『鼠は最後に帰ってくる』   作:隼人2

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できる奴に、全部やらせるな

翌朝。

甚兵衛は、いつもより少しだけ軽い足取りで村を歩いていた。

昨夜、明日着る着物の上に置いておいた木札も忘れていない。腰のところへしまい、何度か上から触って確かめる。

使うために自分の金で買った、最初の道具だ。

なくしたくない。

藤吉の店が見えてくる。

ところが、店先にはいつもの朝とは少し違う空気があった。

藤吉と弥助が向かい合っている。

笑っていない。

弥助の手には荷札。藤吉は帳面を開いたまま、低い声で何かを話していた。

「……これ以上は下げられん」

「でも向こうは、さらに安く出してます。このままだと、しばらく客を持っていかれるかもしれません」

昨日の旅商人のことだ。

甚兵衛は戸口で一度止まった。

気になる。

ものすごく気になる。

だが、まずは挨拶をする。

「おはようございます」

藤吉が顔を上げた。

「おう」

弥助もこちらを見る。

「早いな」

「最近は寝坊しないようにしてる」

藤吉。

「それが普通だ」

甚兵衛は少し不満そうな顔をする。

「そこは成長を褒めてくれてもよくない?」

「仕事を始めてから言え」

「はい」

すぐに箒を取った。

店先を掃く。

人が通る場所を確かめ、商品へ埃を飛ばさないようにする。

前なら、ただ外へ掃き出していた。

今は違う。

風の向きまで一応見る。

その間も、耳だけは藤吉たちの方へ向いていた。

しばらくして。

甚兵衛は我慢できなくなる。

「……何の話?」

藤吉。

「掃除」

「違う。さっきの」

「仕事が一段落してから聞け」

「はいはい」

口を尖らせながらも、手は止めない。

掃除。

品の確認。

棚の位置。

昨日覚えた順番。

一つ持つ。

確認する。

置く。

次。

数えた物と、まだ数えていない物を混ぜない。

最近、ようやく身体より先に頭が動くようになってきた。

弥助が横から見る。

「随分慎重になったな」

甚兵衛。

「金を間違えるよりまし」

「品も落としたことあるしな」

「芋の話はもう忘れて!」

弥助が笑う。

「失敗は忘れない方がいいんじゃなかったか?」

「そういう意味じゃねえ!」

朝の仕事が一段落すると、甚兵衛はすぐ藤吉のところへ行った。

「終わった」

藤吉は帳面から顔も上げない。

「何が」

「朝の仕事」

「で?」

甚兵衛は身を乗り出す。

「さっきの話」

藤吉がようやく顔を上げた。

「覚えてたのか」

「気になることは忘れないんだよ」

弥助。

「品の数は忘れるのにな」

甚兵衛。

「人には得意不得意がある!」

弥助が吹き出す。

藤吉は帳面を閉じた。

「近くに別の商人が来てる」

甚兵衛。

「昨日の?」

「ああ」

「まだいるんだ」

「しばらく、この辺りを回って売るつもりらしい」

甚兵衛の目が少し明るくなる。

「安いもんな」

「物によってはな」

甚兵衛はすぐ言った。

「じゃあ、うちも安くすればいいじゃん」

藤吉。

「何で?」

「売れるから」

「本当に?」

甚兵衛。

「……」

この言い方。

最近、覚えた。

藤吉がこう聞く時は、大体その先がある。

甚兵衛はすぐ答えるのをやめた。

「待って」

藤吉。

「待つぞ」

甚兵衛は指を折る。

安くする。

客が増える。

たくさん売れる。

金が入る。

そこまでは簡単だ。

でも。

昨日、教わった。

店に入った金全部が、儲けではない。

「……仕入れた値より安くしたら損?」

「当然だ」

「じゃあ、損しないところまで下げる」

「それで店は続くか?」

甚兵衛。

「……」

また一つ増えた。

仕入れた分だけ戻ればいい。

本当に?

