翌朝。
藤吉の店へ向かう途中、甚兵衛は昨日まで旅商人が品を広げていた場所の前を通った。
荷車はまだある。
朝だというのに、すでに何人かの村人が集まり、積まれた品を覗き込んでいた。商人たちも早くから荷を開き、通りかかる者へ声をかけている。
「今日もやってる」
甚兵衛が足を止めると、道端の草が小さく揺れた。
三匹の鼠が顔を出す。
『やすい』
甚兵衛は眉を上げた。
「お前ら、意味分かって言ってる?」
『ひと、いっぱい』
「それは見りゃ分かる」
昨日。
あの商人から、今より少し多い給金で働かないかと誘われた。
断った。
今の店にはまだ覚えることがある。
毎日日暮れまで働くのも、自分にはきつそうだ。
そう考えて決めた。
後悔は――。
「……してない。してないけど」
荷車を見る。
「金、多いんだよなあ……」
最初の鼠。
『ほしい?』
「欲しい」
即答した。
『いく?』
「行かない」
『なぜ』
「昨日そう決めたから」
鼠は首を傾げる。
『きょう、かわる?』
甚兵衛。
「……」
妙なところで鋭い。
昨日決めたから、一生変えない。
そこまで決めた覚えはない。
「条件が変わったら考える」
『かわらない?』
「聞いてねえから知らない」
結局、そこへ戻る。
知らないことは、知らない。
勝手に想像して決めない。
甚兵衛は旅商人から視線を外した。
「ほら、仕事行くぞ」
三匹目。
『ごはん』
「仕事行くの俺だけな!」
鼠たちは気にせず後ろからついてきた。
店へ着くと、弥助が荷を整理していた。
「おはよう」
「おう」
奥から藤吉が顔を出す。
「甚兵衛。今日はまず、これを見ろ」
店先へ置かれたのは、二本の縄だった。
甚兵衛はしゃがみ込む。
「縄?」
「そうだ」
「何するの?」
「違いを言え」
甚兵衛は右と左を見比べた。
どちらも縄。
色も近い。
長さも、ぱっと見では同じくらいに見える。
「……色?」
弥助。
「他は」
甚兵衛は手を伸ばしかけて、止めた。
「触っていい?」
藤吉。
「いい」
そこで初めて手に取る。
片方。
もう片方。
指で押す。
曲げる。
並べる。
「こっちの方が太い」
「そうだ」
「こっちは……少し柔らかい?」
「そうだ」
甚兵衛は両方をもう一度見る。
「値段も違う?」
「違う」
「どっちが高い?」
教えられた。
甚兵衛は太い方を見る。
「やっぱ太い方?」
藤吉。
「今回はな」
甚兵衛の顔が曇る。
「……今回は?」
嫌な言葉だった。
また条件が増える。
藤吉は気にせず続けた。
「太ければ必ず高い、と思うな」
「じゃあ何を見るの」
「材だ」
藤吉は縄を指した。
「作り。長さ。傷み。どこで作ったか。どう運ばれてきたか」
甚兵衛。
「多い!」
弥助。
「商いだぞ」
「最近その言葉で全部片づけようとしてない!?」
藤吉は答えず、安い方の縄を持ち上げた。
「昨日の旅商人も、似た物を売っていた」
甚兵衛の顔が変わる。
「あ」
「見たか」
「見た」
「どうだった」
「安かった」
「他は」
甚兵衛。
「……」
言葉が止まった。
値段しか覚えていない。
触った。
確かに触った。
だが、柔らかさは。
撚り方は。
傷は。
「……覚えてない」
弥助。
「値しか見てなかった顔だな」
甚兵衛。
「だって安かったから!」
藤吉は縄を元へ戻す。
「なら今日覚えろ」
甚兵衛。
「何を?」
藤吉は短く言った。
「安いというだけでは、品の説明にはならん」
甚兵衛は二本の縄を見た。
同じように見える。
でも、違う。
値段も違う。
理由も一つではない。
昨日までなら。
安い。
それだけで終わっていた。
今日は少し違った。
午前中。
昨日、旅商人から品を買ったという老婆が藤吉の店へやってきた。
手には一枚の布を持っている。
甚兵衛にも見覚えがあった。
昨日、荷車のそばに積んであったものだ。
「藤吉さん」
「はい」
「ちょっと見ておくれ」
藤吉が布を受け取る。
甚兵衛も横から覗いた。
端の一部がほつれている。
「昨日買ったばっかりなんだけどねえ」
甚兵衛。
「もう?」
藤吉から視線が飛んできた。
黙れ。
そういう目だった。
甚兵衛。
「……」
口を閉じる。
藤吉は布を広げ、傷んだ場所を確かめた。
「どんな使い方をしました?」
