翌朝。
甚兵衛は、鼻を齧られるより先に目を覚ました。
薄暗い物置の天井を見上げ、しばらくぼんやりしてから、何となく鼻先へ手をやる。
痛くない。
「……よし」
最近、朝一番に鼻の無事を確かめる癖がつきつつある。
横では三匹の鼠がまだ丸くなっていた。一匹は藁に半分埋まり、もう一匹は腹を見せて寝ている。
甚兵衛は身体を起こして肩を回した。
腕の痛みは、昨日よりさらに薄い。
腰も重いが動ける。
荷を持つことにも、立ちっぱなしで働くことにも、少しずつ身体が慣れてきたらしい。
着物を整える。
帯を締める。
一度目。
少しずれた。
「……」
直す。
二度目。
今度は、それなりに収まる。
藁の中から最初の鼠が顔を出した。
『へた?』
「今日は二回で済んだ」
鼠は少し考えた。
『じょうず?』
甚兵衛も考える。
「昨日よりは」
鼠。
『じゃあ、いい』
甚兵衛は笑った。
「お前、その言葉ほんと好きだな」
『いい?』
「いいよ」
顔を洗い。
母の布がいつもの場所にあることを確認し。
自分で買った木札を腰へ差す。
忘れていない。
それだけでも、少し気分がよかった。
◇
藤吉の店。
「おはようございます」
弥助が荷紐をまとめながら片手を上げた。
「おう」
作兵衛も奥から顔を出す。
「今日は普通の時間だな」
甚兵衛。
「褒めてます?」
「普通だって言ってんだ」
「最近みんな、普通に厳しくない?」
帳場にいた藤吉が顔を上げた。
「普通を毎日やるのが一番面倒なんだよ」
甚兵衛。
「朝から嫌なこと言わないでください」
「嫌でも仕事だ」
「はい」
言い返しながらも、箒を取る。
掃除。
軒下。
店先。
棚の前。
人が通る場所。
以前なら、箒で埃を外へ出せば終わりだった。
今は、品へ埃が飛ばないかを見る。
風向きを見る。
通りへ掃き出しすぎないようにする。
店先に置かれた品の位置まで気にする。
一つ覚えるたび。
同じ仕事なのに、見る場所が増える。
甚兵衛はそれを面倒に思いながらも、前より手を止めなくなっていた。
掃除を終えた頃。
藤吉が呼ぶ。
「甚兵衛」
「はい」
「今日は届け物だ」
甚兵衛の表情が少し引き締まる。
配達。
前に一度、代金を多く受け取った。
別の日には、聞いた注文を覚えきれず二往復した。
少し嫌な記憶もある。
だが。
今は木札がある。
「どこです?」
藤吉は二つの荷を出した。
一つは布。
もう一つは乾物。
「まず庄吉さん」
甚兵衛はすぐ木札を取り出す。
「庄助さんじゃなくて、庄吉さん」
「そうだ」
「もう間違えません」
弥助。
「前も似たこと言ってなかったか」
「今度は本当に!」
木札へ書く。
庄吉。
その下。
布 二。
さらに。
金。
藤吉が覗く。
「二反な」
甚兵衛。
「反……」
小さく書き足す。
まだ形は怪しい。
だが、前よりは読める。
「今日は代金を受け取る」
「はい」
「額は」
藤吉が言う。
甚兵衛は一度復唱し、木札へ数字を書く。
「次」
二つ目。
村の外れにある家へ乾物三包み。
今日は代金を取らない。
後でまとめて払う約束になっているらしい。
甚兵衛。
「金なし」
木札へ書く。
弥助が横から見る。
「前より読める字になったな」
甚兵衛の顔が明るくなる。
「ほんと?」
「前よりは」
「何で最後にそれ付けるんだよ!」
作兵衛。
「実際、前よりなんだから仕方ねえだろ」
甚兵衛。
「もっとこう、“上手くなったな”とか!」
藤吉。
「仕事終わったらな」
「……はい」
続きを確認する。
相手。
品。
数。
代金。
そこまで書いて。
甚兵衛は顔を上げた。
「道は?」
藤吉の目が少し動いた。
「覚える気になったか」
「二往復はもう嫌だから」