「次の品を買う金」

「他は」

「運ぶ金」

「他は」

「働いてる人に払う分」

弥助が自分を指す。

「俺の飯も頼む」

甚兵衛。

「自分で言うなよ」

藤吉。

「まだある」

甚兵衛。

「多い!」

藤吉は店内を指した。

「この店」

甚兵衛も見る。

柱。

棚。

戸。

屋根。

「壊れたら?」

「直すのに金がいる」

「品が駄目になったら?」

「損」

「盗まれたら?」

「損」

「売れない日が続いたら?」

甚兵衛。

「……金が入らない」

藤吉。

「病気で働けん者が出たら?」

そこだけ。

甚兵衛の返事が少し遅れた。

弥助を見る。

藤吉を見る。

「……その人、どうすんの?」

「店によって違う」

「うちは?」

藤吉は少し考えた。

「できる範囲では助ける」

「給金も?」

「時と場合による」

甚兵衛。

「また“場合による”」

「何でも同じ答えになると思うな」

藤吉は少し間を置く。

「ただな」

甚兵衛は顔を上げた。

「働けなくなった瞬間に、もういらんと放り出していたら、長く働く奴はいなくなる」

甚兵衛。

「……」

その言葉は。

少しだけ胸に残った。

今日、動ける。

明日も動ける。

それは同じではない。

森で空腹のまま歩き続けて、足が止まりそうになったこともある。

寝不足で頭が回らなかった朝もある。

そして。

母。

熱があっても起きようとした姿。

水くらい自分で取ると言っていた声。

甚兵衛は少しだけ視線を落とす。

「じゃあ」

考えながら言葉にする。

「安くするって、その分どこかの余裕なくすこともある?」

藤吉。

「そうだ」

「客は安い方が嬉しいのに」

「嬉しいさ」

「じゃあ難しいじゃん」

藤吉。

「だから商いなんだ」

甚兵衛は顔をしかめた。

「便利だな、その言葉!」

弥助が笑った。

午前の仕事が進む。

店の奥から、時々咳が聞こえていた。

最初は気にしなかった。

一度。

二度。

また。

少し重い。

甚兵衛が顔を上げる。

「誰?」

弥助。

「作兵衛さんだ」

「誰?」

「荷の整理とか、奥の仕事を手伝ってる人」

甚兵衛は記憶を探る。

「会ったことあったっけ」

「朝早く来て、奥にいることが多いからな」

「今日は?」

「調子悪いらしい」

奥から、また咳。

甚兵衛は眉を寄せた。

「休まないの?」

「本人は大丈夫だって」

甚兵衛。

「……」

大丈夫。

嫌な言葉だった。

誰が決めた。

何をもって。

「本当に?」

弥助。

「俺に聞くな」

「藤吉さんは?」

「帰れとは言った」

「でもいる?」

「ああ。仕事が残ってるって」

甚兵衛は奥を見る。

「その仕事、他の人できないの?」

弥助。

「できるものもある」

「じゃあやればいいじゃん」

「簡単に言うな」

甚兵衛。

「何で」

弥助は少し言葉に詰まった。

「……作兵衛さんが一番慣れてる」

「だから早い」

甚兵衛は少し考える。

「それって」

一度止まって。

「作兵衛さんしか分からないこともある?」

弥助。

「あるな」

「いっぱい?」

「まあ」

甚兵衛の顔が変わった。

「それ、まずくない?」

「何が」

「だって」

甚兵衛は奥を指す。

「今日、本当に倒れたら」

「誰も分からない仕事出るんだろ」

弥助が黙った。

ちょうどそこへ、藤吉が奥から出てきた。

「何を話してる」

甚兵衛。

「作兵衛さん」

藤吉。

「それがどうした」

「休ませた方がいい」

「俺もそう言った」

「でも仕事残ってるからいる」

「ああ」

甚兵衛は少し勢いをつけた。

「じゃあ、その仕事、俺らで分ければいい」

藤吉。

「全部は無理だ」

「なんで」

「お前にはまだできん」

甚兵衛。

「俺だけじゃなくて!」

少し声が大きくなった。

「弥助とか」

「藤吉さんとか」

「他の人とか」

「分かるところだけでも」

藤吉は黙る。

甚兵衛は続けた。

「一番できる人だからって」

「全部その人にやらせてたら」

「その人がいない時、どうすんの」

静かになった。

言いすぎたかもしれない。

