『鼠は最後に帰ってくる』   作:隼人2

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「分からないまま、残す」

翌朝。

甚兵衛が目を覚ますと。

最初の鼠が、すでにこちらを見ていた。

鼻は無事。

甚兵衛は念のため触る。

「……今日は何もしてないな」

鼠。

『してない』

「偉い」

『えらい』

「自分で言うな」

身体を起こす。

昨日より腕は軽い。

腰も動く。

着物を整える。

帯は二度目で締まった。

最初の鼠。

『じょうず』

甚兵衛は少し得意になる。

「だろ?」

『たぶん』

「それ、絶対言わないと駄目なの?」

木札を取る。

昨日までの道。

晴れ。

雨。

人。

荷車。

そして。

一つだけ残った、

不明。

最初の鼠が、その場所を鼻先で示した。

『ここ』

「うん」

『きょう、いく?』

甚兵衛は木札を腰へ差した。

「理由があったら」

『なかったら?』

「行かない」

鼠は少し考えた。

『きになる?』

「なる」

『でも、いかない?』

甚兵衛。

「そういうこともある」

自分で言って。

少し妙な気分になる。

以前の自分なら。

気になる。

だから見る。

分からない。

だから確かめる。

それで終わっていた気がする。

今は。

その間に、もう一つある。

今、見る必要があるのか。

甚兵衛は立ち上がった。

三匹目。

『ごはん』

「それは必要」

そこだけは即決だった。

◇

藤吉の店へ着く。

「おはようございます」

藤吉。

「おう」

作兵衛は荷の整理。

弥助は店先で縄を巻いている。

甚兵衛はいつものように箒へ手を伸ばした。

そこで。

「甚兵衛」

藤吉に呼ばれる。

「はい」

「今日は掃除終わったら、弥助と外へ行け」

甚兵衛の手が止まる。

「配達?」

「受け取りだ」

「何を?」

「油」

甚兵衛。

「昨日も油だった気がする」

弥助。

「油は昨日使ったら今日消える物じゃねえんだよ」

「それは分かってる!」

藤吉は帳面を見る。

「行き先は、昨日お前が話してた道の近くだ」

甚兵衛の顔が変わった。

「……不明の?」

「あの細道そのものじゃない」

藤吉は木札を指した。

「手前を通る」

甚兵衛は一瞬。

少しだけ。

嬉しそうな顔をした。

それを見て弥助が言う。

「遊びに行く顔すんなよ」

「してない!」

「してる」

藤吉。

「甚兵衛」

「はい」

「今日の仕事は何だ」

甚兵衛はすぐ答える。

「油を受け取って帰る」

「不明の道を調べることか?」

「違う」

「なら優先するのは?」

「油」

藤吉が頷く。

「それでいい」

甚兵衛は少し不満そうにする。

「ちょっと見るのも駄目?」

「道から見えるものまで見るなとは言ってない」

「じゃあ」

「入るな」

「……はい」

「妙だと思ったら?」

甚兵衛。

「弥助さんに言う」

「それから」

「無理に近づかない」

「それから」

甚兵衛は少し考えた。

「帰って報告する」

藤吉。

「よし」

甚兵衛。

「多いな」

作兵衛。

「昨日、自分で“条件がいっぱい”って覚えたばっかりだろ」

「覚えたから多いって言ってんです」

◇

掃除を終える。

甚兵衛は自分の木札を出した。

行き先。

油。

数。

受け取る相手。

それから。

道。

弥助が横から覗き込む。

「また地図か」

「地図ってほどじゃない」

「それはそうだな」

甚兵衛。

「そこ肯定しないでよ」

弥助は笑う。

甚兵衛は昨日書いた不明の横へ、新しく小さな線を引いた。

「今日通るの、こっち?」

「ああ」

「細い道には入らない」

「そうだ」

「帰りも?」

弥助。

「状況変わってなきゃな」

甚兵衛は顔を上げた。

「変わってたら?」

「その時考える」

甚兵衛。

「最近みんなそれだ」

弥助。

「今ない問題まで今決めてどうすんだ」

藤吉と同じことを言われた。