「そういう理由なら十分だ」
庄吉の家は知っている。
問題は二件目だ。
藤吉が順に教える。
大きな松。
分かれ道。
小さな橋。
畑。
甚兵衛は木札の端へ簡単な絵を足した。
松らしきもの。
線。
橋。
丸。
弥助が覗き込む。
「何だ、それ」
「道」
「松か、それ」
「松!」
「箒かと思った」
甚兵衛。
「そこまで下手!?」
藤吉。
「帰ってきたら、字でも残せ」
「はい」
もう分かっている。
自分が道中だけ見るなら、自分に分かる印でもいい。
誰かへ残すなら。
もう少し他人にも分かるようにする。
甚兵衛は荷を持つ前に、もう一度確認した。
「庄吉さん。布二反。代金あり」
次。
「村外れ。乾物三包み。代金なし」
藤吉。
「よし」
甚兵衛は荷を持つ。
そして一歩出ようとして。
止まった。
「中身、これで合ってる?」
藤吉が少しだけ笑った。
「自分で見ろ」
「はい」
布。
二反。
乾物。
三包み。
確認。
今度こそ。
「行ってきます」
作兵衛。
「分からん道へ勝手に入るなよ」
弥助。
「転ぶなよ」
藤吉。
「帰るまでが仕事だ」
甚兵衛。
「子供の遠足みたいなこと言わないでください」
三人。
「えんそく?」
甚兵衛。
「……何でもない!」
危ない。
また前の言葉が出た。
急いで店を出た。
◇
三匹の鼠は、少し離れてついてきた。
人が多い場所では石垣。
草むら。
家の陰。
もう、甚兵衛の足元へずっと集まることはない。
最初の鼠が先の道を見る。
『しょうきち』
甚兵衛。
「そう。庄吉さん」
二匹目。
『しょうすけ』
「違う!」
三匹目。
『ごはん』
「もっと違う!」
朝から元気だ。
◇
庄吉の家。
甚兵衛は戸口で声をかける。
「庄吉さん」
少しして、庄吉が顔を出した。
「おう。今日はお前か」
甚兵衛。
「今日は俺です」
言ってから。
少しだけ直す。
「……俺が持ってきました」
庄吉が笑った。
「店の人間らしくなってきたな」
「少しだけ」
荷を下ろす。
木札を見る。
布。
二反。
一つ。
二つ。
渡す。
庄吉も確かめる。
「合ってる」
次。
代金。
受け取る。
甚兵衛はすぐに数えた。
一度。
数えた分を指で分ける。
二度。
もう一度、木札の額と比べる。
「合ってます」
庄吉。
「今日は返しに来なくて済みそうだな」
甚兵衛の顔が引きつる。
「その話、まだ覚えてるんですか」
「そりゃ覚えてるさ」
「忘れてくださいよ」
「藤吉さんの帳面にも残ってるんじゃないか?」
甚兵衛。
「……」
痛いところを突かれた。
失敗も。
直したことも。
残す。
自分で納得した話だ。
消してくれとは言えない。
「もういいです」
庄吉は笑っている。
甚兵衛は受け取った金を、自分の金とは別の袋へ入れた。
店の金。
自分の金。
同じ銭でも。
意味が違う。
「じゃあ、もう一件あるんで」
庄吉。
「走るなよ」
甚兵衛。
「みんな同じこと言うなあ」
「お前が走りそうだからだろ」
「そんなに?」
庄吉は答えず笑った。
それが答えらしい。
◇
二件目へ向かう。
藤吉から聞いた道。
大きな松。
そこを曲がる。
しばらく進む。
小さな橋。
甚兵衛は一度止まり、木札を見る。
描いた橋らしき印。
実物。
「……一応、似てる」
最初の鼠。
『ちがう』
「うるさい」
橋を渡る。
その先。
道が二つに分かれていた。
右。
藤吉から聞いた道。
少し広い。
人も通った跡がある。
左。
細い。
草が少し伸びている。
だが。
見た感じでは、明らかに左の方が短そうだった。
甚兵衛は止まる。
「……近そう」
最初の鼠が鼻を動かす。
『いける』
「左?」
『うん』
「目的の家まで?」
鼠。
『しらない』
甚兵衛。
