翌朝。
甚兵衛は、鼠に起こされるより先に目を覚ました。
薄暗い物置の天井をしばらく眺めてから、まず鼻を触る。
無事だ。
齧られていない。
「……よし」
何に勝ったのかは自分でも分からない。
横を見ると、三匹の鼠はまだ藁の上で丸くなっていた。一匹など腹を上にして、前足を胸の前に投げ出している。
甚兵衛は呆れて鼻を鳴らした。
「お前ら、俺より寝てるじゃねえか」
その声で、最初から一緒にいる鼠が片目を開けた。
『おきてる』
「起きてたのかよ」
『いま』
「それは今起きたって言うんだ」
鼠は少しだけ考える。
『おきた』
「そうだよ」
甚兵衛も身体を起こした。
腕を回してみる。
昨日より痛みが少ない。
荷を持つ仕事を始めたばかりの頃は、朝になると腕も腰も重く、立ち上がるだけで嫌になった。それが今では、疲れこそ残るものの、身体は普通に動く。
少しずつ。
本当に少しずつだが、仕事をする身体になってきているらしい。
着物を整える。
帯を締める。
ずれた。
「……」
やり直す。
また少しずれた。
最初の鼠。
『へた』
甚兵衛は振り返らない。
「知ってる」
三度目。
ようやく納得できる形になった。
「よし」
鼠。
『たぶん』
「朝からそれやめろ」
物置を出る前に。
甚兵衛はふと思い出した。
昨日の豆だ。
三匹を振り返る。
「そうだ。昨日の話」
三匹が顔を上げた。
『まめ』
「覚えてるんだ」
『たべた』
「そこを堂々と言うな」
甚兵衛は三匹の前にしゃがんだ。
昨日。
店の豆袋に穴が開き、床下へ豆が落ちていた。
袋を齧ったのは、この三匹ではないらしい。
少なくとも本人たちはそう言っている。
だが、落ちた豆を食べたことは認めた。
鼠からすれば。
床に落ちた食べ物は、誰の物でもないように見えるのだろう。
人間からすれば違う。
床へ落ちても。
店の中にあるなら、まだ店がどうするか決める物だ。
問題は。
それを鼠へどう説明するかだった。
「いいか」
甚兵衛は指を一本立てる。
「店の中にある食い物は、落ちてても勝手に食うな」
三匹。
『おちてても?』
「うん」
『だれもたべない』
「それでも」
最初の鼠。
『なぜ』
甚兵衛の指が止まった。
説明しようとする。
店の所有物。
商品。
処分する権利。
――駄目だ。
鼠に伝わる気がしない。
少し考えて。
言い方を変える。
「俺がお前らの巣に飯を置いたとするだろ」
三匹。
『ごはん』
「お前らの飯な」
『うん』
「それが転がって、巣の外へ出た」
一匹。
『ひろう』
「そう。それを俺が見つけて、“落ちてるから俺の”って持っていったら?」
三匹が黙った。
少しして。
最初の鼠。
『ぼくらの』
甚兵衛はすぐ頷いた。
「だろ?」
三匹が顔を見合わせる。
別の鼠。
『みせの?』
甚兵衛の顔が明るくなった。
「そう。それ」
通じた。
少しだけ。
「店の中にある物は、落ちててもまず店の。食いたかったら勝手に食わないで聞け」
最初の鼠。
『おまえに?』
「俺に」
『おまえ、いいっていう?』
「俺が決めていい物ならな」
『きめられない?』
「その時は店の人に聞く」
三匹。
『めんどう』
甚兵衛。
「俺もそう思う!」
思わず声が大きくなった。
人間の暮らしは。
鼠から見ても面倒らしい。
甚兵衛は立ち上がりながら続ける。
「ただし、店の人が“もういらない”って外へ出した物なら別だ」
鼠。
『たべる』
「食える物ならな」
『わかった』
甚兵衛は少し疑う。
「本当に?」
三匹。
『たぶん』
「そこは“たぶん”じゃ困るんだよ!」
朝から妙に疲れた。
◇
藤吉の店。
「おはようございます」
作兵衛。
「おう」
今日は藤吉も来ていた。
弥助は店先で荷をまとめている。
甚兵衛はいつものように箒を取った。
店先。
軒下。
棚の周り。
