る。
さっきまでの話とは、少し違って聞こえた。
「……その人、どうすんの?」
藤吉。
「店によって違う」
「うちは?」
藤吉はすぐには答えなかった。
少し考えてから言う。
「できる範囲では助ける」
甚兵衛。
「給金も?」
「時と場合による。ずっと同じように出せるとは限らん」
甚兵衛は小さく息を吐く。
「また“場合による”」
藤吉。
「何でも一つの答えで済むと思うな」
そう言ってから、少しだけ声を落とす。
「ただ」
甚兵衛は顔を上げる。
「働けなくなった瞬間に、もういらんと放り出す店なら」
藤吉は弥助の方を見ることもなく続けた。
「長く働く奴はいなくなる」
甚兵衛。
「……」
それは、少し分かる。
今日動けるから。
明日も動けるとは限らない。
自分だってそうだ。
森にいた頃。
空腹で足が止まりかけた。
寝不足で考えが回らなくなった。
母も。
身体が悪くても動こうとしていた。
甚兵衛は帳面の端を見ながら、ゆっくり言った。
「じゃあ」
「安くするって、その分どこかの余裕を減らすこともある?」
藤吉。
「そうだ」
「でも客は安い方が嬉しい」
「嬉しいさ」
「じゃあ難しいじゃん」
藤吉。
「だから商いなんだ」
甚兵衛は顔をしかめる。
「便利だな、その言葉!」
弥助が声を出して笑った。
昼前。
噂の商人が村へやって来た。
荷車が二台。
連れている男が数人。
荷を開き始めると、村人が少しずつ集まっていく。
甚兵衛は藤吉の店の入口から遠目に眺めていた。
「人多い」
弥助。
「安いからな」
「見てきていい?」
藤吉が甚兵衛を見る。
「客としてならな」
甚兵衛。
「偵察?」
「余計な真似はするな」
「見るだけ」
藤吉は念を押す。
「品へ触るなら許可を取れ」
「うん」
「分からないことは」
「聞く」
「それから」
甚兵衛。
「まだある?」
「うちで働いてることを隠すな」
甚兵衛は少し意外そうにする。
「なんで?」
「後から知られた方が面倒だからだ」
「……分かった」
変に隠して。
後から、
あの店の小僧だったのか。
となる。
確かに、余計に怪しい。
甚兵衛は店を出た。
三匹の鼠が、いつの間にか遠くからついてくる。
最初の鼠。
『ひと、いっぱい』
「多いな」
三匹目。
『ごはん?』
「商売」
『ごはんある』
「そっち行くな」
荷車の周りでは、大きな声が飛んでいる。
「さあ、見ていってくれ!」
話し方が上手い。
声が通る。
村人も足を止める。
甚兵衛は少し離れたところで、その様子を見る。
藤吉とは違う。
悪いという意味ではない。
やり方が違う。
人を呼ぶ。
品を手に取らせる。
今だけ。
ここだけ。
そんな言葉も使う。
甚兵衛も品の一つへ目を止めた。
手を伸ばしかける。
止まる。
商人を見る。
「これ、触っていい?」
商人は笑った。
「構わんよ」
甚兵衛は手に取る。
似た品を藤吉の店でも見た。
値を聞く。
安い。
確かに安い。
「これ、藤吉さんの店より安いな……」
商人の目が少し動いた。
「藤吉?」
甚兵衛は隠さない。
「あっちの店で働いてる」
「ほう」
商人は面白そうに甚兵衛を見る。
「見に来たのか」
「うん」
「偵察か?」
甚兵衛。
「見るだけって言われてる」
商人は声を上げて笑った。
「正直な小僧だ」
甚兵衛。
「よく言われる」
品を戻そうとすると。
商人が言った。
「うちへ来るか?」
甚兵衛の手が止まる。
「何が」
「働き口だ」
「……」
突然だった。
商人は甚兵衛の様子を見ながら続ける。
「荷運びもできるんだろう」
「まあ」
「客にも口が利ける」
「最近少しだけ」
「なら使える」
甚兵衛は何とも言えない顔になった。
褒められている。
多分。
商人。
「藤吉より少し多く払ってやる」
そこで。
甚兵衛の目が動いた。
