『鼠は最後に帰ってくる』   作:隼人2

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覚えることが、多すぎる

翌朝。

鼻先に、ちくりとした痛みが走った。

「痛っ」

甚兵衛が反射的に目を開けると、視界いっぱいに鼠の顔があった。

最初から一緒にいる一匹だ。甚兵衛の鼻先へ前足をかけ、起きたことを確認すると満足そうに髭を動かす。

『おきた』

「起きたけどさ。もっと普通に起こせ」

鼠が首を傾げる。

『ふつう?』

「……」

甚兵衛はしばらく鼠と見つめ合った。

声をかけるとか、肩を叩くとか、そういう話を鼠に一から説明する光景を想像する。

面倒だった。

「もういい」

藁を押して身体を起こす。

昨日より少しだけ身体が軽い。

疲れが消えたわけではない。腕にはまだ荷物を持ち続けた重さが残っているし、腰にも鈍い痛みがあった。

それでも、動ける。

昨日の夕方のように、座ったらそのまま立ちたくなくなるほどではない。

甚兵衛は肩を回した。

「寝るのも仕事って、こういうことかね」

鼠。

『しごと?』

「……違うか」

別の二匹も藁の中から顔を出す。

三匹。

『しらない』

甚兵衛は苦笑した。

「俺も知らん」

物置の外へ出て、冷たい水で顔を洗う。

「っ、冷てえ!」

眠気が一気に吹き飛んだ。

頬を拭い、甚兵衛は大きく息を吐く。

今日も仕事だ。

昨日より、ほんの少しでも何かできればいい。

◇

店へ着くと、作兵衛はすでに働いていた。

店の奥に積まれた荷札を、一枚ずつ確かめながら束ねている。

甚兵衛が戸口から声をかけた。

「おはようございます」

作兵衛が顔を上げる。

「おう。今日は早えな」

「昨日よりは」

「昨日はぎりぎりだったからな」

甚兵衛。

「……はい」

そこは反論できない。

作兵衛は鼻で笑って、また荷札へ視線を戻した。

甚兵衛は少し店の中を見回す。

「何すればいいです?」

「まず掃き掃除」

「はい」

もう迷わない。

箒を取る。

店先へ向かいかけて――足を止めた。

昨日から、ずっと頭の片隅に残っていたことがある。

「あの」

作兵衛。

「ん?」

「そのあとなんですけど」

「そのあと?」

甚兵衛は箒を持ったまま振り返った。

「藤吉さんがやってる仕事、教えてもらえません?」

作兵衛の手が止まった。

「藤吉の?」

「はい」

「何でまた」

甚兵衛は少しだけ言葉を探す。

「昨日、藤吉さん休んだじゃないですか」

「ああ」

「それで店の奥、大変だったから」

昨日は普段なら藤吉が見ているところまで、作兵衛や弥助が手を回さなければならなかった。

自分も手伝った。

だが、知らないことが多すぎて、聞かなければ動けない場面の方が多かった。

甚兵衛は続ける。

「俺でもできることなら、覚えといた方がいいかなって」

作兵衛は何も言わず甚兵衛を見る。

少し長い。

甚兵衛はだんだん不安になってきた。

「……駄目ですか」

「いや」

作兵衛の口元が少し緩んだ。

「いいんじゃねえか」

甚兵衛の顔が明るくなる。

「じゃあ――」

「掃除終わってからな」

「あ」

作兵衛は箒を指した。

「今やる仕事放って次の仕事覚えに行くな」

「はい」

甚兵衛は慌てて箒を持ち直す。

その背中へ、作兵衛がもう一言投げた。

「あと」

「はい?」

「一日で全部覚えようとすんなよ」

甚兵衛の足が止まった。

昨日の自分を思い出す。

仕事。

文字。

数字。

品物。

覚えられるものは全部覚えようとして、夕方には頭の中でいくつも混ざっていた。

「……はい」

今度は素直だった。

作兵衛が少し意外そうな顔をしたが、何も言わなかった。

◇

掃除が終わる頃、藤吉が店へ来た。

今日はいる。

甚兵衛が少し安心したところで、藤吉は荷を置くなりこちらを見る。

「甚兵衛」

「はい」

「お前、俺の仕事覚えたいんだって?」

甚兵衛は目を丸くした。

「もう聞いたんですか」

「作兵衛さんに」

「話が早いなあ……」

藤吉は少し笑う。

