翌朝。
目を開ける。
最初に見えたのは、灰色の腹だった。
少年の胸の上で、一匹の鼠が丸くなっている。
「……重くはないけど、そこ寝床にすんなよ」
鼠が顔を上げた。
『おきた』
「起きたよ」
身体を起こす。
そこで止まった。
一匹。
二匹。
三匹。
木の根元に、鼠が三匹いる。
昨日までいたのは一匹だけだった。
少年。
「……増えてる」
最初の鼠。
『なかま』
新しく来た鼠が、少年の足元へ近づいてくる。
鼻を動かす。
『へんなの』
もう一匹も反対側から嗅ぐ。
『にんげん?』
少年。
「起きて一番に品評会すんな」
新しい鼠が、さらに鼻を近づける。
『ねずみ』
少年。
「俺?」
『にんげん』
「どっち」
二匹がほとんど同時に答えた。
『どっちも』
少年は自分の手を見る。
人間の指。
けれど、昨日から鼠の言葉が普通に分かる。
鼻も妙に利く。
耳も、前より遠くの音を拾う。
「……それなら合ってるかもな」
納得したわけではない。
今は、それ以上の答えを持っていないだけだ。
最初の鼠が立ち上がった。
『いく』
「どこ」
『にんげん』
森の外。
昨日から何度も考えていた場所。
少年も立ち上がる。
服についた枯葉と土を払う。
「じゃあ行くか」
一歩。
そこで止まる。
三匹を見る。
「でも一個だけ」
鼠たち。
『?』
「危ないと思ったら逃げろ」
『にげる』
「俺が戻れって言っても」
『にげる』
「俺が捕まってても」
少し間が空いた。
最初の鼠。
『にげる』
少年。
「よし」
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
「俺もそうする」
最初から助け合う約束はしない。
命を預けるとも言わない。
まず、生きて逃げる。
今はそれでいい。
森の出口へ向かう。
木々の隙間から、光が増えていく。
湿った腐葉土の匂いに、別の匂いが混ざり始めた。
煙。
土。
水。
家畜。
そして、人間。
森を抜ける。
向こうに畑がある。
細い水路。
低い屋根。
煙の上がる家。
大きくはない。
十数軒か、それより少し多いくらいの村だった。
少年はすぐには近づかなかった。
鼠たちは先へ進もうとする。
「待った」
最初の鼠。
『なぜ』
「帰り道覚える」
鼠が首を傾げる。
『まだ、いってない』
「だからだよ」
少年は振り返った。
森の入口。
少し右に、大きく枝分かれした木。
根元に白っぽい石。
そこから少し進めば、細い水の流れ。
倒木。
曲がった松。
来た道を目でなぞる。
前世なら地図でも携帯でも見ればよかった。
今はない。
なら、自分で覚えるしかない。
「大きな木。白い石。水路。倒木」
口に出す。
最初の鼠が少年を見る。
『おぼえる?』
「忘れないようにな」
今度は村を見る。
「猫いる?」
『いる』
「犬」
『いる』
「大きい?」
一匹。
『おおきい』
別の一匹。
『おおきいの、いち』
三匹目。
『ちいさいの、ふたつ』
少年。
「具体的になったな」
少し考える。
「猫は?」
『いる』
「何匹」
『いっぱい』
「犬より嫌じゃん」
三匹。
『ねずみ、ねこきらい』
少年。
「俺だって今はお前ら側だよ」
言ってから、少し変な気分になる。
俺は、人間だった。
今は妖怪でもあるらしい。
しかも鼠寄り。
どこまで人間で、どこから妖怪なのか。
分からない。
けれど。
分からないことを、分かったことにはしない。
それだけ決める。
「お前ら、無理についてこなくていいからな」
『いく』
「猫いるぞ」
二匹が即座に草むらへ潜った。
『かくれる』
「それでいい」
最初から一緒だった鼠だけは、少年の足元に残る。
「お前は?」
『いっしょ』
「好きにしろ」
村へ続く道に足を踏み出す。
畑の土は森より固い。
人の足で踏み固められた道。
水路には細い水が流れている。
田畑の向こうから、鍬の音。