金。
今より多い。
「……どれくらい?」
商人が額を言う。
甚兵衛は頭の中で今の給金と比べる。
多い。
間違いない。
「飯は?」
「昼は出す」
「……」
かなり魅力的だ。
だが。
最近の甚兵衛には、金額を聞いたところで止まらない程度の癖がつき始めていた。
「何するの?」
「荷運び。客呼び。雑用。覚えりゃ売る方もやらせる」
「何時から?」
「朝から日暮れまで」
甚兵衛は頷きかけて。
止まる。
「休める日は?」
商人。
「休み?」
少し笑う。
「働ける時に働くもんだ」
甚兵衛。
「……」
悪人の顔には見えない。
脅してもいない。
騙そうとしているようにも見えない。
恐らく。
この商人にとっては、それが普通なのだ。
甚兵衛。
「考えていい?」
「もちろんだ」
「藤吉さんにも話す」
商人。
「好きにしろ」
止めない。
甚兵衛は商品を元の場所へ戻した。
「見せてくれてありがと」
「気が変わったら来い」
「うん」
店へ戻る。
弥助が甚兵衛を見る。
「遅かったな」
「仕事誘われた」
藤吉。
弥助。
「は?」
甚兵衛は少し面白くなる。
珍しく二人の声が揃った。
「向こうの商人」
弥助。
「何て?」
「今より少し多く払うって」
弥助の表情が少し険しくなる。
けれど。
藤吉は違った。
「行きたいか」
甚兵衛。
「……分かんない」
弥助。
「甚兵衛」
藤吉が軽く手を上げて止める。
「本人に考えさせろ」
弥助は何か言いたそうだったが、黙った。
甚兵衛は指を折る。
「金は多い」
一本。
「昼飯も出る」
二本。
「仕事は、今やってるのとちょっと似てる」
三本。
藤吉。
「なら向こうの方がいいな」
甚兵衛は眉を寄せた。
「何その言い方」
「事実だろ」
「……でも」
「でも?」
甚兵衛は少し考える。
「休み聞いたら、“働ける時に働け”って」
弥助。
「毎日日暮れまでか?」
「多分」
藤吉。
「それで?」
甚兵衛。
「……」
自分でも。
何が嫌なのか。
まだ言葉になっていない。
金は多い。
なら得だ。
単純に考えれば。
でも。
森で歩き続けて、動けなくなりかけた時のことを思い出す。
寝不足だった朝。
昨日の夜。
考えすぎて寝なかったら、明日間違える。
鼠に言われて寝た。
そして。
母。
具合が悪くても起きようとしていた姿。
甚兵衛は少しずつ言葉にする。
「ずっと働いてたら」
藤吉は黙って待つ。
「疲れて、間違えない?」
弥助。
「間違えるな」
甚兵衛。
「そういう意味じゃなくて!」
藤吉。
「続けろ」
甚兵衛は自分の手を見る。
「疲れたら」
「いつもできることも、できなくなる」
「字も間違う」
「金も数え間違う」
「荷も落とすかもしれない」
少し間。
「で、怪我したら働けない」
藤吉。
「うん」
「そしたら?」
「それは、その店次第だ」
甚兵衛。
「……」
多くもらう。
でも。
続けられない。
怪我する。
働けない。
その時。
甚兵衛はようやく顔を上げた。
「ちょっと多く貰っても」
「ずっと働けないなら、得か分かんない」
藤吉。
「そう考えるなら、それも一つの答えだ」
甚兵衛。
「でも金多い」
弥助。
「未練あるんじゃねえか」
甚兵衛は即答した。
「あるよ!」
「金は欲しいもん!」
弥助が吹き出す。
「そこはぶれんな」
藤吉。
「行きたいなら止めん」
甚兵衛の顔が止まる。
「え」
「お前を縛る話はしていない」
藤吉は何でもないように言う。
「ここより良いと思う場所があるなら、そっちへ行けばいい」
甚兵衛は少し面食らった。
「怒らないの?」
「何に」
「他の店行くって」
藤吉は帳面を軽く閉じる。
「今日まで働いた分や店の品を盗んで逃げるなら怒る」
「仕事を辞める話なら別だ」
甚兵衛。
「……」
それも。
意外だった。
