翌朝。
甚兵衛は、鼠に起こされるより先に目を覚ました。
薄暗い物置の天井をぼんやり見上げたあと、真っ先に鼻へ手をやる。
痛くない。
齧られてもいない。
「……よし」
何に勝ったのか自分でも分からないが、とりあえず小さく頷いた。
横を見る。
三匹の鼠は、まだ藁の中にいる。
一匹は仰向けになり、腹まで出して寝ていた。
甚兵衛は呆れた。
「お前ら、俺より寝てるじゃねえか」
すると、最初から一緒にいる鼠の目だけが開いた。
『おきてる』
「起きてたのかよ」
『いま』
甚兵衛は少し黙る。
「それは“今起きた”って言うんだ」
鼠は考える。
『おきた』
「そうだよ」
ようやく話が通じた。
甚兵衛も身体を起こす。
腕を伸ばす。
昨日より痛みが少ない。
腰の重さも、まだ残ってはいるが、動くのを嫌になるほどではなかった。
毎日歩く。
荷を持つ。
立ちっぱなしになる。
少しずつ、身体が仕事に慣れているらしい。
着物を整える。
帯を締める。
ずれた。
直す。
またずれた。
「……」
最初の鼠。
『へた』
甚兵衛は帯を締め直しながら答えた。
「知ってる」
結局。
三度やり直した。
仕事には少し慣れた。
着物には、まだ慣れない。
外へ出る。
冷たい水で顔を洗う。
「っ、冷てえ!」
眠気が一気に飛んだ。
甚兵衛は顔を拭う。
今日も店だ。
昨日より。
一つくらい何かできればいい。
そんなことを考えながら歩き出した。
店へ着く。
今日は作兵衛より少し遅かった。
それでも藤吉よりは早い。
弥助はまだ来ていない。
作兵衛はすでに店の奥で、荷札を一枚ずつまとめていた。
「おう」
甚兵衛。
「おはようございます」
作兵衛がこちらを見る。
「今日は早えな」
「昨日よりは」
「昨日はぎりぎりだったからな」
甚兵衛。
「……はい」
言い返せない。
甚兵衛は素直に箒へ手を伸ばした。
その時。
「甚兵衛」
「はい」
「今日は掃除の前に、こっち来い」
手が止まる。
「何です?」
作兵衛は答えず、店の奥へ歩いていく。
甚兵衛も後をついていった。
蔵。
昨日も何度か入った場所だ。
米俵。
豆袋。
油の壺。
干物。
縄。
木箱。
紙包み。
朝の薄暗い光の中、いくつもの品が積まれている。
作兵衛が一枚の紙を差し出した。
甚兵衛は紙と作兵衛を交互に見る。
「……」
嫌な予感しかしない。
作兵衛。
「数えろ」
「何を」
「全部」
甚兵衛は蔵を見る。
もう一度、紙を見る。
そしてまた蔵。
「……全部?」
「全部」
沈黙。
甚兵衛は真剣な顔で言った。
「掃除がしたいです」
作兵衛が眉を上げる。
「昨日、仕事覚えたいって言ったのは誰だ」
「俺です」
「じゃあ覚えろ」
「はい……」
自分で言った手前、逃げにくい。
甚兵衛は紙を受け取った。
最初は。
簡単だと思った。
米俵。
一。
二。
三。
順番に数える。
「十一……十二……十三」
十三。
紙へ書く。
まだ字は下手だが、数字なら以前よりは速い。
次。
豆。
一袋。
二袋。
三袋。
「七」
書く。
次。
油。
壺が並んでいる。
「一、二、三、四、五」
五。
甚兵衛は少し拍子抜けした。
「なんだ」
数える。
書く。
数える。
書く。
それだけだ。
「これなら――」
作兵衛。
「終わったか」
「まだです」
「なら喋るな」
「はい」
調子に乗るのは早かった。
しばらくして。
藤吉が店へ入ってきた。
「おはようござ――」
蔵の中。
紙を持ってしゃがんでいる甚兵衛を見る。
「何してんだ」
甚兵衛。
「数えてます」
「何を」
「全部」
藤吉。
「ああ」
それだけ。
甚兵衛が顔を上げる。
「何です、その反応」
藤吉。
「そのうち分かる」
「何が」
「そのうち」
甚兵衛は嫌そうな顔をした。
「その言い方、絶対ろくなことない」
藤吉は笑っただけで、店の表へ行ってしまった。
甚兵衛は紙へ視線を戻す。
そのうち。
何が分かるのか。
少し気になる。
だが今は数える方が先だ。
干物。
甚兵衛は束を一つ持ち上げた。
「一、二、三……」