「そこが一番大事なんだけど」
鼠にとっては。
通れる道かどうか。
人間の届け先へ着く道かどうか。
別なのだ。
甚兵衛は左を見る。
自分一人。
荷も大きくない。
通れそうではある。
早いかもしれない。
頭の中に。
藤吉の声が浮かぶ。
知らん道へ勝手に入るな。
「……右」
鼠。
『ながい』
「知ってる」
『こっち、はやい』
「多分な」
甚兵衛は右へ進む。
「今は仕事中だから、試さない」
自分で口にして。
少しだけ変な気分になった。
以前なら。
早そう。
それだけで入っていたかもしれない。
今は。
届け物を終えることが先だ。
◇
二件目も問題なく済んだ。
相手。
合っている。
乾物。
三包み。
数える。
一。
二。
三。
代金。
受け取らない。
甚兵衛は木札へ小さく書いた。
渡。
少し歪んだ字。
それでも自分で読める。
「よし」
仕事は終わった。
あとは店へ帰るだけ。
来た道を戻る。
やがて。
さっきの分かれ道へ戻った。
右へ行けば。
知っている道。
左へ行けば。
多分近道。
甚兵衛は立ち止まった。
今なら。
荷はない。
届け物も終わっている。
少しくらい試しても――。
「……」
その時。
先を歩いていた最初の鼠が止まった。
二匹目も。
三匹目も。
甚兵衛は眉を寄せる。
「何?」
返事がない。
三匹とも細い道の先を見ている。
さっきは。
『いける』
と言っていた。
今度は違う。
甚兵衛。
「どうした」
最初の鼠が鼻を動かす。
『いない』
「何が」
『ねずみ』
甚兵衛は三匹を見る。
「お前らいるじゃん」
『ちがう』
鼠は細い道の方を見る。
『あっち、いない』
甚兵衛。
「……一匹も?」
『におい、うすい』
二匹目。
『いない』
甚兵衛も鼻を動かしてみる。
土。
草。
木。
遠くの煙。
人家から漂ってくる煮炊きの匂い。
自分には、それくらいしか分からない。
「普通じゃない?」
三匹。
『いない』
甚兵衛は細い道を見る。
先には家が見える。
畑もある。
人が暮らしている気配もある。
食べ物もあるはずだ。
なら。
鼠が全くいない方が。
少し変ではある。
「猫多い?」
『しらない』
「犬?」
『しらない』
「罠?」
『しらない』
甚兵衛。
「分からないばっかりだな」
最初の鼠。
『わからない』
甚兵衛はしばらく黙った。
鼠がいない。
だから危険。
そう決めるのは違う。
最近。
何度も覚えた。
一つ変なことがある。
だから全部悪い。
とは限らない。
理由はいくらでも考えられる。
猫。
犬。
人。
食べ物が少ない。
たまたま今いない。
何か鼠が嫌うものがある。
他にも。
自分の知らない理由。
「危ない?」
鼠。
『しらない』
甚兵衛。
「怖い?」
鼠たちは少し考えた。
最初の鼠。
『わからない』
「そっか」
甚兵衛は細い道を見る。
別に。
入れないわけではない。
興味はある。
むしろ。
かなりある。
でも。
今。
入らなければならない理由はない。
甚兵衛は来た道へ身体を向けた。
「戻る」
鼠。
『ながい』
「うん」
最初の鼠。
『でも、かえれる』
甚兵衛は一瞬止まった。
それから。
小さく笑う。
「それでいい」
近い道。
速い道。
知っている道。
帰れる道。
全部が同じとは限らない。
甚兵衛は、来た道を戻った。
◇
店へ帰る。
「ただいま戻りました」
藤吉。
「おう」
甚兵衛はまず荷を置く場所へ行き。
次に店の金を出した。
「庄吉さん。布二反。代金これ」
藤吉が数える。
帳面を見る。
「合ってる」
「よし」
甚兵衛は小さく拳を握る。
続いて。
「二件目。乾物三包み。渡しました。代金なし」
木札も出す。
藤吉。
「よし」
甚兵衛の顔が少し緩む。
