翌朝。
甚兵衛が目を覚ますと。
最初の鼠が、すでにこちらを見ていた。
鼻は無事。
甚兵衛は念のため触る。
「……今日は何もしてないな」
鼠。
『してない』
「偉い」
『えらい』
「自分で言うな」
身体を起こす。
昨日より腕は軽い。
腰も動く。
着物を整える。
帯は二度目で締まった。
最初の鼠。
『じょうず』
甚兵衛は少し得意になる。
「だろ?」
『たぶん』
「それ、絶対言わないと駄目なの?」
木札を取る。
昨日までの道。
晴れ。
雨。
人。
荷車。
そして。
一つだけ残った、
不明。
最初の鼠が、その場所を鼻先で示した。
『ここ』
「うん」
『きょう、いく?』
甚兵衛は木札を腰へ差した。
「理由があったら」
『なかったら?』
「行かない」
鼠は少し考えた。
『きになる?』
「なる」
『でも、いかない?』
甚兵衛。
「そういうこともある」
自分で言って。
少し妙な気分になる。
以前の自分なら。
気になる。
だから見る。
分からない。
だから確かめる。
それで終わっていた気がする。
今は。
その間に、もう一つある。
今、見る必要があるのか。
甚兵衛は立ち上がった。
三匹目。
『ごはん』
「それは必要」
そこだけは即決だった。
◇
藤吉の店へ着く。
「おはようございます」
藤吉。
「おう」
作兵衛は荷の整理。
弥助は店先で縄を巻いている。
甚兵衛はいつものように箒へ手を伸ばした。
そこで。
「甚兵衛」
藤吉に呼ばれる。
「はい」
「今日は掃除終わったら、弥助と外へ行け」
甚兵衛の手が止まる。
「配達?」
「受け取りだ」
「何を?」
「油」
甚兵衛。
「昨日も油だった気がする」
弥助。
「油は昨日使ったら今日消える物じゃねえんだよ」
「それは分かってる!」
藤吉は帳面を見る。
「行き先は、昨日お前が話してた道の近くだ」
甚兵衛の顔が変わった。
「……不明の?」
「あの細道そのものじゃない」
藤吉は木札を指した。
「手前を通る」
甚兵衛は一瞬。
少しだけ。
嬉しそうな顔をした。
それを見て弥助が言う。
「遊びに行く顔すんなよ」
「してない!」
「してる」
藤吉。
「甚兵衛」
「はい」
「今日の仕事は何だ」
甚兵衛はすぐ答える。
「油を受け取って帰る」
「不明の道を調べることか?」
「違う」
「なら優先するのは?」
「油」
藤吉が頷く。
「それでいい」
甚兵衛は少し不満そうにする。
「ちょっと見るのも駄目?」
「道から見えるものまで見るなとは言ってない」
「じゃあ」
「入るな」
「……はい」
「妙だと思ったら?」
甚兵衛。
「弥助さんに言う」
「それから」
「無理に近づかない」
「それから」
甚兵衛は少し考えた。
「帰って報告する」
藤吉。
「よし」
甚兵衛。
「多いな」
作兵衛。
「昨日、自分で“条件がいっぱい”って覚えたばっかりだろ」
「覚えたから多いって言ってんです」
◇
掃除を終える。
甚兵衛は自分の木札を出した。
行き先。
油。
数。
受け取る相手。
それから。
道。
弥助が横から覗き込む。
「また地図か」
「地図ってほどじゃない」
「それはそうだな」
甚兵衛。
「そこ肯定しないでよ」
弥助は笑う。
甚兵衛は昨日書いた不明の横へ、新しく小さな線を引いた。
「今日通るの、こっち?」
「ああ」
「細い道には入らない」
「そうだ」
「帰りも?」
弥助。
「状況変わってなきゃな」
甚兵衛は顔を上げた。
「変わってたら?」
「その時考える」
甚兵衛。
「最近みんなそれだ」
弥助。
「今ない問題まで今決めてどうすんだ」
藤吉と同じことを言われた。
甚兵衛は少し悔しい。
「大人って、たまに全員同じこと言うな」