そこで止まる。
束になっている。
一束で一つなのか。
中の魚まで数えるのか。
少し考えたが、勝手に決めない。
「作兵衛さん」
「何だ」
「これ、一束で一つですか?」
作兵衛は即答した。
「中身を数えろ」
甚兵衛。
「……はい」
紐をほどく。
一枚。
二枚。
三枚。
十枚。
次の束。
十枚。
さらに次。
「一、二、三……九」
止まる。
もう一度。
九。
念のため、さらにもう一度。
やっぱり九。
甚兵衛は声を上げる。
「作兵衛さん!」
「何だ!」
「一枚足りません!」
作兵衛が来る。
干物を見る。
「ああ」
甚兵衛。
「“ああ”?」
「昨日、一枚売った」
「……」
甚兵衛は束を見る。
残り九枚。
それを、またまとめて置いてあった。
「じゃあ何で戻してるんです?」
「残りがあるから」
「最初から言ってくださいよ!」
作兵衛は呆れた顔をした。
「だから数えてんだろ」
甚兵衛。
「……」
それを言われると弱い。
全部同じ数だと分かっているなら。
そもそも確認する意味がない。
甚兵衛は黙って紙へ書いた。
次。
油。
壺は五つ。
「一、二、三、四、五」
五。
紙へ書こうとして。
なんとなく。
一つを持ち上げた。
「あれ」
軽い。
隣の壺。
重い。
もう一つ。
重い。
最初の壺へ戻る。
やはり軽い。
甚兵衛は蓋を外した。
中身は。
半分ほどしか入っていない。
「作兵衛さん!」
向こうから怒鳴り声。
「今度は何だ!」
「これも減ってます!」
「使った!」
甚兵衛。
「誰が!」
「俺だ!」
甚兵衛。
「書いといてくださいよ!」
作兵衛。
「それをこれから書くんだ!」
甚兵衛。
「……」
そこで。
ようやく分かった。
紙を見る。
最初に書いた文字。
油 五。
壺は確かに五つ。
数は合っている。
だが。
中身は同じではない。
干物もそうだ。
束はある。
でも、一束だけ一枚少ない。
甚兵衛は紙を見つめた。
「数だけじゃ駄目なのか」
作兵衛。
「何か言ったか」
「独り言です」
今度は。
最初から、少し見方を変えた。
米俵。
十三。
だが。
一つずつ見る。
触る。
持ち上げられる範囲で重さも確かめる。
一つだけ。
少し軽い。
「これ」
作兵衛が来る。
「開いてるな」
甚兵衛は俵の口を見る。
一度ほどかれ。
結び直された跡がある。
「ここから使ったんですか」
「ああ」
甚兵衛は紙へ書く。
米 十三。
その横。
少し迷って。
一 途中。
書いた。
字は怪しい。
だが。
少なくとも自分には分かる。
次。
油。
五。
その下。
一 半分。
干物。
十枚 二束。
九枚 一束。
そこへ藤吉が覗き込んできた。
「何だ、その字」
甚兵衛。
「読めるでしょう」
藤吉はしばらく紙を見る。
「ぎりぎり」
「ならいいです」
「良くねえよ」
甚兵衛。
「今はいいんです」
藤吉が笑った。
「自分で“今は”を使うようになったか」
「みんなが言うから覚えたんですよ」
意味も。
少し分かってきた。
今。
自分だけが読むなら。
これでも役に立つ。
だが。
ずっとこれでいいかは。
別の話だ。
昼前。
ほとんど数え終わった。
甚兵衛は紙を見る。
店先へ出している分。
蔵の中。
昨日覚えていた数。
一つずつ照らす。
「……あれ」
止まった。
もう一度。
豆を数える。
一袋。
二袋。
三袋。
店へ出している分も足す。
やっぱり。
合わない。
「作兵衛さん」
「ん」
「一個合わない」
「何が」
「豆」
作兵衛の表情が変わった。
「どれくらい」
甚兵衛は紙を見る。
「一袋分」
「本当か」
「たぶん」
作兵衛自身が数える。
一。
二。
三。
袋を持ち上げる。
確認する。
そこへ藤吉も来る。
「どうしました?」
作兵衛。
「豆が足らねえ」
藤吉。
「昨日売ったんじゃ?」
「売ってねえ」
ちょうどその時。
弥助も入ってきた。
「荷出しは?」
「してねえ」
三人の表情が少し固くなる。
甚兵衛も。
胸の奥がざわついた。
ない。
売っていない。
使っていない。
なら。
――盗まれた?