以前なら、とにかく埃を外へ掃き出せば終わりだった。
今は違う。
客の通り道。
商品。
風向き。
隣の店先。
少しずつ見る場所が増えている。
それだけ。
掃除一つにも時間を取られる。
だが。
前より手際はいい。
掃除が終わる頃。
藤吉が甚兵衛を呼んだ。
「甚兵衛」
「はい」
「昨日の豆だが」
甚兵衛は一瞬身構えた。
「俺じゃないですよ」
藤吉。
「誰もお前が食ったとは言ってない」
弥助が横から口を挟む。
「一袋くらい食いそうだけどな」
甚兵衛。
「豆一袋は無理!」
作兵衛。
「そこじゃねえだろ」
藤吉が小さな紙を広げた。
昨日の出来事が記されている。
豆袋。
不足。
穴。
床下へ落下。
鼠。
回収した量。
使える物と使えない物。
甚兵衛は横から覗き込んだ。
まだ全部は読めない。
だが。
昨日、自分が書いた、
豆。
穴。
鼠。
落ちた。
よりは。
明らかに分かりやすそうだった。
「……俺のよりちゃんとしてる」
藤吉。
「当たり前だ」
「ちょっと悔しい」
「悔しいなら覚えろ」
「はい」
藤吉は紙を畳む。
「それから、昨日見つけた鼠の出入り口。今日塞ぐぞ」
甚兵衛は少しだけ止まった。
「全部?」
「店へ繋がってるところはな」
「……そっか」
藤吉が甚兵衛を見る。
「何だ」
「いや」
鼠が入れなくなる。
少しだけ。
引っかかった。
でも。
ここは店だ。
食べ物も。
売り物もある。
鼠に自由に入られて困るのは当然だ。
甚兵衛は頷く。
「店の物を守るなら、そりゃそうだよな」
藤吉。
「そういうことだ」
甚兵衛は何気なく言った。
「俺が鼠と喋れるからって、店に入れていいわけじゃないし」
静かになった。
「……」
藤吉。
「今、何て?」
甚兵衛。
「……」
弥助。
「鼠と何だって?」
作兵衛までこちらを見る。
甚兵衛は一瞬で顔を逸らした。
「独り言!」
藤吉。
「随分具体的な独り言だな」
「気にしないで!」
危ない。
最近。
鼠と話すことが普通になりすぎている。
人の前でも、ついその感覚が出る。
藤吉は怪しそうな顔をしたものの。
仕事の方が先だと判断したらしい。
「……まあいい」
甚兵衛は内心で胸を撫で下ろした。
まだ。
話すつもりはない。
というより。
どう説明すればいいのか。
自分にもよく分からない。
◇
午前。
弥助と一緒に蔵の床際を調べる。
昨日豆が落ちていた場所。
板の隙間。
壁際。
鼠が通れそうな小さな穴。
甚兵衛はしゃがんで覗く。
「ここ塞いだら、中にいる鼠出られなくならない?」
弥助。
「だから先に追い出す」
「どうやって」
「音を立てる」
甚兵衛は少し考える。
「煙とか」
弥助は即座に甚兵衛を見る。
「倉で火使う気か?」
甚兵衛。
「言ってみただけ!」
「油も乾物もあるんだぞ」
「ですよね!」
弥助は棒を持ってきた。
穴の奥。
床板。
壁。
少しずつ叩く。
こん。
こん。
こん。
しばらく。
何もない。
もう一度。
こん。
すると。
奥から。
かさかさ。
小さな足音。
一匹。
二匹。
知らない鼠が飛び出し、物陰から外へ走っていく。
甚兵衛は黙って見送った。
弥助。
「何だ」
「いや。ちゃんと出たかなって」
「鼠が心配か」
甚兵衛は少し言いづらそうに答えた。
「……まあ」
弥助は甚兵衛を見る。
少し意外そうだった。
だが。
笑いはしなかった。
「殺さず追い払えるなら、その方が楽だ」
甚兵衛。
「殺さないの?」
「毎回、見つけた鼠全部殺して回れるかよ」
「……確かに」
「穴塞いで、食い物に届かなくして、それでも出るなら次を考える」
甚兵衛は頷いた。
最初から一番強いやり方を使う必要はない。
追い出せるなら。
追い出す。
塞げるなら。
塞ぐ。
それで駄目なら。
その時、次を考える。
店の仕事も。
鼠への対応も。