「で?」

甚兵衛は頭を掻いた。

「全部じゃないです。できるところだけ」

「何でまた」

作兵衛と同じ問いだった。

甚兵衛も、今度は少し早く答えられる。

「昨日、藤吉さんいなかったから」

「俺が?」

「はい」

藤吉がわざとらしく肩をすくめる。

「そりゃ悪かったな」

甚兵衛は慌てた。

「そういう意味じゃないですって」

「分かってるよ」

笑われた。

「来い」

藤吉に呼ばれ、帳場の横へ行く。

そこに置かれていたものを見て。

甚兵衛の顔が曇った。

紙。

墨。

荷札。

「……字」

藤吉。

「字だ」

一番苦手なものから来た。

藤吉は荷札を一枚持ち上げる。

「まず品の名前」

「はい」

「数」

「はい」

「誰から来たか」

「はい」

「どこへ出すか」

甚兵衛。

「……はい」

藤吉が吹き出す。

「顔死んでるぞ」

「覚えること多くないですか」

「多い」

「減らせません?」

「減らしたら荷が迷子になる」

甚兵衛は真顔になる。

「それは困る」

「だろ」

藤吉は筆を取り、さらさらと荷札へ文字を書く。

甚兵衛は横から覗き込んだ。

まだ読むのは遅い。

一文字ずつ。

知っている形を探す。

「……これ、油?」

「おう」

甚兵衛の表情が少し明るくなる。

「こっちは……」

黙る。

睨む。

「酢?」

「そうだ」

二枚を並べて見る。

甚兵衛。

「似てる」

藤吉。

「似てねえよ」

「俺には似て見えるんです」

藤吉は笑いながら言った。

「なら百回見ろ」

「百回?」

「百回で駄目なら二百回」

甚兵衛。

「力技だなあ」

「字なんざ最初はそんなもんだ」

甚兵衛はもう一度、二つの文字を見る。

百回。

今すぐ百回と言われたら嫌になる。

けれど、一日に一度なら。

百日で百回。

「……」

時間なら。

あるのかもしれない。

少なくとも、今日一日ですべて覚える必要はない。

甚兵衛。

「分かりました」

藤吉の眉が上がる。

「素直だと気持ち悪いな」

「教わる相手に喧嘩売ってどうするんです」

「そこは分かってんだな」

甚兵衛は少し胸を張った。

「俺だって成長します」

「昨日の今日で随分でかく出るな」

「ちょっとだけですよ」

◇

昼前。

今度は弥助のところへ行った。

弥助は荷をまとめるための縄を切っている。

縄を掛ける。

回す。

締める。

甚兵衛はその手元をしばらく眺めた。

「それ、教えてください」

弥助が顔を上げる。

「何を」

「結び方」

「お前、一個できるだろ」

甚兵衛。

「一個しかできません」

「一個できりゃいいじゃねえか」

甚兵衛は首を振った。

「昨日思ったんですけど」

また同じ話をした。

藤吉がいなかったこと。

一人分の仕事が抜けただけで、他の人間にしわ寄せが行ったこと。

自分は、知らないせいで手伝える範囲が狭かったこと。

弥助は口を挟まず聞いた。

「なるほどな」

そして。

一本の縄を放る。

甚兵衛は慌てて受け取った。

「うわっ」

弥助。

「じゃあやれ」

「え?」

「覚えたいんだろ」

甚兵衛は縄と弥助を交互に見る。

「まず見本とか」

「見せても忘れる」

「……」

弥助は意地の悪い笑い方をした。

「失敗した方が覚える」

「嫌な教え方だな」

けれど。

最近の自分を思い返す。

芋を落とした。

金を数え間違えた。

届け先で数を忘れた。

失敗して。

直して。

その後の方が、よく覚えている。

否定できない。

「……やる」

甚兵衛は縄を結ぶ。

弥助。

「違う」

解く。

もう一度。

「違う」

三度目。

「遅い」

甚兵衛。

「難しい!」

「荷物は待ってくれねえぞ」

「荷物に心なんかないでしょう!」

弥助は真顔で返した。

「だから待たねえんだよ」

甚兵衛は一瞬黙る。

「……理屈が強い!」

弥助が声を上げて笑った。

甚兵衛はむっとしながら、もう一度縄を解く。

◇

午後。

荷が来た。

しかも。

多い。

いつもの倍とまではいかないが、昨日より明らかに多い。