まだ店へ来て何日も経っていない。

仕事だって覚え始めたばかり。

甚兵衛は少し不安になる。

「……変?」

藤吉。

「いや」

「じゃあ」

藤吉は一度、奥を見る。

「まず作兵衛を帰す」

甚兵衛。

「うん」

「そのあと、残った仕事を見る」

弥助。

「俺も手伝います」

「頼む」

甚兵衛。

「俺は?」

藤吉は甚兵衛を見る。

「できるところだけだ」

甚兵衛はすぐ頷いた。

「それでいい」

店の奥。

作兵衛は五十前後の男だった。

甚兵衛が思っていたより細い。

ただ。

長く働いている人間らしく、荷を見る目と手の動きだけは迷いがなかった。

今は顔色が悪い。

時々咳もする。

藤吉は開口一番に言った。

「帰れ」

作兵衛。

「ですが、旦那」

「帰れ」

「まだ仕分けが」

「残りはこっちでやる」

作兵衛は弥助を見る。

「弥助だけじゃ――」

甚兵衛。

「俺もいる」

作兵衛が初めて甚兵衛を見る。

長い鼻。

出た歯。

大きな耳。

そして。

小さな木札を腰に挟んだ子供。

「……誰だ?」

甚兵衛。

「甚兵衛」

弥助。

「最近入った」

作兵衛。

「その子が?」

甚兵衛は少しむっとする。

「俺にできるところだけ」

少し間。

「分かんないところは聞く」

それから、作兵衛の顔を見る。

「だから帰って寝て」

作兵衛。

「……」

甚兵衛。

「“大丈夫”って言って倒れたら、もっと仕事止まるだろ」

作兵衛が少し眉を寄せる。

「随分言うな、小僧」

甚兵衛。

「小僧だから言ってんの」

「大人が勝手に無茶すんの、よく分かんないし」

そこまで言って。

一瞬だけ。

母の姿が重なった。

熱がある。

顔色も悪い。

それでも起きようとした。

大丈夫。

まだできる。

そう言っていた。

甚兵衛の声が少しだけ弱くなる。

「……休めるなら、休んだ方がいい」

作兵衛はしばらく甚兵衛を見る。

やがて藤吉へ向き直った。

「旦那」

「何だ」

「本当に任せていいんですか」

藤吉。

「全部お前一人に任せすぎていた、こっちにも問題がある」

作兵衛。

「……」

「今日は帰れ」

長い沈黙の後。

作兵衛はようやく頷いた。

「分かりました」

甚兵衛は少しだけ息を吐いた。

これで終わり。

――ではなかった。

作兵衛が帰ったあと。

甚兵衛は奥に積まれた荷を見た。

右。

左。

奥。

箱。

籠。

包み。

「で」

弥助。

「何だ」

甚兵衛。

「何すんの?」

弥助が呆れた顔をした。

「威勢よく作兵衛さん止めといて、それか」

甚兵衛。

「知らないんだから仕方ないだろ!」

藤吉が指示を出す。

「まず、作兵衛が今日やる予定だった仕事を分ける」

甚兵衛。

「はい」

「弥助」

「はい」

「この荷の確認」

「分かりました」

「俺は帳面を見る」

それから。

「甚兵衛」

「はい」

「数える」

甚兵衛の顔が少し明るくなる。

「できる」

藤吉。

「品を勝手に判断するな」

「分からないものは?」

甚兵衛。

「聞く」

「よし」

始まった。

十分後。

「藤吉さん!」

「何だ!」

甚兵衛は乾物らしき包みを持っている。

「これ何!」

「乾物!」

「それは分かる! どれと一緒にすんの!」

藤吉。

「弥助!」

奥から弥助。

「今そっち行けない!」

甚兵衛。

「じゃあ待つ!」

藤吉。

「そうしろ!」

五分後。

「弥助!」

「今行く!」

さらに少しして。

甚兵衛。

「これ数合わない!」

弥助。

「もう一回!」

「三回数えた!」

「なら帳面!」

甚兵衛は帳面を見る。

「読めない!」

藤吉。

「読めるところ探せ!」

「無茶言うな!」

店の奥は、朝とは比べ物にならないほど騒がしくなった。

誰かが動く。

誰かが止まる。

誰かに聞く。

戻る。

また確認する。

普段なら作兵衛が一人で判断していたところで、三人が何度も止まる。

甚兵衛は、そこで初めて分かった。

「できる」というのは。

ただ手を動かせることではない。

何を見ればいいのか。

どこへ置けばいいのか。

