翌朝。
甚兵衛は、鼠に鼻を齧られるより先に目を覚ました。
薄暗い物置の天井を見上げたまま、しばらく瞬きをする。
それから、まず鼻へ手をやった。
痛くない。
齧られてもいない。
「……よし」
最近、朝一番に鼻の無事を確かめるのが癖になってきた。
次に見るのは、昨日脱いだ着物の上。
そこには、小さな木札が置かれている。
甚兵衛は手を伸ばして持ち上げた。
「これもある」
昨日書いた道。
松。
橋。
家。
そして。
細い道の横に書いた、まだ歪んだ二文字。
不明。
藁の中から、最初の鼠が顔を出した。
『みち』
「昨日のな」
鼠は木札へ鼻を近づける。
『いく?』
甚兵衛はすぐ答えた。
「今日は行かない」
『なぜ』
「行く理由ないから」
『きになる』
「気にはなるよ」
そこは即答だった。
かなり気になる。
家がある。
畑もある。
人も住んでいる。
なのに。
鼠の気配だけが妙に薄い。
理由は知りたい。
だが。
甚兵衛は木札を腰へ差した。
「気になるのと、行くのは別」
口にして。
少しだけ笑った。
最近、似たようなことばかり覚えている。
できること。
していいこと。
欲しいこと。
買うこと。
知りたいこと。
調べること。
似ているようで。
全部、少し違う。
三匹目の鼠が起きてくる。
『ごはん?』
甚兵衛。
「それは食う」
そこには迷いがなかった。
◇
藤吉の店。
「おはようございます」
藤吉。
「おう」
弥助が店先で縄をまとめながら振り返る。
「今日は早いな」
作兵衛も奥から顔を出した。
「昨日も普通だったろ」
甚兵衛。
「普通が褒められる段階まで来た?」
藤吉。
「続けばな」
甚兵衛。
「厳しいなあ」
「普通を続ける方が難しいんだよ」
「朝から嫌なこと言わないでください」
「嫌でも仕事だ」
「はい」
甚兵衛は箒を取る。
店先。
軒下。
棚の前。
以前より動きは速い。
だが。
急いで雑にはしない。
商品へ埃を飛ばさない。
人の通り道へ集めない。
動かした物は元の場所へ戻す。
少し前まで。
掃除は掃けば終わりだった。
今は。
同じ掃除でも見るものが増えている。
一つ覚えるたび。
仕事は簡単になるどころか。
見る場所が増える。
それでも。
前ほど嫌ではなくなっていた。
掃除が終わる。
藤吉が手を出した。
「昨日の木札」
甚兵衛。
「これ?」
「ああ」
腰から抜いて渡す。
藤吉は昨日の道順を見る。
松らしき絵。
橋。
二軒の家。
細い道。
その横の。
不明。
藤吉が指を置く。
「これ」
「はい」
「何で残した」
甚兵衛は少し考える。
「忘れたくなかったから」
「何を」
「……変だったこと」
藤吉。
「危なかった?」
「分からない」
「通れない?」
「分からない」
「行き止まり?」
「分からない」
藤吉が甚兵衛を見る。
甚兵衛も見返す。
「分からないから“不明”って書いたんです」
少し間。
藤吉は頷いた。
「そうだな」
木札を返す。
甚兵衛。
「消さなくていい?」
「何で消す」
「次見たら、何でもないかもしれないし」
「何でもないと分かった時に直せばいい」
甚兵衛。
「……」
分からない。
だから。
消す。
ではない。
分からない。
と残しておく。
それも記録になる。
甚兵衛は木札の二文字を見る。
なんとなく。
少し嬉しい。
藤吉。
「ただし」
甚兵衛。
「出た」
「何が」
「最近、大人みんな“ただし”って言う」
弥助。
「便利だからな」
作兵衛。
「一つ覚えて全部分かった顔する奴がいるからだろ」
甚兵衛。
「誰の話?」