甚兵衛は少し悔しい。

「大人って、たまに全員同じこと言うな」

弥助。

「たまに正しいからじゃねえか」

「自分で言う?」

◇

二人で店を出る。

三匹の鼠も。

距離を取ってついてきた。

甚兵衛は歩きながら木札を見る。

大きな松。

橋。

昨日、雨で避けた細い道。

地面はまだ少し湿っている。

甚兵衛。

「今日もこっち使わない?」

弥助。

「油持って帰るからな」

「まだ受け取ってないけど」

「帰りを考えて道選べ」

甚兵衛。

「……」

また。

一つ。

行きだけで考えない。

帰りに何を持つのか。

それも先に考える。

「行きは通れても、帰りに使えない道あるんだ」

弥助。

「ある」

「面倒だな」

「道が?」

「仕事が」

「今さらだな」

甚兵衛は笑った。

◇

しばらくして。

昨日の分かれ道が見えてきた。

右。

広い道。

左。

あの細い道。

甚兵衛の足が少し遅くなる。

弥助は気づいた。

「ここか」

「うん」

甚兵衛は草むらを見る。

三匹も止まる。

昨日と同じ。

細い道へ近づこうとしない。

最初の鼠が鼻を動かした。

『いない』

甚兵衛。

「今日も?」

『うん』

二匹目。

『すくない』

昨日は。

いない。

今日は。

少ない。

甚兵衛は、その違いに気づいた。

「一匹もいないんじゃない?」

最初の鼠。

『いる』

「いるの?」

『とおい』

甚兵衛。

「……」

昨日と。

完全に同じではない。

弥助。

「何してる」

甚兵衛は少し迷ってから言った。

「昨日より……少し違う気がする」

「何が」

「鼠」

弥助は細い道を見る。

「見えるか?」

「見えない」

「じゃあ何で」

「……なんとなく」

弥助。

「その“なんとなく”、便利だな」

甚兵衛。

「自分でもそう思う」

二人は道の入口から先を見る。

家。

畑。

人が干した物。

遠くに煙。

特別。

何かがおかしいようには見えない。

子供が一人。

庭先を走っている。

女が桶を運んでいる。

男が畑にいる。

普通だ。

少なくとも。

甚兵衛の目には。

弥助。

「どうする」

甚兵衛。

「どうするって」

「気になるんだろ」

甚兵衛は細い道を見る。

気になる。

かなり。

でも。

「油取りに行く」

弥助。

「よし」

それだけ言って、歩き出した。

甚兵衛。

「何、その試すみたいな聞き方」

「入るって言ったら止めた」

「先に言ってよ」

「先に言ったら考えねえだろ」

甚兵衛。

「みんな教え方が嫌!」

弥助が笑った。

◇

油を受け取る家へ着く。

甚兵衛は書き付けを見る。

読めるところ。

読めないところ。

分からない部分は弥助に聞く。

相手。

合っている。

油。

壺が三つ。

甚兵衛は一つずつ持ってみた。

一つ。

重い。

二つ目。

重い。

三つ目。

「……これ、ちょっと軽くない?」

弥助も持つ。

「いや。同じくらいだ」

甚兵衛はもう一度。

「俺の持ち方?」

「多分な」

甚兵衛。

「多分か」

蓋を開けるわけにもいかない。

先方に聞く。

「これ、中身全部入ってます?」

相手の男。

「入ってるぞ」

甚兵衛。

「確認してもいい?」

男は少し驚いたが。

「いいぞ」

許可を得て確かめる。

中身は問題ない。

甚兵衛。

「合ってる」

弥助。

「疑って悪かったって言っとけ」

甚兵衛。

「疑ったんじゃなくて確認しただけ」

男が笑う。

「同じようなもんだ」

甚兵衛は少し考える。

「……違うと思うけど」

弥助。

「そういうとこだけ細かいな」

甚兵衛。

「大事じゃん」

疑う。

確認する。

似ている。

でも。

相手を悪いと決めて見るのと。

間違いがないか見るのは。

自分の中では少し違った。

◇

油を受け取り。

帰る。

今度は荷がある。

三人――ではない。

人間二人。

鼠三匹。

広い道を選ぶ。