子供の声。
鶏。
犬。
知らない場所なのに、生活の音だけは妙に安心する。
最初に少年へ気づいたのは、薪を抱えた子供だった。
少年より二つか三つ下だろう。
向こうが止まる。
こちらも止まる。
「……」
「……」
子供の視線が、少年の顔を上から下へ往復する。
長い鼻。
少し出た前歯。
大きめの耳。
ぼさぼさの髪。
汚れた服。
少年。
「何だよ」
子供。
「鼻、長い」
「知ってる」
「歯も出てる」
「それも知ってる」
「耳も変」
少年。
「そこまで言う?」
子供は少し考えた。
「妖怪?」
少年も考える。
「……半分くらい?」
「なんで疑問なの?」
「俺が知りたいよ」
子供は不思議そうにしたが、逃げなかった。
石を投げてもこない。
大声で化け物だと叫びもしない。
それだけで、少年には少し意外だった。
「どこの子?」
「向こう」
森を指す。
「村は?」
少年は答えに詰まる。
自分がいた村。
母がいた家。
追い出された場所。
名前を出したら、連れ戻されるだろうか。
いや。
戻れる場所ではない。
でも嘘をつけば、後で辻褄が合わなくなる。
「……別の村」
「一人?」
「今は」
「今は?」
少年の胸の奥に、まだ触りたくないところがある。
少し黙る。
それでも、全部隠すのも違う気がした。
「母ちゃん、死んだから」
子供の表情が変わった。
好奇心が引っ込む。
「あ……」
視線が落ちる。
少年の方まで気まずくなった。
「別に、お前が謝ることじゃねえよ」
「まだ何も言ってない」
「言いそうな顔してた」
子供は薪を抱え直す。
少し迷ってから。
「ここで待ってて」
「何で?」
「大人呼んでくる」
少年。
「……」
「逃げないでね」
「それは約束できない」
子供。
「何で?」
「怖い奴連れてきたら逃げる」
「怖くない人だよ」
「お前にとってはな」
子供は少しむっとしたが、やがて走っていった。
草むらから、鼠が鼻を出す。
『にげる?』
「まだ」
『おとな、くる』
「分かってる」
『こわい?』
少年は村の外へ続く道を確認する。
森まで一直線ではない。
畑を避けるなら左。
水路を越える場所は二つ。
追われたら、人間より鼠の方が早く草へ潜れる。
自分は――。
走れる。
昨日より身体は軽い。
「怖い」
『にげる?』
「怖いからって全部逃げてたら、飯食えねえだろ」
鼠は首を傾げる。
『こわいのに、いく?』
少年も少し考える。
「……逃げるかどうか決めるために、まず見る」
『さっき、みなくていいっていった』
「あれは森の化け物だろ」
少年は少し眉を寄せる。
「人間とは、一応話せる」
『にんげん、こわくない?』
返事が止まる。
人間も怖い。
妖怪も怖い。
知らないものは、だいたい怖い。
でも。
全部同じ怖さではない。
同じ扱いにもしたくない。
やがて子供が戻ってきた。
連れてきたのは一人の男。
四十前後。
日に焼けた顔。
農作業の途中なのか、裾に土がついている。
手に鍬も棒も持っていない。
ただし、少年のすぐ近くまでは来ない。
数歩離れたところで止まった。
少年は、その距離を少しありがたく思った。
男。
「お前か」
「何が」
「村の外に子供が一人いるって話だ」
少年は足元を見る。
最初の鼠はもう草の陰へ隠れている。
「……今は一人です」
男の眉が少し動いた。
「どこから来た」
少年は森の向こうを指す。
「向こう」
「村の名は?」
「……」
「名は?」
少年は口を閉じる。
母が呼んでいた名前。
胸の奥に残っている名前。
今ここで、知らない相手に渡したくない。
男。
「ないのか?」
「ある」
「じゃあ何だ」
「言いたくない」
横の子供が目を丸くする。
「ええ?」
男は少年をじっと見る。
「名を言わずに村へ入りたいのか」
「怪しい?」
「怪しいな」
「だよな」
男。
「そこで納得するのか」
少年。