店先へ次々と荷が下ろされる。

甚兵衛は思わず空を見上げた。

「何でこんな日に限って……」

作兵衛が荷を担ぎながら笑う。

「商売ってのはそんなもんだ!」

藤吉の声が飛ぶ。

「甚兵衛!」

「はい!」

「荷札!」

「はい!」

走る。

受け取る。

読む。

確かめる。

「油、三!」

藤吉。

「二だ!」

甚兵衛。

「二!」

慌てて訂正する。

「落ち着け!」

「はい!」

次。

「酢、四!」

「合ってる!」

甚兵衛の口元が少し上がる。

嬉しい。

でも今は喜んでいる暇がない。

次。

「米……」

そこまでは読めた。

数も分かる。

だが。

その下。

送り先らしい字が読めない。

甚兵衛の視線が止まる。

以前なら。

ここで全部が止まっていた。

分からない。

どうしよう。

読めない。

自分にはできない。

でも今日は。

「これ、どこです!」

藤吉。

「右下!」

「右下……」

見る。

やっぱり読めない。

甚兵衛はすぐ声を上げる。

「無理!」

藤吉。

「甚兵衛!」

「はい!」

送り先だけ、藤吉が読み上げる。

甚兵衛が復唱する。

「分かった!」

走る。

全部できなくてもいい。

一部ならできる。

分からないところだけ聞けばいい。

一つ分からないからといって。

全部を止める必要はない。

そのことを、身体で少しずつ覚えている。

◇

荷を運んでいる途中。

弥助が別の場所へ呼ばれた。

作兵衛が振り返る。

「甚兵衛! 縄!」

甚兵衛。

「え」

「あれまとめろ!」

「俺が!?」

「さっき習ったろ!」

甚兵衛は縄を見る。

「今!?」

作兵衛。

「いつ使うんだよ!」

「……その通りだ!」

甚兵衛は縄を掴む。

昨日なら、できなかった。

今日も。

上手くはない。

朝に数回失敗しただけだ。

それでも。

縄を回す。

通す。

締める。

一度目。

違う。

甚兵衛自身にも分かった。

「……っ」

すぐ解く。

もう一度。

朝の弥助の手を思い出す。

ここを通す。

引く。

締める。

「これ!」

作兵衛が手を伸ばした。

強く引く。

荷が崩れないか見る。

縄はほどけない。

「よし!」

甚兵衛の目が大きくなった。

「できた?」

「できてる! 次!」

「はい!」

それだけだった。

本当に。

縄を一本。

荷に結んだだけ。

それでも。

次の荷へ走る甚兵衛の胸の奥は、少しだけ熱かった。

昨日の自分には、できなかった。

今日はできた。

◇

夕方。

最後の荷が片づいた。

甚兵衛は店の裏へ出ると、その場に座り込んだ。

「疲れた……」

すぐ近くの草が動く。

最初の鼠が顔を出した。

『いっぱい?』

甚兵衛。

「いっぱい」

『ひとり?』

甚兵衛は少し考える。

作兵衛。

藤吉。

弥助。

自分。

「今日は四人」

鼠。

『はやい?』

昨日。

もっと少ない人数で、何度も仕事が止まった。

今日は。

自分ができる仕事も少し増えた。

「昨日よりは」

鼠はすぐ頷く。

『じゃあ、いい』

甚兵衛。

「……」

笑った。

「お前、それ好きだな」

鼠が首を傾げる。

『いい?』

甚兵衛も頷いた。

「いい」

少なくとも。

昨日よりは。

◇

帰ろうとしたところで。

「甚兵衛」

作兵衛に呼び止められた。

甚兵衛は少し身構える。

「はい」

何かしたか。

荷札を間違えた。

最初に油の数も間違えた。

縄も一度失敗した。

どれだ。

作兵衛は懐へ手を入れた。

小さな銭を、甚兵衛の掌へ置く。

「今日の分」

甚兵衛は銭を見る。

「……何です?」

「だから今日の分だ」

「昨日ももらいましたよね」

「昨日は昨日。今日は今日だ」

「いや、それは分かるんですけど」

甚兵衛は数える。

一度。

もう一度。

「あれ」

顔を上げる。

「多くないですか」

昨日より。

ほんの少しだけ。

作兵衛。

「荷札」

「はい」

「縄」

「はい」

「昨日より仕事した」

甚兵衛は自分の掌を見る。