「今日は一回で済んだ」
弥助。
「それが普通だ」
甚兵衛。
「そこ褒めて!」
作兵衛が笑う。
「最初よりましだ」
「また“最初より”!」
藤吉も少しだけ笑って帳面へ記す。
甚兵衛はそれを見ながら。
少し迷った。
仕事自体は終わった。
だが。
あの道。
言うべきか。
言わなくてもいいか。
「藤吉さん」
「何だ」
「帰りに、ちょっと変な道があった」
藤吉の筆が止まる。
弥助と作兵衛も、少しだけこちらを見る。
甚兵衛はすぐ付け足した。
「危ないって決まったわけじゃないです」
藤吉。
「何が変だった」
甚兵衛は言葉を選ぶ。
鼠が教えてくれた。
とは言いづらい。
「家もあるし、畑もある道なんですけど」
少し迷って。
「……妙に鼠がいない感じがして」
弥助。
「鼠?」
作兵衛。
「そんなもん分かるのか」
甚兵衛。
「……なんとなく」
藤吉。
「また“なんとなく”か」
甚兵衛。
「でも、ほら」
必死に説明する。
「倉とか家とか、食い物あるところなら、普通鼠くらいいるでしょう」
作兵衛。
「まあな」
「でも、そこだけ妙に気配が薄いっていうか」
藤吉。
「それで入ったのか」
甚兵衛はすぐ首を振った。
「入ってない」
藤吉。
「何で」
「……行く理由なかったから」
藤吉は少し黙る。
甚兵衛。
「近道っぽかったけど」
弥助。
「やっぱり近道か」
甚兵衛。
「何で分かるんだよ!」
「お前が気にする道なんて、大体近道だろ」
「俺を何だと思ってんだ」
作兵衛。
「近道好きの小僧」
「そのまんまじゃん!」
少し笑いが起きる。
藤吉は帳面を閉じた。
「入らなかったなら、それでいい」
甚兵衛。
「調べなくていいんです?」
「何のために」
甚兵衛。
「……何で鼠いないのかなって」
藤吉。
「それを知って、今の仕事に何が変わる」
「……今は何も」
「なら今は行かなくていい」
甚兵衛。
「でも気になる」
藤吉。
「気になることと、首を突っ込むことは別だ」
甚兵衛の顔が少し変わる。
できることと。
していいことは別。
似ている。
藤吉は続ける。
「覚えておけ」
帳面を指で軽く叩く。
「必要になったら、その時また考える」
甚兵衛。
「……はい」
「ただ」
「?」
「もしあの辺へ行く用事が出たら、その話は先に言え」
甚兵衛の目が少し動いた。
「何で」
「お前が一度変だと思ったんだろ」
藤吉。
「なら、何もなかったことにする必要もない」
甚兵衛。
「……」
危ないと決めつけない。
でも。
気づいたことを消さない。
それなら。
分かる気がした。
「はい」
藤吉。
「それでいい」
◇
午後。
藤吉が、甚兵衛の木札を見た。
松らしきもの。
橋。
曲がる道。
庄吉。
布二反。
代金。
二件目。
乾物三。
渡。
そして。
細い道の横に。
何も書かれていない。
藤吉。
「ここは?」
甚兵衛。
「あ」
あの道だ。
甚兵衛は筆を取る。
危険。
とは書けない。
危険だと分かっていないから。
安全。
とも書けない。
それも分からない。
少し考えた。
そして。
小さな印を一つ描いた。
丸でも。
×でもない。
首を傾げた人間の顔のような。
妙な印。
藤吉。
「何だそれ」
甚兵衛。
「分からない印」
「お前にしか分からんな」
「今は俺用だから」
藤吉。
「ならいい」
甚兵衛は少し驚いた。
「怒らないんだ」
「帰るまでの覚え書きならな」
「店に残すなら?」
「書き直せ」
甚兵衛。
「やっぱり」
藤吉。
「嫌なら忘れろ」
「それはもっと嫌」
「じゃあ書け」
甚兵衛。
「逃げ道ないなあ」
藤吉。
「商いだ」
甚兵衛。
「それ、便利すぎる!」
◇
仕事の後。
慧円のところへ寄る。
甚兵衛は木札を机の上へ置いた。