弥助。
「たまに正しいからじゃねえか」
「自分で言う?」
◇
二人で店を出る。
三匹の鼠も。
距離を取ってついてきた。
甚兵衛は歩きながら木札を見る。
大きな松。
橋。
昨日、雨で避けた細い道。
地面はまだ少し湿っている。
甚兵衛。
「今日もこっち使わない?」
弥助。
「油持って帰るからな」
「まだ受け取ってないけど」
「帰りを考えて道選べ」
甚兵衛。
「……」
また。
一つ。
行きだけで考えない。
帰りに何を持つのか。
それも先に考える。
「行きは通れても、帰りに使えない道あるんだ」
弥助。
「ある」
「面倒だな」
「道が?」
「仕事が」
「今さらだな」
甚兵衛は笑った。
◇
しばらくして。
昨日の分かれ道が見えてきた。
右。
広い道。
左。
あの細い道。
甚兵衛の足が少し遅くなる。
弥助は気づいた。
「ここか」
「うん」
甚兵衛は草むらを見る。
三匹も止まる。
昨日と同じ。
細い道へ近づこうとしない。
最初の鼠が鼻を動かした。
『いない』
甚兵衛。
「今日も?」
『うん』
二匹目。
『すくない』
昨日は。
いない。
今日は。
少ない。
甚兵衛は、その違いに気づいた。
「一匹もいないんじゃない?」
最初の鼠。
『いる』
「いるの?」
『とおい』
甚兵衛。
「……」
昨日と。
完全に同じではない。
弥助。
「何してる」
甚兵衛は少し迷ってから言った。
「昨日より……少し違う気がする」
「何が」
「鼠」
弥助は細い道を見る。
「見えるか?」
「見えない」
「じゃあ何で」
「……なんとなく」
弥助。
「その“なんとなく”、便利だな」
甚兵衛。
「自分でもそう思う」
二人は道の入口から先を見る。
家。
畑。
人が干した物。
遠くに煙。
特別。
何かがおかしいようには見えない。
子供が一人。
庭先を走っている。
女が桶を運んでいる。
男が畑にいる。
普通だ。
少なくとも。
甚兵衛の目には。
弥助。
「どうする」
甚兵衛。
「どうするって」
「気になるんだろ」
甚兵衛は細い道を見る。
気になる。
かなり。
でも。
「油取りに行く」
弥助。
「よし」
それだけ言って、歩き出した。
甚兵衛。
「何、その試すみたいな聞き方」
「入るって言ったら止めた」
「先に言ってよ」
「先に言ったら考えねえだろ」
甚兵衛。
「みんな教え方が嫌!」
弥助が笑った。
◇
油を受け取る家へ着く。
甚兵衛は書き付けを見る。
読めるところ。
読めないところ。
分からない部分は弥助に聞く。
相手。
合っている。
油。
壺が三つ。
甚兵衛は一つずつ持ってみた。
一つ。
重い。
二つ目。
重い。
三つ目。
「……これ、ちょっと軽くない?」
弥助も持つ。
「いや。同じくらいだ」
甚兵衛はもう一度。
「俺の持ち方?」
「多分な」
甚兵衛。
「多分か」
蓋を開けるわけにもいかない。
先方に聞く。
「これ、中身全部入ってます?」
相手の男。
「入ってるぞ」
甚兵衛。
「確認してもいい?」
男は少し驚いたが。
「いいぞ」
許可を得て確かめる。
中身は問題ない。
甚兵衛。
「合ってる」
弥助。
「疑って悪かったって言っとけ」
甚兵衛。
「疑ったんじゃなくて確認しただけ」
男が笑う。
「同じようなもんだ」
甚兵衛は少し考える。
「……違うと思うけど」
弥助。
「そういうとこだけ細かいな」
甚兵衛。
「大事じゃん」
疑う。
確認する。
似ている。
でも。
相手を悪いと決めて見るのと。
間違いがないか見るのは。
自分の中では少し違った。
◇
油を受け取り。
帰る。
今度は荷がある。
三人――ではない。
人間二人。
鼠三匹。
広い道を選ぶ。