「知らない大人に名前聞かれて、何でもすぐ答える方が怖くない?」
男が黙る。
子供も黙る。
少年は半歩だけ後ろへ重心を移した。
「駄目なら帰る」
森を見る。
「帰り道は覚えてる」
男はしばらく少年を見ていた。
それから、先に口を開く。
「俺は庄助だ」
少年。
「……庄助」
「ああ」
「先に自分の名前言うんだ」
「お前が警戒してるからな」
少年は庄助を見る。
まだ信用はしない。
けれど。
一つ覚える。
この男は、相手にだけ情報を出させようとはしない。
少年。
「俺の名前は……今は言わない」
庄助。
「頑固だな」
「母ちゃんが呼んでた名前だから」
庄助の顔から、少しだけ力が抜けた。
「そうか」
それ以上は聞かない。
そのことに、少年の肩からほんの少し力が抜ける。
庄助。
「腹は減ってるか」
少年。
「減ってる」
即答だった。
子供。
「そこはすぐ答えるんだ」
「腹減ってるの隠して何になるんだよ」
庄助の口元が少し動く。
笑ったのかもしれない。
「ついて来い」
少年。
「どこに?」
「飯くらいは食わせる」
少年は動かない。
庄助が振り返る。
「どうした」
「後で金取る?」
「取らん」
「仕事させる?」
「今日はな」
「今日は?」
「明日は明日だ」
「明日のことまで俺が勝手に決める話じゃない」
少年は少し考える。
「……それなら行く」
庄助。
「何なら信用するんだ、お前は」
少年。
「分かんないのに何でも大丈夫って言う奴より、分かんないって言う奴」
庄助。
「子供の口か、それ」
少年。
「俺も今びっくりしてる」
村へ入る。
視線が集まる。
露骨に嫌な顔をする者。
珍しそうに見る者。
子供を後ろへ寄せる母親。
気にせず仕事を続ける老人。
全部いる。
少年は俯かない。
かといって睨み返しもしない。
庄助の少し後ろを歩く。
逃げ道だけは、時々確認する。
出されたのは握り飯だった。
白米だけではない。
麦か雑穀が混ざっている。
それと少しの漬物。
水。
豪華でも何でもない。
少年には、ご馳走だった。
庄助の家の土間近く。
板間の端へ座る。
「食っていい?」
庄助。
「そのために出した」
「本当に?」
「二回言わせるな」
少年は握り飯を持つ。
一口。
塩気。
米と麦の匂い。
噛めば甘い。
「……うま」
勝手に声が出た。
庄助は何も言わない。
少年も喋らなくなる。
腹が減っていた。
ただ食べる。
一個目。
あっという間になくなる。
二個目へ手を伸ばす。
そこで止まる。
床板の隙間。
小さな鼻。
最初の鼠だ。
『ごはん』
少年。
「……」
握り飯を見る。
鼠を見る。
庄助を見る。
この村にとって、鼠は害になる。
米を食う。
蔵へ入る。
病を運ぶこともある。
前世の知識が、そう告げる。
でも。
こいつには昨日、助けてもらった。
少年は握り飯を手にしたまま、庄助を見る。
「庄助」
「何だ」
「これ、少し持って帰っていい?」
庄助。
「腹いっぱいなのか?」
「違う」
「じゃあ食え」
少年。
「……友達にやりたい」
庄助。
「友達?」
「いる」
庄助が家の中を見回す。
「どこに」
「それは言わない」
「また秘密か」
「嫌なら全部食う」
庄助は少年の顔を見る。
それから、握り飯を見る。
「腐らせるなよ」
少年。
「いいの?」
「お前に出した飯だ」
少年の口元が少し上がる。
「ありがと」
ほんの少し残す。
庄助は、それ以上聞かなかった。
食後。
少年は家の外へ出る。
村の中を見る。
畑。
水路。
家。
家畜。
積まれた薪。
干してある布。
道具。
人。
知らない物ばかりではない。
でも。
知っているつもりだった物も、近くで見ると違う。
時代劇で見た家。
時代劇で見た着物。
時代劇で見た農具。
似ている。
けれど、細部が違う。
匂いが違う。
音が違う。
重さが違う。
前世の知識が、
これなら分かる。
と囁く。
今の自分が、
本当に?