慧円が覗く。
「これは道かね」
甚兵衛。
「分かる?」
「この辺りが松らしきもの」
甚兵衛。
「“らしき”って何です」
「松に見えぬからじゃ」
「……」
否定できない。
慧円は細い道の横にある妙な印を指した。
「これは?」
甚兵衛。
「分からないところ」
「分からない?」
甚兵衛は今日のことを話した。
二件の届け物。
近道。
鼠が妙にいない場所。
入らず帰ったこと。
慧円は途中で口を挟まなかった。
最後まで聞いてから。
「怖かったかね」
甚兵衛は少し考えた。
「……ちょっと」
「何が」
「分からないのが」
答えてから。
甚兵衛自身が少し不思議そうな顔をした。
何か見たわけではない。
妖怪も。
獣も。
怪しい人間も。
何もいなかった。
ただ。
いると思っていたものが。
いなかった。
理由が分からない。
それだけ。
慧円。
「それで戻った」
「うん」
「悪くない」
甚兵衛は木札を見る。
「でも」
「何じゃ」
「何でも“分かんないからやめる”ってしてたら、ずっと分かんないままでしょう」
慧円は頷いた。
「そうじゃな」
甚兵衛。
「じゃあ、いつ見るの」
慧円はすぐには答えなかった。
少し考えてから。
「見る理由がある時ではないかね」
甚兵衛。
「理由?」
「仕事でそこへ行かねばならぬ」
「誰かが困っておる」
「確かめなければ、もっと困る者が出る」
一つずつ。
「そういう理由があるなら」
慧円は甚兵衛を見る。
「一人で思いつきのまま行くのではなく、誰かへ伝え、準備をしてから見ることもできよう」
甚兵衛。
「……」
「気になったから一人で覗くのとは、少し違う」
甚兵衛は木札の印を見る。
「見るかどうかにも、理由いるのか」
「何でもそうじゃよ」
甚兵衛。
「また覚えること増えた」
慧円が笑った。
「一日一つでよいのだろう?」
甚兵衛。
「……」
自分で言った。
昨日。
一昨日。
何度も。
一日で全部覚えようとするな。
「そうでした」
木札を引き寄せる。
妙な印の横へ。
覚えたばかりの字で。
ゆっくり。
書く。
道。
その下。
少し考えて。
不明。
字はまだ歪んでいる。
それでも。
今度は。
甚兵衛以外にも、少し意味が分かる。
◇
夜。
物置。
「ただいま」
三匹。
『かえった』
甚兵衛は藁へ座り込む。
腰から木札を外した。
今日の道。
松。
橋。
二軒。
そして。
細い道。
その横。
不明。
最初の鼠が鼻を近づける。
『ここ』
甚兵衛。
「そう。今日の変なとこ」
『いかない?』
「今は」
『あした?』
甚兵衛は少し考える。
「明日も行く理由なかったら行かない」
『ずっと?』
「それは知らない」
鼠。
『わからない』
甚兵衛。
「そう」
少し間が空く。
最初の鼠が木札を見る。
『でも』
「ん?」
『かえった』
甚兵衛の手が止まった。
それから。
小さく笑う。
「……うん」
今日は。
近道を使わなかった。
道の先に何があるのか。
結局。
分からないままだ。
それでも。
届け物は終えた。
代金も持ち帰った。
木札もある。
三匹もいる。
自分も。
ここへ帰ってきた。
甚兵衛は木札を明日の着物の上へ置いた。
「今日は、それでいいか」
最初の鼠。
『じゃあ、いい』
甚兵衛。
「やっぱりそれなんだな」
藁へ横になる。
近い道が。
必ずいい道とは限らない。
遠い道が。
いつも悪いわけでもない。
知らない道が。
危ないとも限らない。
ただ。
今の自分に必要なのは。
届けること。
戻ること。
そして。
気づいたことを忘れないこと。
甚兵衛は目を閉じる。
行く時だけではなく。
帰るところまで考える。
それも。
仕事の一つなのかもしれなかった。