例の細道が再び見える。
甚兵衛は今度も足を止めなかった。
ただ。
横目で見る。
その時。
最初の鼠が急に止まった。
『におい』
甚兵衛も止まる。
「何の?」
『しらない』
二匹目。
『いや』
三匹目は。
何も言わず。
少し後ろへ下がった。
甚兵衛の表情が変わる。
「危ない?」
最初の鼠。
『しらない』
「昨日も?」
『ちがう』
「今日だけ?」
『いま』
甚兵衛。
「……」
知らない。
嫌。
今。
それだけ。
弥助が気づく。
「甚兵衛」
「はい」
「何だ」
甚兵衛は細い道を見る。
だが。
今までと同じ。
人がいる。
畑がある。
見た目に変化はない。
「……変な匂い」
弥助も鼻を動かす。
「俺には分からん」
「俺も分かんない」
「は?」
甚兵衛。
「いや、俺じゃなくて」
止まる。
危ない。
「……なんとなく!」
弥助。
「またか」
甚兵衛。
「でも」
少しだけ声を落とす。
「今日は鼠が嫌がってる感じする」
弥助は甚兵衛を見る。
昨日から。
甚兵衛が鼠のことを妙に気にしている。
それは知っている。
「入るか?」
甚兵衛は首を振った。
「入らない」
「何で」
「分からないから」
昨日なら。
分からない。
だから。
少し見たいと思った。
今日は。
荷がある。
油壺が三つ。
それに。
鼠たちが嫌がっている。
理由は分からない。
でも。
無視する理由もない。
甚兵衛。
「遠回りできる?」
弥助。
「できる」
「じゃあそっち」
弥助は何も言わず頷いた。
二人は少し遠い道へ回った。
最初の鼠。
『にげる?』
甚兵衛。
「逃げるほどか分かんない」
『でも、いかない』
「うん」
『こわい?』
甚兵衛は少し考えた。
「ちょっと」
最初の鼠。
『だいじょうぶ』
甚兵衛。
「本当に?」
鼠。
『たぶん』
「そこだけは相変わらずだな」
少しだけ。
肩の力が抜けた。
◇
店へ戻る。
油。
三壺。
割れていない。
数。
合っている。
藤吉が受け取りを確認する。
「よし」
甚兵衛は木札を出した。
「あと」
藤吉。
「何だ」
昨日の不明。
その横へ。
今日のことを書く。
「昨日も鼠少なかった」
「今日も?」
「うん」
少し迷う。
「でも今日は、何か嫌な匂いがした……らしい」
藤吉。
「らしい?」
甚兵衛。
「……俺には分からなかった」
弥助が横から言う。
「こいつ、鼠の様子見て道変えました」
甚兵衛。
「言わなくてもよくない?」
藤吉。
「鼠が嫌がった?」
甚兵衛。
「うん」
「お前は何か見た?」
「何も」
「人が倒れてた?」
「いない」
「騒ぎ?」
「ない」
「臭い?」
「俺には分からない」
藤吉は少し考える。
「なら」
帳面の余白を開く。
短く書く。
甚兵衛が覗く。
まだ全部は読めない。
「何て書いたの」
藤吉。
「昨日と今日、二度」
指で示す。
「甚兵衛が妙だと感じた」
次。
「鼠が少ない」
「今日は鼠が嫌がる様子」
甚兵衛。
「危険って書かないの?」
「危険だと分かったのか?」
「分かってない」
「なら書かん」
甚兵衛。
「安全?」
「それも分からん」
「じゃあ」
藤吉は最後に一言だけ書いた。
「未詳」
甚兵衛。
「みしょう?」
「まだ詳しく分からん」
甚兵衛は自分の木札を見る。
不明。
藤吉の帳面。
未詳。
少し。
似ている。
「分からないって、ちゃんと書いていいんだ」
藤吉。
「分かったふりするよりましだ」
甚兵衛。
「……」
妙に。
その言葉が残った。
◇
午後。
普通に仕事をする。
客が来る。
品を出す。
値段を聞かれる。
分かるものは答える。
分からないものは呼ぶ。
途中。
甚兵衛は何度か、帳面の端に書かれた未詳を見る。