少し似ている。
◇
昼前。
一人の男が荷を持ってきた。
甚兵衛の知らない顔だった。
藤吉が応対する。
甚兵衛は少し離れたところから見ていた。
運ばれてきた木箱。
その側面に。
何かが書いてある。
いや。
字ではない。
丸。
線。
魚のような形。
それから。
奇妙な印。
甚兵衛は近寄った。
「何これ」
荷を持ってきた男。
「何って?」
甚兵衛は箱を指す。
「これ。落書き?」
男が吹き出した。
藤吉。
「違う」
「じゃあ何」
「印だ」
甚兵衛。
「印?」
藤吉は箱の側面を指す。
「どこの荷か」
別の印。
「何を入れてるか」
もう一つ。
「どこへ回すか」
甚兵衛は少し驚いた。
「字じゃなくてもいいの?」
藤吉。
「分かればな」
「……」
その言葉に。
妙に引っかかった。
これまで。
字が読めない。
だから分からない。
字が書けない。
だから残せない。
そう思うことが多かった。
もちろん。
字を覚える必要はある。
それは変わらない。
だが。
人へ何かを伝える方法は。
字だけではないらしい。
甚兵衛は箱へ顔を近づけた。
「これなら俺でも分かるかも」
藤吉。
「じゃあ、読んでみろ」
「え」
「言っただろ。分かるならいい」
甚兵衛は箱を見る。
丸。
線。
魚のような絵。
単純な形。
だが。
何を意味しているのかは分からない。
「……魚?」
藤吉。
「違う」
「じゃあ何」
「考えろ」
甚兵衛。
「急に問題にすんなよ」
荷を持ってきた男も面白そうに笑っている。
弥助も寄ってきた。
「甚兵衛、こういうの好きそうだな」
「何で」
「顔」
甚兵衛。
「また顔!?」
だが。
否定はできない。
文字を睨んでいる時より。
少し楽しい。
前の人生にも。
似たものはあった。
看板。
記号。
標識。
絵だけで何かを伝えるもの。
ただし。
当然。
ここで使われている印を、そのまま知っているわけではない。
甚兵衛は指先を箱へ近づける。
「これ」
魚の形を見る。
「魚そのものって意味じゃない?」
藤吉の眉が少し動いた。
「何でそう思う」
甚兵衛。
「魚入ってる感じしない」
「箱開けてないだろ」
甚兵衛は鼻を動かした。
「匂いしないし」
男。
「鼻が利くな」
甚兵衛。
「ちょっとだけ」
藤吉。
「続けろ」
甚兵衛はまた印を見る。
魚ではない。
なら。
魚の名前。
音。
形。
何かの代わり。
「……絵の名前を使うとか?」
藤吉。
「近い」
甚兵衛の目が少し輝く。
「当たってる?」
「近いと言った」
「じゃあ教えて」
「もう少し考えろ」
甚兵衛。
「大人って、何ですぐ答え教えないの!」
弥助。
「教えたらすぐ忘れるからだろ」
甚兵衛。
「それ最近みんな言う!」
◇
結局。
その印は。
形そのものに意味があるもの。
音を借りるもの。
商人同士で決めているもの。
いくつかが混ざっていた。
一つ覚えれば、全部読めるようになる。
そんな単純なものではない。
甚兵衛は木札を取り出す。
見た印を簡単に写す。
弥助。
「何してる」
「覚える」
「字は?」
甚兵衛は手を止める。
「……後で」
藤吉。
「横に字も書け」
甚兵衛。
「逃げられないなあ」
「字を覚えたいって言ったのはお前だ」
「仕事覚えたいって言っただけ!」
「仕事で字使う」
「……はい」
自分で掘った穴だった。
◇
昼。
店の裏。
握り飯を食べながら。
甚兵衛は木札を三匹へ見せた。
「これ分かる?」
三匹が寄ってくる。
丸。
線。
魚。
鼠。
『さかな』
甚兵衛。
「だよな」
別の鼠。
『たべる?』
「食えない」
『いらない』
「お前ら判断早いな」
甚兵衛は木札を見る。
「人間ってさ」
三匹が見る。
「絵とか形にも意味つけるんだって」
最初の鼠。
『なぜ』
「字読めない奴にも分かりやすいとか」