三人が甚兵衛を見る。
「俺!?」
藤吉は気にせず続ける。
「道を残すなら、曲がる場所だけ覚えて終わりにするな」
甚兵衛。
「何で」
「道は変わる」
甚兵衛は真顔になる。
「歩いて逃げるの?」
弥助が吹き出した。
「道が勝手に歩くか」
「じゃあ何」
藤吉。
「橋が壊れる」
作兵衛。
「雨でぬかるむ」
弥助。
「荷車が詰まる」
藤吉。
「目印にしてた家がなくなることもある」
甚兵衛。
「……」
昨日。
松。
橋。
家。
見つけやすい物を選んで覚えた。
それで十分だと思った。
でも。
ずっと同じとは限らない。
甚兵衛。
「じゃあ、何を覚えればいいの」
藤吉。
「一つだけを頼りにしない」
その言葉に。
甚兵衛は少し黙る。
最近。
よく似たことを聞く。
作兵衛だけしか分からない仕事。
自分にしか読めない木札。
一匹しか知らない道。
一つしか頼れるものがない。
それは。
使えなくなった時。
全部止まる。
「……なるほど」
藤吉。
「珍しく素直だな」
「昨日からそこ褒められすぎじゃない?」
◇
午前。
弥助が少し大きめの荷籠を持ってきた。
「甚兵衛」
「はい」
「今日は俺と外行くぞ」
甚兵衛の顔が少し明るくなる。
「配達?」
「受け取り」
「何を?」
「紙と油」
油。
聞いたことのある字。
甚兵衛は少しだけ嬉しくなる。
弥助が書き付けを渡した。
「読めるか」
甚兵衛は紙を持つ。
一文字ずつ目で追う。
知っている形。
見覚えがある字。
「……油」
「うん」
「二」
「そう」
少し下。
「これ……紙?」
弥助。
「合ってる」
甚兵衛は顔を上げた。
「三つ読めた」
弥助。
「前より増えたな」
「今、褒めた?」
「多分」
「そこは素直に褒めろよ!」
弥助が笑う。
甚兵衛はすぐ木札を出した。
相手。
紙。
油。
数。
そして。
道。
簡単な印をつける。
弥助が横から覗く。
「また絵描くのか」
「忘れるよりいいだろ」
「今日は俺いるぞ」
甚兵衛。
「弥助さんが途中でいなくなったら困る」
「勝手に消すな」
甚兵衛は少し真面目になる。
「一人抜けたら大変なの、もう知ってるんで」
弥助の手が少し止まる。
それから。
「……まあ、書いとけ」
甚兵衛。
「はい」
◇
二人で店を出る。
三匹の鼠は。
いつものように少し離れてついてくる。
甚兵衛は歩きながら、周りを見る。
道の脇。
大きな石。
「これ、目印になるな」
木札へ印をつける。
少し先。
幹が大きく曲がった木。
「これも」
弥助。
「全部書く気か?」
甚兵衛。
「駄目?」
「多すぎる」
甚兵衛は木札を見る。
「じゃあ、どれ残すの」
弥助は歩いたまま答えた。
「迷いそうなところ」
甚兵衛。
「……」
全部。
残す必要はない。
必要なところ。
間違えそうなところ。
困りそうなところ。
甚兵衛は、さっき書いた大石の印を消そうとして。
止める。
「これは?」
弥助。
「なくても帰れそうだな」
「じゃあ消す」
「今は残しとけ」
甚兵衛。
「何で」
「帰りに、本当にいらなかったか確かめればいい」
甚兵衛。
「……」
一度書いた。
だから決定。
ではない。
使ってみる。
帰ってみる。
それから直す。
店の帳面と同じだった。
甚兵衛は木札を戻す。
「帰りに見る」
「ああ」
◇
しばらく歩く。
最初の鼠が道端で止まり。
細い畦道を見た。
『こっち』
甚兵衛。
「そっち?」
畑の間を通る細い道。
明らかに近そうだ。
弥助が振り返る。
「何見てる」
「この道」
弥助も見る。
甚兵衛。
「通れる?」