そう思った。
だが。
すぐには口にしなかった。
この数日。
何度も言われている。
決めつけるな。
作兵衛が蔵を調べる。
戸。
鍵。
壁。
窓。
弥助も棚の裏を見る。
藤吉は帳面を確かめる。
甚兵衛も床へ目を向けた。
埃。
木屑。
それから。
「……豆?」
一粒。
床の端に落ちている。
その先。
もう一粒。
さらに。
割れた豆。
壁際へ続いていた。
甚兵衛はしゃがむ。
「作兵衛さん」
「何だ」
「ちょっと待って」
豆を追う。
壁の下。
板の隙間。
人間の指も入りにくい。
甚兵衛は顔を近づけた。
「おい」
作兵衛。
「誰に言ってんだ?」
甚兵衛。
「ちょっと静かに」
声を落とす。
「いるか?」
何も返ってこない。
しばらく。
静か。
やがて。
壁の向こう。
『なに』
知らない鼠の声。
甚兵衛の目が細くなる。
「豆」
『まめ』
「持ってった?」
『もってった』
即答だった。
甚兵衛。
「……何匹で」
『いっぱい』
甚兵衛は額を押さえた。
「また“いっぱい”か」
鼠。
『いっぱい』
「袋ごと?」
『ふくろ?』
「豆が入ってた大きいやつ」
『ちがう』
「じゃあ、どこから」
鼠。
『あな』
甚兵衛。
「穴?」
『した』
甚兵衛はゆっくり床を見る。
下。
床の下。
「弥助さん」
「何だ」
「この板、外せます?」
弥助が寄ってくる。
「何で」
「下見たい」
藤吉。
「何がある」
甚兵衛。
「たぶん豆」
三人。
「……豆?」
板を外す。
その下。
豆。
豆。
豆。
豆。
かなりの量が落ちていた。
甚兵衛。
「うわ……」
袋を見る。
底。
小さな穴。
齧られた跡がある。
そこから少しずつ豆がこぼれ。
床板の隙間へ落ち。
さらに鼠たちが運んでいたらしい。
弥助。
「これか」
藤吉。
「袋の底がやられてたか」
作兵衛は黙って穴を確かめる。
甚兵衛。
「鼠ですね」
その時。
柱の陰。
見覚えのある小さな顔が。
そっと引っ込んだ。
甚兵衛の目が細くなる。
「……お前じゃないだろうな」
最初の鼠。
『ちがう』
「ほんとか?」
『ちがう』
少し間。
『たぶん』
甚兵衛。
「たぶん!?」
作兵衛が振り返る。
「何、一人で騒いでんだ」
甚兵衛は慌てて立ち上がった。
「何でもないです!」
非常に怪しい。
あとで聞く。
落ちた豆を集める。
だが。
全部が同じ状態ではなかった。
湿ったもの。
埃にまみれたもの。
割れたもの。
比較的きれいなもの。
作兵衛は一つずつ分けていく。
甚兵衛も手伝った。
「全部捨てないんですか」
作兵衛。
「全部同じじゃねえからな」
「でも床に落ちてますよ」
「だから客に売る品には戻さねえ」
「じゃあ?」
作兵衛は山を分ける。
「状態がましなら、店で別の使い道もある」
別の山。
「こっちは人間に出さず、家畜なんかに回せる」
さらに。
「これは駄目だ」
捨てる側。
甚兵衛は四つに分かれた豆を見る。
「全部同じ豆なのに」
「今は状態が違う」
「値段も?」
「売るなら変わる」
甚兵衛。
「……」
また。
覚えることが増えた。
同じ物。
だから同じ価値。
ではない。
どんな状態か。
誰が使うか。
何に使うか。
それでも変わる。
甚兵衛は朝書いた、
豆。
その一文字を見る。
同じ「豆」だけでは。
今、目の前にある違いは分からない。
昼。
握り飯を食べながら。
甚兵衛は自分の木札を見る。
豆 足りない。
その下。
穴。
さらに。
鼠。
落ちた。
自分で書いた。
慧円が見たら。
絶対にもっとちゃんと書けと言う。
でも。
今は意味が分かる。
最初。
袋の数しか見ていなかった。
袋が七つある。
だから。
中身も七つ分ある。
そう思った。
違った。
袋はある。
だが、中身が減っている。
見た目だけでは分からない。
甚兵衛。
「数えるだけじゃ足りないな」
最初の鼠が近寄ってくる。
『たりない?』
「うん」
甚兵衛は握り飯をほんの少しちぎった。
鼠へ渡す。