例の細道が再び見える。

甚兵衛は今度も足を止めなかった。

ただ。

横目で見る。

その時。

最初の鼠が急に止まった。

『におい』

甚兵衛も止まる。

「何の?」

『しらない』

二匹目。

『いや』

三匹目は。

何も言わず。

少し後ろへ下がった。

甚兵衛の表情が変わる。

「危ない?」

最初の鼠。

『しらない』

「昨日も?」

『ちがう』

「今日だけ?」

『いま』

甚兵衛。

「……」

知らない。

嫌。

今。

それだけ。

弥助が気づく。

「甚兵衛」

「はい」

「何だ」

甚兵衛は細い道を見る。

だが。

今までと同じ。

人がいる。

畑がある。

見た目に変化はない。

「……変な匂い」

弥助も鼻を動かす。

「俺には分からん」

「俺も分かんない」

「は?」

甚兵衛。

「いや、俺じゃなくて」

止まる。

危ない。

「……なんとなく!」

弥助。

「またか」

甚兵衛。

「でも」

少しだけ声を落とす。

「今日は鼠が嫌がってる感じする」

弥助は甚兵衛を見る。

昨日から。

甚兵衛が鼠のことを妙に気にしている。

それは知っている。

「入るか?」

甚兵衛は首を振った。

「入らない」

「何で」

「分からないから」

昨日なら。

分からない。

だから。

少し見たいと思った。

今日は。

荷がある。

油壺が三つ。

それに。

鼠たちが嫌がっている。

理由は分からない。

でも。

無視する理由もない。

甚兵衛。

「遠回りできる?」

弥助。

「できる」

「じゃあそっち」

弥助は何も言わず頷いた。

二人は少し遠い道へ回った。

最初の鼠。

『にげる?』

甚兵衛。

「逃げるほどか分かんない」

『でも、いかない』

「うん」

『こわい?』

甚兵衛は少し考えた。

「ちょっと」

最初の鼠。

『だいじょうぶ』

甚兵衛。

「本当に?」

鼠。

『たぶん』

「そこだけは相変わらずだな」

少しだけ。

肩の力が抜けた。

◇

店へ戻る。

油。

三壺。

割れていない。

数。

合っている。

藤吉が受け取りを確認する。

「よし」

甚兵衛は木札を出した。

「あと」

藤吉。

「何だ」

昨日の不明。

その横へ。

今日のことを書く。

「昨日も鼠少なかった」

「今日も?」

「うん」

少し迷う。

「でも今日は、何か嫌な匂いがした……らしい」

藤吉。

「らしい?」

甚兵衛。

「……俺には分からなかった」

弥助が横から言う。

「こいつ、鼠の様子見て道変えました」

甚兵衛。

「言わなくてもよくない?」

藤吉。

「鼠が嫌がった?」

甚兵衛。

「うん」

「お前は何か見た?」

「何も」

「人が倒れてた?」

「いない」

「騒ぎ?」

「ない」

「臭い?」

「俺には分からない」

藤吉は少し考える。

「なら」

帳面の余白を開く。

短く書く。

甚兵衛が覗く。

まだ全部は読めない。

「何て書いたの」

藤吉。

「昨日と今日、二度」

指で示す。

「甚兵衛が妙だと感じた」

次。

「鼠が少ない」

「今日は鼠が嫌がる様子」

甚兵衛。

「危険って書かないの?」

「危険だと分かったのか?」

「分かってない」

「なら書かん」

甚兵衛。

「安全?」

「それも分からん」

「じゃあ」

藤吉は最後に一言だけ書いた。

「未詳」

甚兵衛。

「みしょう?」

「まだ詳しく分からん」

甚兵衛は自分の木札を見る。

不明。

藤吉の帳面。

未詳。

少し。

似ている。

「分からないって、ちゃんと書いていいんだ」

藤吉。

「分かったふりするよりましだ」

甚兵衛。

「……」

妙に。

その言葉が残った。

◇

午後。

普通に仕事をする。

客が来る。

品を出す。

値段を聞かれる。

分かるものは答える。

分からないものは呼ぶ。

途中。

甚兵衛は何度か、帳面の端に書かれた未詳を見る。

謎。

秘密。

危険。