「人ならな」
「荷車は?」
「無理」
甚兵衛は地面を見る。
「雨の日は?」
弥助も見る。
乾いた土。
両脇は田畑。
「ぬかるんだら面倒だろうな」
甚兵衛。
「……」
木札を出す。
細い道を一本。
その横へ。
人○。
少し下。
車×。
弥助が見て笑う。
「本当に自分用だな」
甚兵衛。
「帰ったら字も足すよ」
「ならいい」
最初の鼠。
『こっち、はやい』
甚兵衛。
「鼠ならな」
『ねずみも、にもつ』
「お前ら荷車引かないだろ」
鼠。
『ひかない』
「だろ?」
少し得意になる。
同じ道でも。
鼠には使える。
人にも使える。
荷車には使えない。
それぞれ。
違う。
◇
目的の家へ着く。
挨拶。
書き付け。
相手。
確認。
受け取る品。
紙。
油。
数。
一つずつ確かめる。
甚兵衛も一緒に油壺を数えた。
「一」
「二」
それで終わらず。
壺を持ってみる。
弥助。
「何してる」
「中、入ってるか確認」
「新品だぞ」
「新品でも見る」
弥助が少し笑う。
「豆の件、効いてんな」
「効いた」
壺は二つとも重い。
蓋も問題ない。
甚兵衛。
「大丈夫」
弥助。
「よし」
紙も数える。
書き付けと比べる。
問題なし。
荷を整え。
二人で帰路につく。
◇
しばらく歩いた頃。
空の色が変わった。
甚兵衛が上を見る。
朝より。
少し暗い。
風も湿っている。
「雨?」
弥助も空を見る。
「降るかもな」
甚兵衛。
「急ぐ?」
「走るなよ」
「走るとは言ってない!」
その直後。
頬へ。
ぽつ。
一滴。
甚兵衛。
「あ」
また。
ぽつ。
ぽつぽつ。
「来た」
弥助の顔が変わる。
「紙を濡らすな」
甚兵衛もすぐ荷を見る。
紙。
油。
濡らして困るのは紙だ。
二人で荷を包み直す。
甚兵衛は木札も懐へ入れた。
さっきまで。
木札は便利だった。
今は。
雨に濡らしたくない。
書きたい時に書けない。
道具にも。
使える時と。
使いにくい時がある。
歩き始める。
しばらくして。
弥助が止まった。
「こっちはやめるぞ」
甚兵衛。
「何で?」
さっき。
木札に。
人○。
車×。
と書いた細い畦道。
雨で土の色が変わり始めている。
弥助が草履で軽く踏む。
沈む。
「油持って滑ったら面倒だ」
甚兵衛。
「でも近い」
「近くても、転んで壺割ったら余計遅い」
甚兵衛。
「……」
昨日。
近い道と。
帰れる道。
今日は。
近い道と。
荷を無事に持って帰れる道。
また違う。
甚兵衛は頷く。
「広い方」
「ああ」
少し遠回り。
だが。
地面はまだ固い。
人も通っている。
甚兵衛は木札を出そうとして。
雨粒が手に落ちた。
「あ」
弥助。
「何だ」
「書けない」
「今は頭で覚えろ」
甚兵衛。
「忘れたら?」
弥助。
「俺も歩いてる」
甚兵衛が顔を上げる。
「帰ったら二人で確認する」
「……二人」
弥助。
「何でも一人で覚えなくていいんだよ」
甚兵衛は少し笑った。
「それ、最近よく聞く」
◇
幸い。
雨は強くならなかった。
それでも。
道は湿り。
草履には泥がついた。
店へ戻った頃には。
甚兵衛の額に汗が浮いていた。
「戻りました!」
藤吉が顔を出す。
「荷は」
弥助。
「無事です」
まず。
紙。
濡れていない。
次。
油。
壺は割れていない。
数も合う。
藤吉が確認する。
「よし」
甚兵衛はすぐ懐から木札を出した。
「道、書き直したい」
藤吉。
「先に荷を片づけろ」
甚兵衛。
「……はい」
まただ。
一つ気になると。
すぐ次へ行きたくなる。
だが。
今の仕事を終わらせる方が先。