『くれる』
甚兵衛はじっと見る。
「お前ら、豆食っただろ」
鼠は握り飯を抱えた。
『これは、こめ』
「そうだけど」
鼠は食べ始めた。
甚兵衛。
「……まあいいか」
今は。
まだ。
午後の仕事がある。
鼠への聞き取りは後だ。
午後。
作兵衛が、穴の開いた豆袋を持ってきた。
「甚兵衛」
「はい」
「これ」
甚兵衛は袋を見る。
「何です?」
「縫え」
「俺が?」
「穴見つけたんだろ」
甚兵衛の顔が引きつる。
「見つけたら直すところまで!?」
「当たり前だ」
「聞いてない!」
作兵衛。
「今言った」
後ろで藤吉が笑う。
弥助も笑った。
甚兵衛。
「……」
針。
糸。
袋。
甚兵衛は三つを見比べる。
「やったことないです」
作兵衛。
「なら教えてもらえ」
「誰に」
作兵衛が指を差す。
藤吉。
藤吉自身が少し驚いた。
「俺?」
作兵衛。
「お前できるだろ」
藤吉。
「できますけど」
甚兵衛。
「……」
昨日。
考えた。
一人しかできない仕事を。
少しずつ。
他の人もできるようにする。
今日も。
結局、同じだ。
甚兵衛は藤吉を見る。
「お願いします」
藤吉。
「飯一口」
甚兵衛。
「さっき食べ終わったでしょう」
「じゃあ今度」
「覚えてたら」
「けち」
甚兵衛。
「給金少ないんです!」
袋を縫う。
針を持つ。
布とは違う。
厚い。
「ここ通して」
藤吉。
「そう」
甚兵衛が力を入れる。
「痛っ!」
針が指へ刺さった。
藤吉。
「自分縫ってどうすんだ」
「笑わないでください!」
もう一度。
刺す。
通す。
縫い目が曲がる。
藤吉。
「違う」
解く。
やり直す。
また曲がる。
「違う」
甚兵衛が顔を上げた。
「縄と同じじゃねえか!」
藤吉。
「何が」
「教え方!」
藤吉は平然としている。
「失敗した方が覚える」
甚兵衛。
「それ弥助さんも言ってた!」
向こうから弥助。
「俺の真似すんな!」
藤吉。
「お前の言葉じゃねえだろ!」
作兵衛。
「喋ってねえで手ぇ動かせ!」
三人。
「はい!」
一瞬。
静かになった。
甚兵衛は思う。
人数がいると仕事は回りやすい。
だが。
人数がいると。
妙にうるさくなる時もある。
夕方。
袋の穴は。
なんとか塞がった。
きれいではない。
縫い目は曲がっている。
幅も揃っていない。
甚兵衛は試しに豆を少し入れた。
袋を持ち上げる。
振る。
落ちない。
「……できた」
藤吉。
「汚えけどな」
「落ちなきゃいいでしょう」
「売り物なら駄目だ」
甚兵衛。
「これは?」
「店で使う袋」
「じゃあいい」
藤吉。
「今はな」
甚兵衛が嫌そうに振り返る。
「今は?」
「客へ売る物なら、見た目も大事だ」
甚兵衛。
「……」
また。
増えた。
使える。
それだけでは足りない時がある。
誰が使うのか。
何に使うのか。
それで求められるものも違う。
甚兵衛は頭を抱える。
「今日、覚えること多くないですか」
藤吉。
「昨日、自分から仕事覚えたいって言った奴が何言ってんだ」
甚兵衛。
「言わなきゃよかった」
「じゃあ明日から教えるのやめるか」
甚兵衛は即答した。
「それは困る」
藤吉。
「だろ」
甚兵衛。
「逃げ道塞ぐの上手いなあ……」
帰り道。
甚兵衛は三匹の鼠と歩いていた。
しばらく進んで。
止まる。
「なあ」
三匹。
『なに』
甚兵衛は三匹を順番に見る。
「お前ら」
『うん』
「店の豆」
三匹が。
ぴたりと止まった。
甚兵衛。
「食った?」
沈黙。
「……」
三匹。
『ちょっと』
甚兵衛。
「食ったのか!」
三匹が一斉に走る。
「待てこら!」
甚兵衛も追いかける。
『おちてた!』
「袋齧ったのは!?」
『ちがう!』
「本当だろうな!」
『ちがう!』
『べつの!』
『おおきい!』
甚兵衛の足が止まった。
「大きい?」
三匹も少し先で止まる。
一匹が前足を広げる。
『おおきい』
甚兵衛はしゃがむ。
「お前らより?」
『うん』
「猫?」
『ちがう』
