江戸編 第十四話「昨日より、ひとつ」
翌朝。
鼻先に、ちくりとした痛みが走った。
「痛っ」
甚兵衛は反射的に顔をしかめ、目を開けた。
すぐ目の前に鼠がいる。
最初から一緒にいる一匹だった。前足を甚兵衛の鼻先へ乗せたまま、何でもないような顔をしている。
『おきた』
「起きたけどさ。もっと普通に起こせ」
鼠が首を傾げた。
『ふつう?』
「……」
甚兵衛はしばらく鼠を見つめた。
肩を叩く。
声をかける。
その辺を説明しようとして、やめた。
鼠相手に「人間の普通」を説明し始めたら、朝飯より先に日が高くなりそうだ。
「もういい」
藁を押して身体を起こす。
その瞬間。
腕に重さが残っていることに気づいた。
「うっ……」
腰も少し痛い。
昨日は一日、慣れない荷を運び、数を確認し、何度も店の奥を走り回った。
寝れば全部消えると思っていたわけではないが、身体は正直だった。
それでも。
頭は昨日の夕方よりずっと軽い。
眠気も、それほどひどくない。
甚兵衛は肩を回した。
「寝るのも必要なんだな……」
鼠。
『ねる?』
「そう」
『しごと?』
「仕事じゃない」
そう答えてから、少し考える。
「……いや、仕事するためには必要か」
三匹の鼠が顔を見合わせた。
『わからない』
「俺も、今ちょうど分かり始めたところ」
立ち上がる。
外へ出て、水で顔を洗った。
冷たい。
思わず肩が縮む。
だが、一気に眠気が飛んだ。
「よし」
今日も店へ行く。
昨日覚えたことを、忘れないうちに。
◇
藤吉の店へ着くと、少し意外な人物が先に来ていた。
作兵衛だった。
昨日は咳を繰り返し、藤吉にほとんど追い出されるように帰された男だ。
今日は荷札を束ねながら、店の奥でゆっくり仕事をしている。
顔色も昨日よりはましだった。
それでも、万全というほどではない。
甚兵衛は少し眉を寄せた。
「おはようございます」
作兵衛が顔を上げる。
「おう」
「もう大丈夫なんですか」
「昨日寝たからな。だいぶましだ」
「“だいぶ”?」
作兵衛が苦笑する。
「お前、細かいな」
「昨日倒れそうだった人に言われても」
「倒れてねえよ」
「倒れてからじゃ遅いって昨日言ったじゃないですか」
作兵衛は何か返そうとして、やめた。
「……元気そうだな、お前は」
「俺も腕痛いです」
「じゃあ働け」
「そこは同じなんだ」
甚兵衛は苦笑しながら箒を取った。
「何からやればいいです?」
「まず掃除だ」
「はい」
歩きかける。
そこで。
甚兵衛は止まった。
昨日の店を思い出す。
作兵衛が休んだ。
ただ、それだけだった。
それなのに。
藤吉。
弥助。
自分。
三人で走り回って、ようやく一日の仕事を終えた。
甚兵衛は箒を持ったまま振り返った。
「あの」
作兵衛。
「ん?」
「掃除終わったら、作兵衛さんの仕事も教えてもらっていいですか」
作兵衛の手が止まった。
「俺の?」
「はい」
「どうした、急に」
甚兵衛は少し迷った。
自分でも、昨日までならこんなことを言わなかったと思う。
仕事が増える。
覚えることも増える。
楽ではない。
それでも。
「昨日、作兵衛さんが休んだでしょう」
「ああ」
「それで、店の奥がすごいことになったから」
作兵衛は黙って聞いている。
甚兵衛は続けた。
「俺でもできるところがあるなら、覚えておいた方がいいかなって」
「……」
作兵衛が甚兵衛を見る。
少し長い。
甚兵衛は不安になる。
「駄目ですか」
「いや」
作兵衛は荷札へ視線を戻した。
「いいんじゃねえか」
甚兵衛の顔が少し明るくなった。
「じゃあ――」
「掃除が先だ」
「あ」
「今の仕事放って、次の仕事覚えに行くな」
甚兵衛は箒を持ち直した。
「はい」
それから。
作兵衛は、もう一つ付け足した。
「あと」
「はい?」
「一日で何でも覚えようとすんな」
甚兵衛の動きが止まる。
昨日。
仕事。
字。
数字。
荷。
帳面。
全部を頭へ入れようとして。
夕方には何が何だか分からなくなっていた。
自分が作兵衛へ、
休め。
と偉そうに言ったくせに。
自分だって似たようなことをしそうになっていた。