どの順番でやればいいのか。

異常があったら、どうすればいいのか。

それを知っていることまで含めて。

できる、なのだ。

昼。

三人とも疲れていた。

甚兵衛は握り飯を持ちながら、床に座っている。

「……作兵衛さん、これいつも一人でやってたの?」

弥助。

「大体な」

甚兵衛は思わず言う。

「おかしいだろ」

藤吉。

「今までは回っていた」

甚兵衛。

「今日回ってないじゃん」

「回してる」

「ぎりぎりじゃん!」

藤吉は何も言わない。

甚兵衛は少ししてから視線を落とした。

「……ごめん」

藤吉。

「何が」

「偉そうに言った」

「……」

甚兵衛は握り飯を見ながら続ける。

「俺も全然できなかったし」

藤吉。

「だから覚える」

甚兵衛が顔を上げる。

藤吉は握り飯を一口食べる。

「作兵衛にしか分からん仕事が多すぎた」

弥助も頷いた。

「ですね」

「戻ったら全部聞く」

「はい」

「記録も増やす」

甚兵衛。

「教えてもらう?」

「ああ」

「俺も?」

藤吉。

「お前にできるものはな」

甚兵衛はすぐ答える。

「じゃあ覚える」

弥助。

「仕事増えるぞ」

甚兵衛。

「……」

一瞬だけ迷った。

「給金も増える?」

弥助が盛大に吹き出した。

藤吉。

「できる仕事が増えたら話す」

甚兵衛の顔が明るくなる。

「よし」

弥助。

「結局そこか!」

甚兵衛。

「大事だろ!」

午後。

作業は続いた。

甚兵衛は昨日買った木札を出す。

品名。

数。

置く場所。

分からない字は、ひとまず自分に分かる印。

ただし。

今回はそれで終わらせなかった。

「弥助」

「何だ」

甚兵衛は木札を見せる。

「これ、俺しか読めないから」

弥助が覗き込む。

「本当だな」

「だから、横にちゃんとした字書いて」

弥助は少し意外そうな顔をした。

「いいのか」

「何が」

「前は、自分が分かればいいって言ってただろ」

甚兵衛。

「俺しか分かんなかったら」

木札を見る。

「俺が休んだ時、また同じになる」

弥助の表情が少し変わった。

「……そうだな」

「じゃあお願い」

「分かった」

弥助が正式な字を書く。

甚兵衛はその横に、自分の印を残す。

見比べる。

読む。

覚える。

「ありがとう」

弥助。

「珍しく素直だな」

甚兵衛。

「仕事止まったら俺も困る」

「そこか」

甚兵衛は少し笑う。

「あと」

今度は少し真面目になる。

「次、誰か休んでも今日みたいにならない方がいい」

弥助も笑わなかった。

「ああ」

「その方がいい」

夕方。

なんとか。

本当に、なんとか。

その日に予定されていた分が終わった。

甚兵衛は床へ座り込んだ。

「疲れた……」

藤吉。

「座るなら端に寄れ」

甚兵衛。

「もう動きたくない」

「そこ商品通る」

甚兵衛。

「はい……」

ほとんど這うように端へ移動する。

弥助。

「お前、一番仕事少なかっただろ」

甚兵衛はすぐ反論する。

「頭使った!」

「数えただけだろ」

「分かんない物だらけの中で数えるの大変なんだよ!」

藤吉が帳面を閉じた。

「今日は終わり」

甚兵衛の頭が上がる。

「本当に?」

「ああ」

「帰っていい?」

「いい」

「やった」

立ち上がる。

弥助。

「元気じゃねえか」

甚兵衛。

「帰っていいって言われたら元気出るんだよ!」

店を出る。

足が重い。

いつもの道。

寺へ行けば、慧円がいる。

字を習う日だ。

甚兵衛は道の途中で止まった。

寺。

物置。

寺。

物置。

「……」

今日は疲れている。

でも。

一日休めば、一日遅れる。

行ける。

多分。

そう考えていると。

道端から最初の鼠が出てきた。

『つかれた』

甚兵衛。

「分かる?」

『おそい』

「何が」

『あし』

甚兵衛は自分の足を見る。

『いつもより』

「……」

よく見ている。

甚兵衛。

「字の勉強ある」

鼠。

『ねる?』

「……」

甚兵衛は寺の方向を見る。

今日。

作兵衛へ言った。

休めるなら休んだ方がいい。