「鼠?」
三匹。
『ねずみ』
甚兵衛。
「……」
大きな鼠。
まあ。
いるだろう。
村には食べ物がある。
倉がある。
家がある。
鼠にとって暮らしやすい場所も多い。
大きく育った個体くらい、いてもおかしくない。
甚兵衛は、それ以上は気にしなかった。
「とにかく。店の袋は齧るなよ」
三匹。
『ぼくらじゃない』
「落ちた豆も食いすぎるな」
『なんで?』
甚兵衛。
「店のもんだから」
鼠。
『おちてる』
「落ちてても」
『いらない?』
甚兵衛。
「……」
言葉に詰まる。
人間なら。
床へ落ちても。
店の品だったものには持ち主がいる。
その後どうするか。
捨てるか。
使うか。
誰かに回すか。
決めるのは店だ。
でも。
鼠から見れば。
床に落ちた食べ物。
誰も持っていない。
誰も食べていない。
なら拾う。
それだけなのだろう。
甚兵衛は頭を掻いた。
「そういうのも教えなきゃ駄目なのか」
鼠。
『なにを?』
「いや……」
甚兵衛は歩き出した。
「明日考える」
三匹。
『あした』
最近。
便利な言葉になってきた。
夜。
慧円のところ。
甚兵衛は今日使った紙を見せた。
慧円はしばらく眺める。
「これは何じゃ」
甚兵衛。
「豆」
「これは」
「穴」
「これは」
甚兵衛。
「鼠」
慧円。
「……」
甚兵衛。
「何です?」
慧円は口元を少し緩めた。
「字を習い始めた子供の日記のようじゃな」
甚兵衛。
「分かればいいでしょう!」
慧円が笑う。
「今はな」
甚兵衛の顔が引きつる。
「またそれだ」
「何がじゃ」
「今日、みんなに言われる」
慧円。
「ならば皆、同じことを思っておるのじゃろう」
甚兵衛は紙を見る。
豆。
穴。
鼠。
落ちた。
今なら。
自分には分かる。
今日何があったか知っているから。
でも。
もし藤吉が読むなら。
作兵衛が読むなら。
明日。
自分がいない日に。
誰かがこの紙だけを見るなら。
分からないかもしれない。
甚兵衛は少し考える。
「……俺しか分からない書き方じゃ、駄目か」
慧円。
「場合による」
「全部駄目じゃない?」
「自分が明日の朝見るためだけの覚え書きなら、それでも役には立とう」
甚兵衛。
「うん」
「だが、人へ残すものなら」
慧円は紙を指す。
「人が読めねば困る」
甚兵衛。
「……そっか」
少し安心した。
最初から。
全部。
立派な帳面にしなくていい。
必要なところから。
直せばいい。
甚兵衛は紙を引き寄せる。
豆。
その下。
今日覚えた字を使いながら。
一文字ずつ。
ゆっくり。
書き直し始めた。
帰る頃には。
月が出ていた。
三匹の鼠も、もう眠そうだ。
甚兵衛は歩きながら指を折る。
「今日覚えたこと」
最初の鼠。
『なに』
「数える」
『かぞえる』
「中も見る」
『みる』
「穴があったら塞ぐ」
『ふさぐ』
甚兵衛は三匹を見る。
「店の豆は食うな」
三匹。
『……』
甚兵衛。
「そこだけ返事しろ」
最初の鼠。
『おちてたら?』
甚兵衛。
「……」
やっぱり。
そこが残る。
人間の持ち物。
鼠の食べ物。
同じ豆でも。
見え方が違う。
甚兵衛は少し考えた。
「明日決める」
鼠。
『あした』
「そう。明日」
月明かりの下を歩く。
今日は。
数を覚えた。
それから。
数だけでは足りないことも覚えた。
袋がある。
だから。
中身も同じだけある。
とは限らない。
同じ豆。
だから。
全部同じ価値。
とも限らない。
物が減った。
だから。
誰かが盗んだ。
とも限らない。
あるはずの物が。
本当にあるのか。
中身はどうなっているのか。
状態は同じなのか。
減ったなら。
どうして減ったのか。
見る。
数える。
触る。
比べる。
分からなければ聞く。
そして。
分かったことは、できるだけ残す。
たった豆一袋。
その程度の話だった。
それでも。
甚兵衛には昨日まで見えていなかった店の中身が。
今日はほんの少しだけ。
見えるようになっていた。