藤吉なら、
せっかく教えたのに。
くらい言うかと思っていた。
藤吉は続ける。
「ただし、決めるなら条件は聞け」
「金だけ見るな」
「飯」
「働く時間」
「休めるか」
「何をするか」
「誰が教えるか」
「怪我や病気の時はどうするか」
甚兵衛。
「いっぱいあるな」
藤吉。
「仕事は給金だけじゃない」
甚兵衛は黙った。
また一つ。
知らなかったことが増えた。
午後。
甚兵衛はいつも通り働いた。
けれど。
いつもより周りを見るようになっていた。
弥助が荷を持つ。
重い荷。
一人で持ち上げない。
藤吉を呼ぶ。
二人で持つ。
甚兵衛。
「弥助」
「何」
「それ、一人で持たないんだ」
弥助は当然のように答える。
「重いからな」
「根性で持たない?」
「何でだ」
「……いや」
弥助は荷を置く。
「落としたら品が駄目になる」
腰を軽く叩く。
「俺が腰やったら、明日働けん」
甚兵衛。
「……」
弥助。
「何だ、その顔」
「今まで普通だと思ってた」
「普通だろ」
甚兵衛は少し考える。
「普通って、店によって違うんだな」
弥助。
「そりゃそうだ」
その後も見る。
客がいなければ藤吉は一度座る。
弥助も水を飲む。
疲れていれば仕事を入れ替える。
休んでいるわけではない。
でも。
一日中、止まらず動いているわけでもない。
これまで。
甚兵衛はそれを気にしたことがなかった。
夕方。
藤吉が今日の給金を渡す。
甚兵衛は受け取る。
いつも通り。
数える。
合っている。
多くはない。
昼に誘われた商人なら、これより少し多い。
甚兵衛は掌の金を見る。
「藤吉さん」
「何だ」
「今の俺、もっと働いたら金増える?」
「仕事が増えればな」
「朝もっと早く来て、夜までやったら?」
「毎日はやらせん」
甚兵衛が顔を上げる。
「何で」
「お前、字も習ってるだろ」
「うん」
「寝る時間もいる」
「うん」
少し間。
「子供だ」
甚兵衛。
「……それ、忘れてた?」
弥助。
「俺は時々忘れる」
「ひどい!」
藤吉。
「それから」
甚兵衛。
「?」
「働く奴を潰してまで稼いでも、次の日の商いが止まる」
甚兵衛は黙る。
藤吉は店を見回す。
「働く側にも限りがある」
「品にも限りがある」
「金にも限りがある」
「限りがあるものを、全部今日使い切るな」
甚兵衛。
「……」
昨日。
金について教わった。
全部使うな。
次がいる。
今日。
人について。
同じような話を聞いている。
甚兵衛は少し考えすぎて、妙な言い方になった。
「人間も、使い切ったら駄目?」
藤吉の眉が寄る。
「人を品みたいに言うな」
甚兵衛。
「そうじゃなくて!」
弥助が笑う。
「甚兵衛、それは言い方が悪い」
「分かってるよ!」
藤吉も、少しだけ笑った。
「言いたいことは分かる」
甚兵衛。
「なら笑うなよ」
けれど。
甚兵衛自身も少し笑っていた。
仕事を終えると。
甚兵衛は昼に会った商人のところへ向かった。
商人はまだ荷を片づけている途中だった。
甚兵衛に気づく。
「どうした」
「仕事の話」
商人は手を止める。
「決めたか」
甚兵衛は頷いた。
「今回はやめる」
商人。
「金はこっちの方が多いぞ」
「うん」
「なら何で」
甚兵衛は少し考えてから答えた。
「俺、まだ字習ってる」
「店の仕事も覚えてる途中」
「それに」
少しだけ言いにくそうに続ける。
「毎日日暮れまで働くの、多分きつい」
商人は笑った。
「若いのに情けないな」
甚兵衛。
「そう?」
「若いうちは、働ける時に働くもんだ」
甚兵衛は一瞬だけ考えた。
それが。
この人の考え方なのだ。
間違いだと決める理由はない。
この働き方が合う者もいるかもしれない。
商人が嘘をついていたわけでもない。
条件も聞けば答えた。
なら。
甚兵衛が選ばなければいいだけだ。