と問い返す。
少年は、荷を運んでいる男たちを見る。
「庄助」
「何だ」
「あれ何してる?」
「見て分からんか」
「荷運んでるのは分かる」
「なら分かってるだろ」
「どこから何を運んで、どこへ入れるかは分かんない」
庄助。
「……細かいな」
「分かったつもりで邪魔したくない」
庄助は少年を少し見る。
「米を蔵へ入れてる」
少年。
「蔵」
「知らんのか?」
「言葉は知ってる」
「変な奴だな」
「よく言われる」
「誰に」
少年が止まる。
庄助。
「……悪かった」
「いや」
少年は少し考える。
「母ちゃんにも言われた」
庄助はそれ以上聞かなかった。
その日の夕方。
庄助が村の外れまで少年を連れていく。
小さな物置。
壁は古い。
戸も少し歪んでいる。
中には農具。
藁。
縄。
木箱。
埃。
けれど屋根はある。
雨風はかなり防げる。
「今夜はここを使え」
少年。
「ここ?」
「ああ」
「いいの?」
「今夜だけだ」
少年は、その言葉にむしろ安心した。
ずっと置いてやる。
ここがお前の家だ。
そんなことを突然言われるより、ずっと信用できる。
「うん」
庄助。
「勝手に火を使うな」
「分かった」
「村の家へ勝手に入るな」
「分かった」
「置いてある物に触るな」
「分かった」
「夜中にうろつくな」
少年。
「何で?」
「犬に吠えられる」
「それは嫌だ」
「それだけじゃない」
庄助は村の方を見る。
「お前を知らん奴もいる」
少年は黙る。
「皆が俺みたいに話を聞くとは思うな」
「……分かった」
それは、よく分かる。
人間だから安全ではない。
村だから仲間でもない。
庄助。
「妙に素直だな」
少年。
「泊めてもらう側が、最初から決まり破ってどうすんだよ」
「さっきまで人を疑いまくってただろう」
少年。
「疑うのと礼儀守るのは別だろ」
庄助が一瞬、言葉に詰まる。
少年。
「何」
「いや」
庄助は戸口へ向かう。
「明日の朝、また来る」
少年。
「何時?」
「日が出たら」
前世の記憶が反射的に言う。
――何時だよ。
だが、時計はない。
「……分かった」
庄助が去る。
足音が遠くなる。
しばらく待つ。
人の気配がなくなってから、少年はそっと戸を開けた。
「出てきていいぞ」
草むらが動く。
一匹。
二匹。
三匹。
次々に物置へ入ってくる。
『ここ?』
『ねる?』
『ごはん』
少年。
「最後の奴、本当に飯しか言わねえな」
残しておいた握り飯を、小さくちぎる。
「一気に食うなよ」
三匹が寄ってくる。
『うまい』
『もらった?』
「もらった」
『とった?』
「取ってない」
最初の鼠。
『ちがう?』
少年は少し考える。
説明する。
「相手が“やる”って言って渡してくれたら、もらった」
『とる』
「相手が嫌なのに持ってったら、取った」
鼠。
『おちてる』
「拾った」
『いっぱい』
少年。
「……人間の言葉、面倒だな」
鼠。
『へん』
「お前らに言われたくない」
三匹が食べ終える。
少年は藁へ座る。
一匹は壁際。
一匹は藁へ潜る。
最初の一匹は当然のように少年の膝へ乗る。
「そこ、お前の席になってない?」
『ここ』
「そうですか」
外から村の音が聞こえる。
人の声。
犬。
桶の音。
戸を閉める音。
森とは違う。
少年は物置を見回した。
「ここ、俺の家じゃないからな」
鼠。
『いえ?』
「借りてるだけ」
『でも、ねる』
「寝る」
『あした、かえる』
少年。
「……」
帰る。
どこへ。
この物置へ。
一晩借りただけの場所へ。
それを帰ると言っていいのだろうか。
鼠。
『かえらない?』
少年。
「帰るよ」
『ここに』
「……うん」
鼠。
『じゃあ、ここ』
少年は答えない。
胸の奥が、少し痛む。
母のいた家。
自分が帰れば、母がいた。
声がした。
匂いがした。
あそこは、帰る場所だった。
ここは違う。
借り物。
明日には出ていくかもしれない。
それでも。
今日はここへ戻ってきた。
少年は壁へ背を預ける。
「……今日はここに帰ってきた」
鼠。
『うん』
それだけ。
今は、それ以上の意味をつけない。
夜。
なかなか眠れない。
屋根がある。
壁がある。
戸もある。
森より安全なはずなのに、逆に外の音が気になる。