少し考える。
「ぱっと見て分かるとか」
鼠。
『においでいい』
甚兵衛。
「人間は匂いだけで店分けないの」
『へた』
甚兵衛。
「人間が下手扱いされた!?」
三匹は真顔だった。
甚兵衛は握り飯を食べながら少し考える。
鼠には。
匂いがある。
音がある。
道がある。
目印になる石や木もある。
人間には。
文字。
印。
絵。
人間だけが特別というわけでもないらしい。
「……伝え方って、いっぱいあるんだな」
最初の鼠。
『?』
甚兵衛。
「なんでもない」
少しだけ。
面白かった。
◇
午後。
藤吉が荷札を一枚、甚兵衛へ渡した。
「これ、どこへ置く」
甚兵衛は見た。
「字、読めない」
藤吉。
「印を見ろ」
「あ」
忘れていた。
札の端。
今朝覚えた印。
似た印を、木箱で見た。
甚兵衛は店の中を見る。
右。
左。
奥。
棚。
もう一度荷札。
「……右奥?」
藤吉。
「正解」
甚兵衛の顔が明るくなる。
「よし」
そのまま荷を持ち上げようとする。
「待て」
藤吉に止められた。
甚兵衛。
「何」
「中身」
「あ」
また一つ抜けた。
置き場所だけ分かっても。
中身が分からない。
重さ。
割れ物。
濡らしていいか。
積んでいいか。
甚兵衛は荷札を見る。
「……これ、何です?」
藤吉。
「分からないなら?」
甚兵衛。
「聞く」
「よし」
「で、何」
「器だ」
甚兵衛は荷を持ち直した。
「じゃあ走らない」
藤吉。
「そうしろ」
ゆっくり運ぶ。
右奥。
棚の下。
置く。
一度手を離す。
ぐらつかない。
確認。
戻る。
今度は。
藤吉に途中で止められなかった。
それだけで。
少し嬉しい。
◇
客足が落ち着いた頃。
藤吉が一枚の古い札を甚兵衛へ渡した。
「これ、分かるか」
甚兵衛。
「また仕事?」
「違う」
「じゃあ何」
札を見る。
絵がいくつか並んでいる。
荷札には見えない。
甚兵衛。
「何これ」
弥助が横から見る。
「ああ」
作兵衛も覗く。
「懐かしいな」
甚兵衛は三人を見る。
「何でみんな知ってるの?」
藤吉。
「判じ物だ」
甚兵衛。
「はんじもの?」
「絵を見て、言葉を当てる遊びだ」
「遊び?」
甚兵衛の顔が変わった。
藤吉。
「さっきから仕事より嬉しそうだな」
「仕事と遊び同じ顔でする奴いる?」
甚兵衛は札を持ち直す。
一つ。
二つ。
三つ。
絵。
形。
配置。
どう読む。
何を足す。
何を抜く。
前の人生にも、似た遊びはあった。
なぞなぞ。
言葉遊び。
絵文字。
ただ。
知っているから解ける。
そんな甘いものではない。
ここで使われている言葉を知らなければ。
答えには届かない。
甚兵衛はしばらく考えた。
「これさ」
藤吉。
「何だ」
「答えになる言葉自体を知らなかったら、解けない?」
「そういうこともある」
甚兵衛。
「遊びなのに勉強必要なの?」
弥助。
「嫌か」
甚兵衛。
「……騙された気分」
作兵衛。
「ならやめるか」
甚兵衛は札を見る。
少しだけ笑う。
「いや」
まだ分からない。
だから。
余計に気になる。
「解く」
◇
仕事の合間。
甚兵衛は何度も判じ物の札を見る。
一度。
「これ!」
藤吉。
「違う」
二度目。
弥助。
「惜しくもない」
甚兵衛。
「言い方!」
三度目。
作兵衛。
「一個前より遠ざかってるぞ」
「何で!?」
だが。
何度か考えるうちに。
絵をそのまま見るだけではないと分かってくる。
音。
形。
順番。
省くところ。
くっつけるところ。
そして。
ようやく。
「あ」
甚兵衛の顔が変わる。
もう一度。
札を見る。
頭の中でつなげる。
「……これだ」
藤吉。
「何だ」
甚兵衛が答える。
一瞬。
三人が黙る。
藤吉が頷いた。
「正解」
甚兵衛は拳を握った。
「よし!」
弥助。
「縄結べた時より嬉しそうだな」