甚兵衛は荷を運ぶ。
紙。
置く。
油。
置く。
確認。
それから。
ようやく木札を開いた。
◇
行きに書いた。
細い道。
人○。
車×。
その横。
雨。
ぬかるみ。
滑る。
どう書く。
甚兵衛は筆を持ったまま悩む。
「弥助さん」
「何だ」
「雨の日駄目って、どう書く?」
「字で書け」
「すぐ書けない」
「じゃあ印」
甚兵衛は少し考える。
細い線。
雨らしい斜め線。
その下へ。
大きな×。
弥助が見る。
「お前には分かる?」
「分かる」
「じゃあ今はそれでいい」
甚兵衛。
「後で字も書く」
「そうしろ」
藤吉も横から覗く。
「何を覚えた」
甚兵衛。
「道って」
木札を見る。
「通れるかどうかだけじゃない」
藤吉。
「他は」
「持ってる荷」
「他は」
「天気」
「他は」
「歩く人か、荷車か」
藤吉。
「他は」
甚兵衛が顔を上げる。
「まだあるの!?」
作兵衛が笑った。
藤吉。
「時間」
甚兵衛。
「時間?」
「朝は通れても、昼には人が増える道もある」
弥助。
「市が立てば通りにくくなる場所もある」
作兵衛。
「夜になれば真っ暗になるところもある」
甚兵衛。
「……」
木札を見る。
全部。
一枚へ書いたら。
もうほとんど埋まる。
「これ、全部書くの?」
藤吉。
「全部一枚に押し込むな」
甚兵衛。
「……あ」
また。
同じだった。
一枚。
一人。
一つ。
全部そこへ詰め込もうとしなくていい。
必要なら。
分ける。
道の印。
届け先。
注意。
別にする。
甚兵衛は木札を裏返した。
「裏も使える」
藤吉。
「それも手だ」
甚兵衛。
「……褒めた?」
「普通だ」
「そこは褒めてよ!」
◇
夕方。
客が途切れた頃。
甚兵衛は昨日の細い道を思い出した。
鼠が妙にいなかった場所。
藤吉は帳面を見ている。
甚兵衛は少し迷ってから声をかけた。
「あのさ」
藤吉。
「何だ」
「昨日の道」
藤吉は顔を上げる。
「鼠がいなかったところか」
甚兵衛。
「そう」
少しだけ声が小さくなる。
「やっぱ気になる」
藤吉。
「行きたくなった?」
甚兵衛は即答しかけて。
止めた。
今日。
道は条件で変わると知った。
晴れ。
雨。
人。
荷。
時間。
昨日。
自分が通った時。
鼠が少なかった。
それだけだ。
ずっと少ない。
とは限らない。
「……もう一回」
藤吉。
「うん」
「別の日に、外から見る」
藤吉。
「入る?」
甚兵衛は首を振った。
「まだ入らない」
「何で」
「一回しか見てないから」
藤吉は少しだけ口元を緩めた。
「それでいい」
甚兵衛。
「次も鼠いなかったら?」
藤吉。
「その時また考えろ」
甚兵衛は顔をしかめる。
「全部それじゃん」
藤吉。
「先の答えを、今全部決めてどうする」
甚兵衛。
「……」
明日のことは。
明日。
鼠にも言われた。
「分かりました」
それでも。
木札の不明は。
消さなかった。
◇
仕事の後。
慧円のところ。
甚兵衛は今日の木札を広げた。
昨日より。
さらにごちゃごちゃしている。
松。
橋。
細い道。
人○。
車×。
雨らしき線。
大きな×。
慧円はしばらく眺める。
「随分増えたの」
甚兵衛。
「今日、雨降ったから」
「これは?」
「人なら通れる」
「こちらは?」
「荷車は駄目」
「この斜めの線は」
「雨」
慧円は少し考える。
「……雨か」
甚兵衛。
「分かんなかった?」
「虫が飛んでおるのかと」
甚兵衛。
「そんな下手!?」
慧円が笑う。
甚兵衛はむっとしながら木札を取り返す。
「とにかく」
指で順に示す。