「そっか」
それ以上、言い返さない。
商人。
「気が変わったら来い」
甚兵衛。
「うん」
少し頭を下げる。
「教えてくれてありがと」
商人は不思議そうな顔をした。
「変な小僧だ」
甚兵衛。
「それ、今日は何回目だろ」
喧嘩にはならなかった。
相手を悪人とも決めなかった。
ただ。
今は選ばなかった。
それだけだった。
慧円のところへ着いた頃には、空が少し赤くなり始めていた。
甚兵衛は字の練習をしながら、昼間のことを話した。
「今日、別の仕事断った」
慧円。
「なぜ」
甚兵衛は一字書く。
「金は多かった」
「ほう」
「飯も出る」
「それでも断った?」
「ずっと働くって」
慧円は甚兵衛を見る。
「それで?」
甚兵衛。
「疲れるじゃん」
慧円。
「それだけかね」
甚兵衛の筆が少し止まる。
「あと」
「今の店で、まだ覚えてないこといっぱいある」
筆を動かす。
「途中で移ったら、もったいない」
慧円。
「では」
少し微笑む。
「良い店と悪い店を決めたのではなく」
「今の自分に合う方を選んだのだね」
甚兵衛。
「……そうなるのかな」
「自分で決めたのだろう?」
「うん」
「なら、今はそれでよい」
甚兵衛はまた字を書く。
少しして。
「でも、もっと金欲しい」
慧円が笑う。
「そこは変わらないね」
甚兵衛はむっとした。
「金欲しいのと、無茶したくないのは両方本当だろ」
慧円。
「そうだね」
「ならいいじゃん」
「私は駄目とは言っていないよ」
甚兵衛。
「笑ったじゃん」
「元気だと思ってね」
甚兵衛。
「それ褒めてる?」
「半分くらいは」
甚兵衛。
「弥助まで混ざってきたな……」
夜。
物置。
戸を開ける。
「ただいま」
三匹の鼠が、それぞれ藁や壁際から顔を出す。
『かえった』
甚兵衛は藁へ倒れ込んだ。
「今日は疲れた」
最初の鼠。
『しごと』
「うん」
二匹目。
『かね』
「少ない」
三匹目。
『ごはん』
甚兵衛は横になったまま答える。
「ある」
三匹とも、自分の興味があることしか言わない。
それがおかしくて。
甚兵衛は少し笑った。
「なあ」
三匹。
『?』
「いっぱい食い物見つけたら、全部一日で食う?」
三匹。
『たべない』
「何で」
『あとで』
別の鼠。
『はこぶ』
もう一匹。
『ねる』
甚兵衛。
「疲れたら?」
『やめる』
「次の日またやる?」
『うん』
甚兵衛は天井を見る。
鼠は。
必要な分を運ぶ。
食べる。
休む。
また動く。
別に。
今日一日で全部終わらせようとはしない。
「……そっちの方が普通なのかもな」
最初の鼠。
『なにが』
甚兵衛は少し笑った。
「別に」
しばらく。
静かになる。
鼠が藁を動く音。
外を吹く風。
遠くの犬。
最初の鼠。
『あした、しごと?』
甚兵衛。
「仕事」
『あしたも?』
「多分」
『そのつぎ?』
甚兵衛は少し考えた。
「知らない」
鼠。
『こわい?』
甚兵衛は天井を見たまま答える。
「ちょっと」
鼠。
『でもいく』
「うん」
今日。
もっと金の多い仕事を断った。
正しかったのかは、まだ分からない。
明日になって後悔するかもしれない。
いつか、
あの時行けばよかった。
と思う日も来るかもしれない。
でも。
今日の自分は。
今の店で覚える方を選んだ。
甚兵衛は身体を丸め、藁へ深く沈む。
「明日働けるように、今日は寝る」
鼠。
『ねる』
「うん」
金は欲しい。
たくさんあれば嬉しい。
仕事も覚えたい。
字も読みたい。
もっとできることを増やしたい。
強くなりたいだとか。
偉くなりたいだとか。
そんなところまでは、まだ考えていない。
今は。
腹を満たす。
雨を避ける。
字を覚える。
働く。
少し金を残す。
そして。
明日も動ける身体で朝を迎える。
それで十分だった。