犬が一度吠える。
少年の耳が勝手にそちらへ向く。
「……便利なんだか不便なんだか」
最初の鼠が動く。
少年。
「おい」
『なに』
「寝てる?」
『おきてる』
「明日どうなるかな」
『あした』
「それ答えになってねえ」
別の鼠が藁から顔を出す。
『ごはん?』
少年。
「お前までそっち行くな」
最初の鼠が少年の横へ来る。
少年。
「追い出されるかもしれない」
『にげる』
「仕事させられるかもしれない」
『はたらく?』
「分かんない」
『こわい?』
少年は天井を見る。
隙間から、ほんの少し月明かり。
「怖い」
少し間を置く。
「でも、森よりはまし」
『なぜ』
「屋根あるから」
鼠。
『やね』
「雨降っても濡れない」
『いい』
少年。
「うん」
何でもないこと。
前世なら、考えもしなかった。
屋根。
壁。
閉まる戸。
それだけで、人間はかなり安心できる。
少年は目を閉じる。
「明日になったら考える」
『あした』
「そう」
『いっしょ』
少年。
「お前らは好きにしろって」
『いっしょ』
「……分かったよ」
少し笑う。
その夜は。
昨日より、少し早く眠れた。
翌朝。
どんどんどん。
戸を叩く音。
少年が跳ね起きる。
鼠三匹が一斉に散る。
「誰!」
外から声。
「庄助だ!」
少年。
「……合言葉」
庄助。
「そんなもの決めてない!」
少年。
「正解」
戸を開ける。
庄助が呆れた顔をしている。
「朝から面倒だな、お前は」
少年。
「寝起きが一番危ないだろ」
「誰に襲われるんだ」
「知らん」
「知らんのか」
「知らんから警戒してんだよ」
庄助は額を押さえた。
「腹減ってるか」
少年。
「減ってる」
「そこだけは早いな」
庄助は村の方を顎で示す。
「働くか?」
少年の顔つきが変わる。
「何する?」
「まず簡単な手伝いだ」
「飯は?」
「出す」
「金は?」
庄助。
「仕事を見てからだ」
少年。
「最初から決めないの?」
「お前に何ができるか分からん」
少年は少し考える。
「俺も分からん」
庄助。
「なら、やってみるしかないだろ」
少年。
「……うん」
ただし。
「飯が出るのは確定?」
庄助。
「確定だ」
「仕事できなくても?」
「朝飯はな」
少年。
「じゃあ行く」
庄助。
「お前、本当に食い物には早いな」
少年は一度、物置の奥を見る。
藁の陰。
三匹の鼠。
小声。
「お前ら、危なかったら逃げろ」
『にげる』
「昼には一回戻る」
最初の鼠。
『かえる』
少年。
「……うん」
戸を閉める。
庄助の後を追う。
村へ向かう途中。
少年は少し早足で庄助の横まで行く。
「なあ」
「何だ」
「分かんない時、聞いていい?」
「何をだ」
「仕事」
庄助。
「聞け」
「何回でも?」
「同じことを十回聞いたら怒る」
少年。
「九回までならいい?」
庄助が足を止める。
「そういう意味じゃない!」
少年は少し笑った。
それから、真面目な顔になる。
「でも、本当に分かんないから」
庄助も今度は笑わなかった。
「分からんなら聞け」
「勝手にやって壊すよりましだ」
少年。
「うん」
「一回聞いたら覚えろ」
「努力する」
「できると言い切らんのか」
「まだできるか分かんないから」
庄助。
「……やっぱり変な奴だな」
少年。
「知ってる」
朝の村へ入る。
昨日とは違う。
今日は、ただ飯をもらうためではない。
初めて仕事をする。
何ができるか。
何ができないか。
どれくらい重い物を持てるのか。
この身体がどれだけ動くのか。
この時代の仕事がどんなものなのか。
まだ何も分からない。
だから。
まず見る。
聞く。
やってみる。
間違えたら止める。
分からなければ、もう一度聞く。
少年は庄助の背中を追いながら、小さく息を吐いた。
腹は減っている。
怖さも消えていない。
それでも。
昨日より一つだけ知っている。
この村には庄助という男がいる。
飯をくれた。
一晩だけ屋根を貸した。
分からないことは、分からないと言った。
今の少年には、それで十分だった。
「庄助」
「今度は何だ」
「俺、たぶんいっぱい聞くぞ」
「もう分かった!」
少年は少し笑う。
そして。
村での最初の仕事が始まった。