老婆が説明する。
特別乱暴に扱ったわけではないらしい。
甚兵衛は我慢できず、聞いた。
「悪い品?」
藤吉。
「甚兵衛」
「はい」
「決めつけるな」
甚兵衛は少し肩を落とす。
「……はい」
老婆も布を見ながら言った。
「安かったから仕方ないのかねえ」
藤吉は首を振った。
「安い品でも、これくらいならもう少し持つものはあります」
甚兵衛。
「じゃあ、やっぱり――」
藤吉。
「ただし」
甚兵衛。
「まだあるの!?」
老婆が思わず笑った。
藤吉は気にせず続ける。
「最初から傷があったのか」
布の端を見る。
「使っている間に傷んだのか」
縫い目。
「作りそのものに問題があったのか」
布地。
「今見ただけでは、全部は分かりません」
甚兵衛。
「……」
まただ。
分からない。
分からないから。
勝手に答えを作らない。
藤吉。
「直せるところなら直せます」
老婆。
「頼めるかい」
「専門に分かる人へ見てもらいましょう」
甚兵衛は首を傾げる。
「藤吉さんが直さないの?」
「俺は布を繕う職人じゃない」
「……分かる人に頼むんだ」
「そうだ」
何でも自分でやるわけではない。
知っている者へ頼む。
それも、この店で何度か見た。
老婆が帰った後。
甚兵衛はすぐ聞いた。
「昨日の商人、悪い奴?」
藤吉。
「知らん」
甚兵衛。
「でも傷んだ」
「一つな」
「一つ?」
藤吉は甚兵衛を見る。
「昨日あの商人から買った品が、全部悪いと確かめたか?」
「してない」
「わざと悪い品を売ったと確認したか?」
「してない」
「なら」
甚兵衛は少し嫌そうな顔をして。
「……分からない」
「そうだ」
甚兵衛は腕を組む。
「でも、もし知ってて売ったなら?」
「その時は話が変わる」
「知らなかったら?」
「それも話が変わる」
甚兵衛。
「同じ壊れた布なのに?」
藤吉。
「起きたことと、なぜ起きたかは別だ」
甚兵衛は布があった場所を見る。
「……難しい」
「だから調べる」
弥助が横から言った。
「お前、すぐ犯人決めたがるな」
甚兵衛。
「前の――」
止まる。
危ない。
前の人生。
そう言いかけた。
弥助。
「前の?」
甚兵衛は慌てて誤魔化す。
「なんでもない! 人間って、そういうとこあるじゃん!」
弥助。
「お前も人間半分だろ」
甚兵衛。
「そこ言う?」
昼。
店の裏。
甚兵衛は握り飯を食べながら、三匹の鼠へ午前の出来事を話していた。
「安い布が傷んだ」
一匹。
『たべられない』
「布だからな」
別の鼠。
『いらない』
「鼠基準やめろ」
最初の鼠。
『やすい、わるい?』
甚兵衛は握り飯を持ったまま止まる。
「それが分からないんだって」
『たかい、いい?』
「それも違うらしい」
三匹。
『むずかしい』
甚兵衛。
「だろ?」
そこで自分の握り飯を見る。
「飯だってそうか」
三匹目。
『ごはん』
「高い飯が、絶対うまいわけじゃない」
鼠。
『うまい、いい』
「お前は人生単純そうで羨ましいな」
『ねずみ』
「はいはい」
甚兵衛は残りを口へ入れた。
午後。
例の旅商人が、藤吉の店へやってきた。
姿を見た瞬間。
甚兵衛の背筋が伸びる。
「……!」
弥助が小声で言った。
「その顔やめろ」
「でも来た」
「客かもしれんだろ」
旅商人も甚兵衛に気づく。
「昨日の小僧」
甚兵衛。
「どうも」
「気は変わったか?」
「仕事の話なら、まだ」
「そうか」
商人はあっさり笑った。
断られたことを怒っている様子はない。
藤吉が出てくる。
「何か御用で?」
「少し品を見せてもらいたくてな」
甚兵衛は思わず聞いた。
「競争相手なのに?」
商人が甚兵衛を見る。
「小僧」
「何」
「商人同士だからって、毎日殴り合ってると思ってるのか?」
甚兵衛。
「殴り合いは思ってない!」
商人は笑った。
「買うこともある」
藤吉。
「売ることもある」
弥助。
「情報を交換することもある」
甚兵衛は三人を順番に見る。
「……敵じゃない?」
藤吉。
「商売相手だ」
旅商人。
「時には競争相手だ」
弥助。
「時には客だ」
甚兵衛。
「どれなの」
三人。
「場合による」
甚兵衛。
「その言葉、嫌いになりそう!」
弥助が笑う。
旅商人は店の商品を見始めた。
その途中。