「同じ道でも」
「人なら通れる」
「荷車は無理」
「晴れてれば行ける」
「雨だと危ない」
慧円。
「なるほど」
甚兵衛は少し考える。
「道ってさ」
「道だけ覚えればいいと思ってた」
「どこ曲がる」
「どこが近い」
「それだけ」
木札を見る。
「でも」
「何持ってるか」
「天気」
「人の多さ」
「時間」
「そういうので変わる」
慧円は頷いた。
「人も似たようなものかもしれんの」
甚兵衛。
「人?」
「昨日できたことが」
慧円は甚兵衛を見る。
「疲れている日は、できぬこともある」
甚兵衛。
「……」
作兵衛が倒れそうになっていた日。
自分が疲れて字の稽古を休んだ日。
普段ならできる。
でも。
いつでも同じではない。
甚兵衛。
「同じ人でも?」
「同じ人でも」
「昨日できたのに?」
「昨日できても」
「今日できないことある?」
「あるじゃろう」
甚兵衛はしばらく考えた。
「じゃあ」
「できなかったからって、急に駄目な奴になったわけじゃない?」
慧円。
「一度だけでは分からんの」
甚兵衛。
「また場合による?」
慧円は笑った。
「便利じゃろう」
甚兵衛。
「藤吉さんに似てきたなあ」
「藤吉殿も同じことを考えておるのではないかね」
甚兵衛。
「大人、みんな面倒なこと言う」
そう言いながら。
少しだけ笑っていた。
◇
夜。
物置。
「ただいま」
三匹。
『かえった』
甚兵衛は藁へ座り。
今日の木札と昨日の木札を並べた。
最初の鼠が寄ってくる。
『みち、いっぱい』
「増えたな」
二匹目が細い道の印を見る。
『こっち、はやい』
甚兵衛。
「でも雨の日滑る」
鼠。
『ねずみ、いける』
甚兵衛。
「俺は鼠じゃ……」
途中で止まる。
人間半分。
妖怪半分。
しかも。
鼠妖怪の血。
「……半分くらいそっちか」
最初の鼠。
『いける?』
甚兵衛。
「俺だけなら、多分」
『じゃあ、いく?』
「油持ってる時は行かない」
『なぜ』
「転んだら壺割れる」
鼠。
『ひとり?』
甚兵衛。
「一人なら考える」
『あめ?』
「天気見る」
『ねこ?』
「いたら避ける」
『いぬ?』
「それも」
『ひと?』
甚兵衛は少し止まった。
今日。
人が多ければ。
通りにくい道もあると聞いた。
「……人も見る」
鼠。
『いっぱい』
甚兵衛は笑った。
「本当にな」
考えることが。
いっぱいある。
前は。
近い。
遠い。
それくらいだった。
今は。
通れる。
通れない。
荷がある。
ない。
晴れ。
雨。
昼。
夜。
一人。
誰かと一緒。
鼠なら行ける。
人なら行ける。
荷車は無理。
同じ道なのに。
条件が変われば。
使い方まで変わる。
甚兵衛は藁へ横になる。
「道って面倒だな」
最初の鼠。
『でも、かえれる』
甚兵衛。
「うん」
少し笑う。
「帰れればいい」
言ってから。
少し考える。
「……いや」
鼠。
『?』
「仕事の時は」
木札を見る。
「俺だけじゃなくて、荷物もちゃんと帰さないと駄目だ」
鼠。
『たいへん』
甚兵衛。
「仕事だからな」
目を閉じる。
それでも。
少し面白かった。
昨日まで。
道は。
ただ歩く場所だった。
今日。
道は。
選ぶものになった。
誰が通るのか。
何を持つのか。
いつ通るのか。
何を優先するのか。
見るものが増えるたび。
同じ景色なのに。
少し違って見える。
甚兵衛は眠気の中で思う。
明日になれば。
また。
昨日まで気づかなかった何かが見えるかもしれない。
全部。
今日分からなくてもいい。
明日も。
一つ。
覚えればいい。