自分だけ、

まだ動ける。

もう少しだけ。

と言って無理をする。

それは。

少し変な気がした。

甚兵衛。

「俺だけ行ったら変か?」

鼠。

『しらない』

「だよな」

少し考えた。

「今日は帰る」

ただし。

そのまま物置には行かなかった。

慧円のところへだけ寄る。

戸口から顔を出す。

「慧円さん」

慧円がこちらを見る。

「甚兵衛。今日は遅い――」

「今日休む」

慧円は少しだけ目を丸くした。

「ほう」

甚兵衛。

「仕事で疲れた」

「そうか」

「……怒らない?」

「なぜ怒る」

甚兵衛。

「勉強休むから」

慧円は少し笑った。

「毎日やらなければ忘れることもある」

甚兵衛。

「うん」

「だが」

甚兵衛を見る。

「疲れ切った頭で覚えられるかね」

甚兵衛。

「……多分、あんまり」

「なら今日は帰りなさい」

甚兵衛は少し安心した。

「明日は来る」

「待っているよ」

「じゃあ」

数歩。

歩いて。

また戻る。

「慧円さん」

「何かね」

甚兵衛は少し言いにくそうに聞いた。

「休むのも、さぼりじゃない時ある?」

慧円は、すぐには答えなかった。

甚兵衛の顔を見る。

「自分で分かっているだろう」

甚兵衛。

「確認しただけ」

慧円が微笑む。

「なら、今日は休みなさい」

「うん」

今度こそ帰った。

物置。

戸を開ける。

「ただいま……」

三匹。

『かえった』

甚兵衛はそのまま藁へ倒れた。

顔から。

「疲れた」

一匹。

『ごはん』

「……食う」

そこだけは忘れない。

簡単に腹を満たす。

水を飲む。

少しだけ身体を起こし、今日使った木札を出す。

自分の印。

弥助が書いた字。

品。

数。

場所。

甚兵衛。

「明日、これ清書しなきゃ」

最初の鼠。

『あした』

「今日はしない」

『なぜ』

甚兵衛。

「眠いから」

『ねる』

「うん」

木札を置く。

最初の鼠が、甚兵衛の横で丸くなった。

しばらくして。

『きょう、いっぱい?』

甚兵衛。

「仕事?」

『うん』

「いっぱいだった」

『ひとり?』

「三人」

鼠は少し考える。

『なら、はやい?』

甚兵衛。

「……」

自分。

藤吉。

弥助。

三人。

それでも。

一日かかった。

「一人だったら、もっと遅かった」

鼠。

『じゃあ、いい』

甚兵衛は少し笑った。

「そうだな」

目を閉じる。

作兵衛。

藤吉。

弥助。

自分。

一人が休んだだけで。

店の奥は大騒ぎになった。

「……」

これまで。

できる人に任せればいい。

そう思っていた。

それ自体は間違っていない。

できる人がやった方が早い。

失敗も少ない。

でも。

その人にしかできないままにしておく。

それは。

少し怖い。

甚兵衛。

「なあ」

最初の鼠。

『なに』

「お前がいなくても、他の二匹、森からここまで帰れる?」

三匹が顔を上げた。

最初の鼠。

『ちがうみち、しってる』

甚兵衛。

「同じ道じゃない?」

『ちがう』

もう一匹。

『こっち』

別の一匹。

『あっち』

甚兵衛。

「でも、帰れる?」

三匹。

『かえれる』

甚兵衛は天井を見る。

「……」

同じことができなくても。

同じ道を知らなくても。

帰る方法がある。

それなら。

一匹がいなくても。

全部終わりにはならない。

甚兵衛は小さく息を吐いた。

「俺も、もうちょい仕事覚えよ」

鼠。

『あした?』

「明日」

『きょうは?』

甚兵衛は藁へ顔を埋めた。

「寝る!」

三匹。

『ねる』

笑う力も、もうあまり残っていない。

それでも。

少しだけ口元が緩んだ。

今日は休む。

明日また覚える。

仕事を覚えることも。

字を覚えることも。

誰か一人しか知らないことを、少しずつ他の誰かも分かるようにすることも。

そして。

明日また動けるように眠ることも。

今の甚兵衛には。

全部、同じくらい必要だった。

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