藤吉が、午前の老婆の布について話した。
商人の表情が変わった。
「ほつれた?」
「一枚です」
「どの布だ」
特徴を伝える。
商人はしばらく考える。
「あれか」
甚兵衛が口を挟む。
「知ってる?」
「同じ仕入れの品だ」
甚兵衛。
「じゃあ悪いって知って――」
藤吉。
「甚兵衛」
甚兵衛。
「……はい」
止まる。
旅商人は怒らなかった。
むしろ少し考えてから言う。
「実を言えば、少し値が安すぎるとは思った」
甚兵衛。
「え?」
「だが、数をまとめて買えたんでな」
藤吉。
「同じ品はまだ?」
「ある」
商人は腕を組んだ。
少し考える。
それから息を吐く。
「確認するか」
甚兵衛。
「売るのやめる?」
「まだ決めん」
甚兵衛。
「なんで!」
商人。
「全部同じ状態とは限らんだろ」
甚兵衛。
「……」
ついさっき。
自分が言われたばかりだった。
一枚悪かった。
だから全部悪い。
とは限らない。
商人は続ける。
「まず残ってる品を見直す」
「問題が多いなら扱いを考える」
甚兵衛。
「もし問題なかったら?」
「売る」
「値段は?」
「状態を見て決める」
甚兵衛は思わず呟く。
「……普通だ」
商人。
「何だと思ってた」
甚兵衛。
「悪徳商人」
藤吉。
「甚兵衛!」
一瞬。
商人の顔が固まった。
その直後。
腹を抱えて大笑いした。
「正直すぎるぞ、小僧!」
甚兵衛。
「だって話の流れが!」
「一枚ほつれただけで悪党扱いか」
「……ごめん」
甚兵衛は素直に頭を下げる。
商人。
「まあいい」
笑いながら、甚兵衛の頭へ手を伸ばしかける。
甚兵衛が半歩下がった。
商人の手が止まる。
「何だ。警戒するな」
甚兵衛。
「まだ二回しか会ってない」
商人は少し目を丸くした。
それから。
「なるほど」
今度は触らなかった。
そのまま藤吉との話へ戻る。
甚兵衛はそれを見ていた。
少しだけ。
あの商人への見方が変わった。
商人が帰った後。
藤吉が甚兵衛を見る。
「分かったか」
「何が」
「値が安い理由はいくつもある」
藤吉は指を折る。
「仕入れが上手かった」
「大量に買った」
「運ぶ費用を抑えた」
「早く売り切りたい」
「品質が少し落ちる」
少し間を置く。
「あるいは」
甚兵衛。
「騙してる」
「それもある」
甚兵衛はすぐ聞く。
「じゃあ、見分け方」
藤吉。
「一度で全部見分けられると思うな」
甚兵衛。
「また?」
「品を見る」
「うん」
「相手を見る」
「うん」
「過去を見る」
「うん」
「評判も聞く」
甚兵衛は数えるのをやめた。
藤吉。
「分からなければ、詳しい者へ聞く」
甚兵衛は少し考える。
「結局」
藤吉を見る。
「知ってる奴、増やした方がいい?」
「そういうことだ」
甚兵衛。
「……先生増やすのと同じだな」
藤吉。
「何だ」
「なんでもない」
その日の仕事が終わる頃。
甚兵衛は店の隅に、使い古された小さな木札が置いてあるのを見つけた。
前に配達で使わせてもらった板より少し厚い。
角は丸くなっている。
傷もある。
だが、まだ十分使えそうだった。
甚兵衛は手に取らず、弥助に聞いた。
「これ売り物?」
弥助。
「古いやつだな。売ってもいいぞ」
「何に使う?」
「書き付け」
甚兵衛の目が少し変わる。
自分が配達で使ったものに近い。
品の名。
数。
相手。
覚えておくこと。
「いくら?」
値を聞く。
甚兵衛。
「……」
買える。
今まで少しずつ貯めた自分の金で。
ただし。
当然、減る。
甚兵衛は木札を見る。
金の包みを思い浮かべる。
また木札。
弥助。
「欲しいのか」
「仕事で使えそう」
「なら買えば」
甚兵衛。
「でも金減る」
「当たり前だ」
「困った時のために貯めてんの」
弥助。
「じゃあ買わなきゃいい」
甚兵衛。
「でも、あったら仕事楽になる」
「じゃあ買え」
甚兵衛。
「どっち!」
弥助はとうとう声を上げた。
「お前の金だよ!」
奥から藤吉まで出てきた。
「何を騒いでる」
甚兵衛。
「買うか迷ってる」
藤吉。
「なら考えろ」
甚兵衛は木札を見る。
そのあと、自分の金を出した。
数える。
今持っている分。
値段。
残り。
「これ買ったら、全部なくなる?」
藤吉。
「なくならん」
「半分以上残る?」
「残る」