謎。
秘密。
危険。
そういう言葉ではない。
ただ。
まだ分からない。
それだけ。
甚兵衛は少し気に入った。
◇
仕事の後。
慧円のところへ行く。
今日の木札を見せる。
慧円。
「また増えたの」
甚兵衛。
「“未詳”ってどう書くの」
「ほう」
慧円は紙へ書いてみせた。
未詳。
甚兵衛は見比べる。
「“不明”と違う?」
「似ておる」
「じゃあ同じ?」
「いつも同じではないの」
甚兵衛。
「またそれ?」
慧円が笑う。
「不明は、分からぬ」
「未詳は、まだ詳らかではない」
甚兵衛。
「……」
少し違う。
分からない。
で止まるより。
まだ分かっていない。
に近い。
「後で分かるかもしれない?」
「そういう使い方もできよう」
甚兵衛は筆を取った。
一度。
書く。
形が崩れる。
もう一度。
未詳。
「これ好きかも」
慧円。
「なぜ」
甚兵衛。
「分からないって書いてるのに」
少し考える。
「負けた感じしない」
慧円は笑った。
「分からぬことは、負けなのかね」
甚兵衛。
「前はちょっとそう思ってたかも」
分からない。
知らない。
できない。
それを言えば。
自分が弱いと認めるような気がしていた。
でも。
店では。
分からないなら聞く。
数が合わなければ調べる。
原因が分からなければ。
分からないまま記録する。
それで仕事が止まらないなら。
別に。
負けではない。
慧円。
「今日分からぬものが、明日も分からぬとは限らん」
甚兵衛。
「じゃあ」
未詳。
もう一度書く。
「これ、後で直していい字なんだ」
「字そのものは直さんでもよいがの」
甚兵衛。
「意味!」
慧円が笑った。
◇
夜。
物置。
「ただいま」
三匹。
『かえった』
甚兵衛は藁へ座り。
三匹を見る。
「今日の匂い」
最初の鼠。
『いや』
「何の匂い?」
『しらない』
「前にも嗅いだ?」
『しらない』
「猫?」
『ちがう』
「犬?」
『ちがう』
「人?」
鼠は少し考えた。
『ひと、いる』
「そうじゃなくて」
やめた。
鼠の言葉だけで。
無理に答えを作ろうとしている。
甚兵衛は木札を取り出した。
細い道。
その横に。
昨日の不明。
さらに。
今日覚えた字を、ゆっくり書く。
未詳。
最初の鼠が見る。
『なに』
甚兵衛。
「まだ分からない」
鼠。
『わからない』
「そう」
『いく?』
「今は行かない」
『こわい?』
甚兵衛は少し考える。
「少し」
鼠。
『にげる?』
「今は逃げるほどじゃない」
『じゃあ?』
甚兵衛は木札を指した。
「覚えとく」
鼠。
『それだけ?』
「それだけ」
少し間。
甚兵衛は笑った。
「それで、誰かに話しとく」
今日。
自分だけの木札に残した。
藤吉の帳面にも残った。
弥助も知っている。
鼠たちも。
もちろん知っている。
一人の頭の中だけではない。
甚兵衛は藁へ横になる。
以前なら。
分からないものを見つけたら。
すぐ答えが欲しかった。
今も。
知りたい。
かなり。
でも。
答えがないなら。
ないまま残すこともできる。
昨日。
今日。
二度。
鼠が少ない。
今日は。
鼠が嫌がる匂い。
危険かどうか。
原因は何か。
まだ。
分からない。
だから。
今は。
未詳。
甚兵衛は目を閉じる。
最初の鼠。
『あした?』
甚兵衛。
「明日、何か分かったら書き足す」
『なにもない?』
「その時は何もないって残す」
鼠。
『じゃあ、いい』
甚兵衛は小さく笑った。
「うん」
分からないことを。
無理に分かったことにしない。
忘れない。
一人で抱えない。
必要になるまで。
残しておく。
それも。
甚兵衛が店で覚え始めた仕事の一つだった。