「……はい」
今度は素直に返事をした。
◇
掃除が終わる頃。
藤吉と弥助も店へ来た。
藤吉は店へ入ってくるなり、作兵衛へ目を向ける。
「本当に大丈夫か」
作兵衛。
「今日は昨日よりましです」
藤吉。
「咳が増えたら帰れ」
「分かってます」
甚兵衛は横で聞いていた。
昨日より少しだけ、話が変わっている。
ただ「大丈夫」と言って終わりではない。
条件がある。
悪くなったら帰る。
それなら、昨日よりは分かる。
藤吉が荷物を置き、今度は甚兵衛を見る。
「お前、作兵衛の仕事覚えたいんだって?」
甚兵衛。
「もう聞いたんですか」
「作兵衛さんから」
「早いなあ」
「狭い店だからな」
甚兵衛は少し気まずそうに頭を掻く。
「まあ……できるところだけ」
藤吉が首を傾げた。
「何でまた」
作兵衛と同じ質問だ。
甚兵衛は今度はすぐ答えた。
「昨日、作兵衛さんがいなかったからです」
「それで?」
「一人抜けただけで、仕事止まりかけたでしょう」
藤吉は否定しない。
「だから」
甚兵衛は店の奥を見る。
「俺でも分かること増やしとけば、次は少しましかなって」
藤吉は少し甚兵衛を見る。
それから。
「来い」
「え」
「覚えたいんだろ」
甚兵衛はすぐついていった。
帳場の横。
置かれていたのは。
紙。
墨。
荷札。
文字。
甚兵衛の顔から、少しだけ元気が消えた。
「……字」
藤吉。
「字」
一番苦手なやつだ。
「作兵衛さんの仕事じゃなかったんですか」
「荷の整理するなら、荷札読めなきゃ話にならん」
甚兵衛。
「逃げ道がない……」
藤吉は荷札を一枚取った。
「まず品の名前」
「はい」
「数」
「はい」
「誰から来たか」
「はい」
「どこへ持っていくか」
甚兵衛の返事が少し弱くなる。
「……はい」
藤吉。
「顔が死んでるぞ」
「多くないですか」
「多い」
「減らせません?」
「減らしたら荷物が迷子になる」
甚兵衛は真顔になった。
「それは困る」
「だろ」
藤吉は筆を取り、さらさらと書く。
甚兵衛は横から覗き込んだ。
まだ。
文字を読むには時間がかかる。
知っている字を探す。
形を見る。
声に出す。
「……油?」
「おう」
甚兵衛の顔が少し明るくなる。
「じゃあ、こっちは」
しばらく睨む。
「……酢?」
「正解」
二つの荷札を並べる。
甚兵衛は顔を近づけた。
「似てる」
藤吉。
「どこがだよ」
「俺には似て見えるんですよ」
「なら百回見ろ」
甚兵衛が振り返る。
「百回?」
「百回で駄目なら二百回」
「力技だなあ」
「最初なんざ、そんなもんだ」
甚兵衛はもう一度、二つの文字を見る。
油。
酢。
一度で完璧に覚えろ。
そう言われたら、嫌になる。
だが。
一日一回でも。
百日なら百回になる。
甚兵衛は少し考えた。
今日中に全部覚える必要はない。
昨日、作兵衛にも言われたばかりだ。
「……分かりました」
藤吉が少し妙な顔をした。
「今日はやけに素直だな」
甚兵衛。
「教えてもらう相手に喧嘩売ってどうするんです」
「そこは分かるんだな」
「俺だって少しは成長しますよ」
「昨日の今日で随分でかく出たな」
「少しって言ったじゃん」
◇
昼前。
今度は弥助のところへ行った。
弥助は縄を切り分けている。
甚兵衛は、その手元をしばらく見る。
縄を掛ける。
回す。
締める。
無駄がない。
「それ、教えてください」
弥助が顔を上げた。
「何を」
「結び方」
「お前、一つできるだろ」
「一つしかできません」
「一つできりゃいいじゃねえか」
甚兵衛は首を振った。
「昨日思ったんですけど」
また。
同じ話をした。
作兵衛が休んだ。
一人いないだけで。
普段なら進む仕事が何度も止まった。
弥助は最後まで聞いて。
「ふうん」
とだけ言った。
次の瞬間。
縄が飛んできた。
甚兵衛は慌てて受け取る。
「うわっ」
弥助。
「じゃあ、やれ」
「え?」
「覚えたいんだろ」
甚兵衛は縄を見る。
弥助を見る。
「先に見本を」
「見せても忘れる」
甚兵衛。
「……」
「失敗した方が覚える」
「嫌な教え方だな」
「嫌ならやめるか?」
甚兵衛は縄を見る。