「これより安いのある?」
弥助。
「探せばあるかもしれん」
「これ、すぐ壊れそう?」
「使い古しだが、まだ使える」
甚兵衛は木札を裏返す。
傷。
汚れ。
でも割れてはいない。
「……」
もう一度。
金を見る。
昨日までは。
金は残した方がいいと思っていた。
困った時のため。
それは変わらない。
でも。
残すだけが正しいのか。
この木札があれば。
配達で忘れるものが減る。
仕事が少しやりやすくなる。
字の練習にも使える。
甚兵衛は決めた。
「買う」
藤吉。
「決めたか」
「うん」
自分の金を出す。
一枚。
二枚。
数える。
もう一度。
弥助。
「自分の買い物だと余計慎重だな」
甚兵衛。
「当たり前だろ!」
金を渡す。
木札を受け取る。
甚兵衛はしばらく、それを両手で眺めた。
自分の物。
借り物ではない。
拾った物でもない。
もらった物でもない。
自分が働いた。
その金で。
自分で選んで買った。
藤吉。
「嬉しいか」
甚兵衛はすぐ顔を逸らす。
「別に」
弥助。
「顔」
甚兵衛。
「見るな!」
慧円のところへ行くと。
甚兵衛は座るなり木札を出した。
「これ」
慧円。
「どうしたのかね」
「買った」
「ほう」
甚兵衛は少しだけ胸を張る。
「自分の金で」
慧円が笑った。
「それはよかった」
甚兵衛はすぐ木札を前へ置いた。
「仕事で使う字、もっと書けるようになりたい」
「では練習しよう」
「うん」
今日はやる気が違った。
筆を持つ。
最初に書いたのは。
自分の名前。
甚兵衛。
昨日より。
ほんの少し。
形が整っている。
次。
布。
米。
数。
渡。
受。
一字間違える。
甚兵衛。
「……違う」
消す。
もう一度。
慧円。
「今日は随分熱心だね」
甚兵衛。
「自分で金出したから、使わなきゃ損だろ」
「なるほど」
「何」
「理由が甚兵衛らしいと思ってね」
甚兵衛。
「いいだろ別に」
慧円。
「いいとも」
甚兵衛は、また筆を動かした。
夜。
物置。
戸を開ける。
「ただいま」
三匹。
『かえった』
甚兵衛は藁へ座る。
そして。
少し得意そうに、木札を出した。
三匹が集まる。
『なに』
甚兵衛。
「俺の」
『たべもの?』
「違う」
『かね?』
「金で買った」
三匹が一斉に鼻を近づける。
くんくん。
木の匂い。
墨の匂い。
甚兵衛。
「齧るなよ」
三匹。
『?』
「絶対齧るなよ!」
一匹が。
ほんの少し口を開けていた。
甚兵衛。
「今やろうとしただろ!」
鼠は知らない顔をした。
最初の鼠。
『かね、へった』
甚兵衛。
「減った」
『こまる?』
甚兵衛は残った金の包みを確認する。
まだある。
全部使ってはいない。
「今は大丈夫」
最初の鼠。
『じゃあ、いい』
甚兵衛。
「うん」
自分でも。
そう思う。
木札を見る。
「貯めるだけじゃなくてさ」
三匹が見る。
「後で楽になる物なら、使ってもいいんだな」
鼠。
『ごはん』
甚兵衛。
「お前らの場合、そればっかりだな」
別の鼠。
『す、つくる』
「巣?」
『あったかい』
甚兵衛。
「……」
食べ物を集める。
巣を作る。
安全な場所へ運ぶ。
自分は木札を買った。
やっていることは違う。
でも。
どれも。
明日のためだ。
甚兵衛は金の包みを見る。
「金って、貯めるだけじゃ意味ないんだな」
鼠。
『たべられない』
甚兵衛。
「だからそれはもう知ってる!」
藁へ横になる前。
今日買った木札を置く。
母の布とは別。
金とも別。
母の布は、売らない物。
金は、残して使う物。
木札は、毎日使う物。
少しずつ。
甚兵衛の周りにある物にも、それぞれ違う意味ができていた。
最初の鼠。
『あした』
甚兵衛。
「仕事」
『それ、もつ?』
木札を見る。
「持ってく」
『わすれない?』
甚兵衛。
「……」
少し考える。
昨日は覚えるための物を持たずに出て。
二往復した。
今日は。
明日の服を引き寄せる。
その上へ木札を置いた。
「これなら忘れない」
最初の鼠。
『かしこい』
甚兵衛は得意そうに笑う。
「だろ?」
鼠。
『たぶん』
甚兵衛。
「最後の一言いらねえよ」
三匹の鳴き声が、小さな物置に響く。
甚兵衛も笑った。
明日は。
今日より少しだけ。
忘れ物が減りそうだった。