昨日できなかったこと。

今日は少しできた。

全部ではない。

間違えた。

聞いた。

助けてもらった。

それでも。

昨日よりは、仕事になった。

作兵衛。

「だから昨日より払う」

甚兵衛は銭を握った。

「……ありがとうございます」

作兵衛が鼻を鳴らす。

「明日も増えると思うなよ」

「分かってます」

「失敗増えたら減らすぞ」

甚兵衛。

「それは嫌だ」

「なら失敗減らせ」

「はい」

単純だ。

でも。

甚兵衛には分かりやすかった。

何かできるようになった。

その分、少し増えた。

それだけで。

今日覚えたことに、別の重さがついた。

◇

帰り道。

甚兵衛は何度か手の中の銭を見る。

三匹の鼠が足元をついてくる。

『いっぱい?』

甚兵衛。

「これ?」

『うん』

掌を開く。

「少ない」

鼠。

『すくない?』

「少ない」

昨日より。

ほんの少し多いだけ。

何か大きな物を買える額ではない。

それでも。

甚兵衛は手を閉じた。

「でもな」

鼠。

『でも?』

甚兵衛は少し笑う。

「昨日できなかったことが、今日ちょっとできた」

三匹が顔を上げる。

『じゃあ、いい?』

甚兵衛は少しだけ考えた。

「そうだな」

今度は、自分から歩き出した。

◇

夜。

慧円のところでは、今日見た文字を繰り返し書いた。

油。

酢。

米。

荷札に書かれていた送り先。

数。

何度も。

間違える。

「あ」

消す。

もう一度。

また違う。

甚兵衛。

「……これ、さっき書けたのに」

慧円が横から覗く。

「今日は随分と商いの字ばかりじゃな」

「店で使うから」

「ほう」

甚兵衛は筆を動かしながら言った。

「使う字から覚えた方が、早いかなって」

慧円は頷く。

「理には適っておる」

甚兵衛が顔を上げた。

「ほんと?」

「ただし」

甚兵衛の表情が曇る。

「……はい」

「それだけ覚えればよい、とは言っておらん」

甚兵衛。

「やっぱり?」

「当然じゃ」

甚兵衛は机へ突っ伏した。

「また覚えること増えた……」

慧円は静かに笑う。

「増えたのではない」

「?」

「今まで、知らなかっただけじゃ」

甚兵衛は顔だけ横へ向けた。

「それ一番嫌なやつ……」

慧円の笑い声が小さく響いた。

◇

物置へ帰る。

「ただいま」

三匹。

『かえった』

甚兵衛は藁へ身体を投げ出した。

三匹も、それぞれいつもの場所へ収まる。

しばらくして。

甚兵衛が口を開いた。

「今日な」

最初の鼠。

『なに』

「俺、一個だけ縄結べた」

『なわ』

「荷物のやつ」

鼠が顔を上げる。

『すごい?』

甚兵衛。

「……」

考える。

作兵衛なら普通にできる。

弥助なら、もっと速い。

藤吉だって、たぶん困らない。

店の連中にとっては、大したことではない。

でも。

昨日の自分には。

できなかった。

甚兵衛は少し笑った。

「俺には、ちょっとすごい」

鼠は迷わない。

『じゃあ、すごい』

甚兵衛。

「そうだな」

目を閉じる。

できる人がいる。

だから。

任せる。

それは悪くない。

何でも自分でやればいいわけでもない。

でも。

ほんの少しでも自分にもできれば。

誰かが休んだ時。

その人が戻るまで。

少しだけ、つなげるかもしれない。

全部同じようにできなくてもいい。

鼠たちだって。

それぞれ違う道を知っている。

同じ道でなくても。

同じことができなくても。

帰ってこられる。

なら。

人間の仕事も。

少し似ているのかもしれない。

甚兵衛は眠りに落ちる直前、小さく呟いた。

「明日は、何覚えようかな」

藁の向こうから。

最初の鼠。

『あした、きめる』

甚兵衛。

「……それもそうか」

明日のことは。

明日決める。

今日覚えたことは。

なるべく忘れない。

忘れたら。

もう一度聞く。

今はまだ。

それで十分だった。

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