そういう言葉ではない。

ただ。

まだ分からない。

それだけ。

甚兵衛は少し気に入った。

◇

仕事の後。

慧円のところへ行く。

今日の木札を見せる。

慧円。

「また増えたの」

甚兵衛。

「“未詳”ってどう書くの」

「ほう」

慧円は紙へ書いてみせた。

未詳。

甚兵衛は見比べる。

「“不明”と違う?」

「似ておる」

「じゃあ同じ?」

「いつも同じではないの」

甚兵衛。

「またそれ?」

慧円が笑う。

「不明は、分からぬ」

「未詳は、まだ詳らかではない」

甚兵衛。

「……」

少し違う。

分からない。

で止まるより。

まだ分かっていない。

に近い。

「後で分かるかもしれない?」

「そういう使い方もできよう」

甚兵衛は筆を取った。

一度。

書く。

形が崩れる。

もう一度。

未詳。

「これ好きかも」

慧円。

「なぜ」

甚兵衛。

「分からないって書いてるのに」

少し考える。

「負けた感じしない」

慧円は笑った。

「分からぬことは、負けなのかね」

甚兵衛。

「前はちょっとそう思ってたかも」

分からない。

知らない。

できない。

それを言えば。

自分が弱いと認めるような気がしていた。

でも。

店では。

分からないなら聞く。

数が合わなければ調べる。

原因が分からなければ。

分からないまま記録する。

それで仕事が止まらないなら。

別に。

負けではない。

慧円。

「今日分からぬものが、明日も分からぬとは限らん」

甚兵衛。

「じゃあ」

未詳。

もう一度書く。

「これ、後で直していい字なんだ」

「字そのものは直さんでもよいがの」

甚兵衛。

「意味!」

慧円が笑った。

◇

夜。

物置。

「ただいま」

三匹。

『かえった』

甚兵衛は藁へ座り。

三匹を見る。

「今日の匂い」

最初の鼠。

『いや』

「何の匂い?」

『しらない』

「前にも嗅いだ?」

『しらない』

「猫?」

『ちがう』

「犬?」

『ちがう』

「人?」

鼠は少し考えた。

『ひと、いる』

「そうじゃなくて」

やめた。

鼠の言葉だけで。

無理に答えを作ろうとしている。

甚兵衛は木札を取り出した。

細い道。

その横に。

昨日の不明。

さらに。

今日覚えた字を、ゆっくり書く。

未詳。

最初の鼠が見る。

『なに』

甚兵衛。

「まだ分からない」

鼠。

『わからない』

「そう」

『いく?』

「今は行かない」

『こわい?』

甚兵衛は少し考える。

「少し」

鼠。

『にげる?』

「今は逃げるほどじゃない」

『じゃあ?』

甚兵衛は木札を指した。

「覚えとく」

鼠。

『それだけ?』

「それだけ」

少し間。

甚兵衛は笑った。

「それで、誰かに話しとく」

今日。

自分だけの木札に残した。

藤吉の帳面にも残った。

弥助も知っている。

鼠たちも。

もちろん知っている。

一人の頭の中だけではない。

甚兵衛は藁へ横になる。

以前なら。

分からないものを見つけたら。

すぐ答えが欲しかった。

今も。

知りたい。

かなり。

でも。

答えがないなら。

ないまま残すこともできる。

昨日。

今日。

二度。

鼠が少ない。

今日は。

鼠が嫌がる匂い。

危険かどうか。

原因は何か。

まだ。

分からない。

だから。

今は。

未詳。

甚兵衛は目を閉じる。

最初の鼠。

『あした?』

甚兵衛。

「明日、何か分かったら書き足す」

『なにもない?』

「その時は何もないって残す」

鼠。

『じゃあ、いい』

甚兵衛は小さく笑った。

「うん」

分からないことを。

無理に分かったことにしない。

忘れない。

一人で抱えない。

必要になるまで。

残しておく。

それも。

甚兵衛が店で覚え始めた仕事の一つだった。

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