甚兵衛。
「これは自分で分かったから!」
作兵衛。
「仕事もそれくらい自分で分かれ」
「そこは少しずつ!」
店の中に笑い声が響いた。
◇
夜。
慧円のところへ行く。
甚兵衛は今日見た判じ物を、覚えている範囲で木札へ写してみせた。
慧円。
「ほう」
甚兵衛。
「知ってる?」
「もちろん」
甚兵衛。
「みんな知ってるなあ」
慧円は笑う。
「字だけが、人へ何かを伝える方法ではないからの」
甚兵衛。
「今日、それ言われた」
「ほう?」
甚兵衛は昼間の荷札のことを話す。
箱の印。
絵。
置き場所。
判じ物。
慧円は静かに聞いた。
「形にも意味がある」
「印にも」
「絵にも」
「置く場所にも」
甚兵衛。
「鼠は匂いで道覚えてる」
慧円。
「それも一つじゃろう」
甚兵衛は少し考える。
「じゃあ字って、別になくてもいい?」
慧円はすぐには答えなかった。
「なくても伝えられることはある」
甚兵衛。
「うん」
「だが」
慧円は甚兵衛の木札を指す。
「遠くの者へ」
「明日の者へ」
「自分の知らぬ者へ」
「同じことを細かく残したい時」
少し間を置く。
「字は便利じゃ」
甚兵衛は木札を見る。
昨日。
自分だけに分かる、
豆。
穴。
鼠。
それで十分だった。
今日。
藤吉が書いた記録は。
昨日の出来事を知らなくても、少し分かる。
「……残せるんだ」
慧円。
「そうじゃ」
「自分がいなくても?」
「読める者がいればな」
甚兵衛は少し黙った。
昨日。
一人にしかできない仕事は怖いと思った。
自分しか分からない記録も。
少し似ている。
「じゃあ」
甚兵衛は筆を持つ。
「俺しか分からない印も残して」
その横へ。
ゆっくり字を書く。
「他の人にも分かる字も書けばいい?」
慧円。
「今は、それでよかろう」
甚兵衛。
「“今は”」
「嫌かね」
甚兵衛は笑った。
「最近、ちょっと慣れた」
◇
夜。
物置へ帰る。
「ただいま」
三匹。
『かえった』
甚兵衛は藁へ座った。
今日使った木札を取り出す。
文字。
数字。
印。
絵。
その横には。
自分にだけ分かる簡単な記号も残っている。
最初の鼠が鼻を近づける。
『さかな』
甚兵衛。
「それ、もう魚だけの意味じゃないんだよ」
『さかな』
「見た目は魚だけど」
『じゃあ、さかな』
甚兵衛。
「……もういい」
人間の判じ物を鼠へ説明するのは。
帯の締め方を説明するより難しい気がした。
甚兵衛は木札をしまい、藁へ横になる。
しばらくして。
ふと思う。
「なあ」
最初の鼠。
『なに』
「お前ら、道ってどうやって覚えてんの?」
最初の鼠。
『におい』
別の一匹。
『いし』
もう一匹。
『き』
甚兵衛。
「木?」
『おおきいき』
甚兵衛。
「……なるほど」
匂い。
石。
大きな木。
鼠には。
鼠の目印がある。
甚兵衛は天井を見る。
文字。
絵。
印。
匂い。
音。
場所。
同じことを伝えるのにも。
方法は一つではない。
「俺、字ばっかり見てたな」
鼠。
『じ、むずかしい』
甚兵衛。
「難しい」
『におい、かんたん』
「俺にはそっちの方が難しいんだよ」
三匹。
『へた』
甚兵衛。
「そこだけ揃うな!」
小さな物置に。
甚兵衛の笑い声が響いた。
今日。
読める字が急に増えたわけではない。
まだ。
読めないものの方が多い。
それでも。
読めない物を見た時。
前より少しだけ。
すぐに「分からない」で終わらなくなった。
形を見る。
印を見る。
置かれている場所を見る。
知っていることと比べる。
分からなければ聞く。
必要なら覚える。
そして。
誰かへ残すなら。
その誰かにも分かるようにする。
甚兵衛は目を閉じた。
全部を一度に覚える必要はない。
今日は。
今日分かったことだけ。
忘れないようにする。
それで。
今は十分だった。