昨日からの自分を考える。
芋。
金。
荷。
忘れ物。
間違えて。
直して。
覚えたものは、確かに多い。
「……やる」
結ぶ。
弥助。
「違う」
解く。
もう一度。
「違う」
三度目。
「遅い」
甚兵衛。
「難しい!」
「荷物は待っちゃくれねえぞ」
「荷物に心なんかないでしょう!」
弥助は真顔で答えた。
「だから待たねえんだよ」
甚兵衛。
「理屈が強い!」
弥助が声を上げて笑った。
甚兵衛はむっとしながら、また縄を解いた。
◇
午後。
荷が来た。
しかも。
多い。
店先へ次々と荷が下ろされる。
籠。
箱。
包み。
作兵衛が一つ担ぎながら言った。
「何で今日に限って多いんだ」
弥助。
「商売なんてそんなもんでしょう!」
甚兵衛。
「昨日より多くない!?」
藤吉の声が飛ぶ。
「甚兵衛!」
「はい!」
「荷札!」
「はい!」
走る。
一枚受け取る。
読む。
「油、三!」
藤吉。
「二だ!」
甚兵衛はもう一度見る。
「二!」
「慌てるな!」
「はい!」
次。
「酢、四!」
藤吉。
「合ってる!」
甚兵衛の顔が少しだけ明るくなる。
次。
「米……」
そこまでは読める。
数も分かる。
だが。
その下。
送り先。
分からない。
甚兵衛の視線が止まる。
前なら。
ここで全部止まっていた。
分からない。
読めない。
どうしよう。
今は。
「これ、どこです!」
藤吉。
「右下!」
甚兵衛は荷札を見る。
「右下……」
やっぱり読めない。
甚兵衛は素直に叫んだ。
「無理!」
「甚兵衛!」
「はい!」
藤吉が送り先だけ読み上げる。
甚兵衛は復唱する。
「○○さんとこ!」
「そうだ!」
「分かった!」
そのまま荷へ走る。
全部は読めない。
でも。
読めるところは読める。
分からないところだけ聞けばいい。
一つ分からないからといって。
全部を止める必要はない。
そんなことが。
少しずつ分かってきた。
その途中。
弥助が別の荷へ呼ばれた。
作兵衛が振り返る。
「甚兵衛! 縄!」
甚兵衛の足が止まった。
「え」
「そこまとめろ!」
「俺が!?」
「さっき習ったろ!」
甚兵衛は縄を見る。
「今!?」
作兵衛。
「いつ使うんだよ!」
「……その通りだ!」
逃げ道がない。
甚兵衛は縄を掴んだ。
朝なら。
できなかった。
今だって。
上手くはない。
一度。
二度。
三度。
失敗しただけだ。
縄を回す。
締める。
「……違う」
自分で分かった。
解く。
もう一度。
さっき弥助がしていた手の動きを思い出す。
ここ。
回す。
通す。
締める。
「これ!」
作兵衛が手を伸ばす。
縄を強く引いた。
荷が崩れないか確かめる。
ほどけない。
「よし!」
甚兵衛の目が大きくなる。
「できた?」
「できてる! 次!」
「はい!」
褒める暇もない。
喜ぶ暇もない。
すぐ次の仕事。
それでも。
走り出した甚兵衛の胸の奥が。
少しだけ熱かった。
たった一つ。
縄を結んだだけ。
弥助なら。
もっと速い。
作兵衛なら。
確認するまでもなくできる。
それでも。
昨日の自分にはできなかった。
今日は。
できた。
◇
夕方。
最後の荷が片づいた。
甚兵衛は店の裏へ出るなり、その場へ座り込んだ。
「疲れた……」
すぐそばの草むらが揺れた。
最初の鼠が顔を出す。
『いっぱい?』
甚兵衛。
「いっぱい」
『ひとり?』
甚兵衛は少し考える。
作兵衛。
藤吉。
弥助。
自分。
「今日は四人」
鼠。
『はやい?』
昨日。
三人で大騒ぎだった。
今日は四人。
自分ができる仕事も少し増えた。
「昨日よりは」
鼠はすぐ頷く。
『じゃあ、いい』
甚兵衛。
「……」
思わず笑った。
「お前、それ好きだな」
鼠。
『いい?』
「いいよ」
少なくとも。
昨日よりは。
悪くない。
◇
帰ろうとしたところで。
「甚兵衛」
作兵衛に呼び止められた。
「はい」
何かしたか。
荷札。
最初に油の数を間違えた。
それか。
縄の締め方か。
甚兵衛は少し身構える。
作兵衛は懐から銭を出した。
甚兵衛の手へ置く。
「今日の分」
甚兵衛は受け取る。
数える。
一度。
もう一度。
「……あれ」
顔を上げる。
「多くないですか」
「昨日よりな」
「何で」
作兵衛は指を折る。
「荷札」
「はい」
「縄」
「はい」
「昨日より仕事した」
甚兵衛は手の中の銭を見る。
ほんの少し。
本当に。
少しだけ多い。
「だから昨日より払う」
甚兵衛。
「……」
昨日できなかったことを。
今日やった。
完璧ではない。
荷札も間違えた。
読めないところもあった。
縄だって、何度も失敗した。
聞いた。
助けてもらった。
それでも。
昨日より少し。
仕事になった。
甚兵衛は銭を握る。
「ありがとうございます」
作兵衛が鼻を鳴らした。
「明日も増えると思うなよ」
「分かってます」
「失敗増えたら減らすぞ」
甚兵衛は即答する。
「それは嫌だ」
「なら失敗減らせ」
「はい」
単純だった。
できることが増えた。
その分。
少し増えた。
甚兵衛には、そのくらい分かりやすい方がありがたかった。
◇
帰り道。
甚兵衛は何度か手の中の銭を見る。
三匹の鼠が足元をついてくる。
『いっぱい?』
「これ?」
『うん』
手を開く。
甚兵衛。
「少ない」
鼠。
『すくない?』
「少ない」
昨日より。
ほんの少し多いだけ。
これで何か大きな物が買えるわけでもない。
寝る場所が手に入るわけでもない。
それでも。
甚兵衛は手を閉じた。
「でもな」
鼠。
『でも?』
甚兵衛は歩きながら少し笑う。
「昨日できなかったことが、今日ちょっとできた」
三匹が顔を上げる。
最初の鼠。
『じゃあ、いい?』
甚兵衛は少し考えた。
「そうだな」
今度は。
自分から歩き出した。
◇
夜。
慧円のところ。
今日の甚兵衛は、普段より商いで使う文字ばかり書いていた。
油。
酢。
米。
数。
送り先で見た字。
何度も。
油。
酢。
米。
一字間違える。
「あ」
消す。
もう一度。
今度は形が少しましになる。
慧円が横から覗き込んだ。
「今日は随分と商いの字ばかりじゃな」
「店で使うから」
「ほう」
「使うやつから覚えた方が、早いかなって」
慧円は頷いた。
「理には適っておる」
甚兵衛が顔を上げる。
「ほんと?」
「ただし」
甚兵衛の顔が曇る。
嫌な予感。
「……はい」
慧円は笑う。
「それだけ覚えればよい、とは言っておらん」
甚兵衛。
「やっぱり?」
「当然じゃ」
甚兵衛は机へ額をつけた。
「覚えること増えた……」
「増えたのではない」
慧円が筆を整える。
「今まで知らなかっただけじゃ」
甚兵衛は顔だけ横へ向ける。
「それ、一番嫌な増え方」
慧円が声を立てて笑った。
◇
物置へ帰る。
「ただいま」
三匹。
『かえった』
甚兵衛は藁へ身体を投げ出した。
三匹も、いつもの場所へ散っていく。
しばらくして。
甚兵衛が口を開いた。
「今日な」
最初の鼠。
『なに』
「縄、一個結べた」
『なわ』
「荷物のやつ」
鼠が顔を上げる。
『すごい?』
甚兵衛。
「……」
考える。
作兵衛なら普通。
弥助なら速い。
藤吉だって、多分できる。
大した技ではない。
誰かから見れば。
できて当たり前かもしれない。
でも。
昨日の自分には。
できなかった。
甚兵衛は天井を見ながら答えた。
「俺には、ちょっとすごい」
鼠は迷わなかった。
『じゃあ、すごい』
甚兵衛は小さく笑う。
「そうだな」
目を閉じる。
できる人がいる。
だから。
任せる。
それは悪くない。
自分より上手い奴にやってもらった方が、早いことだってある。
でも。
ほんの少しでも。
自分にもできるなら。
その人がいない時。
戻ってくるまで。
つなげるかもしれない。
全部。
同じようにできなくてもいい。
鼠たちだって。
それぞれ別の道を知っている。
同じ道でなくても。
帰ってこられる。
甚兵衛は眠気の中で、ぽつりと呟いた。
「明日は何覚えようかな」
藁の向こうから。
最初の鼠。
『あした、きめる』
甚兵衛。
「……それもそうか」
明日のことは。
明日決める。
今日覚えたことは。
なるべく忘れない。
そして。
忘れたら。
また聞く。
今の甚兵衛には。
まだ、それで十分だった。